心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

ペトリコール。

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乾いた大地に雨が染み込む時に発する、土が蒸れた時のような匂いのことを“ペトリコール”(英語で Petrichor)と言うらしいです。誰もが知っているけど、何と呼んだらいいのか分からないようなものにも、ちゃんと誰かが名前を付けてくれているんだなぁ。名前があるから、それを共通体験にできるのだろう。

帰省から無事帰ってきて、そりゃあ、もう疲れました。意味もなく心臓バクバクで、ダウンしてます! 

せっかくまとまった時間を作り両親に会いに行ったというに、あたくしは三日目過ぎたあたりから怒ってばかりで(幸いにも親は二人とも健在)、最初は「こんなに食えるか〜!」や「こんなに飲めるか〜!」などと、親の過剰サービスにプンプンしていたのですが、次第に…芋づる式に…13歳の頃のアレヤコレヤ、14歳の頃のアレヤコレヤ…が思い出され、蒸し返し始め、いつまで怒りが続くのか自分でも不安になるくらいに。

「ストーカー事件に関する親へのわだかまり」は、カウンセラーの先生にフォーカシングで処理してもらったのです(詳細は『その気持ちは海に置いてきました。』)。怒りながらも「あ、あの気持ちは?」と思い返すと、その「親へのわだかまり」の気持ちは今も「棒のまま」で大人しく南国の砂浜に刺さっているのでした。そして、「こっちは関係ないね」という顔をしているのです。棒に顔があるのも奇妙ですが、そんな感じ。

とうとう、もう明後日には帰るよ、ってあたりで母親を泣かせてしまった。
「この日を楽しみにしていたのに、どうして怒ってばかりいるの?」

とんでもない親不孝だ!とあたくしは罪悪感に駆られるも怒りは止まらない。 
母が涙まじりに
「あなたは中学生の頃から全く理解できなくなった。理解できないのよ!」
と、ついに、これまでにも何度も聞いた言葉を呟いた。

(あぁ、また、理解できないと言った〜〜〜!)
この「理解できない」は、あたくしの心の地雷ワードなんだ。

実はお恥ずかしながら、ここまでは今までも何度かあったお馴染みの展開なんだけど、今回はちょっと違ってた。

カウンセリングのお陰なのか、日頃の自己洞察のお陰なのか、はたまた瞑想の成果か、あたくしは自分の怒りの正体が何なのか、その瞬間、理解したのだ。

突き詰めると「分かって欲しい、かまって欲しい」なんだな。

こんな歳になっても、13〜14歳の頃の気持ちを大事に抱えてたんだ!と気付いたら、そりゃあ猛烈に恥ずかしいですよ。

自分の不完全さも親の不完全さも、どっちも許せずにイライラしていたけど、そろそろ認めてあげないと、もう時間がない。好きなんだったら、まずあたくしが、自分と親の不完全さを受け入れなくては。そんなの敗北だと思っていたけど、そもそも勝ち負けを考える自体がナンセンスに違いない。

それと同時に、泣けてきた。たくさん泣けました。それはですね、非常に懐かしい感覚です。

もっと遊んでいたいのに夕暮れがやってきて、帰りたくなくて泣く感じ。

自宅に帰ってきてからも数日は何故か泣けて泣けてしょうがなくて、電車の中だろうが、街中であろうが、まるで間欠泉の様に感情が吹き上がってくると、目が潤んでくる。これはマズイ。

そのうちにカウンセリングの予約の日が来たので。フェイスタオル持参で伺い、そこでも泣いた。
泣けて話せないのでは?と思ったけど、それではお金がもったいないし(笑)、なんとかカウンセリングとして成立させることができた。
そうして、こんなクライアントはやっかいだな、とか妙に客観視してみたり、また泣いたりしたのだった。

カウンセラーの先生に手伝ってもらったお陰で、その気持ちは、どうやら収まるところに収まってくれたらしい。あたくしの情緒不安定は去っていった。

あの雨で蒸れた匂いは、何故か懐かしい感じがするんだけど、そういう感じ。そういう感じがする出来事でしたよ。

カウンセラーに観てもらいたい映画。

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大きなお世話かもしれないけれど、カウンセラーの肩書きでお仕事する人に観ておいてもらいたい映画が2本ある。
『普通の人々』と『グッド・ウィル・ハンティング』。どちらも単純に映画として上質で面白く、しかもカウンセリングをテーマとしている。
 
もちろん映画に出てくるカウンセラーはファンタジーで、実際に現実のカウンセリングを体験すると「違うわ」(笑)と気付くのだけれども。大抵の人は実際のカウンセリングを受けるまで、カウンセリングがどのようなものかモヤっとしか知らない。
結構こうした映画を通じて、「カウンセリングってこんなもの」と擬似体験され、カウンセラーに対するステレオタイプが醸成されていたりするからね。何を隠そう、あたくしがそうだったし!
 
刑事ドラマの刑事と実際の刑事は違うのは、多くの人はご存知だろう。でも、素晴らしい教師や医師が出てくる映画を観てしまうと、実際にはそんな立派な方はそうはいないのに、なんとなくチョット期待してしまう…みたいな感じだろうか。
 
そんな訳で、映画などから理想のカウンセラー像を作り、勝手に誤解したり期待を膨らませている人が少なからずいる、ということをカウンセリングという職業の性質上、知っていてもらいたいかも、と思うから。もちろん「それだけ期待されている」ということを踏まえて。

カウンセリング映画にありがちなストーリー展開

二つの映画の共通点があって、それは
1.最初は気乗りしない、やや反抗的なクライエントが 
2.時には激しくカウンセラーと口論しながら信頼関係を築き 
3.心の深い部分の問題を解決する 
というストーリー展開である。
 
あたくしは本当にアホな子で、これらの映画(いずれも米国映画)の展開から「こういうのがカウンセリング」とインプットしてしまった! だから、実際にカウンセリングを受けて、そのギャップに相当驚いた。例えばあたくしは…
 
1.カウンセラーがクライアントの心の矛盾点を鋭く指摘してくる。
2.カウンセラーがクライアントを多少怒らせても本心を引き出そうとする。
3.最後はハグしたくなるほど信頼関係が高まる。
 
…みたいなことを期待しているのに、カウンセラーはあたくしの会話のどこにも引っかかってくれない(笑)とか
そうして話だけがサラサラと流れていき、毎回のセッションで心が動かされるような働きかけが何も起こらないので、カウンセラーへの信頼感も高まらない。あたくしの話は他人にとっては聞く価値のない話なのだろうか? と悩んだりした。
 
自分が少しでもカウンセリングを勉強すると、クライアントの矛盾点を指摘したり怒らせてまでして「眠っている感情を呼び覚ます」なんて「とっても高等テクニック!」で、大抵のカウンセラーはそんなこと滅多にしないと理解できる。まずは基本的な傾聴テクニックで信頼関係を築くのが精一杯なのが現実なのだけど、そんなことは素人には分からないのだった。
それに、ハグなんかありえない!(基本的には、恋愛チックな陽性転移なども考慮し、身体接触は控えるというかNGらしい)

カウンセラーにはまず『普通の人々』をおススメしたい!

まあ、そんなことを踏まえて、『普通の人々』と『グッド・ウィル・ハンティング』、あえてどちらか1本というなら、カウンセリングに携わる人にはまず『普通の人々』を観てもらいたい、是非。
 
1980年の映画なので画面の古さは否めないけれど、現代の日本の比較的経済的余裕のある家庭に置き換えても全く陳腐化しない普遍性がある。
主人公は一見平凡で暗くて適度に優等生。自殺未遂や近親者の死、子供が精神的な問題を抱えた時の両親の戸惑いなどに加えて、どうしても子供を平等に扱えない親とか、親の愛情を感じられずに自暴自棄になる子供とか、そんなどの時代にもあるだろう家族間の葛藤が描かれている。
 
この映画を最初に観た時は、もちろん後年、自分がクライアントになることなど全く思いもよらなかった。ただ大好きな俳優ロバート・レッドフォードの初監督作品ということだけで観たのだった。縁とは不思議なもので、以後、人生の節目に何度かこの映画を観ている。観るたびに感想が変わり、自分の心境の変化も省みることができる、あたくしにとってスルメ的映画になっている。
 
ちなみに『グッド・ウィル・ハンティング』の主人公は無学ながらも飛び抜けた数学のセンスを持つ天才青年で、カウンセリングによって心理的な葛藤が解決されると、将来に対しても恋にも前向きな人になり、映画は超ハッピーエンド。『普通の人々』のある意味モヤっとするラストに比べて、こっちはちょっとファンタジー入っている。
でも爽やかな涙を流すのには最適な映画だし、マット・デイモンベン・アフレックなど俳優陣がいい。特にカウンセラー役の故ロビン・ウィリアムスがいい味出してる。
この映画はカウンセリングを扱った映画としては、一般的には一番知られていると思う(1997年の映画なので、『普通の人々』よりも時代的違和感も少ない)。

映画にでてくるようなカウンセラーは滅多にいないけど…

最後に、映画に出てくるようなカウンセラーなんて現実にいない!と一時は勝手にショックを受け、憤慨、失望した自分なのだけど…実は現在お世話になっているカウンセラーの先生が今の所、理想のカウンセラーにとても近い。映画に出てくるようなカウンセラーは滅多にいないけど、やっぱり探すと現実にも「まれに」存在したりするのだ(笑)。
 
その先生は、あたくしをわざと怒らせるようなことはもちろん言わないけど、自分の心の複雑さや数々の矛盾を自覚させてくれるような「とてもスリリングな会話」を展開させてくれる。カウンセリングという場を忘れて、あたかも友人に対するような親近感を感じたりさえする。
 
いつかカウンセリング終了の日が来ても、ハグの一つもなくその先生と別れるのは今から残念なのだけど、非常に信頼し、尊敬しております。ハイ。
 
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その気持ちは海に置いてきました。

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今、約2年振りくらいに実家に滞在している。

以前 『あの日、助けてくれなかった親。』 に書いた通り、あたくしには、ストーカー被害に遭った時に生じた、親に対するわだかまりの気持ちが存在する。
だから、そのことを考えると若干、帰省は気が重かった。まあ、若干だけどね。
両親が今回のことをとても楽しみにしてくれているは分かっているし、会うならできる限り楽しく平和に過ごしたい。
 
直前のカウンセリングの最中、その「帰省が不安」という話になった。
その時にフォーカシングという心理療法を受けて、とても不思議な体験をしたので、書き残しておこうと思う。
 

フォーカシングで感情を体感として捉える

カウンセラーの先生は「その時の気持ちはどんな感じでしょう?」と問うてきた。
フォーカシングで「どんな感じ」とは、心の…感情の詳細ではなくて、身体の中…胸やお腹の感じを聞かれているのだった。
 
「え〜とですね」
すると、胸の中に麺棒のような太さの棒があるのが感じられた。
「お腹から喉の上にかけて、縦に麺棒みたいな棒状の塊がありますね。口を開けて覗くと、先の方が見えるかもしれない。でも、手を突っ込んでも届かない感じ」
と、あたくしは先生に状況説明した。
 
棒状のものが云々…というのは、あくまでも個人的にそんな風に感じられる…イメージ上の話なのだけど、そのリアルな異物感に少し驚いた。その材質が金属などではなく、木のような少し温かみのある素材で、白木のような色であることまで想像できる。イメージの世界で、あたくしのわだかまり感が物質化したのである。
 

フォーカシング的に感情の処理をする

続けて先生が「そのまま眺めていたら、どうなりますか?」と聞いてきた。
 
「???」
そうしたら、そのイメージの棒は、ゆっくりと喉の上の方に上がって来るようだった。
口の中に酸っぱいものが広がって、軽く吐き気を覚えた。
「ありゃ、ちょっと気…気持ち悪いかも…」
本当に少しオエオエしてきた。
「先生、口から出て来ちゃうかもしれませんっ!」
 
リアルに苦しんでいるあたくしの様子を察して、先生が「大丈夫、落ち着いて!」力強い口調で声をかけてくれた。
そうすると、イメージの世界に行っちゃっていた自分は、一瞬にして現実の世界に引き戻された。
「あああ、先生、ビックリしました」
 
「じゃあ、その気持ちをどこか別の所に置いときましょうか?」と、先生が提案してきた。
「どこって?」
「それは、どこでもいい。イメージの話ですから海でも山でも」
 
そうしたら、海は悪くないかな?と思った。
 
わたしは、その気持ち…麺棒みたいなあたくしのわだかまりの気持ちを置いてみた。
バリ島とかの(行ったことないけど)誰もいない海の、波打ち際の白い砂浜にサクっと棒を立ててみたのだ。
 
そうすると何となく、棒は「ホッ」としているような感じになった。
理由はどうであれ、わだかまりの気持ちなんてうっとおしいものだろうから、仮置きできる場所が出来て気が楽になったのだろう。
 
何だか、よい帰省ができそうな気がして、先生に感謝の気持ちを伝えた。
 
それから、自宅に帰ってからも、素晴らしい南の島の砂浜に刺さっているあたくしの「わだかまりの気持ち」を思い返してみた。
 
「気がついたら、その棒はなくなっているかもしれませんよ」と先生は言っていた。
ああ、そうなんだ。そうなればいいな、とあたくしは思った。
 
全てイメージの世界のことなのに、こんな風に変化が起こるなんて面白いなあ…。そして、自分の心の中に温かい海が存在することに始めて気が付いたのだった。
 
自分の行動や考えを変えるには、認知行動療法などで自分に説得を試みるのが一番手っ取り早いだろうと思い込んでいたので、こうしたイメージワークでサラリと自分の感じ方が変化してしまうのは、何だか新鮮な体験だった。
 
こういうのがスピリチュアル本などでもよく言われる「手放す」ということなのだろうか?
とにかく、わだかまりがなくなった自分は、訳もなく優しく穏やかな気持ちで、自分でも好ましく思えた。
 
 
…そうして、気持ち良く帰省したあたくしなので・す・が!
実家に預けておいた蔵書の一部が箱単位で消えていることが判明し、早3日目にして大激怒(笑)。
トホホなのだけど、親との喧嘩も最後かもしれないと思ったら、少し鼻の奥がツンとしたり。
 
※出来事は脚色ナシですが、プライバシーに関わる詳細は省いてます。

20歳も年下の女の子に「愛している」と言った話。

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遠くに住んでいる友達から久々にメールが来た。「急遽、手術をすることになった」という内容だった。
 
以前、思うところあり、2年ほど専門学校に通ったことがある。彼女はそこで出会った。
その子は当時20代前半だったのだけど、小ちゃくって中学生にしか見えない。化学系の学校なのに計算が壊滅的に苦手でゼロが連なるとパニックになるタイプだった(計算は関数電卓で行うのだが)。
 
高校を卒業してからその歳まで、学校に通ったことも働いたこともなかったそうだ。
 
あたくしは勝手に、そして安易に「ああ、イジメに遭ったのかな?」と思っていた。
 
そうだったら、あたくしもイジメは転校した時に体験したし、優しくしたいな、と思った。おばさんとして、世の中はそんなに悪くないことを伝えたかったし、自分が楽しそうにすれば「長生きも悪くない」と思ってもらえるんじゃないかと思ってた。
 
卒業間近になって、そんなあたくしの思いは妄想に過ぎなかったと知って愕然とする。
 
彼女は脳腫瘍と闘っていたのだ。
 
彼女の病気は高校生の時に見つかったそうだ。それまでは、クラス委員をしたり、時には友達と大喧嘩する、ごく普通の活動的な女の子だったらしい。腫瘍は頭の中の深い所にあるから、とりあえずは様子を見ていくしかないということだった。専門学校に通う間も、急に頭が痛くなったり具合が悪くなったりしていたけれど、悟られないようにずっと隠していたのだと打ち明けてくれた。
 
不思議な縁で、あたくしはその子と友達になった。卒業してからは手紙のやり取りを続けた。
 
病気になってからの10年間、紆余曲折のあたくしの人生を見守ってくれたのは、なにを隠そう、彼女なのだ。
その子は、どんな時にも「わたしはそんなあなたが大好き」と言ってくれるのだった。
あたくしが何回も病気でダウンして仕事を辞めちゃっても、機嫌が悪くて邪険な対応をしても、決してあたくしに「ダメ」というレッテルを貼らないのだった。
少し驚いた。これこそ何かの才能だと思った(笑)。
助けるつもりが助けれらていたんだなあ、とつくづく思ったのは、恥ずかしながらごく最近のことだ。
 
2年前だか半年以上音信が途切れて、その間入院していたことを知った。
脳腫瘍が少し育ってしまい、放射線治療をしたのだそうだ。
手紙の中に折り紙が入っていたのだけど、鈍いあたくしには彼女の無邪気な遊び心にしか思えなかった。
 
再会した時の彼女は、長時間座っているのが辛いと言い、後遺症で手に力が入らないので、トイレのドアを開けて欲しいと言っていた。
 
そうして、早く元に戻るといいね、元気になったら東京に招待するから、一緒にディズニーランドにでも行こうよ、とあたくしは言った。
彼女は人混みは苦手…と言っていたのだけど。
 
そんな経緯があるのだから、手術は苦渋の決断だと思う。
 
放射線治療の後は、メールを打ったり手紙を書くのに時間がかかるようになったので、電話で話すことが増えた。
以前、彼女に「スマホにしなよ。LINEだったら通話料かからないんだよ?」と薦めていたのだけど、結局彼女はネットもスマホもやらなかった。
余計なことを知ってしまうのが怖いようなことを言っていた。そうだよね、ネットで検索するといろんなことが分かってしまう。
 
手術のたった三日前に突然連絡してきて、手術というのはどんなに最善を尽くしても、後遺症が出ることもある、それは言語や視覚の障害かもしれないし、半身全部が不自由になるかもしれない…。
 
「それでもお友達でいてくれますか?」と彼女は言った。
 
こういう時、何の根拠もなく「あなたなら大丈夫」みたいに励ますのはNGだとカウンセリングの講習では言われている。
「大変だね」も上から目線で、こっちの評価を押し付けている言葉なのでNG。
それは、知っている。そもそも相手はあたくしの気持ちを聞いている! じゃあ、どう言えばいいのか?
 
途端に出た言葉に、自分で仰天した。最近は自分に仰天してばかり。
 
「愛してる」
「愛し続けるから安心して」
 
「夫にも、歴代の彼氏にも一度たりとも「愛してる」と言ったことがないけど、あなたには言うよ?」
 
これは本当だ。たしかにこんな大切な言葉を、今まで誰にも言ったことがなかったのだ。
 
「愛してる」という言葉が持つ、少し押し付けがましいところや重さに、自分はずっと抵抗感があり苦手だった。
子どもにも縁がなかったので、この言葉にふさわしい気持ちが自分に訪れることはないとも思い込んでいた。
 
でも、この10年分の彼女の友情と等価交換できる言葉って、これしか思いつかなかった。
まさか、20歳も年下の女の子に言うことになるとは …。
 
状況的に変かもしれないけど、「愛している」という時、あたくしは不思議な幸福感に包まれた。
ずっと探し求めていたものが、まったく違う形だけど、ずっと自分の側にあったことに気付いた幸福感。
自分を無批判で全て受容してくれて、同じ気持ちを自分にも無邪気に求めてくれる存在。
世界は、なんて変なタイミングでこんな大切な気持ちに気づかせてくれるんだろう。
 
愛の告白に彼女はとても満足してくれて、あたくしも安心した。これが少しでも彼女の勇気を支えてくれたらと願った。
少しでも、怖い、不安な気持ちから救われただろうか?
 
「愛している」「ずっと一緒にいようね」という言葉の儚さは、半世紀近く生きていると何度も体験してるのだけど、だからこそ大切にしたい。
 
 
誰かに聞いてもらいたいけど、FBとかで披露してシェアしてくれというのとは違う、なんだか忘れたくなくて書き残した次第。

天才型な気功の先生に欠けていたもの。

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不安障害のせいか常に緊張のために身体はカチカチで、時々マッサージに行っている。

すると馴染みのマッサージ師から「膝のお皿が歪んでいる」と言われる。

 
気功の立ち方で、バレリーナの基本の立ち方「第3ポジション」みたいなのがある。かかとをちょっと重ねて、出来うる限り180度に開いて立つ。かなり無理のある格好なのだが、これを40分間以上行うのが今のあたくしのミッションなのだ。
その気功の効果はさておき、やはり痛い痛いと思っていたら、身体に無理をさせているらしい。本末転倒だ。
 
マッサージ師も別流派の気功をしているそうで、「そのポーズをする時は、骨盤の位置をこうやって…」と楽に立っていられるコツを教えてくれた。
気功の先生からは「足に気を通しながらやれば、痛くならない!」と気功的な指導しか受けてなかったので、立ち方の工夫で痛くならないと知ってビックリした(笑)。
やはり、気合とか根性じゃなくて技術か…。
 
あたくしの気功の先生は超感性優位というか、天才型というか、細かな技術指導はしてくれない。はっきり言って「教えるのは上手くない」とも言える。その辺りを通りすがりのマッサージ師が教えてくれるのも変な感じだ。
 

でもあたくしの気功の先生はスゴイらしい

気功を始めたきっかけは「ストレスに強くなるため」と以前書いたような気がするが、その他にも「不思議なものが見れるかも」という好奇心があるし、当初は、病気がたちまち治ったらいいな、とかいう愚かな欲があった。
 
とはいえ、あたくし自身は才能があまりないらしく、2年以上気功を続けてもサッパリで、手が多少ピリピリするのがせいぜいだ。不思議な世界とも病気退散とも無縁で、つくづく凡人だと思う(風邪は引きにくくなりました)。
 
しかし、生徒さんの中にはものすごく感受性が良い人がいて「先生の気はすごいよ!」と言う。
どんな風にすごいのかというと… 熟練した看護婦さんのする注射のように、優しく気を注入し、気付いたら終わっているそうだ。
気のパワーなんて、何だかドーンと来るものだと思い込んでいたから、その表現は少し意外だった。
別の表現だと「ものすごく物腰の柔らかな人が、ス〜っと自分の家に入ってきて、また静かにお邪魔するような感じ」と言っていた。
とにかく、ドーン! バーン! みたいなのは、先生の流派からすると、“雑”らしい。
 

あたくしが気功治療を体験した時のこと

これに興味を持ち、気功の先生から気功治療なるものを受けてみたことがある。
最初は問診的なことを行う。どこが悪いとか、治したいとか。その時の悩みとか…
 
当時のあたくしは、4回目のパニック症状再発の直後でかなり凹んでおり、軽く鬱状態だった。
「働く意味が分からない」
「昔は楽しくできたことが、今は何もかも辛い」
「かつての自分に戻りたい」
といったことを涙まじりに話したように記憶している。
 
ところが、それに対する先生(気功師)からのアドバイスに、思わず涙が引っ込んだ。
「温泉に1週間くらい行きユックリしたらどうでしょう」
「不動産投資でもして、働かなくても生きて行く道を模索したらどう?」
 
確かに、質問の答えとしてはアリかもしれないけど…めちゃくちゃ「普通」やん(笑)! 
 
いつも教室で話しているような、「宇宙のパワー」とか、老子の「道(タオ)」の話は全然ないの? あれ〜〜〜? と思っているうちに、気を入れて(いるらしい)…で、お終い。
 
気の感覚が鈍い人は気を注入されても何も感じないそうだから、あたくしがその時に何も感じなかったとしても、それは先生の技量とは何の関係もないらしい(笑)。
 
非常にモヤっとした気持ちになり、以降、気功治療のリピーターになることはなかった。
 
今思えば…先生、傾聴が「いまひとつ」だったんだわ(笑)。
 

それでも先生は尊敬してます

しかし、あたくしは今でも懲りずに先生は本物の気功師だと思っている。
それどころか、ワザと話術を磨かず、あえてのお喋り下手を維持している、というのがあたくしのヨミだ(笑)。
 
なぜなら、先生にとっては自らの力を強力にするための修行が一番大事。
その時間を割いてまで、先生がセールストークなんぞを磨くとは思えない。それに先生の喋くりだけで満足感を覚えるような人が増えてしまうと、本当に先生の気のパワーの力を必要としている人が困るだろう。
 
凡庸な自称気功師こそ、技術不足をカバーするために、喋くり上手を目指し、「人を操る心理学」なんぞを勉強し、陽性転移を起こさせようとするに違いない(笑)。
 
 
…そんなことばかり考えているから、あたくしはいつまで経っても気功の上達がおぼつかないのだ。
しかも気功療法よりカウンセリングの方が気が楽になるくらいだから、多分あたくしはそういう人なんだろう。
 
そういえば、熟練したカウンセラーも、そっと心の中に入ってきて、静かに出て行く感じがするな。気功もカウンセリングも、同じなんだな。
  
気功革命―癒す力を呼び覚ます

気功革命―癒す力を呼び覚ます

 
※何か気功の本を紹介しようと思ったけど、気功は水泳などと同様、本で学べる技術ではないのもあり、ほとんどマトモなものがない。ありがちなのは、一冊まるごと「末期ガンを治しました」的な気功の先生の自慢話だったりする本(笑)。その中で、取材して書かれたこの本は割とマシかな?

「敏感すぎる人」がいる。

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「敏感すぎる人」のことをHSP(Highly Sensitive Person)と呼ぶらしい。
 
あたくしには、全般性不安神経症という病名がついているので、現在のパニック症状や鬱状態 神経質や心配性は、病気から来るものだと認識している。
それでも、何か参考になるんじゃないかと思い『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』エレイン・N・アーロン著 を読んでみた。
 
本によれば、だいたい全体の15〜20%は「敏感すぎる人」だというのだから、本当なら結構存在するということだ。
たまに「自分は敏感です」と自ら主張する人がいるけれど、HSPは敏感すぎることをひたすら恥じ、生き辛さを抱えて生きているらしい。あたくしも、リアルな対人関係では、病気が理由だとしても「敏感すぎる人」だとはなかなか言い難いのでよく分かる。
 
とはいえ、この本の趣旨は「欠点を克服しよう」ではなく、大人なら、自分が自分を理解し、ケアし、育てられる人になりましょう、というスタンス。
そもそもHSPは、単純に普通の人よりも感受性の感度が良いだけで、「短所ではない」し「時には長所になりうる」と説くところが、この本の清々しいところかな。
 
「こんな人がHSP」といった定義や、「こんな育てられ方をしたHSPが生き辛さを感じる」みたいな発達心理学的アプローチもあるけれど、HSPを欠点とは捉えてないので、この手の本にありがちな「そうか、やっぱり育てられ方が悪かったんだ」「で、どうすればいいの?」という絶望的な読後感に包まれることはありません(笑)。
 

HSPの生き辛さの緩和にはセラピーがよいらしい

HSPに関する詳細はさておき、あたくしが興味を持ったのは、著者が有効な対処法として「セラピーを受けるべき」と勧めている部分。

著者自身がHSPの心理学者なので、セラピーを受ける側の立場から書いているところがよい。

どんな心理療法やセラピストを選んだらいいのか、セラピストにはどんな態度で臨んだらよいのかまで書いてある。「セラピストに好かれようとしてはいけない」とアドバイスし、転移現象が起こる可能性と、その「良い面」(治療を効果的にする)と「悪い面」(依存が生じる)双方について触れている。
 
日本には、敏感すぎるからといってカウンセリングまで受けようとする人は少ないのかもしれない。けれど、あたくしのように、これを病気と捉えてカウンセリング受け、失敗した経験があると、こうした著者の言葉はとてもありがたく感じる。
 
カウンセラーがクライアントをどのように扱うべきかの本はものすごくたくさんあるのに、クライアントがどのようにカウンセラーとお付き合いするべきかについて触れている本って、あたくしは見たことがない。
日本にだって、メンタル的な悩みから自身もカウンセリングを受けたことのある心理学者や臨床心理士はいるだろうに…頼むよ、日本のカウンセリング界!
 

HSP認知行動療法は根本的解決にならないらしい

セラピーと併せて、その周辺で、比較検討対象になるであろうアプローチに関しても書かれている。

認知行動療法に関しては、
“この療法にはそれほど「深み」も魅力もないが、かなり効果的なので試してみる価値があると思う”
“認知行動的アプローチはとても理性的なアプローチだが、「敏感な人というのは、ただ愚かしくて不合理なことを言っているだけだ」と秘かに思っている非HSPが開発した方法でもある”
などと、けなしているんだか勧めているんだか分からない書き方をしていて、笑えます。
自分自身が数々の認知行動療法のワークブックにイマイチ乗れなかった理由も、左脳的によく理解できました!
 

HSPにはスピリチュアルよりセラピーがよいでしょう

ご丁寧にスピリチュアル的アプローチに対しても触れている。心理学とスピリチュアルのゆるやかな繋がりをサラリと語るあたりは、アメリカの学者が書いた本らしいなあと感じました。

日本の学者が書いた心理学本ではまずこうした部分が触れられることはないから。日本のカウンセラーはおりこうさんなのか、まずスピリチュアルな話題には触れないし、そもそもそうしたトピックをあまり知らない人もいる。
 
でも本来はカウンセリングを受けた方がよい人が、スピリチュアルヒーリングに流れている現状は無視できない。自分が望まなくても人の弱みに付け込んで向こうからやってくるかもしれない。全くの主観だけど、カウンセラーの商売上のライバルは、カルトを含む数々のスピリチュアルなヒーリングだと思っている(料金もだいたい同じ)。そうしたライバルに関して、日本のカウンセラーはもう少し知っておいてもらいたい気がする。
 
なんとなく怪しいからダメ…なのではなく、著者のように「指導者に強い転移を起してしまっても、指導者はその転移から救い出し成長をさせるスキルを持ってない、転移を助長しようとする指導者さえいる」みたいに言ってくれると分かりやすい。転移の可能性を考えると(HSPは転移に陥りやすいそうだ)、たしかにカウンセラーの方がおおむねマシだろう。
 

敏感すぎるのを能力と考えると少し楽

あたくしは、元来はズボラで大雑把だったのに、病気で敏感体質になったクチなので、早く治そう、元どおりにしよう、と思い続けてきたのだけど、10年患ってしまうと、正直、身に馴染んでしまった部分もある。だからこの本を読んで、敏感力という「新しい能力が備わった」という考えもありなのかな? と、長年の「一生このままでは?」といった不安が若干和らいだのとともに、新しい視点が持つことができたのは良かった点。
 
しかし、恫喝でフリーズする性質は直したい。もしこれが克服できた暁には、敏感体質の方はどうなっちゃうのだろう? 消えるのか? そのままなのか? 自分としてはどうありたいのよ? …といろいろ考えさせていただきました。
 
図書館で借りた本なので、急いでこれから、返しに行きます!
 
ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 (SB文庫)

ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 (SB文庫)

 
※この本、ハードカバーの時はカワイイ装丁だったのに、文庫本になったとたん安っぽいハウツー本のようなカバーになってしまってガッカリ!なのだった

「もっと話を聞いて欲しい」というサイン。

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カウンセリングの勉強では、クライエントのこんな反応は「もっと話を聞いて欲しい」っていう意味ですよ、っていう例を教わったりする。
当然、カウンセラーなら、こういうサインを素早く察知してクライントの気持ちを受け止めなくてはいけないのですけど(それが仕事だしね)、自分の体験から判断するに、どうやらプロのカウンセラーでも、これがあまり上手くない人がいる。
 
カウンセラーはクライント側のそうしたサインに気付いていないかもしれないし、気付いてはいるものの対処できていないのかもしれない。
ともかく、運悪くそういう未熟カウンセラーに当たってしまうことも現実的に、ある。
 
だから今日は、カウンセリングで何か違和感や停滞感を感じた時は、まずは自分で自分の会話パターンを振り返って、「あ〜自分、もっと真剣に話を聞いて欲しいって思ってるんだ」と自覚できると何かと便利です、って話です。
 

話を盛りがちになっている時

聞き手の反応が薄かったりすると、あれ?話、通じてない?とついつい話を盛ってしまう傾向があるそうです。
カウンセリングの場面だと「自分はとっても可哀想なんです」とか「今、無茶苦茶大変なんです」多少オーバーに状況説明をしたりする。大声になっちゃうのも、盛りの一種。
本当に大変だとしても、カウンセラーがきちんと気持ちを受け止めてくれていたら、話を盛ることはないのです。必要ないからね。
 
自身の体験では、「あれ? 何でこんなに大袈裟に話すんだろう」と自分に対して違和感を感じたことがあります。
その時は、理由が分からなかったのですけど、カウンセリングを少しでも勉強すると、自分がカウンセラーの淡白な応答に不満を持っていたことに気付きます。
それはあたくしの「かまってちゃん」サインだったのですね。

同じ話を何度も繰り返す時

何度も同じ話を繰り返すのも「真剣に話を聞いてくれ」の合図。
カウンセラーから丁寧にその都度、共感が行われていれば、クライントだって、時間がもったいないし同じ話を何度もしようとは思わないものなのです。
しかし、未熟なカウンセラーだと、その時の気持ちに触れないで、事実関係に関する質問をしてしまいます。
感情面にノータッチのままだと、クライントは話が伝わっていないような気がして、さらにも“くどく”話してしまうというワケ。
 
あたくしの場合は、カウンセリング場面で、幼少期の母親への不満を何度も繰り返した経験あり。
その時、カウンセラーはずっとメモを取りながらフムフムと聞いていたのですが、そこはやはり、メモはさておき、当時の感情をジックリ聞いてもらいたい部分だったのです。
 
カウンセラーからの反応が薄いと、話した直後はスッキリ感があっても、次のカウンセリングになると、やっぱり幼少期の母親の不満を語ってしまい、自己嫌悪になって帰るのです。時間の無駄。自己嫌悪も無駄。
 
カウンセリングの勉強では、「感情を吐き出させる」みたいな表現が出てきますが、これは決して、怒涛のように話すクライントを放置プレイすることではありません。カウンセラーが拾ってくれない感情は、回転寿しの残り物みたいに、グルッと一周して、ふたたび目の前に流れてくるのです。 

意味のなさげな質問をする時

カウンセリングでは、クライントからの質問にカウンセラーは直には答えない、というのは基礎中の基礎。問題を解決するのは、あくまでもクライント。カウンセラーが問題解決をしてしまうと、クライントが依存的になるだけで、いつまでも自分で問題を解決することができないからです。
 
だから、少しでもカウンセリングを学ぶと「カウンセラーに質問するのは虚しい」と頭では理解している…にも関わらず、カウンセラーに対して問いかけをしてしまうことはあるんです。自分でも「何でだろう???」と思いながら。
 
これも、やっぱり、相手の反応が薄いから起こることなんだわ、というのに最近気がついた。
カウンセリングの練習中、クライント役をやっていたあたくしは、ひとしきり話したあとで「で、わたしは、これからどうすればいいでしょうか?」と言ってしまい、自分でビックリしたことがある。
 
どうやら、カウンセラー役の共感が薄いので、どう感じているのか探りたくなったらしい(もちろん、クライントとしは共感が欲しい)
 
そこで相手に、いわば「どうでもいい質問」を投げかけて、相手の反応を得ようとする。もっと言うと、興味を引こうとしている節がある。
 
過去に、「心理学の本ばかり読んでしまう私は、心配しすぎでしょうか?」とか、「恫喝場面がたくさん出てくる映画を観たら、恫喝に慣れて平気になると思いますか?」とか、自分でも「何を聞いているんだよ?」と思うような質問をカウンセラーしてしまった経験があります。
 
そんな時、カウンセラーの応答が虚しく「さあ、どうでしょうか?」の繰り返しだったことが思い出されるのですが…
 
模範的応答は「どうしてそんなこと考えたの?」と、相手に興味を示す、です(笑)!
 

最後に… 

カウンセリングに入る前に、カウンセラーからこんな常套句が出てくる。
「この時間は、あなたのための時間なので、何でも話してくださいね」
 
しかし、現実には、何でも話せる状況ではないことも、往々にしてある(笑)。
 
人に話を真剣に聞いてもらえないのはただでさえ辛いのに、ましてや、お金を払っているカウンセラーに聞いてもらえないのは、もっと辛い!
 
自分で自分の「もっと話を聞いて欲しい」サインに気がつくことができれば、思考はとてもシンプルになります。
カウンセラーに言葉で本音を伝えるか、そのカウンセラーとのお付き合いを辞めるか、二つに一つ、自分で決めるだけです。
 
カウンセリングを必要としている方が、良いカウンセラーに出会えますように…。