心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

ペトリコール。

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乾いた大地に雨が染み込む時に発する、土が蒸れた時のような匂いのことを“ペトリコール”(英語で Petrichor)と言うらしいです。誰もが知っているけど、何と呼んだらいいのか分からないようなものにも、ちゃんと誰かが名前を付けてくれているんだなぁ。名前があるから、それを共通体験にできるのだろう。

帰省から無事帰ってきて、そりゃあ、もう疲れました。意味もなく心臓バクバクで、ダウンしてます! 

せっかくまとまった時間を作り両親に会いに行ったというに、あたくしは三日目過ぎたあたりから怒ってばかりで(幸いにも親は二人とも健在)、最初は「こんなに食えるか〜!」や「こんなに飲めるか〜!」などと、親の過剰サービスにプンプンしていたのですが、次第に…芋づる式に…13歳の頃のアレヤコレヤ、14歳の頃のアレヤコレヤ…が思い出され、蒸し返し始め、いつまで怒りが続くのか自分でも不安になるくらいに。

「ストーカー事件に関する親へのわだかまり」は、カウンセラーの先生にフォーカシングで処理してもらったのです(詳細は『その気持ちは海に置いてきました。』)。怒りながらも「あ、あの気持ちは?」と思い返すと、その「親へのわだかまり」の気持ちは今も「棒のまま」で大人しく南国の砂浜に刺さっているのでした。そして、「こっちは関係ないね」という顔をしているのです。棒に顔があるのも奇妙ですが、そんな感じ。

とうとう、もう明後日には帰るよ、ってあたりで母親を泣かせてしまった。
「この日を楽しみにしていたのに、どうして怒ってばかりいるの?」

とんでもない親不孝だ!とあたくしは罪悪感に駆られるも怒りは止まらない。 
母が涙まじりに
「あなたは中学生の頃から全く理解できなくなった。理解できないのよ!」
と、ついに、これまでにも何度も聞いた言葉を呟いた。

(あぁ、また、理解できないと言った〜〜〜!)
この「理解できない」は、あたくしの心の地雷ワードなんだ。

実はお恥ずかしながら、ここまでは今までも何度かあったお馴染みの展開なんだけど、今回はちょっと違ってた。

カウンセリングのお陰なのか、日頃の自己洞察のお陰なのか、はたまた瞑想の成果か、あたくしは自分の怒りの正体が何なのか、その瞬間、理解したのだ。

突き詰めると「分かって欲しい、かまって欲しい」なんだな。

こんな歳になっても、13〜14歳の頃の気持ちを大事に抱えてたんだ!と気付いたら、そりゃあ猛烈に恥ずかしいですよ。

自分の不完全さも親の不完全さも、どっちも許せずにイライラしていたけど、そろそろ認めてあげないと、もう時間がない。好きなんだったら、まずあたくしが、自分と親の不完全さを受け入れなくては。そんなの敗北だと思っていたけど、そもそも勝ち負けを考える自体がナンセンスに違いない。

それと同時に、泣けてきた。たくさん泣けました。それはですね、非常に懐かしい感覚です。

もっと遊んでいたいのに夕暮れがやってきて、帰りたくなくて泣く感じ。

自宅に帰ってきてからも数日は何故か泣けて泣けてしょうがなくて、電車の中だろうが、街中であろうが、まるで間欠泉の様に感情が吹き上がってくると、目が潤んでくる。これはマズイ。

そのうちにカウンセリングの予約の日が来たので。フェイスタオル持参で伺い、そこでも泣いた。
泣けて話せないのでは?と思ったけど、それではお金がもったいないし(笑)、なんとかカウンセリングとして成立させることができた。
そうして、こんなクライアントはやっかいだな、とか妙に客観視してみたり、また泣いたりしたのだった。

カウンセラーの先生に手伝ってもらったお陰で、その気持ちは、どうやら収まるところに収まってくれたらしい。あたくしの情緒不安定は去っていった。

あの雨で蒸れた匂いは、何故か懐かしい感じがするんだけど、そういう感じ。そういう感じがする出来事でしたよ。