“カサンドラ症候群”という言葉がある。
「先生、私はカサンドラ症候群でしょうか?」
と、あたくしはカウンセラーに問うた。
その日の朝まで、カサンドラ症候群なんて言葉は知らなかった。
ネットで偶然知った言葉を言ってみたかっただけなのだ。
なぜなら、その言葉は妙に心に引っかかったから。
なるほど、自分に当てはまると感じたから気になるのね。
アスパルガー症候群の人をパートナー持つと、相手から思ったような情緒的反応が得られないことから、次第に自信を無くし、深く傷ついてしまうのだそうだ。
それは、親に虐待され続けて育った子供にも共通する傾向があるのだとか。
カサンドラ症候群のことを「現在進行形のトラウマ体験」と表現するのも目にした。
カサンドラ症候群の自助会がいくつもあることをあたくしは知った。
とどのつまり、アスペルガー症候群のパートナーである女性の集まりだ。
そういう人がいっぱいいるということだ。
それは珍しいことではなく、ある程度は普遍的だということだ。
現在のカウンセラーではなく、かつてお世話になったカウンセラーの方に夫の愚痴を垂れていた時に「あなたの旦那さんは発達障害ではないか?」と言われたことがある。
その時の自分は、その言葉はカウンセラーがあたくしを気遣って掛けてくれた言葉なのだと理解しながらも、「私の夫に会ったこともないのに、そんな無責任なこと!」と内心憤慨したのであった。
夫の予後は思わしくなく、時々ニトロを舐めている。
そうしていながら、夫はフレンチや焼肉に想いを馳せ、酒を飲む。
タバコとスナック菓子はキッパリやめてくれたのは「すごいな」と思うし感謝もしているが、その程度で辻褄が合うとも思えない。
夫の病気は、脂も塩分もアルコールも全部ダメなんだ。
あたくしは家のご飯にもち麦を混ぜ込んで炊くようにした。
野菜を多めにし、ハムやウィンナーを所望した時は茹でたササミをワサビ醤油で食すように促した。
でもこれも焼け石に水だろうなぁ。
「不味いものを食って長生きするくらいなら、死んだほうがマシ」と夫は宣言した。
そこにはあたくしは存在しないかのようだ。
夫には、傍らのあたくしの為に摂生し、長生きしようとかいう発想は微塵もないんだ。
残りの人生で楽しいことをやり尽くそうと、海外グルメ旅行の計画なんかを立てている。
「それでね、わたしは自分なりに頑張ってみようかとは思っているんですけど、夫にもしものことがあっても自分を責めるのだけは止めようと思ってるんです」とあたくしは先生に宣言した。
最後に「今度は」と付け加えて。
夫が鬱になった時、周囲も自分も「なぜ、あなたが側にいながら」とあたくしを責めたのだ。
自分以外の行動を変えようなんて“おこがましい”ことであるのに、できないことをしようと四苦八苦してパニックに陥ったのだ。
「先生、もう絶対に自分を責めませんよ?」
あたくしは、そう宣言したのだ。
それで、冒頭のカサンドラ症候群の質問をしたのだ。
「実は最初はさ、そうかな?と思ってたんだよ」
ふ〜ん。
今朝あたくしが初めて聞いた言葉を、カウンセラーの先生は1年以上も前に思い浮かべていたことを不思議に思った。
「で、今はどう思います?」
あたくしは正直、夫がアスペルガー症候群なのかどうなのか、全く興味がない。
恐らくは、当てはまらないと考えているし、仮にそうだとしても「あたくしは実は“カサンドラ症候群”だったのだ!」と、このブログを盛り上げるつもりはない(笑)。
カサンドラ症候群を考える時に大切なのは、アスペルガー症候群というものを理解して、互いに心理的負担の少ないコミュニケーション方法を模索し、健やかな人間関係を構築するにはどうしたらいいのか? という視点だそうだ。
どうやったら、全くの感覚の異なる二人のコミュニケーションが上手くいくのか? という相互理解のプロセスだ。
それ自体は、どちらかが「なんちゃら症候群」とかでなくても、夫婦間における永遠のテーマだと思う。
だから、今のあたくしの興味は、現在、先生があたくしをどのように思っているのか、だったりする。
最初はあたくしのことカサンドラ症候群だと見立てたとして、現在はどう思われるのよ?
先生はその問いにはYesともNoとも言わず。
「心配だね、あなたの旦那さん」
と、あたくしの不安に寄り添ってくれたのだった。