心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

自分の依存症的傾向を優しく考察する。

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どうも自分には依存症の傾向がある。
若い頃は買い物や恋愛、それにお酒に耽溺することが多かった。
今でもお金が無尽蔵にあったら買いまくるだろうし、永遠の若さがあったら恋愛しまくって、体力があればお酒を飲みまくると思う。
でも、全てには終わりがあって、これまでに何とか向こう側にギリギリ行かずに済んで、ホッとしている。
この、老いに入ってホッとする気持ちは、若い人にはもちろん、「自分はまだまだ若い!」と頑張る同年代にも理解されないだろう。
 
実はお酒に関しては、今も「良からぬ」事態に陥ることが時々ある。
途中から記憶がスッポリ抜けて、自動操縦モードになる。
「自動操縦モードのまま、無事に帰宅できるのだからいいではないか」と友人からは言われるけれど、良いわけないだろう?(笑)
傍目から見ると、陽気にお喋りしているようでも、本人は一切覚えていないのだから損した気分だし、失礼なことを言ってはいないか気になるし、もちろん単なる酔っ払いとしての罪悪感も沸き起こる。
 
この話に、カウンセラーの先生は、「自分の中の問題が解決してきたら、お酒を飲み過ぎることはなくなるよ」と言った。
長年の習慣、癖のようなものが、そんなことで解消されるのだろうか?
月並みな表現を使えば、漠然とした不安や寂しさを酒で紛らわせているんだろうけど、その正体が分からない。
でも先生は、禁酒を勧めたりなどせず、「大丈夫。そのうちに飲みすぎなくなるから」と言うばかりなのだ。
いい酔い加減で自制できるようになったら、酒なんか全然問題ないじゃないのよ? というのが先生のお考えだ。
いや、難しいでしょ?(笑)
 
 
依存症については、世間的にはずっと「意思が弱く、快楽に溺れやすい人が陥る」といった文脈で語られがちだったし、自分も自身の依存症的な部分をそのように考え、制御ができない自分を恥じてきた。
親族や家族には同じ様な人が見当たらないので遺伝ではなさそうなのも、非常に恥ずかしい。
 
そこで、自分の依存症的傾向を知りたくて、とりあえず一冊読んでみた。
 
 『人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション』 小林桜児 著 
 
すると、依存症に関しては、アメリカの心理学者カンツィアンがすでに1974年に「自己治療仮説」なる説を発表していたことを知った。
依存症とは「自らの苦痛を和らげようと自己治療を試みた結果、陥ったのだ」という考え方だ。
苦痛を緩和させる自己治療が行き過ぎて、コントロール不能になった状態が依存症という訳。
「快楽に溺れやすい」というより、すでに辛い状況にあり「苦痛を和らげようとしたんだ」という考えは、依存的な自分を恥じ、責めている人にとっては光明だ。
依存症に対して恥を感じたり、自分に厳しくなろうとするより、自分が苦痛を抱えていることに気づくことが、まず大切なんである。
 
 
 
非常に依存性の高い薬物を使っても、全員が依存症になる訳ではなく、一過性の経験として終わる人もいるらしい。
例えば、入院中の痛みの緩和にモルヒネが使われることはあるけれど、そういう人が全てモルヒネ中毒になる訳ではないらしい。
身近な例だと、宴会など社交の場で酒はチョイチョイ飲んでおり、しかも非常にイケるクチであるが、酒自体にはそれほど執着しない人とかがいる。
依存症に陥るか否かは、孤独・不安・ストレス・生きづらさ、といった「心の痛み」の有無が大きく関係するらしいのだ。
 
どんな「心の痛み」を抱えるかによって依存する対象物質に傾向が見られる、とも著者はおっしゃっている。
親の貧困や虐待やネグレスト、近親者の自殺、学校からのドロップアウトなど、誰が見ても分かるハッキリとした「生きづらさ」に晒されてしまった人が依存症になると、覚醒剤依存や多剤物質乱用に陥りやすい。
一方、経済的に問題がなく学校にも問題なく通えて一見平凡で幸せそうだけど、親の過干渉や過保護など居心地の悪い家庭環境で、漠然とした「生きづらさ」に晒されてきた人が依存症になると、アルコールや向精神薬、危険ドラッグといった(覚醒剤よりは)ソフトな物質に依存するらしい。
(貧困や低学歴だと、反社会的な勢力との接触の可能性が高くなるというのは置いておいて)
 
著者は便宜的に前者をハードドラッグ群、後者をソフトドラッグ群と分類している。
そうして、ソフトドラッグ群の漠然とした「生きづらさ」の正体は、本人が無自覚のままに行っているかもしれない「過剰適応」だという。
「過剰」な「適応」ですよ?
健全な人は自分の不安や不満を表現できるし自分が容認できる範囲内でしか周囲の期待に応えようとはしないのに対し、「過剰適応」の人は不安や不満を言語化できないし限界を超えて周囲の期待に応えようとするそうだ。
 
「過剰適応」の人は、自分の不安や不満なんか誰も取り合ってくれないだろうし、下手すると自分が拒絶されてしまうと思考する。
だから、その場の平穏を維持しようとし、それが自分の心の平和であると信じようと虚しい努力を続けてしまうのだ。
もちろん、それは実際には自分の心の平和とはかけ離れたものだから、いずれは破綻し、一部の人が依存症という形を取る。
 
そして、本のタイトルにもあるように、依存症は人を信じられないゆえに物(主に薬物)に頼る「信頼障害」だとも言っている。
人が信じられないから、ドラッグや買い物、恋愛といえば聞こえがいいが要は人やセックス、タバコやギャンブルに依存してしまうのだ。
しかも、他人を信じられない人は、自分も信じられないので無力感に陥りやすく、立ち直りにくい。
 
だからして…そう! 依存症の治療は、自他への信頼感を取り戻すような援助が必要、というのが、この本のメッセージでなのである(と、あたくしは読んだ)。
著者である小林先生は精神科医であり依存症の臨床を長く行っている方なので、この本からは、その根性と優しさがそこはかとなく伝わってくる。
まずは依存症を家族に持つ人や、依存症の支援をする人が依存症を理解するための助けとなる本だと思うのだけど、あたくしのように自分の依存症的傾向に???と疑問を感じている人にも非常に分かりやすい一冊と言えましょう。
 
 
 
そうして、この本のおかげで、先生が「大丈夫」と言ってくれたことも気休めではなさそう、と思えたのだった。
本には、信頼感を取り戻すためにはどうすればいいのかが書いてあったのだけれど、まさにその本に書いてあることを、先生はしてくれているのだから。
 
ちなみに蛇足であるが、カウンセラーの先生も酒を愛する人である。
そういう人だから断酒を勧めないのだろうし(笑)、カウンセリング中に酒の話に脱線することがチョイチョイある。
先生も日本酒ならもちろん純米派でしょ? 醸造アルコール入ってるのなんてダメだよね? とかね。
そうして、お互いの田舎の地酒なんかを挙げて、あれは美味いよね〜などと話すのだ。
ふと、こんなに盛り上げっているのに、あたくしはこの人と酒を飲むことは決してないのだな、と不思議な気持ちになる。
カウンセラーとクライエントなのだから、本当は不思議でも何でもないのだけどね。
全く残念なこと。だけど先生には言わない(笑)。
 
人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション

人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション

 

 ※「依存症」ではなく「アディクション」と言いたいのだな?
だからこの本のタイトルは分かりにくくなっている思う。
「依存症」にすれば「信頼障害」も頭にスッと入ってくるように思うのだけど。
本のタイトルは難しい。でも、中身は非常に分かりやすいので損してる(笑)