心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

地雷を踏む。

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初の苦情を受けた。
この仕事をしていれば、いつかは来るものだと覚悟していたが…
とても凹んだ。
 
相手にとってはあたくしの掛けた何気ない言葉が、
「ウザったく」「慣れなれしく」「失礼」に感じたそうだ。
 
この仕事は、誰からも敵意を持たれずにやり過ごすのは不可能だ。
今回みたいに悪気なく発した言葉が逆鱗に触れることもあるだろうし、言わなきゃいけないことは、見過ごさずに言わなきゃいけない時もある。
 
苦情の主は、有名なクレーマーだそうだ。
その方は、気分の振れ幅が激しく、人の意見に左右されやすく、ささいなことですぐに具合が悪くなってしまう。
そうして、自分を不安定にしているのが、実は自分の世界の捉え方によるものなのだと、その人は気付かない。
どうして周囲の人は誰も彼も自分の気に触ることをしてくるのだろう? と苦しんでいる。
そう、その人が、そのことに一番苦しんでいる。
 
傍目から見ると、本格的なカウンセリングを受ければいいだろうな、と思う。
半端なカウンセラーではダメで、一緒に血みどろになってやり合ってくれるようなタフネスな人じゃないとダメだろう。
そうして本当は心理療法の心得がある医師の方が良いだろう。
 
恐らく、その人を受け入れてくれる人に巡り合うのは大変難しいことだと思う。
でも、その人の気持ちの浮き沈みは、薬物やサプリメント、ヨガや様々な哲学、手仕事系の趣味、恋愛などでは癒し切れない。根本を解決するには至らないだろう。
 
上司からは、そういうのは医療の分野であるから、こちらとしてはどうにもできない、と言われた。
医師が判断して本人に勧めるか、本人が自身の病の深さを自覚して向き合う決心ができなければ、その人はこの先もずっと生き辛さを感じ続けるのだろう。
 
「反省してもいいけど、事故みたいなものだから、あまり気落ちしないでね」
と、上司からはご指導を賜った。
それは、自分へのいたわりの言葉だろう。
だけど、事故であろうが過失だろうが、車に当たったら、痛い。
痛いのですよ。
 
 
 
あたくしが今の先生のカウンセリングを受け始めた頃のことを思い出した。
自分も、前回のカウンセリングのことをほじくり返して「先生のあの言い方には傷ついた」と憤っていた。
それから更に次のカウンセリングで「前回のあれは、怒りすぎて、すいませんでした」と謝ったりした。
 
そうなの。そのクレーマーにかつての自分を見てしまったのだ。
その時の自分も、いつからか、どうしてあたくしの行く先々に嫌な奴が出現するようになったのだろうと悩んでた。
みんな、ちっとも自分の辛さを理解してくれないと、怒っていた。
 
自分の場合は、それらの感情の浮き沈みを、カウンセラーとの関係性の中で解決していけたのが良かったんだろうな。
先生は、あたくしの憤りに「それは悪かったね」と謝った後で「でもぼくは、あなたが教えてくれない限り、あなたが何に怒るのかは知らない」と言った。
あたくしの謝罪には「あなたは、いつもそんな風にいつまでも過ぎたことを考える癖があるのか?」と、問うた。
 
それらの先生の言葉は、あたくしの心の奥に沈んでいって、そこに昔から存在する沈殿物に化学変化を引き起こした。
 
苦情の主が、第三者ではなく、あたくしに直に不満を言えたなら、それは何かが変わる瞬間なんだろう。
もちろん、それにはもう少し信頼関係を築く時間が必要だけれども。
そうして、そんな日が来るのかさえも分からない。
 
カウンセラーの先生には「あなたの言葉なんかより、ずっと凄いのをいつも投げかけられているから、僕は平気だよ」と前置きされ、「もっと思いっきり言っちゃっていいよ?」と言われたことがある。
 
「えっ、嫌ですよ! そんなの落ち込まないですか?」
あたくしは、あからさまに怒りを表現することへの恥ずかしさと、それを受けた時の相手の痛みを我が事のように感じて先生に問いかけたことがある。
「うん、そのうちに、そんなに感じなくなる。あ〜また来たなぁ〜って感じで」
そこには、何やら解離的なニュアンスが感じられて、むしろ抵抗感を覚えたのだ。
感じなくなるなんて、怖いな、と咄嗟に感じてしまった。
 
でもそれは、もちろんそんな意味ではなく、「いつしか君もそんな風に、他人の言葉に強くなる」といったニュアンスであったので、当時の自分にはにわかに信じ難かった。
たしかに感じてはいるのに、辛くなくなるってどういうことなんだろう?
 
「ものすごい肩コリの時に揉むと、痛いでしょう? でもそのうちに気持ち良くなるでしょう?」
イタ気持ちいいっての?
そんな感じ、と先生はおっしゃった。
この痛みは生きている証、というやつか?
生きている痛みを慈しめるようになったら、怖いものが減るんだろう。
 
 
 
某クレームの主には謝罪の必要があるのか、上司や先輩に聞いたのだ。
「それにとらわれないで、普通にしてて」とのことだった。
そういう人には決して振り回されないことが、大切なのだと。
 
2、3日はそのことでモヤモヤし、自分を責めたり、相手を恨めしく思ったり、嫌な気持ちが続いたが、やはりその気持ちも、ゴロゴロと彼方へと転がり小さくなりつつある。
何しろ、職場ではいろんなことがあるのだ。
というか、自分的には失敗ばかりなのだ!(笑)
 
いや、いやいや、それは極端だな。
もちろん、あたくしが、そこにいるだけで仕事になっていることがたくさんある。
時には「ありがとうございます」と言われることもある。
あたくしの「それでいいんだよ〜」の言葉にホッとした顔を見せてくれる人がいる。
 
そんなんでいいんだ、必要以上に疲れるな。
だって、夏は暑く、エアコンの効いた部屋は必要以上に寒く、ただでさえ体調崩しそうなんだもの。
皆様、ご自愛を。
完璧でない、暑さ寒さにさえ超デリケートな、この人間という繊細な存在を愛しましょう。

幻の先生と出社。

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早いもので、働き始めて1ヶ月が経過いたしました。
緊張が解けたのか、月末の金曜日の夕方あたりからにわかに背筋がゾクゾクし始めた。
この感覚は体温計で測らなくても解るぞ、38度越え、だ!
震えながら家に帰り、30度を超える部屋の中でセーターを着込み、日本酒とカマンベールチーズという超偏食な夕飯を摂り、あたくしは力尽きてひっくり返ったのだった。
 
 
 
働き始めて最初の2週間、慣れない職場に向かう漠然とした不安と戦うために、実はカウンセラーの先生のお力を勝手に拝借していた。
オフィスのある建物に着くと、まずトイレに駆け込む。
そこで、自分はカウンセラーの先生に背負ってもらっているところをイメージする。
 
あたくしは透明な先生に負ぶってもらっているけど、職場の同僚にはあたくしが一人でオフィスに入って来ているように見えている感じだ。
かなりヤバイ妄想だと思うのだけど、「これは誰にも迷惑かけてない、かけてない」と自分に言い聞かせて幻の先生におすがりしていた。
最初は、そういうややこやしいことをして、ようやく職場の皆さんに元気で「おはようございます」が言えたのだった。
 
先生の幻は、自分が職場に慣れるに従って遠ざかり、ある時、先生がどこにいらっしゃるのか探すと、もう声も届かないような彼方におり、孫悟空みたいに雲の上に乗っかって「ちゃんとここで見ているよ〜!」と手を振っていた。←これも妄想だけど(笑)。
そうして、先生は妄想の中からも消え、見えなくなってしまった。
 
そのことを、前回のカウンセリングの時間にお恥ずかしながらカミングアウトすると、「僕を如何様に使っていただいても構わないですよ」と笑いながらおっしゃった。
まぁ、妄想の中だからな(笑)。
 
 
 
仕事を始めてからは、カウンセリングの時間の話題がガラリと変わった。
過去の話は一切しなくなった。話題はここ2週間のことだけ。
あれだけ「話しきれない!」と思っていた過去の想いは、優先順位の低いファイルを入れる方に突っ込まれてしまった。
人は一度にいろいろなことを考えられるものではないのだろう。
少なくとも自分はそんなに器用な人間ではなく、目の前のことに翻弄されてしまう人間なんだろう。
本当はもっと自分自身のことを話し続けたい気がするのに、仕事の話題が多くなった。
 
お仕事では、あたくしも先生のようなやり方で人に寄り添いたい。
だけど、今の自分は未熟すぎて、覚えなくてはいけないことも多いし、上司先輩から指示されたことをこなさなくてはいけないし、なにしろ元来トロくさい。
これでいいのかな?とか、こんなの自分はヤダなぁとか、毎日モヤっとすることがたくさんある。
あたくしは、どこまで行けるでしょうか? いつまでこのお仕事続くでしょうか?
胸が痛いです。痛いです。
 
いつもながら、くどくど、長々、ダラダラと話したあたくしへの先生のアドバイスは二つだけ。
「たくさん寝て、果物を食べなさい」
(笑)(笑)(笑)
そうですね、そうですね。
まるで(幻の)郷里の父のような温かい言葉。
あたくしは愚直に早寝早起きを心掛け、朝食には果物を欠かさないようにしている。
 
今のあたくしにはもう、若くて元気な頃のように、勢いで物事を推し進めることはできないのだ。
着実に小さなものを積んでいくことしかできないし、それでいいのだ。
「人の期待に応えようとしなくていい。ただそこに居るだけでいいんだよ」と、先生がおっしゃる。
 
 
 
本当は、もっと早くページをめくって、どんな世界が広がっているのか、先を読み進みたいのだ。
でも現実の自分は、悲しいことに過剰な情報のインプットにいとも簡単に発熱してしまう脆弱な心身しか持ちあわせていない。
 
もっと自分の知力体力にキャパシティがあったなら、本当はずっと前からフォーカシングに興味があって、本格的に勉強したかったのだ。
お仕事を始めたばかりの時、「実はフォーカシングについてもっと知りたいんですが…」と、何気を装って先生に聞いてみたことがある。
 
「え〜まだ、早いよ」
先生からは即座に却下されてしまった。
「今はまだ早いよ。もっと後がいいよ」
あたくしは、EMDRもそうやって延ばし延ばしになって、結局一度も体験できなかったことを思い出した。
フォーカシングもきっと、先生があたくしに必要ないと判断したら、教えてはもらえないのではないだろうなぁ…そうボンヤリ思った。
 
でも、その時はガックリした感じとかは微塵もなく、そうだよな〜早いよな〜せっかちだな自分、という感じ。
そうしてそれよりも、そのやりとりを通じて自分の中に生まれたちょっとした違和感の方に気を取られてそれを注視していた。
何なんだ、この感覚、決して嫌な感じでなく、懐かしいような、甘酸っぱいような感覚?
 
その日、カウンセリングルームを出て、傾きかけた陽にギラギラ照りつけられながら駅に向かって歩き出した時、あたくしは先ほどの感覚の正体を探し当てた。
 
あたくしは先生に“おねだり”したのだ。
 
先生の使う魔法の秘密を知りたいよぉと、幼稚園児の様に媚態でもっておねだりしたのだ。
(フォーカシングの技術は決して魔法ではないのだけれど)
早く先生のようになりたいと、軽くワガママを言ったのだ。
頑張って不安と戦いながら働いているあたくしに、ご褒美いただけません?と思ってしまったのだ。
 
先生は「ただそこに居るだけでいいんだよ」と言ってくださっているのに。
しょうもねえ甘えん坊だな自分!
 
人に甘えておねだりするなんてことが、あまりにも久々だったので、あたくしは懐かしさを覚えたのだ。
その無防備に求める心に甘酸っぱさを感じたのだ。
 
 
 
さぁて、明日からまた会社に行く。
微熱は残っているけど、なんとかなりそうだ。
いつまで続くのか不安はあるけれど、この日々が、あたくしが望んでいたことであり、奇跡であり、ご褒美なんだ。

ボルダリング。

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ボルダリングを始めたのだ。
あの、壁に取り付けられた色とりどりのプラスチックの岩を登っていくやつね。
ずっと前からやってみたかったんだけど、なかなかその機会がなかった。
でも、ずっと願い続けていれば、風が向いてくるものなんだな。
 
ボルダリングは筋力勝負のスポーツと思っていたのだけれど、実際やってみるとそうではないらしいことに気付いた。
腕の筋肉だけ使っていると、筋肉疲労ですぐに手がプルプルになってしまい1時間と持たない。
子供の方が、ずっと上手だ。大人の上手い人も、決して筋骨隆々という感じではない。
あれは体重移動を使ったバランス芸なのだ。
 
単純にガシガシ登っていけば良いわけではなく、スタートとゴールの岩、そこまでに行き着くのに使って良い岩が決まっているのがこの遊びの醍醐味だ。足は自由にどこの岩でも足場にして良い場合と、これも決められている場合がある。
ゴールの高さは初心者だと3メートル程度に設定されている。ちょっと怖いかも…程度の高さ。
下にはフカフカのマットがあるので、途中で力尽きて落ちても大怪我をすることはない。
 
壁にへばり着いている間、余計な事は一切考えず(考えられないで)自分の身体のことだけに集中できるのが素晴らしい。
なんというかマインドフルネス瞑想につながる境地が広がる。
そうして、ゴールにたどり着き、無事に降りてきた達成感と爽快感!
人間とは、なんと面白い遊びを考えるのであろう…。
 
見ている小学生に「その隣の岩に足をおいた方がいいよ」とか、教えてもらいながら、妙齢女性はいつになく必死になるのだ。
多分、お仕事の時より、必死になっているのだ。それは楽しい。
 
 
 
現在のお仕事をするにあたって、仕事上の疑問点やモヤっとしたことは、できるかぎりその日のうちに職場の人に質問なり相談なりして、次の日に持ち越さないようにしている。
 
現在の職場は何重にも相談できる仕組みがあり、当事者に言いにくいことは、さらにその上に気軽に相談できるように整えられている。あとは自分の勇気だけだ。
今度の職場では安易に「大丈夫です」と言わないように心掛けている。
 
そして、週末や休日は意識的にストレス解消に繋がることを行うようにしている。
休日はスポーツ…ボルダリングもその一つだし、走ったりとかお散歩とか、とにかく身体を動かすようにしたり、1日中眠りこけたり、友人と食事をしたり飲んで少しばかりはっちゃけたり。
そうして、カウンセリングもね。
 
そんな風に、とても気をつけていたのだけれど、週末に久々に会う知人と食事をした時、意見の相違から軽い口論になってしまった。
相手は、自分でも「知らずに意地悪な物言いになってしまう」と言っていたけれど、たしかにそんな態度だった。
あたくしはそれを上手く流すこともできずに、相手から「なんだあんた、仕事では人の相談乗っているくせに幼稚だな」と言われたのをトドメに爆発してしまった。
 
「ばかやろう! そりゃあ仕事だから必死にやってるんだよ!
 普段のわたしは幼稚です!」
口論は収束したが、あたくしは怒りのあまり、その後は大人気なく貝のように口を閉ざしてしまった。
そうして、この一週間、週末を楽しみに必死に仕事をしたのに、ガックリとして家路に着いた。
 
 
 
…そういう話、あたくしが怒った話を、カウンセラーの先生は本当にワクワクした顔で楽しそうに聞く。
なんでやねん(なぜか関西弁)。
 
でも、今日の自分は、カウンセリングで愚痴を垂れたくてこうした話をしたのではないのだ。
「あのですね。気付いたことがありまして、それをお伝えしたかったのです」
 
これまでは、人と喧嘩をしてしまうと、自分はいつまでも根に持っていた。
怒りを抑えられない自分を恥じたり、次にその人に会うのを恐れる気持ちもあった。
そのことはいつまでも自分の傍らに居座り、ずうっと嫌な気持ちにさせ続けたのだ。
 
相手は案外すぐに忘れてしまっているかもしれないし、こうしている間にも相手の人間そのものが刻々と変わっていくだろう。
でも、自分は忘れられない。自分だけ変われずに、ずっと怒っている。
それが、自分が執念深く、了見が狭く、器の小さな人間の証の様で、これがまた自分を責め、嫌な気持ちにさせていた。
 
その嫌な気持ちが、今回は3日しか持たなかったのだ!
その後は、その嫌な出来事が、急流に流されてゴロンゴロンと流されていく石のように、日々次第に遠ざかっていくのを不思議な気持ちで感じていた。
「時間が流れていることを、ちゃんと感じられたのですよ」
そのことに気がついたのは、喧嘩した日からさらに一週間経った、仕事帰りの電車の中だった。
あたくしは喜びのあまり落涙をした。
 
それからもう一つ、先生には伝えたいことがあった。
「あのですね、実は、ボルダリング、夫も乗り気なんですよ。
 これまで、ハイキングに連れ出したり、一緒に走ろうと誘った時も、ただ辛そうにしたいたのに、ボルダリングは楽しいんですって。
 ボルダリングが夫婦初の共通言語になりそうです」
 
先日の知人との口論では、こんなやり取りもあったんだ。
「なんだよ、夫とうまくいってないとか、離婚した俺からしたら“ノロケ”なんだよ!」
「そんなこと言ったら、あんたの子どもの話だって“ただの親バカ”でしょう?」
あたくしは、人の悩みってえのは相手への共感がなければ、自分の視点からしか見れないもんなんだと力説したんだっけ(「あんたの言っていることは難しすぎる」と却下されたんだけど…泣)。
 
でも、ボルダリングの件なら“ノロケ”と言われても否定はしないだろう。
これは自分でも嬉しいし、他人からも羨ましいと思ってもらいたい出来事なのだから。

800% slower!

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その日のカウンセリングで、あたくしは開口一番、
「仕事に追われるあまり、自分は職場の空気中に拡散しそうです!」
と訴えたのだ。
この「空気中に拡散しそう」っていうのは、自分にとっては非常に的確でリアルな表現。
何だか自分がいなくなっちゃいそう!

「ちゃんと、リラックスできてる?
 休日は写真撮ったり、レトロなカメラを弄ったりしてる?」
と、カウンセラーはあたくしの慣れない労働の日々を気遣ってくれた。

「ちゃんとお休みの日はお友達と会ったり、
 夫とお散歩行ったりしているから、多分、大丈夫」
「ふうん、お散歩中はどんな話するの?」
「あのお家、可愛いね、とか、川にクラゲが浮いているね、とか、
 そんな、当たり障りのない話」

カウンセリング中の他愛もない会話。
でも、どこかに自覚しきれない地雷が埋まっていたらしい。
「…だってさぁ、夫は仕事の話なんか聞いてくれないもの!」
あたくしは次第に愚痴り出した。
 
「わたしはもっと深い話をしたい!
 だけど実際は、当たり障りのない話しかできない!
 文句言うならお金あげるから働くの辞めて?って言う人ですよ!
 唯一のコメントが、
 “その歳で新しい業種にチャレンジするなんて偉いよね〜”ですよ?」
「あれ、それ嫌かな?」
「嫌ですよ! そんな上から目線!」
 
 
 
何でこんなに怒るかな? 自分。
「だけど、今はいいんです。
 親身になって無理するな、と言ってくれる友人がいますから!」
いいんです、って言いながら、あたくしは全然良さそうじゃないのである。

「まるで他人行儀! 夫婦じゃないみたい!」
「あなたのいう夫婦ってどんななのよ?」
「わたしはもっと、心身の距離の近さを求めてるんです」
 
ハグしたり、他の人には言わないことようなことも話したりね。
だけど、夫は心の距離だけでなく身体的な距離も保たないとダメな人だから。

夫は、うたた寝してるところを起こそうと、肩にちょっと手で触れただけで、「ひゃあ〜!」と驚愕して飛び起きる人なんである。

「あなたの旦那さんは、そういう人なんだよ?」
カウンセラーには何度か説得されたけれど、まだ自分の親の時の様には、夫のことを受け入れられない。
「2人しかいない部屋で、妻が触れているのに…」と、あたくしはその都度傷つく。
あたくしの心の中には、この世のどこにも存在しない、幻の理想の夫が居座っているのだ。

夫はよく、これ見よがしに「あぁ、シンドイ」「死にたい」と言うが、では「お聞きしましょうか?」と水を向けても「“死んでも”話したくない」と決して核心に触れさせようとしない。
あたくしから見ると、夫は助けを求めているように見えるのだけれど、いつも「助けは無用」と言い放つのだ。
寂しい。無茶苦茶寂しい。
 
 
 
自分には罪悪感があると、先生に告白する。

夫の鬱に気付くことが出来なかったこと。
自分の間抜けさとか、気付きの足りなさとか。
“私って、そんなに信頼されてないのかな?  打ち明けづらいのかな?”と、落ち込んだこと。

「…あのさぁ、
 何でも自分のせいにするのやめてくんない?」

愚痴るのにヒートアップしてしまい、ハッと我に帰ると、先生の顔が不満気にムクれてる。
そうでした、自分をダメダメと言うのは、先生が1番嫌がることだよね…

「あなたさぁ、ここでもこんな感じだし、全然、話しづらい雰囲気とかじゃないから!」
こんな感じって、どんな感じなのよ?(笑)と思いつつ、あたくしは先生の愛情を素直に受けることにした。

「どんな時も自分が感じていることを大切にして。
 たとえ“これは私の本意じゃないのにな”と、思うことでも、
 仕事としてやらなきゃいけないこともあるけど、
 自分の信念と違うことやるの辛いけど、
 絶対に自分の感じたことは大切にしてね。
 そうしたら、あなたはいなくなったりしないから」
 
いつしかお話は、夫への愚痴から、ちゃんとあたくしのお仕事に戻っていた。
 
最近、朝の通勤電車で、YouTubeの“800% slower”というのを聞いている。
それは、いろんな曲…クラシックやビートルズ宇多田ヒカルや、ありとあらゆる曲を、8倍ユックリと流している音源なのだ。
それらはすでに原曲を留めず、不思議なノイズとかチベット仏教の念仏みたいになっちゃってる(笑)。
これを聞きながら、軽く目をつぶり、漠然とした不安をなだめながら、あたくしは職場に向かう。
 
焦るな焦るな、ユックリ行け。
自分がいなくならないように。
そうして、あたくしが出会う全ての人を、ありのまま冷静に見られるように。

心の中にもリアルな世界にも、いるよ?

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先々週から働いているのだった。
カウンセラーではないけれど、とりあえず相談に乗ったり励ましたりする役割を行う仕事に就いたのだ。
とはいえ、まだ、何にもできないので、人の顔と名前を覚えるよう努力し、与えられた雑務を必死こなしている。

正直言って、2年ぶりの就労は、ごっついヘヴィである。
緊張しまくり、週末になったら、やっぱりアルプラゾラムの力を借りてしまった。
情けない話だけれど、カウンセリングに通っていなければ、入社一週間で果てたかもしれない。
そうなったら、最短記録を作るところだった(笑)。

今回心掛けているのは、「仕事を持ち帰らない」こと。
退社するときは、何もかも全部ロッカーにぶち込んで帰る。
通勤電車の中では1ミリたりとも仕事のことを考えないように心掛ける。
分からなかったこと、出来なかったことを、家で反芻しない。

「それはいいね」とカウンセラーの先生は激しく同意し、アドバイスをくれた。
「自分の時間まで仕事に使ってしまわないように気を付けてね」

 
 
そう、病を得るまで、あたくしは仕事大好き人間だったのである。
そもそも仕事と遊びの区別が付いていなかった。
かつてのあたくしは、残業も徹夜も文化祭の前夜みたいに楽しかったのだ。
それは遥か昔の事だけど、今思えば、それも充分ビョーキだな。
あたくしは、そんなビョーキ状態にずっと戻りたかったんである。
 
それから、病気の再発を繰り返してからは、行く先々の職場で何とか役に立つ人間であろうと努めた。
自分のウィークポイントのことはひた隠しにして、ソツのない人間であろうと心掛けた。
そうして、自分がどういう人間なのか、何を感じているのかドンドン分からなくなってしまったのだ。

「これからはさ、自分の健康のことだけ考えて働くといいよ。
 人の期待に応えようとか考えなくていいんだよ?」
 
先生の言う通り、そうできたらどんなに良いだろう。
しかし、今度のお仕事は人間相手だから、その辺、ちと厄介とは思うが。

「ぼくもさぁ、休みの日とかにあなたのこと思い出すことあるんだよね」
えっ、ホント?
「だけど、そういうときはすぐ止めて、後でまとめて考えるんだよ」
それが大切なのだと、先生は言った。
自分の為の時間と、人の為に働く時間をキッチリ分ける。
気持ちの切り替えが、心の健康を守ってくれるのだと。
 
 
 
その日のカウンセリングは、あたくしがのっけから「励ましてください」とオーダーしたので、先生は全力で鼓舞してくれたのであった。
でも、いくら持ち上げてくれても、自分の反応はイマイチ不安気なのである。
正直、いつまで仕事が続けられるか自信がない、と打ち明けた。 
 
「あのさぁ、聞いているとさぁ、心配する必要なんてないのに、ワザワザ心配しているように見えるんだけど!」
先生は明らかに焦れた口ぶりで言った。
「何が心配事なのよ? 大丈夫でしょ? もう一回心の中のおじいちゃんを思い出して?」
そうですね、そうですね、と言いながらも、あたくしはどこか歯切れが悪いのだ。
 
「あの、あのですね、お願いがあって」
思い切って、あたくしは言う。
「安全基地の中に、先生にもまだ居てもらっていいでしょうか?」
失敗しても絶対に失望したり怒ったり愛の返上をしない存在…すなわち母性の象徴である母方の“おじいちゃん”の他にも、あたくしには必要な人がいるのだ。
 
「自分に危害を加える人に会った時、守ってくれたり、一緒に怒ったりくれる存在が必要で…」
あたくしが求めてるのはそんな父性の象徴なんである。
先生は、パッと見、全然強そうに見えないけれど(笑)、怒ったらそれなりに怖そうだし。
 
そんな風にお願いしながら、いや、よく考えたら、これはあたくしの妄想なのだから、許可なんか取らずに勝手に安全基地に架空の先生を置けば良いのだろうに…ともボンヤリ思う。
「この歳になってお恥ずかしいのですが…それを、先生にお願いしたくて」
 
この部屋で、自分の魂は小学生くらいの女の子になってしまってる。
「怖くて、怖くて」と、ピィピィ泣いている。
 
 
 
「歳なんか関係ないよ?」と先生は言ってくれた。
「もちろんそうしてくれていいし、現実のボクもあなたを守るし、一緒に怒るから」
 
こんなの、言葉遊びかもしれないけれど、あたくしはそれを聞いてやっと安心したのだった。
現実に今の職場に嫌な人がいる訳ではないのだ。
 
だけれども、いつか誰かに傷つけられるのではないかと、漠然とした不安に苛まれていたのだ。
そうして、そうなったら、たった一人でそれに耐えなくてはいけないのだと、恐れていたのだ。
 
「そうじゃないでしょ? 今のあなたは一人じゃないでしょ?」
先生、それは知っているよ。
今の自分には良い友達もいて、何かあれば、きっと共感してくれるし助けてくれる。
 
でも何かもっと確実な安心感を求めて、あたくしは先生に助けを求めたのだ。
無理矢理に「助けますよ」と言わせたのだ。
 
「リラックスしてよ〜! そうじゃないと、あなたらしさが出ない」
先生は嘆いた。
 
助けを求められるようになった自分に、少しは自信を持たなくてはいけないよね?

先生はいつ気付いたんだろう?

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あたくしがカウンセリングを受けるにあたって執着したのは、10年前の事件の被害体験である。
自分は、その時間の体験を処理すれば、再び元気になって以前の“わたし”に戻れるのだと思い込んでいた。
ん〜そうじゃないな、と気付いたのは極く最近のことだ。
だって、事件の記憶に触れないままに、事件のことは平気になってしまったのだもの。
それなのに、予期不安は、消えないのだもの。
 
事件に関しては、今は、静かで正当と思える怒りだけが残り、あれだけ苦しめた恥や後ろめたい気持ちは、薄っすらと傷跡のように残るのみとなった。
 
カウンセリングの練習は、最初はひたすら相手の話に集中して共感のサインを出しまくるだけで及第点がいただけるが、次第にそれプラスαを求められる。
クライエントが訴えていることを真摯に聞くと同時に、未だ言葉に表現されていない真意を読み取りなさい、と指導される。
とはいえ、本当に問題とするところに本人も気が付いてないことが往々にしてあるのだ。
 
自分の場合で言うと、
主訴…ストーカー事件のトラウマから来る、制御できない恐怖心と怒りを低減させたい
問題…イザという時に守ってもらえなかった孤独感、恐怖心、怒りを解決したい
となるのだろう。
 
 
カウンセリングを進めるうちに、ストーカー事件への執着はどんどん消えていった。
許したというのとは違う。虚しいので考えたくもない、というのが近いのかな?
それよりも、何で助けてくれなかったんだ! という親への怒りが煮えたぎるようになった。
しかし、その親はどこにもいない理想の親であり、それすら正確な理由ではないのだろうな。
 
トラウマ本をそれこそ何冊も読んだのだけれど、ある本に書いてあったのは…トラウマの本質は、本人には分からないそうだ。それゆえにトラウマなんだそうだ。
 
この自分の漠然とした不安、失敗したら取り返しが付かない、だから完璧を目指さなきゃ、だって誰も助けてくれなのだから…頭では現実にそぐわないと分かっている、きっと今なら助けてくれる人がいるだろうと知っている…だけど、そうした悲観的な考えを払拭できないのには、何か理由があるんだろう。
そうして、何がこんなに自分をこじらかせたのか、具体的な理由などは分からないのだ。
きっと、この先もそれが何のせいなのか分からないんだろう。
 
 
 
ここ最近、ずうっと愛着関係の本を読んでいる。
学生時代に心理学を学んでいた時は、このトピックは大嫌いだった。
「育児が下手な親に育てられた子供は、取り返しの付かないことになる」と書いてあるようで、怖かった。
 
ところが、どの分野においてもこの30年で飛躍的に進化したけれど、心理学においても随分研究が進んだ。
素晴らしき、脳の可塑性の解明である。
親から理想的な愛着を得られなくても、親戚、年上の兄弟、教師、上司、恋人、伴侶がその役割をして愛着を育ててくれると。はたまた、自分の子供が欠けたものを埋めてくれると。
そうして、自分のようにイマイチそういうのに恵まれなかった場合も、心理療法リカバリーできると。
 
これは、自分にとってはちょっとした希望なのだ。
どうやら、少し時間は掛かるようなのだけれど。
 
 
 
実は、来週から、働き始めるのだ。
2年振りの通勤電車で、とても緊張しているらしい。
自分のことなのに、“らしい”というのも変だけれども、あたくしは自分の気持ちに対して鈍いところがあり、そうとしか言えない。
ただ、具合が悪いから、ソワソワしているから、緊張しているんだろうな、と予測しているのだ。
 
カウンセリングを受ける際には、最初に到達したい目標を立てたりすると思うのだけれど、自分の場合のそれは「トラウマの恐怖を解消して、再び働けるようになりたい」だった。
お陰様で、予定より数ヶ月余分に掛かったけれども、電車に乗っても「バッタリ犯人に遭うんじゃないか」といった恐怖心も無くなったし、働き出して続けられなかったら打ちのめされるからいっそ引き籠っていたい…という変な思考も無くなった。
 
クリニックの先生もカウンセラーも「もし、すぐに辞めることになっても、あなたの価値とは何の関係もないんだよ」と言ってくれている。
そうして、その通りにすぐに辞めることになっちゃったとしても、多分…大丈夫と今は思えてる(笑)。
 
だって、おんもに出るの楽しいじゃん?
仮に怒るにしたって、今までと全く違うことで怒るんだろう。
未体験ゾーンの喜びも見出せるかもしれない。
緊張しているけれど、期待していることもあるのですよ。
 
それにしても、カウンセラーの先生は、いつ自分の真の問題がストーカー事件じゃないって気が付いたんだろうか。
「失敗しても安全な場所があることを知っていれば、大抵のことは乗り越えられるんだよ?」って、どうやってあたくしに教えられたんでしょう?
そんな未来の話には、一言も触れていなかったのにね。
 

 

Essential HIDEKI-30th Anniversary 30 Songs-

Essential HIDEKI-30th Anniversary 30 Songs-

 
※本題には関係ないのだけれど、今日は西城秀樹の訃報で、ヒデキ三昧な1日になっているのです。
『ブルースカイブルー』のラストの“青空よ心を伝えてよ、悲しみは余りにも大きい”
の部分は、涙腺全開なんである。
ありがとうヒデキ。小学生の頃から大好き。
 
ベスト盤は三枚も持っていて、かなりご執心なのであります。
その中でもよくまとまっていると思える一枚。

ありのままを、見たい。

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今回のカウンセリングは、ちょっと前に帰省した時の出来事がテーマとなった。
 
手術後の足の回復具合が思わしくないと嘆く母の様子見に訪れたのだ。
母は、昨年の秋に手術した足の骨が、半年以上経ってもくっつかないと訴える。
確かに正月に会った時も両手の松葉杖で不自由そうだったので、それなりに心配していたのだった。
 
しかし今回、実際に会ってみると、ことのほか元気そう。
娘に会えた喜びからか、母は時に松葉杖を忘れて歩き回り、いそいそともてなしてくれる。
「足、元気じゃん…」とあたくしが言うと。
母は「本当にお前が来る前は痛くて歩けなかったんだよ?」と言う。
 
数日経ち、母の足は“本当に大丈夫そう”とホッとしたら、その反動か、その後のあたくしは怒ってばかりいた。
つまり、もう親への感情は整理し尽くしたと思い込んでいたら、もちろんそんなことはなく、いろいろな未消化な想いが沸き起こり、それが怒りとなって現れたのだ。
 
そんな不安定なあたくしを見て、母は「可哀想ね」と言った。
「すごく昔のことなのに今も悩んでて、可哀想。
 それがカウンセリングに行ったら、少しは楽になるんでしょう?」
その言葉が何だかとても冷たく感じられ、あたくしは更に怒ったのだった。
 
「ああ、楽になるさ! 早く次のカウンセリングに行きた〜い!」
あたくしは小学生のように、そう喚いたのだった。
 
 
 
あたくしは、滞在中、何だか意味もなく辛くて、夢の中にまでカウンセラーが出てくる始末だった。
それが、カウンセラーからの電話でカウンセリングをキャンセルされる…とか、ことごとく残念な内容なのだった。
 
「今日は、この怒りを処理したいのです」とあたくしはカウンセラーにお願いした。
先生は「何の怒りですか?」と問うた。
「もっと理解してもらいたい、もっと興味を持ってもらいたい、もっと尊重されたい…それが叶わない怒りです」
その怒りが大きすぎて、飲み込まれてしまうと、自分はすっかり正気を失ってしまう。それは、非常に良くないと思う。
 
「滞在中に自分は、不必要に何度も親を傷つけたのですよ」とあたくしは告白した。
「オロオロする母に、何度も何度も“娘のことが分からないのは、あなたの限界だからしょうがない!”と言ったのです」
そんなことを言うくらいなら、会いに帰らなければ良かったと後悔した。
 
でも、心の嵐に翻弄されながらも、分かったことがあるのだ。
「そういう、イマイチ自分のことを分かってくれない母親が、
 自分の本当の母親なんですよね?
 どこにもいない理想の母親と比べて、
 わたしが勝手に怒ってるだけなんですよね?」
あたくしが怒りを蒸し返して喋りまくっている様子を面白そうに眺めていた先生は、「そうだよ」と言った。
 
「そうして、自分にとっての先生は、極めて完璧に近い人ですけど、本当はそんなことないですよね?」
先生は「そうだね、僕は完璧からは程遠い人間だよ」と、笑いながら言った。
 
「あぁ、だから…」
今日の自分の言葉は、心からの叫びだ。
「その人のありのままを、見れるようになりたいんです」
 
ありのままを見る…というのは、最近流行りのマインドフルネスだな(笑)などと考えた。
こうあるはずだ、こうあって欲しい、というフィルターを外して人を見ることができたなら、自分はどれだけ無用な失望から解放されて楽になるだろう。
それだけだ。
楽になりたい。
もうファンタジーの世界から抜け出したい!
 
 
 
「じゃあ、無条件に受け入れてくれた人の体験を思い出してみて?」と先生が言った。
あ、先生、それ、前にやったやつではないですか?
「母方のおじいちゃん…」
「そうそう、それそれ、思い出して!」
してもらえなかった怒りではなく、してもらったときの充足感を思い出す。
そうして怒りでいっぱいの自分を癒してあげる。
「人は、良いことは忘れちゃって、悪いことばかり思い出す…何故かなぁ?」と先生が言う。
 
おじいちゃんにまつわる記憶というのは、ほとんどが3〜5歳のものだから、記憶の映像サンプルが限られる。
「あのう、資料に限りがあるんですけれど、繰り返し再生で良いのでしょうか?」
「いやいや、だんだん細かい部分まで思い出すよ。リアルであるほど良いんだ」
そうして、ディテールを思い出すように誘導される。
おじいちゃんはどんな人だった? どんな姿が思い浮かぶ?
縁側のサボテン、煙管、熱燗と鮪の刺身…あたくしはいろんなことを思い出した。
 
そうして先生は、今、あたくしの身体はどんな感じなのか聞いてきた。
「どんな…って、軽いです。身体を圧迫する鎧のようなものもない」
「それが、本来のあなたの感覚なんだよ?」
 
そんなやり取りを通じて、おじいちゃんのどんなところが自分に安心感を与えてくれたのか、再びしみじみと考えたのだった。
何も期待されないのって、そのままを受け入れられるって、優しいなあって。
 
「きっと、おじいちゃんがあなたにとっての母性の象徴なんだよ」
と、先生は妙なことを言った。
なるほど、あたくしの心の中のママ的な人はおじいちゃんなんだわ。
なんとややこしいことだろう。
そうして、申し訳ないけれど、先生はもう少しだけ理想のパパ役を演じててください、お願い。
 
 
 
大好きな大貫妙子の曲、『愛は幻』の歌詞にこんな一節がある。
“あなたの窓へ届く私は幻”
 
お母さんが見てる“幻のあたくし”と、あたくしが見ている“幻の母親”。
 
あたくしがギャンギャン泣き喚く自分の痛みを持て余しているように、母もあたくしを持て余している。
「“おまえの言ってることが難しくって分からない”って言うのだからしょうがないよね…?」
先生はあたくしのことを「お喋り上手」って褒めてくれたけれど、それは、あらゆる語彙を使って自分を表現し、親に理解されたかったからなんだよ。
「でも、もう諦めようと思うんです。言葉が通じないんじゃ、しょうがない」
 
「いやいや。言葉が通じなくてもね、こうして、ただ抱きかかえてあげるだけでいい」
先生はそう言って、そっと自分のお腹に手を当てて見せた。
それは、あたくしの中で泣き叫ぶ存在のあやし方のことだ。
そうしてそれは、かつての自分が扱ってもらいたかったやり方なんだ。