心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

その気持ちは海に置いてきました。

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今、約2年振りくらいに実家に滞在している。

以前 『あの日、助けてくれなかった親。』 に書いた通り、あたくしには、ストーカー被害に遭った時に生じた、親に対するわだかまりの気持ちが存在する。
だから、そのことを考えると若干、帰省は気が重かった。まあ、若干だけどね。
両親が今回のことをとても楽しみにしてくれているは分かっているし、会うならできる限り楽しく平和に過ごしたい。
 
直前のカウンセリングの最中、その「帰省が不安」という話になった。
その時にフォーカシングという心理療法を受けて、とても不思議な体験をしたので、書き残しておこうと思う。
 

フォーカシングで感情を体感として捉える

カウンセラーの先生は「その時の気持ちはどんな感じでしょう?」と問うてきた。
フォーカシングで「どんな感じ」とは、心の…感情の詳細ではなくて、身体の中…胸やお腹の感じを聞かれているのだった。
 
「え〜とですね」
すると、胸の中に麺棒のような太さの棒があるのが感じられた。
「お腹から喉の上にかけて、縦に麺棒みたいな棒状の塊がありますね。口を開けて覗くと、先の方が見えるかもしれない。でも、手を突っ込んでも届かない感じ」
と、あたくしは先生に状況説明した。
 
棒状のものが云々…というのは、あくまでも個人的にそんな風に感じられる…イメージ上の話なのだけど、そのリアルな異物感に少し驚いた。その材質が金属などではなく、木のような少し温かみのある素材で、白木のような色であることまで想像できる。イメージの世界で、あたくしのわだかまり感が物質化したのである。
 

フォーカシング的に感情の処理をする

続けて先生が「そのまま眺めていたら、どうなりますか?」と聞いてきた。
 
「???」
そうしたら、そのイメージの棒は、ゆっくりと喉の上の方に上がって来るようだった。
口の中に酸っぱいものが広がって、軽く吐き気を覚えた。
「ありゃ、ちょっと気…気持ち悪いかも…」
本当に少しオエオエしてきた。
「先生、口から出て来ちゃうかもしれませんっ!」
 
リアルに苦しんでいるあたくしの様子を察して、先生が「大丈夫、落ち着いて!」力強い口調で声をかけてくれた。
そうすると、イメージの世界に行っちゃっていた自分は、一瞬にして現実の世界に引き戻された。
「あああ、先生、ビックリしました」
 
「じゃあ、その気持ちをどこか別の所に置いときましょうか?」と、先生が提案してきた。
「どこって?」
「それは、どこでもいい。イメージの話ですから海でも山でも」
 
そうしたら、海は悪くないかな?と思った。
 
わたしは、その気持ち…麺棒みたいなあたくしのわだかまりの気持ちを置いてみた。
バリ島とかの(行ったことないけど)誰もいない海の、波打ち際の白い砂浜にサクっと棒を立ててみたのだ。
 
そうすると何となく、棒は「ホッ」としているような感じになった。
理由はどうであれ、わだかまりの気持ちなんてうっとおしいものだろうから、仮置きできる場所が出来て気が楽になったのだろう。
 
何だか、よい帰省ができそうな気がして、先生に感謝の気持ちを伝えた。
 
それから、自宅に帰ってからも、素晴らしい南の島の砂浜に刺さっているあたくしの「わだかまりの気持ち」を思い返してみた。
 
「気がついたら、その棒はなくなっているかもしれませんよ」と先生は言っていた。
ああ、そうなんだ。そうなればいいな、とあたくしは思った。
 
全てイメージの世界のことなのに、こんな風に変化が起こるなんて面白いなあ…。そして、自分の心の中に温かい海が存在することに始めて気が付いたのだった。
 
自分の行動や考えを変えるには、認知行動療法などで自分に説得を試みるのが一番手っ取り早いだろうと思い込んでいたので、こうしたイメージワークでサラリと自分の感じ方が変化してしまうのは、何だか新鮮な体験だった。
 
こういうのがスピリチュアル本などでもよく言われる「手放す」ということなのだろうか?
とにかく、わだかまりがなくなった自分は、訳もなく優しく穏やかな気持ちで、自分でも好ましく思えた。
 
 
…そうして、気持ち良く帰省したあたくしなので・す・が!
実家に預けて置いた蔵書の一部が箱単位で消えていることが判明し、早3日目にして大激怒(笑)。
トホホなのだけど、親との喧嘩も最後かもしれないと思ったら、少し鼻の奥がツンとしたり。
 
※出来事は脚色ナシですが、プライバシーに関わる詳細は省いてます。

20歳も年下の女の子に「愛している」と言った話。

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遠くに住んでいる友達から久々にメールが来た。「急遽、手術をすることになった」という内容だった。
 
以前、思うところあり、2年ほど専門学校に通ったことがある。彼女はそこで出会った。
その子は当時20代前半だったのだけど、小ちゃくって中学生にしか見えない。化学系の学校なのに計算が壊滅的に苦手でゼロが連なるとパニックになるタイプだった(計算は関数電卓で行うのだが)。
 
高校を卒業してからその歳まで、学校に通ったことも働いたこともなかったそうだ。
 
あたくしは勝手に、そして安易に「ああ、イジメに遭ったのかな?」と思っていた。
 
そうだったら、あたくしもイジメは転校した時に体験したし、優しくしたいな、と思った。おばさんとして、世の中はそんなに悪くないことを伝えたかったし、自分が楽しそうにすれば「長生きも悪くない」と思ってもらえるんじゃないかと思ってた。
 
卒業間近になって、そんなあたくしの思いは妄想に過ぎなかったと知って愕然とする。
 
彼女は脳腫瘍と闘っていたのだ。
 
彼女の病気は高校生の時に見つかったそうだ。それまでは、クラス委員をしたり、時には友達と大喧嘩する、ごく普通の活動的な女の子だったらしい。腫瘍は頭の中の深い所にあるから、とりあえずは様子を見ていくしかないということだった。専門学校に通う間も、急に頭が痛くなったり具合が悪くなったりしていたけれど、悟られないようにずっと隠していたのだと打ち明けてくれた。
 
不思議な縁で、あたくしはその子と友達になった。卒業してからは手紙のやり取りを続けた。
 
病気になってからの10年間、紆余曲折のあたくしの人生を見守ってくれたのは、なにを隠そう、彼女なのだ。
その子は、どんな時にも「わたしはそんなあなたが大好き」と言ってくれるのだった。
あたくしが何回も病気でダウンして仕事を辞めちゃっても、機嫌が悪くて邪険な対応をしても、決してあたくしに「ダメ」というレッテルを貼らないのだった。
少し驚いた。これこそ何かの才能だと思った(笑)。
助けるつもりが助けれらていたんだなあ、とつくづく思ったのは、恥ずかしながらごく最近のことだ。
 
2年前だか半年以上音信が途切れて、その間入院していたことを知った。
脳腫瘍が少し育ってしまい、放射線治療をしたのだそうだ。
手紙の中に折り紙が入っていたのだけど、鈍いあたくしには彼女の無邪気な遊び心にしか思えなかった。
 
再会した時の彼女は、長時間座っているのが辛いと言い、後遺症で手に力が入らないので、トイレのドアを開けて欲しいと言っていた。
 
そうして、早く元に戻るといいね、元気になったら東京に招待するから、一緒にディズニーランドにでも行こうよ、とあたくしは言った。
彼女は人混みは苦手…と言っていたのだけど。
 
そんな経緯があるのだから、手術は苦渋の決断だと思う。
 
放射線治療の後は、メールを打ったり手紙を書くのに時間がかかるようになったので、電話で話すことが増えた。
以前、彼女に「スマホにしなよ。LINEだったら通話料かからないんだよ?」と薦めていたのだけど、結局彼女はネットもスマホもやらなかった。
余計なことを知ってしまうのが怖いようなことを言っていた。そうだよね、ネットで検索するといろんなことが分かってしまう。
 
手術のたった三日前に突然連絡してきて、手術というのはどんなに最善を尽くしても、後遺症が出ることもある、それは言語や視覚の障害かもしれないし、半身全部が不自由になるかもしれない…。
 
「それでもお友達でいてくれますか?」と彼女は言った。
 
こういう時、何の根拠もなく「あなたなら大丈夫」みたいに励ますのはNGだとカウンセリングの講習では言われている。
「大変だね」も上から目線で、こっちの評価を押し付けている言葉なのでNG。
それは、知っている。そもそも相手はあたくしの気持ちを聞いている! じゃあ、どう言えばいいのか?
 
途端に出た言葉に、自分で仰天した。最近は自分に仰天してばかり。
 
「愛してる」
「愛し続けるから安心して」
 
「夫にも、歴代の彼氏にも一度たりとも「愛してる」と言ったことがないけど、あなたには言うよ?」
 
これは本当だ。たしかにこんな大切な言葉を、今まで誰にも言ったことがなかったのだ。
 
「愛してる」という言葉が持つ、少し押し付けがましいところや重さに、自分はずっと抵抗感があり苦手だった。
子どもにも縁がなかったので、この言葉にふさわしい気持ちが自分に訪れることはないとも思い込んでいた。
 
でも、この10年分の彼女の友情と等価交換できる言葉って、これしか思いつかなかった。
まさか、20歳も年下の女の子に言うことになるとは …。
 
状況的に変かもしれないけど、「愛している」という時、あたくしは不思議な幸福感に包まれた。
ずっと探し求めていたものが、まったく違う形だけど、ずっと自分の側にあったことに気付いた幸福感。
自分を無批判で全て受容してくれて、同じ気持ちを自分にも無邪気に求めてくれる存在。
世界は、なんて変なタイミングでこんな大切な気持ちに気づかせてくれるんだろう。
 
愛の告白に彼女はとても満足してくれて、あたくしも安心した。これが少しでも彼女の勇気を支えてくれたらと願った。
少しでも、怖い、不安な気持ちから救われただろうか?
 
「愛している」「ずっと一緒にいようね」という言葉の儚さは、半世紀近く生きていると何度も体験してるのだけど、だからこそ大切にしたい。
 
 
誰かに聞いてもらいたいけど、FBとかで披露してシェアしてくれというのとは違う、なんだか忘れたくなくて書き残した次第。

天才型な気功の先生に欠けていたもの。

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不安障害のせいか常に緊張のために身体はカチカチで、時々マッサージに行っている。

すると馴染みのマッサージ師から「膝のお皿が歪んでいる」と言われる。

 
気功の立ち方で、バレリーナの基本の立ち方「第3ポジション」みたいなのがある。かかとをちょっと重ねて、出来うる限り180度に開いて立つ。かなり無理のある格好なのだが、これを40分間以上行うのが今のあたくしのミッションなのだ。
その気功の効果はさておき、やはり痛い痛いと思っていたら、身体に無理をさせているらしい。本末転倒だ。
 
マッサージ師も別流派の気功をしているそうで、「そのポーズをする時は、骨盤の位置をこうやって…」と楽に立っていられるコツを教えてくれた。
気功の先生からは「足に気を通しながらやれば、痛くならない!」と気功的な指導しか受けてなかったので、立ち方の工夫で痛くならないと知ってビックリした(笑)。
やはり、気合とか根性じゃなくて技術か…。
 
あたくしの気功の先生は超感性優位というか、天才型というか、細かな技術指導はしてくれない。はっきり言って「教えるのは上手くない」とも言える。その辺りを通りすがりのマッサージ師が教えてくれるのも変な感じだ。
 

でもあたくしの気功の先生はスゴイらしい

気功を始めたきっかけは「ストレスに強くなるため」と以前書いたような気がするが、その他にも「不思議なものが見れるかも」という好奇心があるし、当初は、病気がたちまち治ったらいいな、とかいう愚かな欲があった。
 
とはいえ、あたくし自身は才能があまりないらしく、2年以上気功を続けてもサッパリで、手が多少ピリピリするのがせいぜいだ。不思議な世界とも病気退散とも無縁で、つくづく凡人だと思う(風邪は引きにくくなりました)。
 
しかし、生徒さんの中にはとものすごく感受性が良い人がいて「先生の気はすごいよ!」と言う。
どんな風にすごいのかというと… 熟練した看護婦さんのする注射のように、優しく気を注入し、気付いたら終わっているそうだ。
気のパワーなんて、何だかドーンと来るものだと思い込んでいたから、その表現は少し意外だった。
別の表現だと「ものすごく物腰の柔らかな人が、ス〜っと自分の家に入ってきて、また静かにお邪魔するような感じ」と言っていた。
とにかく、ドーン! バーン! みたいなのは、先生の流派からすると、“雑”らしい。
 

あたくしが気功治療を体験した時のこと

これに興味を持ち、気功の先生から気功治療なるものを受けてみたことがある。
最初は問診的なことを行う。どこが悪いとか、治したいとか。その時の悩みとか…
 
当時のあたくしは、4回目のパニック症状再発の直後でかなり凹んでおり、軽く鬱状態だった。
「働く意味が分からない」
「昔は楽しくできたことが、今は何もかも辛い」
「かつての自分に戻りたい」
といったことを涙まじりに話したように記憶している。
 
ところが、それに対する先生(気功師)からのアドバイスに、思わず涙が引っ込んだ。
「温泉に1週間くらい行きユックリしたらどうでしょう」
「不動産投資でもして、働かなくても生きて行く道を模索したらどう?」
 
確かに、質問の答えとしてはアリかもしれないけど…めちゃくちゃ「普通」やん(笑)! 
 
いつも教室で話しているような、「宇宙のパワー」とか、老子の「道(タオ)」の話は全然ないの? あれ〜〜〜? と思っているうちに、気を入れて(いるらしい)…で、お終い。
 
気の感覚が鈍い人は気を注入されても何も感じないそうだから、あたくしがその時に何も感じなかったとしても、それは先生の技量とは何の関係もないらしい(笑)。
 
非常にモヤっとした気持ちになり、以降、気功治療のリピーターになることはなかった。
 
今思えば…先生、傾聴が「いまひとつ」だったんだわ(笑)。
 

それでも先生は尊敬してます

しかし、あたくしは今でも懲りずに先生は本物の気功師だと思っている。
それどころか、ワザと話術を磨かず、あえてのお喋り下手を維持している、というのがあたくしのヨミだ(笑)。
 
なぜなら、先生にとっては自らの力を強力にするための修行が一番大事。
その時間を割いてまで、先生がセールストークなんぞを磨くとは思えない。それに先生の喋くりだけで満足感を覚えるような人が増えてしまうと、本当に先生の気のパワーの力を必要としている人が困るだろう。
 
凡庸な自称気功師こそ、技術不足をカバーするために、喋くり上手を目指し、「人を操る心理学」なんぞを勉強し、陽性転移を起こさせようとするに違いない(笑)。
 
 
…そんなことばかり考えているから、あたくしはいつまで経っても気功の上達がおぼつかないのだ。
しかも気功療法よりカウンセリングの方が気が楽になるくらいだから、多分あたくしはそういう人なんだろう。
 
そういえば、熟練したカウンセラーも、そっと心の中に入ってきて、静かに出て行く感じがするな。気功もカウンセリングも、同じなんだな。
  
気功革命―癒す力を呼び覚ます

気功革命―癒す力を呼び覚ます

 
※何か気功の本を紹介しようと思ったけど、気功は水泳などと同様、本で学べる技術ではないのもあり、ほとんどマトモなものがない。ありがちなのは、一冊まるごと「末期ガンを治しました」的な気功の先生の自慢話だったりする本(笑)。その中で、取材して書かれたこの本は割とマシかな?

「敏感すぎる人」がいる。

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「敏感すぎる人」のことをHSP(Highly Sensitive Person)と呼ぶらしい。
 
あたくしには、全般性不安神経症という病名がついているので、現在のパニック症状や鬱状態 神経質や心配性は、病気から来るものだと認識している。
それでも、何か参考になるんじゃないかと思い『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』エレイン・N・アーロン著 を読んでみた。
 
本によれば、だいたい全体の15〜20%は「敏感すぎる人」だというのだから、本当なら結構存在するということだ。
たまに「自分は敏感です」と自ら主張する人がいるけれど、HSPは敏感すぎることをひたすら恥じ、生き辛さを抱えて生きているらしい。あたくしも、リアルな対人関係では、病気が理由だとしても「敏感すぎる人」だとはなかなか言い難いのでよく分かる。
 
とはいえ、この本の趣旨は「欠点を克服しよう」ではなく、大人なら、自分が自分を理解し、ケアし、育てられる人になりましょう、というスタンス。
そもそもHSPは、単純に普通の人よりも感受性の感度が良いだけで、「短所ではない」し「時には長所になりうる」と説くところが、この本の清々しいところかな。
 
「こんな人がHSP」といった定義や、「こんな育てられ方をしたHSPが生き辛さを感じる」みたいな発達心理学的アプローチもあるけれど、HSPを欠点とは捉えてないので、この手の本にありがちな「そうか、やっぱり育てられ方が悪かったんだ」「で、どうすればいいの?」という絶望的な読後感に包まれることはありません(笑)。
 

HSPの生き辛さの緩和にはセラピーがよいらしい

HSPに関する詳細はさておき、あたくしが興味を持ったのは、著者が有効な対処法として「セラピーを受けるべき」と勧めている部分。

著者自身がHSPの心理学者なので、セラピーを受ける側の立場から書いているところがよい。

どんな心理療法やセラピストを選んだらいいのか、セラピストにはどんな態度で臨んだらよいのかまで書いてある。「セラピストに好かれようとしてはいけない」とアドバイスし、転移現象が起こる可能性と、その「良い面」(治療を効果的にする)と「悪い面」(依存が生じる)双方について触れている。
 
日本には、敏感すぎるからといってカウンセリングまで受けようとする人は少ないのかもしれない。けれど、あたくしのように、これを病気と捉えてカウンセリング受け、失敗した経験があると、こうした著者の言葉はとてもありがたく感じる。
 
カウンセラーがクライアントをどのように扱うべきかの本はものすごくたくさんあるのに、クライアントがどのようにカウンセラーとお付き合いするべきかについて触れている本って、あたくしは見たことがない。
日本にだって、メンタル的な悩みから自身もカウンセリングを受けたことのある心理学者や臨床心理士はいるだろうに…頼むよ、日本のカウンセリング界!
 

HSP認知行動療法は根本的解決にならないらしい

セラピーと併せて、その周辺で、比較検討対象になるであろうアプローチに関しても書かれている。

認知行動療法に関しては、
“この療法にはそれほど「深み」も魅力もないが、かなり効果的なので試してみる価値があると思う”
“認知行動的アプローチはとても理性的なアプローチだが、「敏感な人というのは、ただ愚かしくて不合理なことを言っているだけだ」と秘かに思っている非HSPが開発した方法でもある”
などと、けなしているんだか勧めているんだか分からない書き方をしていて、笑えます。
自分自身が数々の認知行動療法のワークブックにイマイチ乗れなかった理由も、左脳的によく理解できました!
 

HSPにはスピリチュアルよりセラピーがよいでしょう

ご丁寧にスピリチュアル的アプローチに対しても触れている。心理学とスピリチュアルのゆるやかな繋がりをサラリと語るあたりは、アメリカの学者が書いた本らしいなあと感じました。

日本の学者が書いた心理学本ではまずこうした部分が触れられることはないから。日本のカウンセラーはおりこうさんなのか、まずスピリチュアルな話題には触れないし、そもそもそうしたトピックをあまり知らない人もいる。
 
でも本来はカウンセリングを受けた方がよい人が、スピリチュアルヒーリングに流れている現状は無視できない。自分が望まなくても人の弱みに付け込んで向こうからやってくるかもしれない。全くの主観だけど、カウンセラーの商売上のライバルは、カルトを含む数々のスピリチュアルなヒーリングだと思っている(料金もだいたい同じ)。そうしたライバルに関して、日本のカウンセラーはもう少し知っておいてもらいたい気がする。
 
なんとなく怪しいからダメ…なのではなく、著者のように「指導者に強い転移を起してしまっても、指導者はその転移から救い出し成長をさせるスキルを持ってない、転移を助長しようとする指導者さえいる」みたいに言ってくれると分かりやすい。転移の可能性を考えると(HSPは転移に陥りやすいそうだ)、たしかにカウンセラーの方がおおむねマシだろう。
 

敏感すぎるのを能力と考えると少し楽

あたくしは、元来はズボラで大雑把だったのに、病気で敏感体質になったクチなので、早く治そう、元どおりにしよう、と思い続けてきたのだけど、10年患ってしまうと、正直、身に馴染んでしまった部分もある。だからこの本を読んで、敏感力という「新しい能力が備わった」という考えもありなのかな? と、長年の「一生このままでは?」といった不安が若干和らいだのとともに、新しい視点が持つことができたのは良かった点。
 
しかし、恫喝でフリーズする性質は直したい。もしこれが克服できた暁には、敏感体質の方はどうなっちゃうのだろう? 消えるのか? そのままなのか? 自分としてはどうありたいのよ? …といろいろ考えさせていただきました。
 
図書館で借りた本なので、急いでこれから、返しに行きます!
 
ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 (SB文庫)

ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 (SB文庫)

 
※この本、ハードカバーの時はカワイイ装丁だったのに、文庫本になったとたん安っぽいハウツー本のようなカバーになってしまってガッカリ!なのだった

「もっと話を聞いて欲しい」というサイン

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カウンセリングの勉強では、クライアントのこんな反応は「もっと話を聞いて欲しい」っていう意味ですよ、っていう例を教わったりする。
当然、カウンセラーなら、こういうサインを素早く察知してクライアントの気持ちを受け止めなくてはいけないのですけど(それが仕事だしね)、自分の体験から判断するに、どうやらプロのカウンセラーでも、これがあまり上手くない人がいる。
 
カウンセラーはクライアント側のそうしたサインに気付いていないかもしれないし、気付いてはいるものの対処できていないのかもしれない。
ともかく、運悪くそういう未熟カウンセラーに当たってしまうことも現実的に、ある。
 
だから今日は、カウンセリングで何か違和感や停滞感を感じた時は、まずは自分で自分の会話パターンを振り返って、「あ〜自分、もっと真剣に話を聞いて欲しいって思ってるんだ」と自覚できると何かと便利です、って話です。
 

話を盛りがちになっている時

聞き手の反応が薄かったりすると、あれ?話、通じてない?とついつい話を盛ってしまう傾向があるそうです。
カウンセリングの場面だと「自分はとっても可哀想なんです」とか「今、無茶苦茶大変なんです」多少オーバーに状況説明をしたりする。大声になっちゃうのも、盛りの一種。
本当に大変だとしても、カウンセラーがきちんと気持ちを受け止めてくれていたら、話を盛ることはないのです。必要ないからね。
 
自身の体験では、「あれ? 何でこんなに大袈裟に話すんだろう」と自分に対して違和感を感じたことがあります。
その時は、理由が分からなかったのですけど、カウンセリングを少しでも勉強すると、自分がカウンセラーの淡白な応答に不満を持っていたことに気付きます。
それはあたくしの「かまってちゃん」サインだったのですね。

同じ話を何度も繰り返す時

何度も同じ話を繰り返すのも「真剣に話を聞いてくれ」の合図。
カウンセラーから丁寧にその都度、共感が行われていれば、クライアントだって、時間がもったいないし同じ話を何度もしようとは思わないものなのです。
しかし、未熟なカウンセラーだと、その時の気持ちに触れないで、事実関係に関する質問をしてしまいます。
感情面にノータッチのままだと、クライアントは話が伝わっていないような気がして、さらにも“くどく”話してしまうというワケ。
 
あたくしの場合は、カウンセリング場面で、幼少期の母親への不満を何度も繰り返した経験あり。
その時、カウンセラーはずっとメモを取りながらフムフムと聞いていたのですが、そこはやはり、メモはさておき、当時の感情をジックリ聞いてもらいたい部分だったのです。
 
カウンセラーからの反応が薄いと、話した直後はスッキリ感があっても、次のカウンセリングになると、やっぱり幼少期の母親の不満を語ってしまい、自己嫌悪になって帰るのです。時間の無駄。自己嫌悪も無駄。
 
カウンセリングの勉強では、「感情を吐き出させる」みたいな表現が出てきますが、これは決して、怒涛のように話すクライアントを放置プレイすることではありません。カウンセラーが拾ってくれない感情は、回転寿しの残り物みたいに、グルッと一周して、ふたたび目の前に流れてくるのです。 

意味のなさげな質問をする時

カウンセリングでは、クライアントからの質問にカウンセラーは直には答えない、というのは基礎中の基礎。問題を解決するのは、あくまでもクライアント。カウンセラーが問題解決をしてしまうと、クライアントが依存的になるだけで、いつまでも自分で問題を解決することができないからです。
 
だから、少しでもカウンセリングを学ぶと「カウンセラーに質問するのは虚しい」と頭では理解している…にも関わらず、カウンセラーに対して問いかけをしてしまうことはあるんです。自分でも「何でだろう???」と思いながら。
 
これも、やっぱり、相手の反応が薄いから起こることなんだわ、というのに最近気がついた。
カウンセリングの練習中、クライアント役をやっていたあたくしは、ひとしきり話したあとで「で、わたしは、これからどうすればいいでしょうか?」と言ってしまい、自分でビックリしたことがある。
 
どうやら、カウンセラー役の共感が薄いので、どう感じているのか探りたくなったらしい(もちろん、クライアントとしは共感が欲しい)
 
そこで相手に、いわば「どうでもいい質問」を投げかけて、相手の反応を得ようとする。もっと言うと、興味を引こうとしている節がある。
 
過去に、「心理学の本ばかり読んでしまう私は、心配しすぎでしょうか?」とか、「恫喝場面がたくさん出てくる映画を観たら、恫喝に慣れて平気になると思いますか?」とか、自分でも「何を聞いているんだよ?」と思うような質問をカウンセラーしてしまった経験があります。
 
そんな時、カウンセラーの応答が虚しく「さあ、どうでしょうか?」の繰り返しだったことが思い出されるのですが…
 
模範的応答は「どうしてそんなこと考えたの?」と、相手に興味を示す、です(笑)!
 

最後に… 

カウンセリングに入る前に、カウンセラーからこんな常套句が出てくる。
「この時間は、あなたのための時間なので、何でも話してくださいね」
 
しかし、現実には、何でも話せる状況ではないことも、往々にしてある(笑)。
 
人に話を真剣に聞いてもらえないのはただでさえ辛いのに、ましてや、お金を払っているカウンセラーに聞いてもらえないのは、もっと辛い!
 
自分で自分の「もっと話を聞いて欲しい」サインに気がつくことができれば、思考はとてもシンプルになります。
カウンセラーに言葉で本音を伝えるか、そのカウンセラーとのお付き合いを辞めるか、二つに一つ、自分で決めるだけです。
 
カウンセリングを必要としている方が、良いカウンセラーに出会えますように…。

恫喝がダメ、本当にダメ。

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ココロの安全地帯を構築中です

具合が悪いらしい。夜中に夢を見て起きちゃったよ。
モヤモヤとした雲の中から、現在お世話になってるカウンセラーの顔が浮かんできて、次第に鮮明になる。
「あ〜この顔、この顔だわ!」とホッとするという夢。
トラウマ治療のためには、まずは安全地帯作りが必要なので、あたくしの無意識領域がカウンセラーのイメージを使ってその土台を作ってるらしい。
そして、さらっと抜け出したと思っていたけど、多分、まだ、陽性転移中ですね。
 
事件に遭ってから、脳の中の記憶を記憶する部分が変になっちゃったみたいで、人の顔の記憶がものすごく曖昧になりました。
かつてのあたくしは、子供の頃からお絵描きが好きなこともあり、記憶を映像として残すことが多くて、例えば、好きな人の顔なんかは、いつもジロジロみているので、何回もスキャンされて、見ていなくても絵に描けてしまうくらいだった。
 
それが壊れちゃったもんだから、人の顔の記憶は、頭の中で想像してもボンヤリとして思い出せなくなり、会った瞬間に思い出す、という風になった。
個人的には、味覚や香りの記憶の再生の仕方に似ているような気がする。口に放り込んだ途端に「あ〜この味!」と思い出すような。
 
夢の中では出てくるのだから、カウンセラーの顔も記憶しているのだろうけど、再生に問題があるんだろうな。目が覚めて思い出そうとすると、これが難しい。
 

連続的に恫喝に晒されるとメルトダウンします

そうでした、恫喝がダメという話でした。
今は、恫喝する人が職場にいると、だいたい7ヶ月くらいしか心身の健康を維持できず、最後はパニック症状が悪化してダウンしてしまいます。「今度こそ乗り越える!」とか「せめて1年位は頑張ろうよ!」と自分に言い聞かせますが、やりきれた試しがありません。
 
中小企業の場合だと、恫喝するのはほぼ100%社長です。かなりの確率で、出社1日目にいきなり恫喝場面に遭遇してしまいます。社員が涙ぐもうが容赦なしです。
それを見て、「ああ、やってしまった」と自分の判断ミスを悟ります。
恫喝する社長のサマは、知的で冷静な経営者を装っていた面接時とはまるで別人です。本能のままに怒りをぶつけ、精神的マウンティングをしようとする醜悪な姿です。
 
恫喝グセのある人には、有名私立大学卒、 MBA取得、英語はネイティブ並みの人がいたりして、当然なことかもしれないけど、経済的な豊かさだとか頭の良さだとかは、人間性には関係なかったりします。
 
自分が怒られていなくても、怒られている人が割と平気にそうにしていても、あたくしは手が冷たくなり、頭が真っ白になって、動悸がして心臓が痛くなる。
その時の感情は、恐怖としか表現できないけど、恐怖にもいろいろございますでしょ?
あえてホラー映画に例えて言えば悪魔のいけにえ』『13日の金曜日的な怖さじゃなくて『シャイニング』的な怖さ。ミザリー的な怖さもある。一見まともそうな人が完全におかしいことに気付いた時の怖さ。
 
恐怖に加えて、怒り、嫌悪、軽蔑などの感情も混ぜこぜになって押し寄せてきて、それらの大波に半年ほど晒されているうちに、ある日、自分の堤防が決壊したことに気づく。そうなると、あとは1ヶ月くらいしか持たない。
医者が「これを飲んでいれば大丈夫」と言っていた抗不安薬も全く効かない。鍼灸、気功、リラクゼーションCDや漢方など、藁にもすがる思いでアワアワしているうちにタイムオーバーになる。

本来は鈍感力の強い人でした

こう言うと「恫喝は誰しも嫌なものだよ」だからあなたの反応も当然だよ、と慰めてくれる人がいるのですけど、ありがとう、だけどちょっと違う。惜しい。
昔は、全然平気だったの、恫喝する人。それが今、心身がおかしくなるくらい恐怖を感じるから、困っている。
 
大学卒業して入社した会社が建築内装業で、いわば工事現場が職場。結構、毎日怒号が絶えなかった。毎日何かしらトラブルが起こるというのもあったし、現場がやかましいから声が大きくなるというのもある。怒りながらじゃないと話せない偏屈な人もいた。そうした、日常茶飯事な恫喝場面で、あたくしは「何で?何で〜?」ってポカーンとしているタイプでした(自分が怒られても、ポカーンとしてました(笑))。恐るべし鈍感力! 
 
そして、上司や先輩などの中には、そうした怒りを収めるのが非常に上手い方がいたのです。そういうテクを目の当たりにして「すごいや」と感心したりしてました。
その頃は、恫喝に対して、恐怖や怒り、嫌悪や軽蔑なんか全く感じなかった。根拠もなく「ここの人達、過剰にワイルドだけど、悪い人じゃない」っていう確信していたフシさえある。そして、むしろ彼らの裏表のないところに安心していたような。
 
だから、これは重要なことなのですけれども、恫喝にさらされた時の怖さは、あくまでもあたくしの個人的な感覚ということ。
恫喝をする人がいなければ、 もう少しお仕事が続けられたと思っているので、ある意味あたくしは、恫喝グセのある人を憎んで部分がある。
でも、大概の人は「こいつムカつくな」と思ったとしても、適度に憂さを晴らして、心身の健康を保っていられるのです。
 
休日に見た映画『セッション』(恫喝グセのある音楽教師が出てくる)で具合が悪くなってしまったことさえあります(笑)。映画なのに…フィクションなのに…。
 
それを考えると、かつての鈍感力を早く取り戻したい、と思うのです。
頼むよ、カウンセリング…。頼むよ、トラウマ治療…。
 

 ※怖いけど、ものすごく面白い映画です。あたくしはもう見ないけど…というか、見れないけど。

「ありがとう」と言われ動揺した話。

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ここでこれが出るか!と思った瞬間

とにかく、予想外の場面で予想外の反応があると、あたくしは激しく動揺してしまう。
 
その日、カウンセリングはまだ2回目だった。
まだ本格的にトラウマ治療には入らないで、その前に、頑丈で安全なエリアを自分の中に作る必要があるらしい。そうしないと、とても辛いから、と。
そういう訳で、ざっくばらんにお話をしていた。要するに初期のカウンセリングで行われる生育歴や日常生活についてのヒアリングなんだけど、その先生が素晴らしいな、と思ったのは、そこに事情聴取的な感じが微塵もなかったことだ。
 
そのときの驚きは、苦手だと思い込んでいた食べ物が、本当はものすごく美味しいもので、自分が今まで口にしていたものが単に不味かっただけだったんだ、という気付きに似ている。
あ〜新鮮で上質なカウンセリングって、苦いばかりでなく、微妙な甘みとかあるんだわ、とか、本来の味わいに気付かされるような。
 
そんな風に、事情聴取的ではない話し方、踏み込み過ぎずに相手に興味があることを示す先生のテクニックに、「お話するのが上手いな〜」と油断してしまったらしい。いや、この言い方は良くない…警戒が解かれたのだな。
 
そして、ふとした会話の途中、あたくしは「ちょっと、それは違うんです!」と先生の言葉を遮った。
そうじゃないんです。大変なのは、過去のことばかりではなくて、今も相当大変で…でも、それは過去の出来事につながっていて…
…まあ、そんな感じで変なスイッチが入り、いきなり喋りまくってしまった。
まだ、信頼関係作りはこ・れ・か・ら、というに、勝手に暴走して、まるで露出狂のごとく、追い追い話そうと思っていた自分の恥部をいきなりカミングアウトしてしまったのだ。
 
しばらく熱く語り、言い切ったところで「ありゃ、またやってしまった…」と、自分のココロの露出狂的なところを悔いた。
しばし、静寂が訪れて、この瞬きの間に、「自分、バカだな」「なぜ、自分はこんなに焦っているのか?」「一応控えめにしたつもり」などと様々な思考が、同時にいくつも流れて…
 
「感情を制御できない自分は嫌い」
「こういった話は人を不快にさせるから控えなくてはいけない」
「先生はドン引きしたのでは?」
あとは、なんとも言えない恥の気持ちに集約された。
こんな空気になってしまって、これに、先生は何と応えるのか?
 
それが、「ありがとう」だったのです。
 
「大切なことを話してくれて、ありがとう」
 

「ありがとう」に関して思い出したこと

以前、「ボランティア活動でもして人から「ありがとう」と言われて、自信持てよ」という友人の発言に反発してキレてしまった経験を書いた。
思えば、何故こんな言葉に反応していい大人が小競り合いになってしまったかというと、そもそも双方に「「ありがとう」といった感謝の言葉は、自分が何か(行為や物質)を差し出したときの対価として出て来るもの」という共通の思い込みがあったから、というのもある。
だから、先方の説だと「アルバイトはお仕事だから、すでに金銭と労働の交換が成立しているので「ありがとう」はあり得ない、だからボランティアしろ」となり、こっちは「自尊心は人からの評価ばかりで成り立つものではないんじゃない?」となり、「人からの評価を得るために行うボランティアは偽善! 相手に失礼!」「仕事でも「ありがとう」はあるでしょう?」といった考えに飛躍していっちゃうのね(笑)。
 
だから、まるで次元の違う「ありがとう」に足元をすくわれて、動揺した。多分、良い動揺なんだな、これが。
 
それは、先生の「ありがとう」が、あたくしが「珍しい話をサンプルとして提供したこと」に対してでなく、「人に語りにくい本心を吐露したこと」への感謝なんだわ、と素直に感じ取れたからなのだろう。あたくしの情報に対してじゃなくて、あたくしの気持ちに対しての感謝で、そんな評価の伴わない「ありがとう」があるなんて、コロリと忘れていたから、こんな風に動揺してしまったんだ。
 
そういう「ありがとう」ってあるのね。
感謝されたけど、あたくし何もしてないよ? みたいな。
 
例えば、カウンセリングではこんな時、
「それは大変でしたね」
「それは辛かったですね」
とかは、想定内の応答なの。
こういう言葉を、「評価的でなく」「相手の気持ちに寄り添って」言いましょう、ってのは、傾聴のマニュアル本にも書いてあるのね。こういう模範解答すら、スラスラと出すのに初心者はなかなか苦労するのだけど。 
 
だけど、
「ありがとう」っていうのは!
 
しかも、
「ありがとう」って言葉に気持ちが乗っかっているなんて…
何て洗練されているんだろう! と感動したのです。
 
 
これは不覚にも陽性転移しちゃうわ…と、分析してしまった次第です(また、先生は「考えすぎ!」と言うでしょう)。
 
まあ、「このワザ、何かの折に使おう♪」…と考えるイヤラシイ自分は脇に置いておいて、しばらく、この甘美な動揺を味わってみるのも悪くないでしょう?