心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

怒りにまかせて出た自分の言葉にビックリした件。

f:id:spica-suzuhazu:20170915133726j:plain母が足首の手術をするというので、ふたたび実家に。
内視鏡の技術が進み、術後の傷跡を見ると1センチほどの縫合跡が6箇所ほどあるばかり。
手術の次の日から早速リハビリ。
若くイケメンの理学療法士さんにリードされて筋トレする母は楽しそうでもある 。母の件はひと安心。あとは、この先3ヶ月ほど一人暮らしになる父のこと。 
 
…ではあったのですが、意外に一人暮らしをエンジョイしていて楽しそう。
家事もソツなくこなしているので、大丈夫かなそろそろ帰ろうかしらと思っているところで、些細なことから大喧嘩。 
 
きっかけは、とてもつまらないこと。ホントにどうでもいいこと。 
父がキレた要点は「オレの話に意見するな!」であり、
あたくしがキレた要点は「人の意見を聞け!」であるから、
見事に噛み合って、怒りの炎はものすごく燃え上がった。 
 
そうして言い合いしているうちに、勢いであたくしの口から出た言葉。
「そういうところが、ばーちゃんにそっくりで、ホントにイヤ!」…である。 
 
言ってる自分がまずビックリしちゃった。何、何? この場にばーちゃん関係ないじゃん。何で出てくるの? 
 
 
 
しかし、あたくしがばーちゃんが嫌いなのは本当だ。父方の祖母が亡くなって7年ほど経つが、今でも本当に嫌い。 
 
祖母は自分のデリケートさを怒りで武装するような人だった。
一時期は同居していたけれど、祖母は自分の思い通りにならないと、恫喝し、号泣し、ハンストし、引き篭もりし、あらゆる手を使って不満を表現する人だった。
痴呆が入ると、その理不尽さはエスカレートした。
自宅で転倒して骨折したのがきっかけで入院生活となり、そのまま家に帰ることなく数年後、病院で亡くなった。
その間、プライドが高い祖母は、自分が転倒したことが許せず、なぜか家族と一切会話をしなくなった。
最後の怒りは、沈黙だったのだ。 
 
ひとたび機嫌をそこねるとやっかいな人、それがばーちゃんだったのだが、そのばーちゃんが、父の中にいる。
そして、自分の中にもいる。それがまた、たまらなく嫌。 
 
祖母、父、あたくしは骨格も似ている。
夜、トイレで起きて暗い洗面所に移った自分の顔にギョッとすることがある。
「ばーちゃんにそっくり!」 
 
あたくしは、自分の中にもあるばーちゃんの凶暴さに嫌悪し、怯えているのだ。自分の「恫喝怖い」も、恐らく、このばーちゃんが絡んでいる。   
 
 
 
…ということで、今回のカウンセリングでは、このばーちゃんへの嫌悪感を何とかしようと思ったのである。 
「先生、このばーちゃんへの嫌悪感、棒にして海に置いてきちゃいたいんですけど」と、単刀直入に言いますと、今日の先生は「じゃあ、それやりましょうか」とは即答しない。 
 
「自分の中の嫌な部分から目をそらしちゃダメですよ」と。
 
 もっとも、カウンセラーの先生の考えでは「怒りは、感じることも表現することも、ちっとも悪くない」のだ。
これは分からないでもないが、自身のものとして捉えるのは難しい。先日の喧嘩を蒸し返してあたくしが怒っている様子を見ても「イキイキとしていてイイ表情だね」と笑って見てる。 
 
「80歳すぎて喧嘩できるあなたのお父さんは、エネルギーに満ち溢れて、若々しいじゃないですか?」 
 
祖母の中にあったエネルギーは父の中にも流れてる。そして、あたくしの中にも流れている。それは、押さえつけたり、無視したりしない。
流れを止めない。ただ洗練させていけばいいのだと。 
 
洗練かぁ〜 む、難しい。しかし、このあたりが自分の不安神経症的な症状改善の鍵なのだろう。
 
 事件の後から、あたくしは怒りを感じる時、そのまま怒りを表現すれば何か良くないことが起きるような不安に駆られようになった。
そうして怒りを抑え込むのだけど、怒りは無くなったわけじゃないので、どこかで主張をしようとする。
なにしろ自分の中には、あの荒々しいばーちゃんの遺伝子がある。 
 
「怒っても何も起きないからさぁ、怒ってみればいいんだよ」と、先生は言う。
いや無理。今は怒りの制御ができそうにない。 
 
…そういうことで、怒りの表現の学び直しが今後のあたくしのミッションになりそうです。 
 
先生は家族エピソードが大好きみたいで、カウセリングでこうした話をすると、とても心地好さそうな表情をする。
まるで他人の思い出を自分の思い出として味わっているように。
そうだね。高齢の親とガチで口喧嘩できるのは、幸せなエピソードなのだと思う。 
 
そうして、非常に苦労して育ててくれた自分の母親を「嫌い」と言った娘の発言に、父は傷ついただろうか?などと、思い返してみて少し心が痛んだ。
 
「80歳にもなって本気になって怒るお父さん、面白くないですか?」と先生は言うのだが…全然面白くない! まだ、その域に達してない! 

陽性転移その後…先生、お気に入りのタオルケットと化す。

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3〜4歳の頃、お気に入りのタオルケットがあった。厳密に言うとバスタオルだ。
赤ちゃんの頃からそれはいつも自分を包んでくれていたので、物心付いた頃には相当馴染んで、それはまるで自分の一部のようになっていた。
あたくしは、それを激しく愛した。
 
愛するあまり、角っちょをクチャクチャ齧り、まるで犬のように、そのまま眠ったりした。
齧ったところからタオルはほつれて、少しずつ失われた。
よだれまみれで汚いからと母が洗濯すると、タオルはまた少し失われ、日に当たってゴワ付いたそれを元に戻すべく、またも齧って執着した。
そのうち、成長に従って、手足を曲げないとそのタオルケットに包まれることが難しくなり、物理的にもタオルは少しずつ失われ、小さくなった。
 
そのタオルケットといつお別れしたのか覚えていない。
くたびれきってすでに自分を包み込むことが難しくなったタオルケットに一生懸命手足を縮こませようとしていたときの、「もうちょっとだけ」な気持ちだけが残ってる。
 
懐かしい。40ウン年振りに思い出しました。自分のお気に入りのタオルケット。
しかし、問題は、思い出したタイミングである。
 
 
 
ある日のカウンセリングの終わり際、カウンセラーの先生はこうおっしゃった。
「この時間、役に立ってます?」
 
これまでこうした場でフィードバックを求められるのは想定外だったので、言葉の持ち合わせがなかった。
瞬時に様々な考えや憶測が次々と浮かんだのだけど、一番無難なコメントを残してその日は退出した。
「役に立っていると思います」
いや、そうでしょ? 当然でしょ? そうでなかったら来ないし。
 
しかし、具体的に「前はこうだったけど、カウンセラーに通いだした今はこんな感じに良いです」みたいな言葉がどうしても出てこない。
 
だって実際に考えていたことは、こうなの。
「役に立っているか分からない」「役に立っていないかも」って言ったら→先生が悲しむ。困る。腹を立てる→面接辞めたら?ってなるよね…。
 
相手の気持ちばかり深読みして、全然自分の気持ちに焦点が合ってない。
自分がどう考えているかを正直に話すより、相手が気を悪くしない言葉を選ぼうとする臆病者。
カウンセリングというこんな安全な空間を作っても、自分は本心を言うことが難しい。
 
そうやって、嫌悪感に包まれ、自宅でモヤモヤとそして少々メソメソと考えている時に、「タオルケットの思い出」が降臨したのある。
 
最初は、何で何で?と思っていたけれど、次第に合点が行きましたよ。そういうことなのですね。
自分の不安を自覚したあたくしは、それから数日、思い出しては涙した。
 
 
 
自分の一部が傷ついたために、ものすごく疑り深くなっていることは自覚してる。
常に「本当に安全なのか?」と疑ってばかりなので、常に身体はいつも緊張している。
そこから回復するには、仮にでも誰かを信じる体験が必要なのだろう。
 
「要するに今は、このカウンセリングの時間が幼少時のお気に入りのタオルケットなんですよ」
あまりにも浅はかでド素人な分析だが、思っていることを正直にカウンセラーの前で披露した。
 
「そうして始末の悪いことに、今はもう少し包まれていたい気持ちなので、このタオルケットを失うのが不安で不安でたまらないんです」
 
カウンセリングを受けたのは、とっとと恐怖心を克服して働きたかったからなのに。
5ヶ月のカウンセリングで出てきた自分の本心が、まだこうしてたい…って …不覚ではある。
 
「先生〜、このカウンセリングの時間=お気に入りのタオルケット、ですよ? 気持ち悪くないですか?」
あたくしの本心は、ずっとこの時間を齧り倒していたい気持ちなのだ。
この幼児的な執着と根本にある「見捨てられ不安」を正直に他人に語るのは、おばさんには勇気がいる。
 
「いいんじゃない? 実際にボクが齧られるわけじゃないし」
そう、先生はプロだから怯まない。それより、心から人の本音を聞くのが満足そうな顔をしていらっしゃる。
そうして先生は、あたくしがどんな汚ならしい思い出やブラックな腹の内をさらけ出しても、決して先生からドン引きして面接を中断することはないからご安心を、と言ってくれた。
「聞いてて辛い話だったら、“辛いから、ちょっと待って”って言うかもしれないけれど」
カウンセラーは辛い話は必死に精神力で対応するのだと思い込んでいたあたくしは、その言葉に非常に安心した。
 
このトラウマ治療の最初のミッションは、「自分の中に安全地帯を作る」なんだけど、一体、今はどの辺まで来ているんだろう? 思ってたより、長い。
 
とりあえず、数日続いたメソメソは、爽やかに去っていったのである。

カウンセラーの自己開示について。

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夏風邪引きました。39℃代の熱なんて久々だったなあ〜。2週間寝たきりでした。
この年齢になると「風邪だ」って言っても病院では信じてもらえず、「肺炎かも」「肝臓やられてるかも」と血液取られたり大変です。
5kg痩せたんですが、体力が落ちると自律神経の乱れも悪化するし、そうなると頭の働きも鈍くなるみたいで、まいった。
 
そういう訳で、文章がまったくまとまらなくて、この文章も3日くらい格闘している有様です。
 
で、今日のテーマは「カウンセラーの自己開示」であります。
個人的な情報、考えや感情を相手に明らかにすること、それすなわち「自己開示」。
 

カウンセラーの「自己開示」は常に小出し

カウンセリングでは、クライエント側はいつもカウンセリング側から自己開示を求められている。
カウンセラーによる「相づち」や「オウム返し」「質問」といった応答技法は、それらすべてがクライエントの自己開示を促す技術といっていい。
 
そうしてクライエントがカウンセラーのあの手この手の応答技法でこちらのアレコレを話していて、ふとこんな疑問は湧かないだろうか?
「この私の話を聞いている、目の前のカウンセラーはどんな人だろう?」と。
 
それで、時には逆にカウンセラー質問してみたりする人もいるのではないだろうか?
「結婚していますか?」とか、「今の私の話を聞いて、どう思います?」とか。
 
そうするとですね。だいたいカウンセラーは言い淀む。
加えて「なぜそんな質問をしようと思ったのですか?」と質問返しされたりする(笑)。
 
当初は内心「ケチ!」と思っていました(すいません)が、カウンセリングを少々齧った今なら分かります。
カウンセリングの世界にはどうやら「カウンセラーの自己開示は、どの程度行うべき?問題」があるらしいんですよ。
  

カウンセラーの「自己開示」は難しい

まず、カウンセラーはクライアントの心のスクリーンであるために極力「自己開示」はすべきではない、という考え方があるらしい。
 
しかし、カウンセラーが面接を重ねても真っ白なスクリーンの役を保ち続けるのは至難の技だろう。
時には、服装、視線、仕草が言葉よりも雄弁にその人を語ってしまうこともある。
カウンセラーが全く「自己開示」をしない、というのは土台無理な話なのである。
 
それに、カウンセラーの適度な「自己開示」には、良い効果もある。
心の距離感を縮めてくれるのだ。
相手がどんな人か分かったほうが、安心して「自己開示」できるとういう人もいるだろう。
 
難しいのは、それはあくまでも「自己開示」が適度な場合、ということになっていること。
過剰な自己開示によって双方の心理的距離が近くなりすぎると、カウンセリングという自己探求の場が、単なる世間話の時間になってしまう恐れがあるからだ。これだと楽しいけれど、カウンセリングの効果は期待できないので、クライエントの利益に反してしまう。
 
そうなると、どのように適度な「自己開示」を保てばいいのか? ということになる。
何しろ、カウンセラーが気をつけても、うっかり非言語で表現してしまうかもしれないし、クライエントからの質問という形で「自己開示」を求められるかもしれない。「自己開示」はコントロールが難しいのだ。
 
それじゃあ、カウンセラーは思ったこと、考えたことをフィードバックするのはクライエントの自己探求に役立つし、そういう類の「自己開示」ならいいんじゃないだろうか? という説が登場する。この場合は、個人情報に関する「自己開示」は行わない。
個人情報を聞いてくるようなクライエントには「お答えできない決まりになっている」とキッパリ言ったらいい、みたいな意見もある。
 
そういう訳で、クライエントの立場としては変な話だけど、その辺のカウンセラー側の事情を考慮し、これからはうっかりとカウンセラーに「自己開示」を求めたりしないように気をつけようとか気をつけていた訳です。
 

「自己開示」を躊躇しないカウンセラーがいた

ところが、である。
3人目のカウンセラーの先生に出会って、全くもって、自分は頭でっかちなおバカさんなんだな〜と思い知らされた。
 
今度の先生は、何だか様子が違ってて…、その辺の「自己開示」への葛藤というか、ジレンマがまるで感じられないのよ。
 
あたくしは、現在の先生には本当にいろんなことをお話したが、あたくしも先生のことをいろいろ聞いて知っている。
 
子供の頃から好きなこと、出身地、老いた親への想い、現在の家族、休日に何をしているか、過去の悲しかったこと……
他のカウンセラーなら敢えて自分から話さないような(恐らく聞いても話さない)ことを、先生は話の流れの中で、何でもさり気なく喋ってしまうのだ。
 
カウンセラーの「自己開示」はクライエントの利益を優先して小出しにするんじゃなかったのかい?
すでに先生に「陽性転移しました」宣言をしていたあたくしは、最初は 「こっちが質問した訳じゃないよ?」「これは何の作戦?」と、いちいちドギマギしていた。
 
…今はもう慣れちゃって、変な邪推は無用なんだわと理解している。
要するに、これが先生のカウンセリングのスタイルなのだ、深読みしてはいけないんだな、と。
 
お恥ずかしい話、この先生の「自己開示」のせいで、あたくしはウッカリとカウンセリングが閉じられた空間で行われる虚構の時間だということを忘れてしまうことがある。
その不思議なリアル感の中で、あたくしは自身の悔しい、恥ずかしい、悲しい想い出を語り、追体験し、毎回、安堵感に包まれて涙を流す。
それは、これまでの、暗い井戸に向かって話しているように、虚しさばかりがのこるカウンセリングとは全く違うのね。
その深さは、これまでの「自己開示」の控えめなカウンセラーとの面接では一度たりとも感じることのなかった感覚なのだ。
 
要するに…言いたいのは……、何て、カウンセリングって教科書通りに行かないんだろう、本に書いてあることと全然違うし(泣)。
そういうことになんだろうな…。
まあ、あとは、現在のカウンセラーをとても尊敬しているということだろうか?
 
とりあえず、ものすごく苦しんだけど、話がまとまったみたいだわ。じゃあ、今日はこの辺で……。

「野の医者」とは何か?

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調子は相変わらずスッキリしないけれども、難しくない本なら読み進められる。ありがたや。

『野の医者は笑う』東畑開人著 読了。
 
この本は、若き臨床心理士である著者が、沖縄を舞台に様々な「野の医者」の治療を受けまくり、それらの体験を心理学やらその他アカデミックなキーワードを散りばめてつつも面白おかしく書いたノンフィクション。「野の医者」とは、ヒーリング等をお仕事としている人の総称で、著者の造語だ。要はスピリチュアルですね。
 
沖縄のスピリチュアルというと真っ先にユタを思い出すけれども、この本の中心はどちらかというと新興勢力を扱っている。
文化、貧困、いろいろな要因から沖縄という場所はスピリチュアルの需要が高く、国内では先進的なエリアなのだそうだ。
オーラソーマ(色水の入った瓶を使う)とか、マインドブロックバスター(いわゆるブロック外し)とか、これらが一体どういうことをするものなのか、この本読んでよ〜〜〜〜く分かったよ!(笑) 特にマインドブロックバスターに関しては、3日間12万円の講習を受けた体験まで披露している。
 
それらはイチイチ怪しく軽薄なんだけど、単純に胡散臭いで済まさずに、そこに何らかの気づきを得るあたり、さすがは臨床心理士!かな?
例えば、スピリチュアルによる癒しと臨床心理学の癒し、両者はどこが同じで、どこが違うのよ?と、考える。
この辺の疑問、すごいでしょう?
スピリチュアルをネタに「癒しって何?」を考察する本なのである。
 
著者は、医療人類学者クラインマンによる「説明モデル」という概念を挙げて、スピリチュアルと臨床心理学の共通点を挙げている。
治療者が「不調の原因はこうだから、こうすれば治る」といった説明で説得を試みる。その説得をクライエントが受け入れた時に、治癒が起こる。
 
治癒の本質はレトリック(人を説得する技術)であり、それを支えるのは信頼関係であるらしい……となると、臨床心理学やスピリチュアルの癒しの本質は、要するに、砂糖で出来た丸薬が効いてしまう「プラシーボ効果」ってこと?
もちろん臨床心理士の立場としては、臨床心理学の方は科学であってもらいたいわけだ。 
 
ただ、この本の焦点はあくまでもスピリチュアル。臨床心理学が科学であるかどうかはさておき、スピリチュアルが臨床心理学と異なる面に着目していく。
 
例えば、
・スピリチュアルは治癒に至る説明が一般的ではないので、たくさん説明が必要。施術者自身が「これで自分も治った」など自分語り多し。
 (ブロック外す→元気になる、など臨床心理学より独創的)
・スピリチュアルは施術者が施術をすればするほど、施術者自身が元気になる。ゆえに施術したがる。
 (臨床心理士はカウンセリングをたくさん行うとクタクタになる(笑))
・スピリチュアルは、治療が成功した結果、超ポジティブシンキングで毎日がミラクルな躁的Happyになる。
 (例えば精神分析の場合は、感情を真正面から受け止められるようになるのが治癒のあり方)
・「深層心理」という言葉を使ったらスピリチュアル。「無意識」という言葉を使ったら臨床心理学。
…みたいな。
 
そして、一番の大きな違いは、スピリチュアルは非常にシステマチックなビジネスモデルが構築されている点だ、と著者は気づく。
施術者は施術をするだけでなく、施術の仕方を教えるスクールを併設していて、クライエントに「あなたも施術者に」と誘う(笑)。
そして、施術者スクールの上位にインストラクタースクールを設置して、施術者となったクライエントに「あなたも先生に」と誘う。
 
要するに、どんなスピリチュアルも最終的には頂点にお金が集まるシステムが出来上がってて、単純に癒されるだけでなく、自分らしく輝き、経済的にも豊かになることをゴールとしているあたりが、…というか、ぶっちゃけ「豊かになる=癒し」が最近のスピリチュアルのトレンドなのだそうだ。
この世界でもマーケティングがキーワードらしいですよ(コンサルティングという人もいる)。
 
著者は、これらのことについて良いとか悪いとかは一言も語らず、「人それぞれの癒しのあり方」を良しとしている。大らかな人なんだね。
 
あたくしは、疑り深いのでスピリチュアルにはイマイチ乗り切れないクチなのだけど、「楽しそうでいいなあ」という気持ちはあるし(自分は無理だけど)、そういうものに惹かれる人の気持ちにはとても興味がある。疑いながらも、実は興味津々な自分にも興味がある。
 
この本、スピリチュアル体験の資金は某財団の研究助成費で調達したそうだ。いいなあ、学者。

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

 ※誠信書房さんは心理系の本の老舗であり、そういうこともあってトンデモ本ではなくアカデミックな本、という体裁を保てているかな? 表紙が漫画なのがあたくし的にはアレなんですけど、著者のお友達の漫画家さんによるものだそうですよ

怖いものにではなく、怖がっている自分に焦点を当てて。

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前回、スマホにて偶然にかつてのストーカーの名前を見てしまい、具合が悪くなった件をカウンセラーの先生に報告した。

布のテーブルクロスにワインをこぼしちゃった時のように、怒りと怖さがドンドン心の中を汚染していく 感覚を、必死に箱に入れて見ないようにした。

箱を閉じたものの、中の強いものがドンドン膨れ上がってくるので、箱の上に重いものを置き、それでも蓋がパカパカしているので、上から長いネジでもって固定した。これ、全部妄想の中での話ね。それで、妄想の電気ドライバーでもって、何個もネジ止めした。

 

怖かったです。と、申しましたら、先生は間髪「違いますね」と言う。

「そんなことしろと教えてないでしょう?」と。

はい、そうですね。これは、これまで長年あたくしがしてきた対処法です。

「ぼくはね、イメージに逃げるのは好きではない」

それはあたくしも誤魔化しているみたいで好きじゃない。それに、どんなに過小評価しようとしても、怖いものは怖い。

頭では「そんなに怖がらなくていい」って分かってるのに、過剰に反応するところが問題なんだ。

 

俺サマがこれまで言ってきたこと全然、分かってねえな、って感じで、先生からは穏やかな中にも少し怒気が感じられる(笑)。←怖いと何故か笑いが出てしまうあたくし。

すみません、すみません的に申し訳ない気持ちを感じながらも、別メモリーが「え? 飴ムチ派ですか? 怒るカウンセラーですか?」とビックリしているのを感じる。

 

「カワイイと思えなければダメなんですよ」と先生はいう。

「いや、あれをカワイイとはとても…」

「怖がっている自分のことをですよ?」

「………。」

いえ、もう、何度も言われているのです。自分の中の弱さにもっと寛容にならなければ、と。

ビクビクとおびえ続ける自分の心の中の一部分はまるで臆病な森の小動物のようで、優しく優しくしてあげなくてはいけないのだ。

自分の一部だからね。

だけど、どうしても他人の弱さも自分の弱さも心の底からは認めがたい。

根性叩き直したらどうにかなるのではと、つい竹刀片手に、その弱いものをビシバシいじめようとする。

 

「怖いものにではなく、怖がっている自分に注意を向けるんですよ?」

「怖がってる時、どう思うかではなく、身体がどう感じているかを見るんですよ?」

はい、復習~という感じで先生が言う。

「はい~」

「もう、恫喝する人、近くにいないんでしょう?」

「はい~」

「今日はずいぶん元気がないね?」

「はい~」

 

また、さめざめと泣いた。もうイヤ、泣き癖が付いているのではないだろうか?

自分が泣けている意味が分からない。ホッとしてるのか、自分の不甲斐なさがなさけないのか。

 

精神科医の先生が言っていたけど、精神に同じ負荷がかかっても、病気になる人とならない人がいるそうだ。

それは決して、病気になった人が特に弱いというわけではなく、それまで抱えてきた個人的問題の差であったり、たまたまいろんな出来事が重なったというタイミングだけで、結構ギリギリの状態で抱えながらやり過ごしている人は多いんですよ、と。

先生としては、だからあなたは全体的に弱い訳でなく、強い部分も持ち合わせていると、と言いたいらしい。自信をもってちょうだい、とね。

う~ん、ここでこんなこと言ってもしかたがないけど、あたくしもやり過ごしたかった。諸処の問題は、墓場まで持って行きたかったよ。

 

しかし、ここまで来てしまうと、自分の感情を真正面から受け止められるようになるか、それともやっぱり怖いから諦めちゃうかは、自分で決めなくちゃね。

 

こうした問題解決の先に、どんな景色が広がるのか全く分からない。せめてあと10歳若かったら、人生も変わるような気がするのだけど。

でも、もう少し頑張ってみます…。

 

「かつてのイヤな記憶はなくならないけど、見ても平気になるようには絶対になります」

先生の言葉に本当? と、今でもちょっぴり半信半疑だったりするのだけど、そうなったらどんなに幸せだろうと思う。そして自分が珍しく他人に対して感じた信頼感も大切にしたい。

 

それにしても、カウンセラーの先生は大変なお仕事です。

おばさんがさめざめと涙を流しても、冷静さを保って飴やムチを繰り出して、あらまほし方向に導かなくてはいけないのだから。

 

あ、先生は、言葉選びは本当に穏やかな方です。でも、多分ドSな一面があるのでは?と…(笑)。妄想ばかりしていると、また怒られそうだけど!

 

ちくしょう! 思考停止。

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調子悪くなって、文章がまとめられなくなっちゃいました。
リハビリのつもりで始めたブログなので、結構、頑張ってみたのですがダメ。
書きたいことはたくさんあって、出だしはいいのだけど、こんがらがって、まとめられない。
ここ数日で、パソコンの中は書きかけの文章で一杯になった。
 
依存性があるので、薬は極力飲まないようにしていたのだけど、昨日は外出する用事があったために少し多めに飲んでしまった。
ささいなことで怒り出したり、逃げ出したりしないだろうか、そればかりが心配だったけど、誰もあたくしの不調には気づかないみたいだった。ホッとした。
 
それで、ここ数日、何か変わったことあったかしら、と巡らせてたら。
ありました! 思い出しました!
 
数日前の夜、寝つきが悪く、うつらうつら考え事していたら、ちょいと好奇心が出て、いまさらInstagramをしてみようと思いついたのだった。
世界を少しだけ広げてみる方法としても悪くないのでは、と。
 
病気になってから、自ら世界を狭めるようなことばかりしてた。
「怖い怖い」と言う自分と、「だから大丈夫だって!」と励ます自分がいて、 ここのところ、お陰様で「大丈夫」な自分の方がお元気だった。
 
世界は美しいものに溢れているし、ほとんどの人が優しい心を持っていることを、あたくしは知っている。
 
そうして、深夜に設定をしていたら、何と、フォローをお勧めする人の中にかつてのストーカーの名前が出てきたのだ!
 
何で? 何で?
 
頭、真っ白。思考停止。
 
イコン画像がFacebookと同じだったから、直感的に気付いたらしい。
らしい、というのは、パニックのあまり、すぐにアプリごと全部を消去してしまった。
 
犯人の苗字が珍しいもので、ローマ字綴りにしていても誤魔化し様がなく、すぐにヤツと分かった。
回避したいものは、ありとあらゆるパターンを想定して、脳に登録されているんだな。
 
こうして防衛機能が暴走してしまうと、いつしか、安全なものにすら危険の兆候を見出そうとしてしまう。
今読んでるトラウマのメカニズムを解説した本に書いてあったよ。
「記憶が汚染される」ってやつ、まさに、そうだな。
 
その瞬間は、怖いという感覚ではない、真っ白な感じ。
なかったことにしたい、という強烈な気持ち。
 
そうして、今朝、ここ数日のことを反芻するまで、具合の悪さとその出来事が全く繋がっていなかったのだ。
 
今は、怖いを通り越した真っ白な状態から、激しい怒りにシフトしているところ。
 
あれはまだ生きているのか! とか
ネットで探してんじゃねえよ! とか
 
腹の中にある、最上級の汚い言葉がドンドン出てきそうだ。蹴って蹴って蹴りまくりたい!
 
……参りました。ただの独り相撲なんです。反応しているだけなんです。
ただ、犯人を想起させるアイコンと文字列を目にしただけで、何も悪いことは起きていないし、これからも起きない。あたくしは安全です。
 
そうして、こうやって文字にしてみたら、少し楽になりました。
変に平静を装おうとすると混乱するんだけど、混乱そのものを表現するとかは、まだできるんだな。っていうか、結構、これ、落ち着くな。
きっと数日したら、だんだん元の調子を取り戻すと思う。
 
この場があって共有してくれる人がいて、親身に話を聞いてくれるカウンセラーの先生がいるから、大丈夫。
こんなに心がドタバタなのに、心の中の安全地帯の人々に「ありがとう」とか感謝の念が出てくるあたり、以前とは違う。
孤独感が減っているよ。
少しずつだけど、あらまほし方向に向かっていると思うんだけど。
どうかなぁ?

トラウマ経験者、ヨガへの偏見を克服する。

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ヨガがストレスの軽減に良いらしい、ということは知識的には知っている。
ヨガで鬱を解消して、今は嘘のように元気だよ〜!というブログとかも読んだことがある。
だがしかし、これまでの経験から不幸なことに、あたくしはヨガにむちゃくちゃ偏見を持ってる。
 
身近で「ヨガいいよ〜♪ ハマってるよ〜♪」っていう人に詳しく話を聞くと、
「え? 瞑想とか宗教的なことは一切しないよ!」
と、明るく言う。え? ヨガなのに瞑想しないの? とここで疑問が生じる。
その人の、瞑想=宗教的というの捉え方も引っかかる。何を教わっているのだろう?
それで、ヨガの何がいいのか根掘り葉掘り聞くと、海辺や古民家、スタジアムにお洒落な格好をして集い、帰りに仲間とビールを飲むのが楽しいらしい。
そうですか、ビールは楽しそうだけれど、それはあたくしが求めてる類のヨガではない…と、以来、深くは突っ込んでいない。
 
 
 
あと、人から「このヨガの先生は、いい」と紹介されたこともある。
あたくしが具合悪そうなんで、あくまでも善意で教えてくれたんである。
せっかくだし、と足を運んでみる気になった。
 
その時の先生のヨガが、あたくしにとっての最初(で最後になるかも)のヨガ体験となる。
会場をグルッと見回すと、気張ったヨガファッションで来ている人もいるけど、ジャージの人もいて、気が楽。
基礎的なポーズから始まり、どんな風に呼吸をすればいいかも丁寧に説明してくれて好感が持てた。これなら大丈夫かも…。
 
しかし、その後がいけませんや。
先生は、病気を治癒させる不思議な力があるらしく、来場者ももちろんご存知なので、そこはかとなく何か面白いものを期待している雰囲気がお教室に充満しているのだった。もちろんあたくしもその件は耳に入れてるので、やるなら早く見せて!とは思っていた(笑)。
 
先生が前の方に立っている生徒の手首をやにわにグイっと掴むと、その人はピョンコピョンコと飛び跳ね始めた。
どうやら、先生のエネルギーを生徒に注入したために、生徒さんは不随意運動をしているらしい。
 
あちゃあ〜〜〜〜!
 
そうして、さあ皆さん、隣の人と手の平を合わせて、エネルギーを感じ合いましょう! とかいうことになった。
 
あたくしという人が悪いのは、事前に予約を入れていたとはいえ、また同じ人がピョンコピョンコするかどうか確かめに、後日、もう一度足を運んでしまったこと(ちゃんと違う人がピョンコピョンコしてましたとも(笑))。
 
ああ、もう絶対にダメ、無理! と、あたくしはヨガマットを押入れに封印した。
 
 
 
そうして、失意のどん底に落ちたあたくしが、まだヨガへの期待を捨てきれなくって手に取った本が、これ…。
『トラウマをヨーガで克服する』ディビッド・エマーソン著 
 
トラウマを持った人がヨガでリラクゼーションを試みるときの注意点、ポイントなどが書かれている。
これを読んで、ヨガ教室で感じた居心地の悪さ(超能力披露は別としても)が何だったのか良く分かった。
 
どうやらトラウマ経験者がヨガを行う時には、身体の安全に関する特別な配慮が必要らしい。
パーソナルスペースを十分取るとか、他者からの接触をコントロールするとかね。
(あたくしの場合は、見知らぬ人とペアになるとか、手を添えてもらうとかがダメだった)
 
この本の素晴らしいところは、トラウマの当事者のみならず、ヨガインストラクターに向けて「トラウマを持つ人がセラピー目的でヨガをする時はこうしたらいい」と具体例を挙げて解説しているあたりだろう。
 
軽々しく「癒し」とか言っているヨガインストラクター全員に読んでもらいたいくらいだ。
 
とはいえ、この本はあくまでもアメリカのトラウマ治療の最前線が書かれたもので、残念ながら日本でこんなヨガができる教室は皆無っぽい。
本で紹介されるトラウマケアの講習を受けたヨガインストラクターは日本にもいるみたいなんだけど、実践している教室が見当たらない。
資格取った人たちはみんなどうしてるのか? 持ってるだけで満足?
 
今の一大ビジネス的ヨガブームには全く興味ないんだけど、これが落ち着いた頃にでも、トラウマサバイバーが気軽に参加できるような優しいヨガ教室がでてくるといいなあ〜と、今日も一人、布団の上で三点倒立の練習をやるあたくしなのです。 
トラウマをヨーガで克服する

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