心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

カウンセラーの自己開示について。

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夏風邪引きました。39℃代の熱なんて久々だったなあ〜。2週間寝たきりでした。
この年齢になると「風邪だ」って言っても病院では信じてもらえず、「肺炎かも」「肝臓やられてるかも」と血液取られたり大変です。
5kg痩せたんですが、体力が落ちると自律神経の乱れも悪化するし、そうなると頭の働きも鈍くなるみたいで、まいった。
 
そういう訳で、文章がまったくまとまらなくて、この文章も3日くらい格闘している有様です。
 
で、今日のテーマは「カウンセラーの自己開示」であります。
個人的な情報、考えや感情を相手に明らかにすること、それすなわち「自己開示」。
 

カウンセラーの「自己開示」は常に小出し

カウンセリングでは、クライエント側はいつもカウンセリング側から自己開示を求められている。
カウンセラーによる「相づち」や「オウム返し」「質問」といった応答技法は、それらすべてがクライエントの自己開示を促す技術といっていい。
 
そうしてクライエントがカウンセラーのあの手この手の応答技法でこちらのアレコレを話していて、ふとこんな疑問は湧かないだろうか?
「この私の話を聞いている、目の前のカウンセラーはどんな人だろう?」と。
 
それで、時には逆にカウンセラー質問してみたりする人もいるのではないだろうか?
「結婚していますか?」とか、「今の私の話を聞いて、どう思います?」とか。
 
そうするとですね。だいたいカウンセラーは言い淀む。
加えて「なぜそんな質問をしようと思ったのですか?」と質問返しされたりする(笑)。
 
当初は内心「ケチ!」と思っていました(すいません)が、カウンセリングを少々齧った今なら分かります。
カウンセリングの世界にはどうやら「カウンセラーの自己開示は、どの程度行うべき?問題」があるらしいんですよ。
  

カウンセラーの「自己開示」は難しい

まず、カウンセラーはクライアントの心のスクリーンであるために極力「自己開示」はすべきではない、という考え方があるらしい。
 
しかし、カウンセラーが面接を重ねても真っ白なスクリーンの役を保ち続けるのは至難の技だろう。
時には、服装、視線、仕草が言葉よりも雄弁にその人を語ってしまうこともある。
カウンセラーが全く「自己開示」をしない、というのは土台無理な話なのである。
 
それに、カウンセラーの適度な「自己開示」には、良い効果もある。
心の距離感を縮めてくれるのだ。
相手がどんな人か分かったほうが、安心して「自己開示」できるとういう人もいるだろう。
 
難しいのは、それはあくまでも「自己開示」が適度な場合、ということになっていること。
過剰な自己開示によって双方の心理的距離が近くなりすぎると、カウンセリングという自己探求の場が、単なる世間話の時間になってしまう恐れがあるからだ。これだと楽しいけれど、カウンセリングの効果は期待できないので、クライエントの利益に反してしまう。
 
そうなると、どのように適度な「自己開示」を保てばいいのか? ということになる。
何しろ、カウンセラーが気をつけても、うっかり非言語で表現してしまうかもしれないし、クライエントからの質問という形で「自己開示」を求められるかもしれない。「自己開示」はコントロールが難しいのだ。
 
それじゃあ、カウンセラーは思ったこと、考えたことをフィードバックするのはクライエントの自己探求に役立つし、そういう類の「自己開示」ならいいんじゃないだろうか? という説が登場する。この場合は、個人情報に関する「自己開示」は行わない。
個人情報を聞いてくるようなクライエントには「お答えできない決まりになっている」とキッパリ言ったらいい、みたいな意見もある。
 
そういう訳で、クライエントの立場としては変な話だけど、その辺のカウンセラー側の事情を考慮し、これからはうっかりとカウンセラーに「自己開示」を求めたりしないように気をつけようとか気をつけていた訳です。
 

「自己開示」を躊躇しないカウンセラーがいた

ところが、である。
3人目のカウンセラーの先生に出会って、全くもって、自分は頭でっかちなおバカさんなんだな〜と思い知らされた。
 
今度の先生は、何だか様子が違ってて…、その辺の「自己開示」への葛藤というか、ジレンマがまるで感じられないのよ。
 
あたくしは、現在の先生には本当にいろんなことをお話したが、あたくしも先生のことをいろいろ聞いて知っている。
 
子供の頃から好きなこと、出身地、老いた親への想い、現在の家族、休日に何をしているか、過去の悲しかったこと……
他のカウンセラーなら敢えて自分から話さないような(恐らく聞いても話さない)ことを、先生は話の流れの中で、何でもさり気なく喋ってしまうのだ。
 
カウンセラーの「自己開示」はクライエントの利益を優先して小出しにするんじゃなかったのかい?
すでに先生に「陽性転移しました」宣言をしていたあたくしは、最初は 「こっちが質問した訳じゃないよ?」「これは何の作戦?」と、いちいちドギマギしていた。
 
…今はもう慣れちゃって、変な邪推は無用なんだわと理解している。
要するに、これが先生のカウンセリングのスタイルなのだ、深読みしてはいけないんだな、と。
 
お恥ずかしい話、この先生の「自己開示」のせいで、あたくしはウッカリとカウンセリングが閉じられた空間で行われる虚構の時間だということを忘れてしまうことがある。
その不思議なリアル感の中で、あたくしは自身の悔しい、恥ずかしい、悲しい想い出を語り、追体験し、毎回、安堵感に包まれて涙を流す。
それは、これまでの、暗い井戸に向かって話しているように、虚しさばかりがのこるカウンセリングとは全く違うのね。
その深さは、これまでの「自己開示」の控えめなカウンセラーとの面接では一度たりとも感じることのなかった感覚なのだ。
 
要するに…言いたいのは……、何て、カウンセリングって教科書通りに行かないんだろう、本に書いてあることと全然違うし(泣)。
そういうことになんだろうな…。
まあ、あとは、現在のカウンセラーをとても尊敬しているということだろうか?
 
とりあえず、ものすごく苦しんだけど、話がまとまったみたいだわ。じゃあ、今日はこの辺で……。

「野の医者」とは何か?

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調子は相変わらずスッキリしないけれども、難しくない本なら読み進められる。ありがたや。

『野の医者は笑う』東畑開人著 読了。
 
この本は、若き臨床心理士である著者が、沖縄を舞台に様々な「野の医者」の治療を受けまくり、それらの体験を心理学やらその他アカデミックなキーワードを散りばめてつつも面白おかしく書いたノンフィクション。「野の医者」とは、ヒーリング等をお仕事としている人の総称で、著者の造語だ。要はスピリチュアルですね。
 
沖縄のスピリチュアルというと真っ先にユタを思い出すけれども、この本の中心はどちらかというと新興勢力を扱っている。
文化、貧困、いろいろな要因から沖縄という場所はスピリチュアルの需要が高く、国内では先進的なエリアなのだそうだ。
オーラソーマ(色水の入った瓶を使う)とか、マインドブロックバスター(いわゆるブロック外し)とか、これらが一体どういうことをするものなのか、この本読んでよ〜〜〜〜く分かったよ!(笑) 特にマインドブロックバスターに関しては、3日間12万円の講習を受けた体験まで披露している。
 
それらはイチイチ怪しく軽薄なんだけど、単純に胡散臭いで済まさずに、そこに何らかの気づきを得るあたり、さすがは臨床心理士!かな?
例えば、スピリチュアルによる癒しと臨床心理学の癒し、両者はどこが同じで、どこが違うのよ?と、考える。
この辺の疑問、すごいでしょう?
スピリチュアルをネタに「癒しって何?」を考察する本なのである。
 
著者は、医療人類学者クラインマンによる「説明モデル」という概念を挙げて、スピリチュアルと臨床心理学の共通点を挙げている。
治療者が「不調の原因はこうだから、こうすれば治る」といった説明で説得を試みる。その説得をクライエントが受け入れた時に、治癒が起こる。
 
治癒の本質はレトリック(人を説得する技術)であり、それを支えるのは信頼関係であるらしい……となると、臨床心理学やスピリチュアルの癒しの本質は、要するに、砂糖で出来た丸薬が効いてしまう「プラシーボ効果」ってこと?
もちろん臨床心理士の立場としては、臨床心理学の方は科学であってもらいたいわけだ。 
 
ただ、この本の焦点はあくまでもスピリチュアル。臨床心理学が科学であるかどうかはさておき、スピリチュアルが臨床心理学と異なる面に着目していく。
 
例えば、
・スピリチュアルは治癒に至る説明が一般的ではないので、たくさん説明が必要。施術者自身が「これで自分も治った」など自分語り多し。
 (ブロック外す→元気になる、など臨床心理学より独創的)
・スピリチュアルは施術者が施術をすればするほど、施術者自身が元気になる。ゆえに施術したがる。
 (臨床心理士はカウンセリングをたくさん行うとクタクタになる(笑))
・スピリチュアルは、治療が成功した結果、超ポジティブシンキングで毎日がミラクルな躁的Happyになる。
 (例えば精神分析の場合は、感情を真正面から受け止められるようになるのが治癒のあり方)
・「深層心理」という言葉を使ったらスピリチュアル。「無意識」という言葉を使ったら臨床心理学。
…みたいな。
 
そして、一番の大きな違いは、スピリチュアルは非常にシステマチックなビジネスモデルが構築されている点だ、と著者は気づく。
施術者は施術をするだけでなく、施術の仕方を教えるスクールを併設していて、クライエントに「あなたも施術者に」と誘う(笑)。
そして、施術者スクールの上位にインストラクタースクールを設置して、施術者となったクライエントに「あなたも先生に」と誘う。
 
要するに、どんなスピリチュアルも最終的には頂点にお金が集まるシステムが出来上がってて、単純に癒されるだけでなく、自分らしく輝き、経済的にも豊かになることをゴールとしているあたりが、…というか、ぶっちゃけ「豊かになる=癒し」が最近のスピリチュアルのトレンドなのだそうだ。
この世界でもマーケティングがキーワードらしいですよ(コンサルティングという人もいる)。
 
著者は、これらのことについて良いとか悪いとかは一言も語らず、「人それぞれの癒しのあり方」を良しとしている。大らかな人なんだね。
 
あたくしは、疑り深いのでスピリチュアルにはイマイチ乗り切れないクチなのだけど、「楽しそうでいいなあ」という気持ちはあるし(自分は無理だけど)、そういうものに惹かれる人の気持ちにはとても興味がある。疑いながらも、実は興味津々な自分にも興味がある。
 
この本、スピリチュアル体験の資金は某財団の研究助成費で調達したそうだ。いいなあ、学者。

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

 ※誠信書房さんは心理系の本の老舗であり、そういうこともあってトンデモ本ではなくアカデミックな本、という体裁を保てているかな? 表紙が漫画なのがあたくし的にはアレなんですけど、著者のお友達の漫画家さんによるものだそうですよ

怖いものにではなく、怖がっている自分に焦点を当てて。

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前回、スマホにて偶然にかつてのストーカーの名前を見てしまい、具合が悪くなった件をカウンセラーの先生に報告した。

布のテーブルクロスにワインをこぼしちゃった時のように、怒りと怖さがドンドン心の中を汚染していく 感覚を、必死に箱に入れて見ないようにした。

箱を閉じたものの、中の強いものがドンドン膨れ上がってくるので、箱の上に重いものを置き、それでも蓋がパカパカしているので、上から長いネジでもって固定した。これ、全部妄想の中での話ね。それで、妄想の電気ドライバーでもって、何個もネジ止めした。

 

怖かったです。と、申しましたら、先生は間髪「違いますね」と言う。

「そんなことしろと教えてないでしょう?」と。

はい、そうですね。これは、これまで長年あたくしがしてきた対処法です。

「ぼくはね、イメージに逃げるのは好きではない」

それはあたくしも誤魔化しているみたいで好きじゃない。それに、どんなに過小評価しようとしても、怖いものは怖い。

頭では「そんなに怖がらなくていい」って分かってるのに、過剰に反応するところが問題なんだ。

 

俺サマがこれまで言ってきたこと全然、分かってねえな、って感じで、先生からは穏やかな中にも少し怒気が感じられる(笑)。←怖いと何故か笑いが出てしまうあたくし。

すみません、すみません的に申し訳ない気持ちを感じながらも、別メモリーが「え? 飴ムチ派ですか? 怒るカウンセラーですか?」とビックリしているのを感じる。

 

「カワイイと思えなければダメなんですよ」と先生はいう。

「いや、あれをカワイイとはとても…」

「怖がっている自分のことをですよ?」

「………。」

いえ、もう、何度も言われているのです。自分の中の弱さにもっと寛容にならなければ、と。

ビクビクとおびえ続ける自分の心の中の一部分はまるで臆病な森の小動物のようで、優しく優しくしてあげなくてはいけないのだ。

自分の一部だからね。

だけど、どうしても他人の弱さも自分の弱さも心の底からは認めがたい。

根性叩き直したらどうにかなるのではと、つい竹刀片手に、その弱いものをビシバシいじめようとする。

 

「怖いものにではなく、怖がっている自分に注意を向けるんですよ?」

「怖がってる時、どう思うかではなく、身体がどう感じているかを見るんですよ?」

はい、復習~という感じで先生が言う。

「はい~」

「もう、恫喝する人、近くにいないんでしょう?」

「はい~」

「今日はずいぶん元気がないね?」

「はい~」

 

また、さめざめと泣いた。もうイヤ、泣き癖が付いているのではないだろうか?

自分が泣けている意味が分からない。ホッとしてるのか、自分の不甲斐なさがなさけないのか。

 

精神科医の先生が言っていたけど、精神に同じ負荷がかかっても、病気になる人とならない人がいるそうだ。

それは決して、病気になった人が特に弱いというわけではなく、それまで抱えてきた個人的問題の差であったり、たまたまいろんな出来事が重なったというタイミングだけで、結構ギリギリの状態で抱えながらやり過ごしている人は多いんですよ、と。

先生としては、だからあなたは全体的に弱い訳でなく、強い部分も持ち合わせていると、と言いたいらしい。自信をもってちょうだい、とね。

う~ん、ここでこんなこと言ってもしかたがないけど、あたくしもやり過ごしたかった。諸処の問題は、墓場まで持って行きたかったよ。

 

しかし、ここまで来てしまうと、自分の感情を真正面から受け止められるようになるか、それともやっぱり怖いから諦めちゃうかは、自分で決めなくちゃね。

 

こうした問題解決の先に、どんな景色が広がるのか全く分からない。せめてあと10歳若かったら、人生も変わるような気がするのだけど。

でも、もう少し頑張ってみます…。

 

「かつてのイヤな記憶はなくならないけど、見ても平気になるようには絶対になります」

先生の言葉に本当? と、今でもちょっぴり半信半疑だったりするのだけど、そうなったらどんなに幸せだろうと思う。そして自分が珍しく他人に対して感じた信頼感も大切にしたい。

 

それにしても、カウンセラーの先生は大変なお仕事です。

おばさんがさめざめと涙を流しても、冷静さを保って飴やムチを繰り出して、あらまほし方向に導かなくてはいけないのだから。

 

あ、先生は、言葉選びは本当に穏やかな方です。でも、多分ドSな一面があるのでは?と…(笑)。妄想ばかりしていると、また怒られそうだけど!

 

ちくしょう! 思考停止。

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調子悪くなって、文章がまとめられなくなっちゃいました。
リハビリのつもりで始めたブログなので、結構、頑張ってみたのですがダメ。
書きたいことはたくさんあって、出だしはいいのだけど、こんがらがって、まとめられない。
ここ数日で、パソコンの中は書きかけの文章で一杯になった。
 
依存性があるので、薬は極力飲まないようにしていたのだけど、昨日は外出する用事があったために少し多めに飲んでしまった。
ささいなことで怒り出したり、逃げ出したりしないだろうか、そればかりが心配だったけど、誰もあたくしの不調には気づかないみたいだった。ホッとした。
 
それで、ここ数日、何か変わったことあったかしら、と巡らせてたら。
ありました! 思い出しました!
 
数日前の夜、寝つきが悪く、うつらうつら考え事していたら、ちょいと好奇心が出て、いまさらInstagramをしてみようと思いついたのだった。
世界を少しだけ広げてみる方法としても悪くないのでは、と。
 
病気になってから、自ら世界を狭めるようなことばかりしてた。
「怖い怖い」と言う自分と、「だから大丈夫だって!」と励ます自分がいて、 ここのところ、お陰様で「大丈夫」な自分の方がお元気だった。
 
世界は美しいものに溢れているし、ほとんどの人が優しい心を持っていることを、あたくしは知っている。
 
そうして、深夜に設定をしていたら、何と、フォローをお勧めする人の中にかつてのストーカーの名前が出てきたのだ!
 
何で? 何で?
 
頭、真っ白。思考停止。
 
イコン画像がFacebookと同じだったから、直感的に気付いたらしい。
らしい、というのは、パニックのあまり、すぐにアプリごと全部を消去してしまった。
 
犯人の苗字が珍しいもので、ローマ字綴りにしていても誤魔化し様がなく、すぐにヤツと分かった。
回避したいものは、ありとあらゆるパターンを想定して、脳に登録されているんだな。
 
こうして防衛機能が暴走してしまうと、いつしか、安全なものにすら危険の兆候を見出そうとしてしまう。
今読んでるトラウマのメカニズムを解説した本に書いてあったよ。
「記憶が汚染される」ってやつ、まさに、そうだな。
 
その瞬間は、怖いという感覚ではない、真っ白な感じ。
なかったことにしたい、という強烈な気持ち。
 
そうして、今朝、ここ数日のことを反芻するまで、具合の悪さとその出来事が全く繋がっていなかったのだ。
 
今は、怖いを通り越した真っ白な状態から、激しい怒りにシフトしているところ。
 
あれはまだ生きているのか! とか
ネットで探してんじゃねえよ! とか
 
腹の中にある、最上級の汚い言葉がドンドン出てきそうだ。蹴って蹴って蹴りまくりたい!
 
……参りました。ただの独り相撲なんです。反応しているだけなんです。
ただ、犯人を想起させるアイコンと文字列を目にしただけで、何も悪いことは起きていないし、これからも起きない。あたくしは安全です。
 
そうして、こうやって文字にしてみたら、少し楽になりました。
変に平静を装おうとすると混乱するんだけど、混乱そのものを表現するとかは、まだできるんだな。っていうか、結構、これ、落ち着くな。
きっと数日したら、だんだん元の調子を取り戻すと思う。
 
この場があって共有してくれる人がいて、親身に話を聞いてくれるカウンセラーの先生がいるから、大丈夫。
こんなに心がドタバタなのに、心の中の安全地帯の人々に「ありがとう」とか感謝の念が出てくるあたり、以前とは違う。
孤独感が減っているよ。
少しずつだけど、あらまほし方向に向かっていると思うんだけど。
どうかなぁ?

トラウマ経験者、ヨガへの偏見を克服する。

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ヨガがストレスの軽減に良いらしい、ということは知識的には知っている。
ヨガで鬱を解消して、今は嘘のように元気だよ〜!というブログとかも読んだことがある。
だがしかし、これまでの経験から不幸なことに、あたくしはヨガにむちゃくちゃ偏見を持ってる。
 
身近で「ヨガいいよ〜♪ ハマってるよ〜♪」っていう人に詳しく話を聞くと、
「え? 瞑想とか宗教的なことは一切しないよ!」
と、明るく言う。え? ヨガなのに瞑想しないの? とここで疑問が生じる。
その人の、瞑想=宗教的というの捉え方も引っかかる。何を教わっているのだろう?
それで、ヨガの何がいいのか根掘り葉掘り聞くと、海辺や古民家、スタジアムにお洒落な格好をして集い、帰りに仲間とビールを飲むのが楽しいらしい。
そうですか、ビールは楽しそうだけれど、それはあたくしが求めてる類のヨガではない…と、以来、深くは突っ込んでいない。
 
 
 
あと、人から「このヨガの先生は、いい」と紹介されたこともある。
あたくしが具合悪そうなんで、あくまでも善意で教えてくれたんである。
せっかくだし、と足を運んでみる気になった。
 
その時の先生のヨガが、あたくしにとっての最初(で最後になるかも)のヨガ体験となる。
会場をグルッと見回すと、気張ったヨガファッションで来ている人もいるけど、ジャージの人もいて、気が楽。
基礎的なポーズから始まり、どんな風に呼吸をすればいいかも丁寧に説明してくれて好感が持てた。これなら大丈夫かも…。
 
しかし、その後がいけませんや。
先生は、病気を治癒させる不思議な力があるらしく、来場者ももちろんご存知なので、そこはかとなく何か面白いものを期待している雰囲気がお教室に充満しているのだった。もちろんあたくしもその件は耳に入れてるので、やるなら早く見せて!とは思っていた(笑)。
 
先生が前の方に立っている生徒の手首をやにわにグイっと掴むと、その人はピョンコピョンコと飛び跳ね始めた。
どうやら、先生のエネルギーを生徒に注入したために、生徒さんは不随意運動をしているらしい。
 
あちゃあ〜〜〜〜!
 
そうして、さあ皆さん、隣の人と手の平を合わせて、エネルギーを感じ合いましょう! とかいうことになった。
 
あたくしという人が悪いのは、事前に予約を入れていたとはいえ、また同じ人がピョンコピョンコするかどうか確かめに、後日、もう一度足を運んでしまったこと(ちゃんと違う人がピョンコピョンコしてましたとも(笑))。
 
ああ、もう絶対にダメ、無理! と、あたくしはヨガマットを押入れに封印した。
 
 
 
そうして、失意のどん底に落ちたあたくしが、まだヨガへの期待を捨てきれなくって手に取った本が、これ…。
『トラウマをヨーガで克服する』ディビッド・エマーソン著 
 
トラウマを持った人がヨガでリラクゼーションを試みるときの注意点、ポイントなどが書かれている。
これを読んで、ヨガ教室で感じた居心地の悪さ(超能力披露は別としても)が何だったのか良く分かった。
 
どうやらトラウマ経験者がヨガを行う時には、身体の安全に関する特別な配慮が必要らしい。
パーソナルスペースを十分取るとか、他者からの接触をコントロールするとかね。
(あたくしの場合は、見知らぬ人とペアになるとか、手を添えてもらうとかがダメだった)
 
この本の素晴らしいところは、トラウマの当事者のみならず、ヨガインストラクターに向けて「トラウマを持つ人がセラピー目的でヨガをする時はこうしたらいい」と具体例を挙げて解説しているあたりだろう。
 
軽々しく「癒し」とか言っているヨガインストラクター全員に読んでもらいたいくらいだ。
 
とはいえ、この本はあくまでもアメリカのトラウマ治療の最前線が書かれたもので、残念ながら日本でこんなヨガができる教室は皆無っぽい。
本で紹介されるトラウマケアの講習を受けたヨガインストラクターは日本にもいるみたいなんだけど、実践している教室が見当たらない。
資格取った人たちはみんなどうしてるのか? 持ってるだけで満足?
 
今の一大ビジネス的ヨガブームには全く興味ないんだけど、これが落ち着いた頃にでも、トラウマサバイバーが気軽に参加できるような優しいヨガ教室がでてくるといいなあ〜と、今日も一人、布団の上で三点倒立の練習をやるあたくしなのです。 
トラウマをヨーガで克服する

トラウマをヨーガで克服する

 

 

カウンセング講座を受けながら「あたしはカウンセリングとは無縁」と言い切る人の弱点。

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「自分自身はカウンセリング受けようなんて考えないよ?」
一緒に講座でカウンセリングを学んでいる人がこう言った。
「だって悩み事は自分で解決できるもの」だとか。
 
そうだね。カウンセリングを学ぼうとする人は2種類いると思う。
自分もカウンセリングを必要とする人と、自分にはカウンセリングとは縁がないと思っている人と。
見回すと、現在の講座では圧倒的に後者の人が多いみたい。
 
そういう人は、部下が鬱で休職しないようにとか、職場の離職率を下げようとか、公共の福祉に寄与したいという意欲に溢れた、とても精神が健全な感じの人々だ。
カウンセリングの練習の時も、カウンセラー役は嬉々としてやるけれど、クライエント役は「ネタがない」と言って苦手そうだ。二度同じネタを出してくる人もいる。
あたくしはそういうのを間近で見てて、「本当に悩み事ないんだ!」といつも内心驚嘆している(笑)。(悩み事を自覚していない、というのも考えられるが)
 
人生における諸問題に対して自己完結できるのは結構なことだけど、そういう人にありがちな、致命的な欠点が一つある。
人前で弱みを晒す恥ずかしさを理解できてない人が多い、ってこと。
 
カウンセラーがカウンセリングを始める時の常套句で、
「これはあなたの時間です。守秘義務は守られるし、あなたは思ったことを何でも言っていいんですよ」
みたいなのがあって、これさえ言っておけば、クライエントは安心して何でも話せると思い込んでいる人がいる。
 
わざわざ自分から相談に来て話していることなんだから、平気なんだろう、と捉えているようなフシがある。
 
こんな個人的なことを今日会った人に話すなんて、ものすごい恥や情けなさを感じてるかもしれないなんて、想像すらしない人がいる。
 
クライエントが、勇気を振り絞って告白しているかもしれないなんて、考えもしていない人がいる。
 
まあ、しょうがない。今まで問題は自分で解決してきて、そんな境遇に陥ったことがないのだから。
 
以前、カウンセリングの練習で、あたくしがクライエント役の時、自分がストレスで精神的にメルトダウンして退職しなくてはいけなかった話をしたことがある。
その時に、心が健全な人は、「それで精神的に参ってしまったんですね?」と何度も事実確認してくるのだった。
事実確認や、カウンセラーが話の途中でそれまでの話をまとめたりするのはよくあることで、技法的には特に問題がないと思う。
 
…のではあるけれど、あたくしは言わずにはおれなかった。
「自分にとって、精神的に参って会社を辞めなくてはいけなかったことは、とても恥ずかしいことなんです」
「その恥ずかしいことを、何度も確認されることに苦痛を感じました」
 
その時のカウンセラー役の「ああ、そうなんですか」「言われて初めて気付きました」という反応に、やっぱりね、そこからだよね? とあたくしは軽く失望し、「こういう話を振っておいて良かった」と一人満足したのだった。(もっとも、カウンセリングの練習では、あまり重い話はよしときましょう、ということになっている)
 
カウンセラーが話をただ聞いてあげさえすればクライエントの心が軽くなる、と思っているとしたら、大間違いだ。
話す前にはものすごく緊張するし、カウンセラーがその気持ちを分かってくれていないと、その時間は苦痛でしかなかったりする。
 
だから、クライエントとしてカウンセラーと接していて「こいつ分かってねーな」と思った時は、率直に指摘してあげるのが親切ってものだと思う(笑)。
「これ言うの、恥ずかしいんですから」って。
こんなことすら、言わないと伝わらなかったりするけど、一度言えば分かってもらえると思うしね。
 
自分は単なる弱者ではなく、勇気ある人なんだと知ってもらうためにも是非!

「カウンセリングを学んだら辛くなった」という人。

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カウンセリングの勉強仲間が「カウンセリングを学んだら余計に辛くなった」と、こぼしていた。
何で? と聞いてみたら、
「職場や身の回りに困った人がいると、すぐに分かるようになった」と言う。
 
そういうのは、身に覚えがある。
自分も、ストーカーに遭ったりパニック症状を何度も再発させてたりしてから、周囲の状況に敏感になった。
多分、常に交感神経バリバリで、身の回りの安全確認をしているうちに、たまたま目に入ってしまうのでしょう。
同じ病の香りを嗅ぎ取るというのか、ストレスで参りそうな人などが目に入ると構わずにはいられない。
 
しかし、自分も結構、精一杯だったりするので、他人の問題解決に積極的に関わるとすぐにクタクタになってしまう。
相手の為というより、自分がそうせずにはいられない、という衝動に駆られているだけだから、それは、独りよがりで、場合によってはおせっかいだろう。
 
なので、お悩みいつでもお聞きしますよ♪的な雰囲気だけは残しつつ、あたくし的にはもう少しフラットに世の中を見れるようにしたい。
そういう風に思って、カウンセリングを学び始めたのだ。
 
 
 
ははあ、分かった、困った人を見ると、なんとかしてあげたいと思う方でしょう? と聞いたら、
「そうなんです、どうやって解決したらいいんだろうと考えてしまいます」
「そうした人が見えてしまうことにイライラします」と言っていた。
 
基本的にその人は普段の会話から察するに、とても優しい心の持ち主だ。
だけど、人の気持ちがより解るようになった結果、辛くなったり、イライラしてしまうのはよろしくない。(ついでに、カウンセラーの態度としてもチト違う)
 
それはさあ、見えているけど何もしない、って決めることだよ。
これは、あたくしがカウンセラーの先生からいただいたアドバイスのパクリです(笑)。
 
自分が何もしなくても、放っておいたら自然に解決するかもしれないじゃない?
しばらく放っておくのがいいよ、もっと大変なことになったら真剣に考えよう〜くらいでいいんだよ。
 
ヴィパッサナー瞑想で言われる、「心の反応を止める」というやつだな(笑)。
ああ、そうだなぁ〜、辛そうだなぁ〜あの人、あの人の辛さを感じている自分がいるなぁ〜 ですな。
 
 
 
心理職の仕事は「精神的にとても疲れる」という人がいるけれども、それは「変に分かってしまう」せいではないように思う。
むしろ傾聴の技術は、そういう意味では、クライエントの気持ちに寄り添う聞き方であるだけでなく、カウンセラーの心も守ってくれる聞き方であると思うのだけど、どうだろう? そういう説はまだ聞いたことないけど…。
 
カウンセラーがシンドイと感じるとすれば、それはクライエントが一人では踏み込めない心の領域への旅に、一緒にお供する時だと思う。いつでも安全な場所に連れ戻してくれると信じているカウンセラーが側にいるから、クライエントは一人では耐えられない怖い場所に行けるのだ。そういう役割があることに、3人目のカウンセラーに会って、やっと気付いた。そりゃ大変だ。そりゃ疲れるだろう。
 
そういう訳で、あたくしのカウンセリングもまだ周辺の問題処理をしている段階で、まだ全然核心に行き着けなさそうなのだった。
「覗いても大丈夫っていう時まで、覗かないように蓋をしておくことも大切なんだよ」とカウンセラーの先生が言った。
 
カウンセリングの勉強では、クライエントの問題をカウンセラーが先回りして解決しないように、と何度も指導される。
クライエント自身だって、心の準備が出来てないのに変に焦って問題を解決しようとしなくてもいいような気がしてきた。
 
いや、まだ、実際はそこまで悟れてないのだけど、もしかしたら、そういうのもアリなのかと思えてきました。ちょっとだけ。