心の中にもリアルな世界にも、いるよ?
先々週から働いているのだった。
カウンセラーではないけれど、とりあえず相談に乗ったり励ましたりする役割を行う仕事に就いたのだ。
とはいえ、まだ、何にもできないので、人の顔と名前を覚えるよう努力し、与えられた雑務を必死こなしている。
正直言って、2年ぶりの就労は、ごっついヘヴィである。
緊張しまくり、週末になったら、やっぱりアルプラゾラムの力を借りてしまった。
情けない話だけれど、カウンセリングに通っていなければ、入社一週間で果てたかもしれない。
そうなったら、最短記録を作るところだった(笑)。
今回心掛けているのは、「仕事を持ち帰らない」こと。
退社するときは、何もかも全部ロッカーにぶち込んで帰る。
通勤電車の中では1ミリたりとも仕事のことを考えないように心掛ける。
分からなかったこと、出来なかったことを、家で反芻しない。
「それはいいね」とカウンセラーの先生は激しく同意し、アドバイスをくれた。
「自分の時間まで仕事に使ってしまわないように気を付けてね」
そう、病を得るまで、あたくしは仕事大好き人間だったのである。
そもそも仕事と遊びの区別が付いていなかった。
「これからはさ、自分の健康のことだけ考えて働くといいよ。
そもそも仕事と遊びの区別が付いていなかった。
かつてのあたくしは、残業も徹夜も文化祭の前夜みたいに楽しかったのだ。
それは遥か昔の事だけど、今思えば、それも充分ビョーキだな。
あたくしは、そんなビョーキ状態にずっと戻りたかったんである。
それから、病気の再発を繰り返してからは、行く先々の職場で何とか役に立つ人間であろうと努めた。
自分のウィークポイントのことはひた隠しにして、ソツのない人間であろうと心掛けた。
そうして、自分がどういう人間なのか、何を感じているのかドンドン分からなくなってしまったのだ。
「これからはさ、自分の健康のことだけ考えて働くといいよ。
人の期待に応えようとか考えなくていいんだよ?」
先生の言う通り、そうできたらどんなに良いだろう。
しかし、今度のお仕事は人間相手だから、その辺、ちと厄介とは思うが。
「ぼくもさぁ、休みの日とかにあなたのこと思い出すことあるんだよね」
えっ、ホント?
「だけど、そういうときはすぐ止めて、後でまとめて考えるんだよ」
「ぼくもさぁ、休みの日とかにあなたのこと思い出すことあるんだよね」
えっ、ホント?
「だけど、そういうときはすぐ止めて、後でまとめて考えるんだよ」
それが大切なのだと、先生は言った。
自分の為の時間と、人の為に働く時間をキッチリ分ける。
気持ちの切り替えが、心の健康を守ってくれるのだと。
その日のカウンセリングは、あたくしがのっけから「励ましてください」とオーダーしたので、先生は全力で鼓舞してくれたのであった。
でも、いくら持ち上げてくれても、自分の反応はイマイチ不安気なのである。
正直、いつまで仕事が続けられるか自信がない、と打ち明けた。
「あのさぁ、聞いているとさぁ、心配する必要なんてないのに、ワザワザ心配しているように見えるんだけど!」
先生は明らかに焦れた口ぶりで言った。
「何が心配事なのよ? 大丈夫でしょ? もう一回心の中のおじいちゃんを思い出して?」
そうですね、そうですね、と言いながらも、あたくしはどこか歯切れが悪いのだ。
「あの、あのですね、お願いがあって」
思い切って、あたくしは言う。
「安全基地の中に、先生にもまだ居てもらっていいでしょうか?」
失敗しても絶対に失望したり怒ったり愛の返上をしない存在…すなわち母性の象徴である母方の“おじいちゃん”の他にも、あたくしには必要な人がいるのだ。
「自分に危害を加える人に会った時、守ってくれたり、一緒に怒ったりくれる存在が必要で…」
あたくしが求めてるのはそんな父性の象徴なんである。
先生は、パッと見、全然強そうに見えないけれど(笑)、怒ったらそれなりに怖そうだし。
そんな風にお願いしながら、いや、よく考えたら、これはあたくしの妄想なのだから、許可なんか取らずに勝手に安全基地に架空の先生を置けば良いのだろうに…ともボンヤリ思う。
「この歳になってお恥ずかしいのですが…それを、先生にお願いしたくて」
この部屋で、自分の魂は小学生くらいの女の子になってしまってる。
「怖くて、怖くて」と、ピィピィ泣いている。
「歳なんか関係ないよ?」と先生は言ってくれた。
「もちろんそうしてくれていいし、現実のボクもあなたを守るし、一緒に怒るから」
こんなの、言葉遊びかもしれないけれど、あたくしはそれを聞いてやっと安心したのだった。
現実に今の職場に嫌な人がいる訳ではないのだ。
だけれども、いつか誰かに傷つけられるのではないかと、漠然とした不安に苛まれていたのだ。
そうして、そうなったら、たった一人でそれに耐えなくてはいけないのだと、恐れていたのだ。
「そうじゃないでしょ? 今のあなたは一人じゃないでしょ?」
先生、それは知っているよ。
今の自分には良い友達もいて、何かあれば、きっと共感してくれるし助けてくれる。
でも何かもっと確実な安心感を求めて、あたくしは先生に助けを求めたのだ。
無理矢理に「助けますよ」と言わせたのだ。
「リラックスしてよ〜! そうじゃないと、あなたらしさが出ない」
先生は嘆いた。
助けを求められるようになった自分に、少しは自信を持たなくてはいけないよね?
先生はいつ気付いたんだろう?
あたくしがカウンセリングを受けるにあたって執着したのは、10年前の事件の被害体験である。
自分は、その時間の体験を処理すれば、再び元気になって以前の“わたし”に戻れるのだと思い込んでいた。
ん〜そうじゃないな、と気付いたのは極く最近のことだ。
だって、事件の記憶に触れないままに、事件のことは平気になってしまったのだもの。
それなのに、予期不安は、消えないのだもの。
事件に関しては、今は、静かで正当と思える怒りだけが残り、あれだけ苦しめた恥や後ろめたい気持ちは、薄っすらと傷跡のように残るのみとなった。
カウンセリングの練習は、最初はひたすら相手の話に集中して共感のサインを出しまくるだけで及第点がいただけるが、次第にそれプラスαを求められる。
クライエントが訴えていることを真摯に聞くと同時に、未だ言葉に表現されていない真意を読み取りなさい、と指導される。
とはいえ、本当に問題とするところに本人も気が付いてないことが往々にしてあるのだ。
自分の場合で言うと、
主訴…ストーカー事件のトラウマから来る、制御できない恐怖心と怒りを低減させたい
問題…イザという時に守ってもらえなかった孤独感、恐怖心、怒りを解決したい
となるのだろう。
カウンセリングを進めるうちに、ストーカー事件への執着はどんどん消えていった。
許したというのとは違う。虚しいので考えたくもない、というのが近いのかな?
それよりも、何で助けてくれなかったんだ! という親への怒りが煮えたぎるようになった。
しかし、その親はどこにもいない理想の親であり、それすら正確な理由ではないのだろうな。
トラウマ本をそれこそ何冊も読んだのだけれど、ある本に書いてあったのは…トラウマの本質は、本人には分からないそうだ。それゆえにトラウマなんだそうだ。
この自分の漠然とした不安、失敗したら取り返しが付かない、だから完璧を目指さなきゃ、だって誰も助けてくれなのだから…頭では現実にそぐわないと分かっている、きっと今なら助けてくれる人がいるだろうと知っている…だけど、そうした悲観的な考えを払拭できないのには、何か理由があるんだろう。
そうして、何がこんなに自分をこじらかせたのか、具体的な理由などは分からないのだ。
きっと、この先もそれが何のせいなのか分からないんだろう。
ここ最近、ずうっと愛着関係の本を読んでいる。
学生時代に心理学を学んでいた時は、このトピックは大嫌いだった。
「育児が下手な親に育てられた子供は、取り返しの付かないことになる」と書いてあるようで、怖かった。
ところが、どの分野においてもこの30年で飛躍的に進化したけれど、心理学においても随分研究が進んだ。
素晴らしき、脳の可塑性の解明である。
親から理想的な愛着を得られなくても、親戚、年上の兄弟、教師、上司、恋人、伴侶がその役割をして愛着を育ててくれると。はたまた、自分の子供が欠けたものを埋めてくれると。
これは、自分にとってはちょっとした希望なのだ。
どうやら、少し時間は掛かるようなのだけれど。
実は、来週から、働き始めるのだ。
2年振りの通勤電車で、とても緊張しているらしい。
自分のことなのに、“らしい”というのも変だけれども、あたくしは自分の気持ちに対して鈍いところがあり、そうとしか言えない。
ただ、具合が悪いから、ソワソワしているから、緊張しているんだろうな、と予測しているのだ。
カウンセリングを受ける際には、最初に到達したい目標を立てたりすると思うのだけれど、自分の場合のそれは「トラウマの恐怖を解消して、再び働けるようになりたい」だった。
お陰様で、予定より数ヶ月余分に掛かったけれども、電車に乗っても「バッタリ犯人に遭うんじゃないか」といった恐怖心も無くなったし、働き出して続けられなかったら打ちのめされるからいっそ引き籠っていたい…という変な思考も無くなった。
クリニックの先生もカウンセラーも「もし、すぐに辞めることになっても、あなたの価値とは何の関係もないんだよ」と言ってくれている。
そうして、その通りにすぐに辞めることになっちゃったとしても、多分…大丈夫と今は思えてる(笑)。
だって、おんもに出るの楽しいじゃん?
仮に怒るにしたって、今までと全く違うことで怒るんだろう。
未体験ゾーンの喜びも見出せるかもしれない。
緊張しているけれど、期待していることもあるのですよ。
それにしても、カウンセラーの先生は、いつ自分の真の問題がストーカー事件じゃないって気が付いたんだろうか。
「失敗しても安全な場所があることを知っていれば、大抵のことは乗り越えられるんだよ?」って、どうやってあたくしに教えられたんでしょう?
そんな未来の話には、一言も触れていなかったのにね。
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『ブルースカイブルー』のラストの“青空よ心を伝えてよ、悲しみは余りにも大きい”
の部分は、涙腺全開なんである。
ありがとうヒデキ。小学生の頃から大好き。
ベスト盤は三枚も持っていて、かなりご執心なのであります。
その中でもよくまとまっていると思える一枚。
ありのままを、見たい。
今回のカウンセリングは、ちょっと前に帰省した時の出来事がテーマとなった。
手術後の足の回復具合が思わしくないと嘆く母の様子見に訪れたのだ。
母は、昨年の秋に手術した足の骨が、半年以上経ってもくっつかないと訴える。
確かに正月に会った時も両手の松葉杖で不自由そうだったので、それなりに心配していたのだった。
しかし今回、実際に会ってみると、ことのほか元気そう。
娘に会えた喜びからか、母は時に松葉杖を忘れて歩き回り、いそいそともてなしてくれる。
「足、元気じゃん…」とあたくしが言うと。
母は「本当にお前が来る前は痛くて歩けなかったんだよ?」と言う。
数日経ち、母の足は“本当に大丈夫そう”とホッとしたら、その反動か、その後のあたくしは怒ってばかりいた。
つまり、もう親への感情は整理し尽くしたと思い込んでいたら、もちろんそんなことはなく、いろいろな未消化な想いが沸き起こり、それが怒りとなって現れたのだ。
そんな不安定なあたくしを見て、母は「可哀想ね」と言った。
「すごく昔のことなのに今も悩んでて、可哀想。
それがカウンセリングに行ったら、少しは楽になるんでしょう?」
その言葉が何だかとても冷たく感じられ、あたくしは更に怒ったのだった。
「ああ、楽になるさ! 早く次のカウンセリングに行きた〜い!」
あたくしは小学生のように、そう喚いたのだった。
あたくしは、滞在中、何だか意味もなく辛くて、夢の中にまでカウンセラーが出てくる始末だった。
それが、カウンセラーからの電話でカウンセリングをキャンセルされる…とか、ことごとく残念な内容なのだった。
「今日は、この怒りを処理したいのです」とあたくしはカウンセラーにお願いした。
先生は「何の怒りですか?」と問うた。
「もっと理解してもらいたい、もっと興味を持ってもらいたい、もっと尊重されたい…それが叶わない怒りです」
その怒りが大きすぎて、飲み込まれてしまうと、自分はすっかり正気を失ってしまう。それは、非常に良くないと思う。
「滞在中に自分は、不必要に何度も親を傷つけたのですよ」とあたくしは告白した。
「オロオロする母に、何度も何度も“娘のことが分からないのは、あなたの限界だからしょうがない!”と言ったのです」
そんなことを言うくらいなら、会いに帰らなければ良かったと後悔した。
でも、心の嵐に翻弄されながらも、分かったことがあるのだ。
「そういう、イマイチ自分のことを分かってくれない母親が、
自分の本当の母親なんですよね?
どこにもいない理想の母親と比べて、
わたしが勝手に怒ってるだけなんですよね?」
あたくしが怒りを蒸し返して喋りまくっている様子を面白そうに眺めていた先生は、「そうだよ」と言った。
「そうして、自分にとっての先生は、極めて完璧に近い人ですけど、本当はそんなことないですよね?」
先生は「そうだね、僕は完璧からは程遠い人間だよ」と、笑いながら言った。
「あぁ、だから…」
今日の自分の言葉は、心からの叫びだ。
「その人のありのままを、見れるようになりたいんです」
ありのままを見る…というのは、最近流行りのマインドフルネスだな(笑)などと考えた。
こうあるはずだ、こうあって欲しい、というフィルターを外して人を見ることができたなら、自分はどれだけ無用な失望から解放されて楽になるだろう。
それだけだ。
楽になりたい。
もうファンタジーの世界から抜け出したい!
「じゃあ、無条件に受け入れてくれた人の体験を思い出してみて?」と先生が言った。
あ、先生、それ、前にやったやつではないですか?
「母方のおじいちゃん…」
「そうそう、それそれ、思い出して!」
してもらえなかった怒りではなく、してもらったときの充足感を思い出す。
そうして怒りでいっぱいの自分を癒してあげる。
「人は、良いことは忘れちゃって、悪いことばかり思い出す…何故かなぁ?」と先生が言う。
おじいちゃんにまつわる記憶というのは、ほとんどが3〜5歳のものだから、記憶の映像サンプルが限られる。
「あのう、資料に限りがあるんですけれど、繰り返し再生で良いのでしょうか?」
「いやいや、だんだん細かい部分まで思い出すよ。リアルであるほど良いんだ」
そうして、ディテールを思い出すように誘導される。
おじいちゃんはどんな人だった? どんな姿が思い浮かぶ?
縁側のサボテン、煙管、熱燗と鮪の刺身…あたくしはいろんなことを思い出した。
そうして先生は、今、あたくしの身体はどんな感じなのか聞いてきた。
「どんな…って、軽いです。身体を圧迫する鎧のようなものもない」
「それが、本来のあなたの感覚なんだよ?」
そんなやり取りを通じて、おじいちゃんのどんなところが自分に安心感を与えてくれたのか、再びしみじみと考えたのだった。
何も期待されないのって、そのままを受け入れられるって、優しいなあって。
「きっと、おじいちゃんがあなたにとっての母性の象徴なんだよ」
と、先生は妙なことを言った。
なるほど、あたくしの心の中のママ的な人はおじいちゃんなんだわ。
なんとややこしいことだろう。
そうして、申し訳ないけれど、先生はもう少しだけ理想のパパ役を演じててください、お願い。
大好きな大貫妙子の曲、『愛は幻』の歌詞にこんな一節がある。
“あなたの窓へ届く私は幻”
お母さんが見てる“幻のあたくし”と、あたくしが見ている“幻の母親”。
あたくしがギャンギャン泣き喚く自分の痛みを持て余しているように、母もあたくしを持て余している。
「“おまえの言ってることが難しくって分からない”って言うのだからしょうがないよね…?」
先生はあたくしのことを「お喋り上手」って褒めてくれたけれど、それは、あらゆる語彙を使って自分を表現し、親に理解されたかったからなんだよ。
「でも、もう諦めようと思うんです。言葉が通じないんじゃ、しょうがない」
「いやいや。言葉が通じなくてもね、こうして、ただ抱きかかえてあげるだけでいい」
先生はそう言って、そっと自分のお腹に手を当てて見せた。
それは、あたくしの中で泣き叫ぶ存在のあやし方のことだ。
そうしてそれは、かつての自分が扱ってもらいたかったやり方なんだ。
ぼくのやり方で自分を扱って!
自分の中の違和感は、胸痛、息苦しさ、動悸…といった予期不安という形を取る。
以前のあたくしは、これらを自分に何かを訴えるアラームくらいに思っていた。
しかも壊れているアラーム。
何でもないことで鳴り出すアラーム。
止め方の分からないアラーム。
自分はどうやったら、その壊れた部分を直せるのだろうか?と、そのことばかり考えていた。
ところが、現在のカウンセラーの先生は「その子の声を聞け」と言う。
その子…そうですか、機械ではなくで、それは生きものでしたか。
あたくしはじっと耳を傾ける。
だけれども、恐らくその子とあたくしでは言語体系が違う。
その子が泣いたり喚いたりしながら必死に自分に訴えかけてくるものが何なのか、分からない。
放っておくと、いよいよ勢いを増し、自分の頭をフリーズさせて布団に篭りっきりにさせたりする。
そういう訳でイザという時、ごく最近までは、その子をアルプラゾラムで眠らせてきた。
眠らせれば、その間は楽になる。
その子が起き出したら、また胸の痛みが迫ってくるのだけれど。
最近やっと、とことんその子の声を聞いてみようという気になってきた。
机の上やカバンの中、そこかしこに置いてあったアルプラゾラムを集めて、引き出しの中に放り込んだ。
そうして「さあ、聞いてあげるから、言ってごらん?」と、その子に語りかける。
けれどもちっとも上手くいかないのだな。
あたくしは焦れてイライラする。もっと分かりやすく表現してくれと思う。
「でも、ハッキリ言わない気持ちも分かるんです。本当のことを言うのが怖いんですよ」
もうこの辺は、あたくしとその子…つまり擬人化されたあたくしの違和感、予期不安の諸症状に関する妄想話だ。
「子どもの頃の、大人から言われる“ホントのこと言ってごらん?”っていうのがあるじゃないですか?
あれって、本当のこと言っても、結局怒られるじゃないですか?(笑)
あの展開を予測して、その子は本音を言えないんですよ。」
これはもう、かつての自分と親の関係を踏襲していることが薄々分かってる。
嘘をついても本当のことを言っても、親の意図するところを読み損ねたら、結局怒られる。
真実を語るよりも、どのように取り繕えば事態が丸く収まるのか、そればかり考えていた。
「あまりにも警戒心が強くて黙っているから、終いには誘導尋問するんですよ。こうなんじゃなーい?って…」
それが、幼少期のあたくしへの親の接し方だったし、自分の違和感に対するあたくしの態度でもある。
「ちょっと、ちょっと!」それまで黙って聞いていた先生が声を上げる。
「誘導尋問なんて止めてくれる?」
言葉は穏やかだけど明らかに咎めてる。
「ぼくは、一度だってあなたにそんなことしたことある?
ないでしょ?」
それはちょっぴり怒気を孕んでて、緊張感がある。
そうして、
「ぼくがいつもあなたにしているみたいに、あなたも自分のことを扱ってくれない?」
と、先生は言った。
いきなり皆様に問いかけちゃうけど、その時のあたくしの不思議な気持ちを想像できます?
あたくしは、ビックリしたよ。そうして後で考えれば考えるほど、ますます不思議な気がするよ。
自分の心が、もう自分一人のものではないような、奇妙な感覚。
あたくしが持て余し邪険にしている自分の違和感を、先生はもっと丁重に扱ってあげてと言う。
いつも先生があたくしにしてくれるやり方で、あたくしも自分の違和感に対して接してあげてと言うのだ。
「ちゃんと自分の心を抱えてあげたら、些細なことで動揺したり怒りを感じたりしなくなるから」
ああ、難しい。だって、何を言ってるか分からないのですよ?
「そのうち、絶対分かるから、大丈夫」
先生は自信たっぷりに言うけれど、そんな日が果たして本当に来るのだろうか?
「ねぇ、今、胸の痛みはどうですか?」と先生が問いかける。
「全然…痛くないです」
「ほら、今はちゃんと自分の気持ちを抱えられてるからだよ」
そうだろうか? それは違うと思う。
ギャンギャン泣く赤ちゃんを抱えてオロオロしてたら、隣から先生がヒョイと取り上げ、たちまち寝かしつけてしまった…感じなんじゃないかと。
「今は、先生がいるからですよ?」
先生は、それを否定せずにどことなく満足げだ。
「ん、それもあるとは思うけどね」
「それに、あの痛みは“一人の時にしか出ない幽霊”みたいなものなんですよ」
そんな風にあたくしが言うと、先生は顔をしかめた。
「何だか知らないけど、今日はよく“幽霊”の話を聞く日だなぁ…」
そういう日ってあるものですよね?
「怖いから、その“幽霊”の話はやめてくれない?」と先生は言った
※自分は予期不安時の頓服…アルプラゾラムを「我慢して」痛みと向き合うって宣言したけど、先生は「痛いの、我慢しないで」と言った。あたくしには、辛いことを我慢する→その我慢がどこかで報われる、っていう思考回路があるんだろうな。そんなこと必要ないよ、なるべく楽に行きなさい、と先生は言うのだ。
先生、ヘルプミー!
カウンセラーの先生に助けを求めてしまった。
ゴールデンウィークを挟んでいるので、カウンセリングのスケジュールは変則的だった。
次のカウンセリングはまだ2週間も先。
いや、スケジュールを決めた時は、もちろん大丈夫だと思ったのだ。
最近のあたくしの精神状態は悪くないし、何かあっても自分で乗り越えられそう。
そう思っていたのだけれど…ひとたび激しい葛藤と混乱に襲われるともうダメだった。
とりあえず、周囲の友人にそれとなく相談したりする。
そうして、一人でいろんな角度から検討してみたり、発想の転換を試みる。
ネットを検索しまくり、答えを求めていたこともあるけれど、そこには答えがないことはもう知っている。
答えは自分の心の中にあるのだ。
だけど、その答えは違和感としてしか感じることができない。
その違和感が何を訴えているのか、自分には分からない。
自分の中に、泣き叫ぶ赤子を抱えているのだ。
泣き叫んでいるのは分かるけれど、自分の心が何故そんなに泣き叫ぶのかは分からない。
自分の心に対して、オムツなのかミルクなのか? と、新米ママみたいにオロオロする。
これまでなら、自分はそれを半錠のアルプラゾラムで鎮火してきた。
だけど、今回の辛さは、何だかそこに逃げ込もうという気持ちにはならない。
じっと、自分の違和感を見つめている。
この、誰かに傷つけられた時のようなヒリヒリとした感じは何なんだ?
カウンセラーの顔が思い浮かぶと、少しホッとして涙目になる。
そうだ、そうだ、と、あたくしはカウンセリングを想定して手紙を書いてみる。
この違和感は、あたくしはこういう理由だと思うんですよきっと…みたいなの。
そのバーチャルお手紙は、みるみる綴られて、結構な長文になってしまった。
困ったことに、こうして形にしてみると、何だかリアルに出してみたくなってきた。
いや、それはいかんよな。それはいかん。
先生のメールアドレスは、あくまでも連絡用として存在しているのだ。
でも、もしかしたら、先生に投げかけるだけで、自分は安心するかも知れない。
お返事はいらないから読んで欲しいって、メールしてしまおうか?
考えあぐねて、恐る恐る予告メールを出す。
ここに至った経緯に加え、これから長文メールを送ろうとしていること、見てもらえるだけで安心できそうなこと、などなど…。
週末の夜というのに、先生からは驚くほど早く返事が届いた。
「全てはカウンセリングルームで進めた方がいいですよ」と面接の提案が書かれていた。
そうだね、それがいい。何よりも先生がタダ働きしなくていい(笑)。
愚かにも、自分は次の面接までの間、何とか自分を誤魔化してやり過ごすことばかり考えて、臨時の面接をお願いする発想が思い浮かばなかったのだ。
映画『普通の人々』で、友人の自殺を知った主人公が取り乱し、カウンセラーに助けを求めるシーンを思い出した。
それから、以前、先生にその映画のことを「ご存知?」と話したときに、「知らないなぁ〜」と1ミリの興味もなさそうに答えた先生の間の抜けた顔を思い出す。
先生は、あたくしが理想とするカウンセラー像のことなんか知らないけれど、ちゃんとその理想をなぞっているのだ。
今回の自分の葛藤や混乱や違和感は、友人の死のような大きな出来事などではなくて、ほんのささいな日常のつまづきだから、そんな弱い自分に途方にくれる。
今まで、もっと大変なことだって自分一人で切り抜けたことがあるのに、ひとたび病んでからは、どうしてこんなに弱くなったのか?
違和感に包まれると、何もかもすっかり混乱して、簡単なことも決められなくなる。
これから、たくさんの矛盾がある世の中に、あたくしは戻っていけるのかなぁ?
ささいなことに傷ついたり困惑したり、いちいち憤っていては、神経が持たないのに。
当日、カウンセリングルームに出かけると、チャイムを鳴らしても返答がない。
不安に駆られてメールをチェックすると「予定が少し押してしまったから、待ってて!」と入っていた。
入り口でボンヤリと待つ間、「もう、泣きそう」と思う。
先生の顔を見たら、安心してワアッと泣き出しそう。
そうして、泣きながら「あのね、あのね…」と自分の混乱を先生にぶつけそうだ。
だけど、急ぎ足で現れた先生を目にしたら、自分は必死に謝っている。
「あっ、あの、すいません、もう少し一人で頑張れるかと思ったんですけど、ダメでした…」
先生はお部屋の鍵を開けて、「さあ、どうぞ」とあたくしをいざないながら、言った。
「いいのいいの、ここはそういう場所だから」
あたくしは、困った人。
カウンセリングの日。
あたくしは先日のハローワークでの一件をお話する。
犯罪被害者であることを告白したあたくしに、ちょっと無神経な発言をした相談員。
いつもなら当然出現したであろう、自尊感情が傷つけられた際の激しい怒りが全く出てこなかったこと。
そのことに、とてもホッとしたんです…と。
うつやトラウマを抱えている人は、些細なことで激昂してしまうことがある。
怒りというのは瞬発性の高い化学反応だ。
感情に飲まれ、不必要に人を傷つけてしまえば、ますます自信をなくしてしまうだろう。
「本当の自分はこうじゃないんです」と言い訳をしたくなる。
そうして怒りはまず、自分を消耗させる。
怒りが沸き起こる時に消耗し、その怒りの制御を試みて消耗する。
その時、怒りへのアクセルとブレーキ、二つの力が拮抗して、他人から見たらあたかも静止しているように見えるかもしれない。
だけど、本当は焦げ付きそうに高速回転し、疲労している。
かつての自分は、そこから自力で抜け出そうとして、「アンガーマネジメント」の本とか読んだりしたのよ。
全く役に立たなかったけど(笑)。
「いつもの自分だったらどうしていたと思います?」
自分はカウンセラーの先生に問いかける。
そうして、まだ言ってない、自分のお恥ずかしい部分をカミングアウトする。
「後でクレームを入れちゃうんですよ。メールとか、手紙で」
先生は「ほう」という顔をする。
「わたしは傷付きましたとか、もっと真面目に聞いて欲しかったとか、ね」
以前のカウンセラーには、「期待はずれのカウンセリングでガッカリした」と書き連ねた手紙を送ったことがある。
犯罪被害者の為の電話相談を利用した際は、「40分も身の上話を聞いておいて結局“こちらでは何もできない”ってどういうことでしょう?」と抗議のメールを入れた。
以前のカウンセラーからは返事が来ることがなく、電話相談の方からは魂の抜けた非常に丁寧な謝罪メールが届いた。
自分は分かってる。
怒って抗議しても、決して自分が満足するようなものが返ってくることなんかないってことを。
それどころか、共感が得られないことに、余計に傷ついてしまうことも。
だけど、この怒りをやりすごすのは難しい。
この抗議は正当なものであり、あたくしは冷静だと自分に言い聞かせる。
手紙やメールの文面は、熟考した末であり決して怒り任せの軽率な行動ではないんだ、という雰囲気を出す。
でもその時、本当は自分の心はグツグツと煮えたぎっている。
「助けられないのに、いかにも助けられるかのように言うな!」とか。
「期待を持たせて人の心を弄ぶな!」とか。
最初は、書いただけで、もしかしたら気がすむのではないか? とも思う。
でも、何日か迷った挙句、結局、怒りの苦しみから少しでも開放されたくて、結局、行動に移してしまうのだ。
自分だって、カウンセラーや様々な相談窓口の担当者が全ての人を救済できるなんて思ってはいない。
だけど、頼らざるを得ない自分、過剰に期待してしまう自分。
我慢していては決して怒りは収まらないし、行動に移しても決して報われることはない。
いずれにしても苦痛を伴うジレンマに、少しでもマシな行動を選ぼうとグルグルと考える。
「わたし、クレイジーなんですよ」と、あたくしは言った。
「そんな風に思っちゃってるの?」
自分を粗末にした物言いをすると、先生は悲しそうな顔をする。
先生はこういう話は嫌だろう。だけど言わずにはいられない。
「だって、そうでしょう? わたしはおかしい。おかしいでしょう?」
こういう時、先生は、そうだとも、いや違うとも、何のフォローも入れない。
「わたしは困った人」「わたしはクレーマー」「わたしは狂犬みたいな奴」
自分という人間は救いようのない、本当にどうしようもない人なんです、と自嘲するあたくしを先生はずっと黙って見つめてる。
「だけどね…」と、あたくしは続ける。
「先生は、そんな自分に対して、とっても上手にやってくれたので、感謝です」
実は我々、とっても際どいところを歩いて来たんですよ、と自分は告白する。
あたくしは、先生に失望したり、先生を傷つけずに済んで、内心ホッとしてるんです。
もう、期待した反応が返ってこなくても、割と、大丈夫なんですよ?
「ずっと、自分が嫌でした。
怒りに飲み込まれないのは、なんて安らかなんでしょう。
普通の人は、何て安らかなんだろう、と思ったんです」
しかし、依然としてストーカー犯に対する怒りが強いこともお伝えする。
先生は「じゃあさ、その怒り、処理してみる?」と提案してきた。
「ん〜?」と考えている間に先生は付け足した。
「怒りの処理は疲れるから、元気な時にやった方がいいけど」
そうだろうね、あたくしはそこで躊躇した。
直視できないほどの怒りに向かう恐怖に、心の準備ができなかったのだ。
そうして、その後の自分はどうなるのだろう? とも思った。
「怒りを処理したらどうなるの? 怒りはなくなる?」
「なくならないよ? 怒りは洗練されて、エネルギーに変わって、あなたは元気になる」
「元気にかぁ…だったら、いいですねぇ…」
それは、ずっと待ち焦がれていたことだから、しみじみと出た本心だ。
だけど、そこには何だか曇りというか、淀みというか、どんよりとしたものが横たわっていた。
先生が言った。
「あなたが“自分は変わった” と思えたら、それは自分が努力したからなんですよ?」
いやいや、自分はまだ全然ダメ! 先生の力が必要!
そんなことを考えてたのだ。
自分で起き上がれるようになったら、そうしなきゃね。
まだ先生に抱き起こしてもらいたい気持ちが、子どもっぽくて恥ずかしい。
あたくしは“それ”を一生懸命に飲み込んだ。
※かつてあたくしが利用した犯罪被害者の為の相談窓口の件、
被害に遭った後、早い段階であればお手伝いできることも多いようです。
なので、今回の記事で「相談窓口、あてにならんな」とか思わずに、いざとなったら片っ端から思い切り頼ってみてください。
何にせよ、あたくしのように一人で長い間、悩まぬことが大切ですよ。
ハローワークにて。
就職活動の一環でハローワークにも通っているのである。
今回は、相談員の所に履歴書を持参して、訪れた。
相談したいことはひとつ。
「ここで…」と、あたくしは履歴書の1点を指し示す。
「事件に遭い、体調を崩してからは、仕事が続かないのです」
現実は変えようもないが、気持ちの整理をつけて、面接時に淀みなく返答したいのだ。
相談員は「まあぁ」と言った。
職を失う度にハローワークには来ているのだけれど、犯罪被害を話題に盛り込んだのは初めてだ。
要するに、実験だな。
トラウマで働けなくなった人とか病気をクローズにして働いている人とか、そんなことに相談員がどんな対応をし、その時、自分がどんな気持ちになるのか芸の肥やしとして、知りたい。
相談員の回答は簡単だった。
「手短に適当言って誤魔化しなさい」
手短というのがポイント。詳細にこだわって長々喋ると馬脚を現すからね(笑)。
「家庭の事情」という伝家の宝刀があるではないか、すべからく職歴のブランクはあれでイケ、とのことだった。
嫌だなぁ〜、結局、嘘を付けというのがご指導なのだ。
いちいち本当のことを言いたくなってしまう自分の方がおかしいのだろう。
ただ「過去を取り繕うことにエネルギーを注ぐなら、今これから何ができるかアピールした方が効果的」とアドバイスされたことは、「その通り」だと思った。
何だかね〜、その相談員の雰囲気が、街角の手相見るおばちゃんみたいなんだよね(笑)。
「事件なんて随分前のことじゃない、忘れなさいよ。あなた何やってるの?」
「いい仕事について、誰かを見返したいというこだわりがあるんじゃないの?」
「心を込めて家事をすることだって立派な仕事なのよ?」
優しさを含んだ辛辣な言葉で、ズバズバ、グサグサ来る。
でも、この辺はこの10年、何度も人に言われたし、自問自答してきたことだから、想定の範囲内。
だけど次の言葉には驚愕した。
「あなたより、罪を犯した人の方が、ずっと、職を得るのが難しいのだからね」
申し訳ないけど、当たり前じゃあないのよ! 比較しないでよ! と思った。
それより、犯罪被害者だって言ってる人の前で、それ言う?(笑)
あたくしは、カウンセリングでトラウマ治療をしたことさえ話したのだ。
しかし、元犯罪者の就労支援というのは、この方のライフワークらしく、何やらスイッチが入ってしまったようなのだ。
恐らく、あたくしの「犯罪被害者です」という言葉が、多分、そのスイッチを押したのだろう。
面白い…あたしが相談員に対して抱いた期待感には、予想以上のリターンがあったのだ。
「逮捕をきっかけに家族からも縁を切られてしまったような、そんな孤立無援な人をサポートする」と、その人は言った。
「再就職先は、悪い仲間と再会することがないように郊外にする」とか、
「再就職できないと再び罪を犯すから、何が何でも絶対に就職させる」とか、
とにかく、それらはあたくしの就職には全く関係ないのに、相談員の情熱的な語りは止まらない(笑)。
「あたしはね? 彼らには“刑に服して罪を償ったんだから、それまでのことは忘れて前を向いて頑張らなきゃ”って言ってんのよ」
そうなのだ、ここだけでなく、大抵のことは誰に対しても「忘れなさい」と言うのが指導の王道なのだ。
あたくしとあたくしの大切な同僚と職場を貶めて逮捕されたあの犯人も、「もう罪は償ったのだから」と励まされたのだろうか?
あたくしの犯人の場合は、罪を認めようともしなかったし、認めた後も言い訳ばかりしていたと聞くし、罰金50万円や、他にも損壊したものの賠償金などは、無一文の犯人の代わりにさして裕福でもないお姉さんが支払ったのだ。
事件から5年経った頃、もう事件のほとぼりが冷めたと思ったのか、SNSを通じて犯人から連絡が来た時も、全く悪びれている様子がなかった。
SNSはブロックしたものの不安に駆られ、インターネットで犯人の名前を検索(非常に珍しい苗字)すると、彼は今までとは全く違う職業についており、とある施設のHPでニコニコと笑った写真とともに「真心を…」とかほざいているのある。
それを目にした時の、自分の中に黒いシミが広がるような感覚が忘れられない。
嘘を付くことに何の良心の呵責もない彼は、罪を犯したことさえも誤魔化して、シレッと再就職したのかもしれない。
「忘れなさい」と言われる前に、自分のやったことを覚えていられないような人もいるだろう。
かつての自分だったら、相談員から今回のような言葉を投げかけられることも耐えられなかっただろう。
「あなたは被害者より、元犯罪者の肩を持つのか!」と、いきりたったかもしれない。
だけど、目の前の相談員の方は、“あたくしの”元犯罪者を庇っているわけじゃない。
犯罪被害者より元犯罪者の方が就職が困難である、と一般論を述べているだけなのだ。
犯罪被害に遭ったことで働けなくなる人だっているだろうけど、それはハローワークの管轄外。
就労意欲がある人であれば、そのバックボーンで選別することなく、あまねく就職のサポートをするのがハローワークなのだ。
そう考えると、目の前のこの相談員は仕事に熱心な全うな人であり、あたくしは多少くたびれていたとしても、まだまだ状況が恵まれた求職者だと言いたいのだろう。
「(いろんな意味で)こんなにハローワークで勉強させてもらったの初めてだわ」との満足感を胸に、最後にあたくしは相談員に感謝を述べて席を立った。
だけど、自分は気付いてしまった。
自分はまだ犯人をかなりの激しさで憎んでいる。
進歩したのは、その憎しみを赤の他人に向けなくなったことだけ、である。
トラウマによる恐怖心が薄れて、外に出たり、新しい人と知り合うことへの不安が軽減されても、それは犯人への怒りが収まることとは全く別のことなんだ。
自分は未だに、犯人に一生、自分のやったことを後悔し続けてもらいたいし、どれだけ卑劣で最低なことをしたのか恥を感じ続けてもらいたい、と思っているのだ。
全く自分に縁もゆかりもない人から過去の罪を告白されたら、あたくしだって「それは償ったんだから」と言うだろう。
だけど、それとこれとは別、絶対あたくしはあの犯人を忘れないし、許せない。
そう頑なに思う自分がおり、それは自分が今以上に安らかになるために、乗り越えたい山なのだ。