心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

家出を妄想する。

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あたくしは片付けられない女なので、家はグチャグチャである。
かつては流行りの断捨離というものをして、段ボール箱いっぱいの不用品や衣類を途上国にセッセと送ったりしていたけど、お部屋はすぐに元に戻ってしまう。
 
頭の中が散らかっているから、リアルなあたくしの空間も散らかるのだ。
それを悟ってから、無理して片付けようと思わなくなった(笑)。
頭の中を片付ける方が、あたくしにとって優先順位が高い。
 
本当に大切なものだけ、すぐ取り出せるようにファイリングしたり、決まった場所に置くようにしている。
幸いにお洒落ではないので年齢と共に洋服は少なくなった。
好奇心だけは止まらないので、本やら紙切れは多くて、あたくしの部屋の机周りは本と紙束の塊が乱立している(「蟻塚」と呼んでいる)。
 
 
 
10年くらい前、離婚に至る直前、人からは全く共感されない理由で離婚を切り出すのにはどうしようかと悶々と考えたことがある。
で、家出を考えた。
夫婦共通の預貯金から大金を引き出す。そうだな、200万円くらいいっちゃおうか?
それを持って失踪しよう。当時は、その失踪先をフランスのパリ、と想定していた。
お洒落だからではなく、かつて旅行したことがあり、唯一、そこで暮らすことを想像できる外国だった。
それに、都会だからお金さえあれば、言葉が不自由でもそんなに困らない。
毎日毎日、オルセーやルーブルの絵画を舐めるように見てやれ、と思ってた。
 
そうして、お金を使い果たして、くたびれ果ててボロボロになって、ある日突然、家に帰ったなら、もう説明はいらないだろう。
余計なことは言わなくても、容易に離婚に至ることができるであろう。
 
それから、その失踪にはどんなものを持って行こうか割とリアルに考えた。
そうするとね、結構、持っていきたいものがあることに気づいたのである。
香水のボトルとか(当時、パニックの息苦しさからお気に入りの香りを嗅ぐことで逃れていた)、小さな動物の置物とか、フィルムを使うクラシックカメラとか、愛読書とか…。
あんまり実用的でない、結構重いガラクタばかり、どれを持って行こうか心の中で厳選して過ごした。
 
 
 
でも、それは結局、妄想で終わっちゃったんだよね。
当時、あたくしはお家でお仕事をしていたのだ。
たいした金額でないけれど、毎月納品するお仕事があった。
以前の会社の可愛い後輩が紹介してくれたお仕事なので、彼女の顔を潰す訳にはいかない。
そうして、失踪するのはかろうじて思い留まったのだ。
 
そうしたらね、浮気してしまったの。
本当に浮気。
つまらない間違い。
でも、後悔とかの気持ちは薄かった。
 
ここまで追い詰められて、こういう汚らしい、くだらないことをして、内心少しホッとした。
人から酷く軽蔑されるだろうが、これは解りやすい離婚の理由になるだろう。
ところが、たった一度の浮気を不思議とすぐに察した夫は「ごめんね、ごめんね」と泣いて謝り、「僕が悪かったやり直そう」と言った。
 
いや、そうじゃないだろう。
こんな女は張り倒して三行半だろう?
あんた、この5年間あたくしにやってきたことをよく考えて、それが改められるかよく考えたまえ?
「いや、そういう訳にはいかない、こんなことをした自分を許してはいけない。離婚しましょう」
と、あたくしは強引にまとめたのだった。
「やり直せなかったら、もっとあなたを憎むし、軽蔑する。だからすぐに離婚しましょう」
 
 
 
ところがだな、その時の夫の泣き顔は、その後、いつまで経っても脳裏から離れない訳だな。
そうして、あたくしを責め続ける。
遥かに強い立場の人が弱いものいじめをしてしまったかのような罪悪感をあたくしに植え付ける。
 
いや、自分はそんなに強くないっすよ。平凡な一人の女。
望んでいたものだって、そんなに贅沢なものじゃない。
本当に、ささやかなものだったと思うのだけど。
 
今は、自分が永遠に手に入れることができなくなったものをただ嘆いているけれど、もしかしたら、形を変えて自分に与えられるかもしれない、と僅かばかりの期待もしているのだ。
どんな形で? というのは分からない。
その時に、ちゃんと「これだったんだぁ」気付くことができればいいなぁ。
 
 
 
というのも、今、また、無償に家出がしたくなっているのである(笑)。
今度は、家の預貯金には手を出さないし、ガラクタも持って行こうとは思わない。
あれから10年経ったら、削ぎ落とされてスッキリしたものが、自分にもあるのだ。
それに今ならワザワザ地球の裏側まで行かなくてもいい。
あたくしのいない、グチャグチャのままの部屋を夫はどんな気持ちで眺めるのだろう?
 
今、家出するなら、ノートパソコンとスマホと少々のお金があれば十分だな。
地方に出張に赴く、くたびれた会社員みたいな風情で家出しよう。
一冊だけ文庫本を持っていきたい。池澤夏樹の『スティル・ライフ』だ。
あたくしにとっては、何度読んでも飽きない、「無人島に持っていきたい一冊」的本だ。
 
最近『スティル・ライフ』を読んだらしい若者が、「村上春樹みたいだ」とコメントしていたけど、全然分かってないねぇ。
正直、そういうに人は『スティル・ライフ』を読んで欲しくないし、語って欲しくない。
あの繊細な文章が味わえないような味覚音痴は、『ノルウェイの森』を何度も読んでいればいいのだ((笑)あたくし自身も『ノルウェイの森』は嫌いではなく、むしろ好きですが)。
 
…脱線しましたが、あれもこれも全て妄想ですのでご安心下さいませ。
今はカウンセリングで安全基地を心の中に作っている最中で、逃避したりどこかに新天地を求める必要なんてないことは、ちゃんと分かっているのですから。
そうして、今は自分のいる場所にも愛着を感じ始めているのだから。
 
今日は待ちに待ったカウンセリングの日で、あたくしは先生と何をお喋りしようかとアレコレ考えていたりするくらいだから、大丈夫。
燃料切れかけで墜落寸前の飛行機みたいなあたくしは、ヨロヨロとカウンセリングという小さな空港にやっとこさ着陸でき、しばし給油と休息ができる。
スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

 

※書いてしまってから「いや、電子書籍にすれば、文庫分一冊分だけ荷物が減る」と思ったのだけど←これも妄想(笑)、あたくしはこの文庫分を装丁も含めて愛しているのだった。それに、この本は表題の作品も素敵だけれど、もう一つのお話「ヤー・チャイカ」も併せて読むのがオススメなのである。独特の世界観。もし、読み終わった後の世界の静寂を共有できる人がいたら、このうえなく幸せ。 

曲がったキュウリ。

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今日のバイトの現場は、某所の大きな公園だった。
この寒空の下、公園に植えられている樹木の調査をするのだ。おお、寒い!
現在の短期バイトのメインの仕事は、実はフィールドワークなのだ。
現場で収集した情報を事務所でデータにまとめる、そうして依頼主に納品する、というお仕事なのだ。
世の中、いろいろなお仕事があるんだなあ。  

夏場は夏場で、暑さと虫対策が必要で大変だったそうだけど、冬の調査に至っては、あまりに過酷そうなのでバイトの応募すらなかったらしい(笑)。

で、引きこもりのオバさんの登場である。
実は、オフィスでの事務仕事なんかより、こっちに仕事内容に惹かれたのだ。
この地味でニッチなお仕事に興味があったから、勇気を出してお仕事してみる気になったのだ。
腰には貼るカイロ、手がかじかまないように手袋とハクキンカイロ。魔法瓶の中に熱いハイビスカスティー。 ユニクロヒートテック関係、防寒グッズオールスター総出演で万全の寒さ対策をして挑む。

初めて知ったのだけど、公園の樹木には一つ一つ番号が付けられていて、管理されている。
どれくらい成長したのか、枯れかけているとか、枯れたので撤去したとか、以前の記録と比較しながらチェックしていくのだ。

このお仕事の楽しみは、同行する方が造園設計と農業の経験がある植物のプロフェッショナルなので、ずっとそれらの話が聞けることだ。
この時期の樹木は葉が落ちているものが多いので、見た目的には寂しく、一見、樹木名の確認も難しい。

「そういう時には、木の芽を見て種類を判別するのです」と、その道のプロは教えてくれた。
なるほど、木の芽はすでに次の春に向けて芽を膨らませている。
「木の芽は、葉が落ちてからじゃないと見えないですけど、実は次の春の木の芽の準備が終わってから、落葉するのですよ」と伺った。

「木って、とても忙しいんです。
 春になったら花を咲かせて虫を呼んで受粉させなきゃいけないし、
 光合成するために、葉っぱも急いで茂らさなきゃいけない。
 実を大きくするために栄養分を吸って、その後はすぐに冬の準備」

あたくしは、今やっと、春までのしばしのお休み、ホッとしてくつろいでいる樹木を見ているのだ。
この「木は忙しい」「木はいつも一生懸命」というのは、とても新鮮な感覚だった。
もっと、木は、ソヨソヨと気楽に生きていると思っていたのですよ。

なにしろ、疲れ果てるとあたくしは「来世は木になりたい」「ナマコに生まれ変わりたい」「ボルボックス(藻の一種)になって勝手に増えていたい」だのと思っていたのだ。
いや、失礼。
楽な生き物なんてなくて、 みんなにとって生きるのは大事(おおごと)なんだ。



このアルバイトを始めるにあたっては、ものすごく迷って勇気が必要だったのは、以前にも書いた通り。
自分では決めかねて、夫や主治医やカウンセラーの先生などにも「大丈夫かどうか」お伺いを立てた。

大抵の人は「いいじゃないの? まずやってみて、失敗したら、またチャレンジすればいい!」みたいに励ましてくれたのだけど、実は、自分のような全般性不安障害とかパニック持ちの人には、失敗こそが一番恐ろしく、避けたいことなのである(笑)。
だからずうっと、失敗は無様なことだ、また失敗するなんて耐えられないと考え、失敗するくらいなら家に篭ってた方がマシ…という精神状態に陥っていたのである。
失敗したらまた挑戦すればいい、みたいなのは正論ではあるけれど、ある程度健全な人向けの励ましの言葉なのだ。

その中で、カウンセラーの先生だけが、「何で迷っているの? すごく面白そうじゃん、やってみなよ!」的な、楽しさ基準で背中を押す、というアプローチをしてくれた。
もちろん、先生がそのバイトの内容を詳細に知っていて勧めてくれた訳でない。
その時は「先生、また何をいい加減なことを(笑)」とか内心思っていた。
でも、この「楽しそうだから、やらないのはもったいない」的な押しが、何だか後からジワジワ効いてきたのだな。
 
先生はこれまでの面接の中で、あたくしが田舎の人で、本来は自然や生き物への興味が深いことを、あたくし自身よりも理解していて勧めてくれたらしい。
先生の療法は、今も何だかよく分からないけど、とにかく「今の心地良さを味わうだけ療法」なのである。

そうして、カウンセラーの先生も自然や生き物が大好きなので、「バイト、どんな風?」と興味津々の様子で聞いてくれる。
「僕はさぁ、こんな仕事は辞めて畑を耕したりとかしたいなぁ、とか思うことあるよ」と先生が冗談交じりに言ったことがある。
あたくしとしては先生が突然農家に転業されたら困るので、慌てて「冗談はよしてください」と言ったのだけど。



さてバイト中、樹木の話ではないけど、公園のベンチでコンビニ弁当の昼食を食べながら、何とはなしにキュウリの話になったことがある。
「キュウリって曲がっているのと真っ直ぐなのと、どっちが自然だと思います?」とクイズを出題された。
あたくしの子供の頃、母親が家庭菜園をやっていて、採れたキュウリはどれもこれも曲がっていた。
だから、スーパーで売られる真っ直ぐなキュウリというのは、どこか作られた感じがして、曲がったキュウリが自然なんだと思い込んでいた。

でも実は、キュウリというのは、何の問題もなくスクスクと成長できたなら、本来は真っ直ぐな野菜なんですと!  

自分は子供の頃、「おまえは家族の誰にも似ていない」「どうしておまえはそうなんだ」「他の人のように普通にできないのか」と言われてきたから、それは仕方ない、他の人のご期待に添えないのはどうしようもない、生まれつきなんだもん、と思っていた。 (今なら、親に似ていないと言われても全然動じない。だって、自分の嫌な部分はすべからく親譲りであるのだから!(笑))

でも、何だか、そのキュウリの話を聞いて、全ての生き物には本来、生まれながらの健全さが備わっていているような気がして、あたくしはちょっぴり救われたような気がしたのだ。

さぁ、自分が曲がったキュウリだと洗脳されてきた実は真っ直ぐなキュウリなのか、 はたまた、曲がってはいるが、それは本来の姿ではなく、本来は真っ直ぐに育つはずだったキュウリなのか…。
人の心は見えないから、それは分からないのだけど、きっと、命というものは本来は皆、健やかさを秘めているのだろう。

キュウリをネタに、そんな風に脇のメモリーでずっとアレコレ考えながら、「はぁい、幹の太さ2メートルですね?」と、復唱しながら一生懸命に記録用紙に書き込んでいる時間が、何だか、無性に和む。
本当に寒いんだけどさ!
そうして家路につけばグッタリバッタリで、一日中、山をうろつき回った獣のように、ただ身体の休息を求めて深い眠りにつくのだ。

悲しい話を聞いている時に笑う人。

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こっちが悲しい話をしているのに、笑う人がいる。
例えばだけど、「ストーカーに遭って急遽引越しすることになった時…」みたいな時に、「アハハ」とやる人がいる。
ニコッてな感じの程度の人もいれば、声まで出ちゃう人がいる。
 
この人になら…と、比較的心理的な距離が近いと感じている人だからこそ打ち明けた悲しい過去なのに、幾度かそういう経験したことがある。
また、あるいは、傾聴講座の練習でクライエント役になり、カウンセラーの人に悩み事を話している時にも、笑顔を出されたことが何度かある。
(あくまでも傾聴の練習だから、さすがにストーカー被害の話は重すぎるのでやらない。その時は夫婦喧嘩やかつての職場でのトラブル程度の話をする)
 
その瞬間の自分の反応は…精神状態に非常に左右されるのだけど、いずれにしても非常に混乱する。
シンプルにそのチグハグさにビックリする時もあるし、「こっちが困った時の話をしているのに、笑うって何事?」と怒りが湧き出る時もある。
「この人が笑っているくらいだから、もしかして“大したこと”だと思っているの自分だけ? 本当は大したことない?」と自分の判断を疑ったりもする。
「笑わないで」と咄嗟に言えることは少なくて、何か自分の方が間違ってしまったような気がして、むしろ流してしまう。
 
とにかく、何かを求めて話したところ、相手から全く違ったものが出てくるので、その分析に余計なメモリーを使ってしまって疲れる…ということになる(笑)。
そうして、「もう“あの人”には話すの止めよう」とか、それどころか「結局、“誰にも”理解してもらえないんだ」と悪いスパイラルに入る。
 
でも、あたくしは違うよ? ちゃんと聞けるよ?
あたくしは少なくとも、ちゃんと人の悲しい気持ちを受け止められる人だよ?
 
…そう、自分自身のことを「ちゃんとできる人」「適切にできる人」だと思っていたのだ。
だがし、しかし…。
 
 
 
先日、とある「精神的に落ち込んでいる人の話を聞く時の心得」講座に参加してみたのだ。
落ち込んでいる人、鬱傾向のある人にとっては、健康な人ではさして気にならない些細な言葉が、時には凶器になってしまう。
その講座では、落ち込んでいる人を傷つけることなく、そういった人と素早く信頼関係を結ぶコツを学び、実践できるようなトレーニングをするのだ。
 
少なくともある程度の傾聴練習を積んでいる人が参加条件なので、参加者には様々な相談業務のプロが多かった。
ここでも、一介のアルバイターで参加しちゃっているのは自分だけだったと思う。
そういう、プロフェッショナルの中に潜入できるのは、傾聴のヒヨコとしてはものすごく勉強になる。
 
あたくしのように「自分を助けるため」に参加している人なんて皆無だろう。
死にたくなった時に自分で自分を説得しようと思って来ている人なんて、あたくし以外にいるわけない(笑) 。
みんな、他人を助けようとして来ているのだ。
休日返上でこうした勉強している人を心から凄いなあ、と尊敬する。
 
そうして一通り座学で理論は学び、「さあ、やってみましょう!」とロールプレイングに移った時、あたくしは恐るべし事実に直面することになったのだった。
 
ロールプレイングは5〜10分。インストラクターの方が相談者の役をとてもリアルに演じてくれる。
落ち込んでいる人の話を聞く時は、表情はハッキリと、動きはやや大げさに…先ほど学んだことを実践するだけだ、大丈夫、大丈夫。
頓服のアルプラゾラムも飲んだし、心の中の傍らにはカウンセラーの分身も置いている。
今回の講座はちゃあんとカウンセラーの許可を受けて参加したのだ。
大丈夫、大丈夫! 超緊張! 大丈夫、練習だから!
 
そうして、あたくしの番のロールプレイングが終わって、ホッとしたところに、講師の方から驚くべき指摘を受けたのだった。
「あなた、相談者の話を要約する時、笑顔になっていたの、自分で気が付いていた?」
 
!!!
 
実は自分は全く気がついていなかった。
そうして、そういう人のために、講師の方はちゃんと記録を残しておいてくれているのである。
 
果たして、その映像のあたくしは…確かに笑っている。
音声が無いので、まるで楽しい話を聞いているようにさえ見える。
 
この時の衝撃、分かっていただけます?
自分は、ずっと自分が嫌がることを、人にもしてきていたらしい…って気がついたときの衝撃!
 
「人の悲しい気持ちに、あたくしは他人よりは少しはマシに寄り添えるよ。何しろ当事者だから」 …なんて、思い上がりもいいところだったのだ。
 
そう…この意図せぬ表情を発見するのが、この講座の趣旨の一つなの(笑)。
意図せずに人を傷つけてしまうことがないように研鑽するとは、こういうことなんである。
 
 
 
実は、あたくしだけでなく、笑ってしまっている人は結構いたのである。
かなりのプロの方で、終始、静かな笑顔を崩さない人すらいたのである。
 
なぜ、悲しい話を聞いている時に笑ってしまうのか? ってことにはいろいろ考察があったんだけど、どうやら日本には「悲しい時に、素直に悲しい顔をすることを止められている文化」があるらしい。
 
あたくしはあんまり好きではないけど、「悲しい時ほど、笑いなさい」みたいな美徳というか、なんかそういう文化があるではないですか? 
あれは、あくまでも健やかな人に対しての言葉であって、本当に打ちひしがれている人にはそぐわないんだよね。
 
あとは、ある年齢以上の女性なんかは、感情をストレートに出すこと自体が“はしたない”と教育されてきたりしているので、どんな時にもアルカイック・スマイル(彫刻的微笑み)が顔に張り付いてしまっていたりする。
こっちが悲しい顔をすると、余計に相手が動揺してしまうのでは? と、相手を安心させるために、心と裏腹に笑顔を維持しようと努力している人もいた。
 
そうして、こっちの方が重大だと思うのだけど、悲しい話をする人自体が、笑いながら話してしまうことが少なくないらしい。
そういう人の話を聞いていると、ついその表情に引っ張られて、聞き手も笑ってしまいそうになるけれど、そこは絶対に話の内容をちゃんと聞いて、悲しい話を聞いて悲しい気分になっている時は悲しい顔をしなさいと教えていただいた。
 
自分は、もしかしたら、自分の悲しい話を笑いながら人に話していたのではなかろうか?
弱みを見せたら負けだとか、笑い飛ばそうとか、早く笑い話にしてしまいたいとか、そんな自分の思いが顔に出てきてしまっていたのではないか?
だから、あたくしの話を聞いた人の中に、笑う人がいたのではないのだろうか?
聞き手の笑いは悪気なく一種の共感の笑いだったのではなかろうか?
 
だとしたら、自分は、まだ悲しみが癒えていないことを、表情で全身で表現できるようにならなければいけないねぇ。
 
「悲しい時も平静を装おうとしてしまう」のは、自分にとっては悪い癖なのだ。
 
このブログでも終始(笑)を挟んでいるんだけど、こりゃ、考えものだな〜と思った。
読んで頂く方にはどこで笑ってもらってかまわないんだけど、自分が笑って欲しくないところに(笑)と自虐的に入れるのはよそう、とか?(笑)←これは心からの笑い。
 
 
 
トラウマ経験の団子の中に、昔、職場で経営者に恫喝された経験があり、その時「人が怒っている時に、ニヤニヤしやがって!」ともの凄くキレられたことがあるのだけれど、ああ、そうだったかもね? と思い出した。
恫喝されて、怖くて、自分は平静を保とうと、ちょっと笑っちゃったんだと思う。
 
その経営者は、ものすごくコンプレックスが強い人で、それが外側にも滲み出てくるような人だったんだけど、あたくしの困惑の笑みを「愚弄されている!」と読み取って興奮してしまったんだろうな。
確かに、決してその経営者を尊敬はしていなかったけど、さりとてバカにしていた訳ではない。お給料くれる人ですからね。
あの時の自分は、気違いじみたその経営者の振る舞いに、ただ心から震え上がっていただけなのですよ。
 
 
 
財布にも心にも痛い講座だったけど、本当に勉強になりました。
そうして改めて、「正直おばさん」になることの大切さを意識したのでした。
悲しい時はちゃんと悲しい顔をする。
もし、そうして話した自分の悲しい体験を笑われたら「笑わないで」とすぐに言える。
これ大事!

自分を変える前に、まず受け容れよ。

f:id:spica-suzuhazu:20171207203448j:plain 今回のカウンセリングは、先週末の夕食時に起こった夫婦喧嘩の話で始まった。
きっかけは、あたくしがバイト先での出来事を夫に話したこと。
あたくしの精神はせいぜい小・中学生なので、家に帰ったら外で何があったのか、家族に聞いてもらいたいのだな。

ところが、話の途中で夫はあたくしの言葉を遮ってこう宣った。
「週末の夜なんだから、もっと楽しい話をしない?」
その晩は、ちょっと遠くの美味しいパンを買ってきてて、生ハムとかも仕入れて、取って置きのワインも空けていた。
だから、夫は世知辛い話など聞きたくなかったのだろう。

「話がつまらない」と言外に言われたら、いろんな切り返しが想定できるだろう。
甘えて「や~ん、そんなこと言わないで聞いてよぉ」とか言うこともできる。
逆に「じゃあ、あなたが面白い話してよ? ねえ、ねえ」と迫ることもできよう。
「あたしが一番聞いて欲しいのは、この話なの! 楽しくなくても聞いて!」と主張するのもありかな?

だがしかし、自分はこともあろうに、ムッとして
「じゃあ、こういう話は、全部カウンセラーにしろ、ってことね?」
「愚痴はアウトソーシングって訳ね?」
と、言い放ってしまった。
実際は、カウンセリングでは愚痴めいた話なんか一度だってしていないのに!(そんなことに大切な時間を使えるか!)
そうして、その後、何を話していいか分からず、その晩はとうとう一言も喋ることができなかった。
こういうのは初めてではなく、これに似たパターンで会話が途切れたことは数限りなくあるのだ。



熱いバトルなら、雨降って地固まる的なことも期待できるのだけど、我が家の喧嘩は1980年代のアメリカとソ連の冷戦状態みたいなもので、ものすごく寒い。
自分は、ずっと前から夫に「お前の話、オチがないからつまらん」「ダラダラ長い」と言われてきている。聴く価値がないということだな。
「仕事先の文句言うなら、それくらいのお金あげるから働きに出るの辞めたら?」とまで言われたことがある(笑)。

「旦那さん、金持ちじゃん」とカウンセラーの先生は笑う。
「それにあなたの話は、僕はけっこう面白いと思うんだけど?」と先生はフォローも怠らない。

「先生、あたくしの旦那の稼ぎは極めて平均的であり、怒って突発的にそう言っているだけなのですよ」
その時に一番強く思ったのは…とあたくしは続けた。
「何度も同じパターンの喧嘩をやらかしているのに、回避できない自分に心からウンザリしたってことです」

「自分は変わりたいのです!」とあたくしは言った。
「たとえ拒否されたとしても、素直に“私の話を聞いて欲しい”と直球で言えるようになりたいのです」
だって、あたくしの発言は、質問という形式を取ってはいるが、自由回答は許されてないタイプだ。
「じゃあ、カウンセラーに話すよ?」なんて「私の話を聞け」という脅迫と同意である。
そんな嫌味ったらしい言い方するのだったら、ズバッと素直に脅迫できた方がいい(笑)。
表面上は穏やかな質問形なのに、内容が脅迫めいているところが寒くなるのだ。

「正直な物言いが出来る人に変わりたいのです」
相手は変わってくれなくてもいい。
以前はどんな言い方をしたら興味もってくれるのか? とか考えていたりもしたけど、本当にくたびれた。

よく考えたら、外の世界には、あたくしの話に興味を持って聞いてくれる人がいるのだもの。
夫と両親だけが、あたくしの話に面白みを見出さない。
夫と両親だけが、不満を持っている自分、弱っている自分、思ったことをそのまま言う自由な自分を認めないだけなのだから。




「他人を変えることに比べたら、自分を変える方が簡単でマシな考えじゃあないですか?」 と、言ったら、先生はソフトであるがピシャリとこう言った。

「いや、違うね。まずは受け容れるんだよ」
いつものトホホなパターンだ。あたくしが自分で捻り出した解決策は、先生にいとも簡単に却下されてしまうのだった(笑)。
「夫を? …いや、違いますね、自分をですね?」
「そう。先に自分を受け容れないと、変わらないんだよ?」

認知行動療法などの短期療法で失敗しちゃう人っていうのは、そういう療法は「自分を受け容れる」プロセスがすっ飛ばされているからだそうだ。
短期療法で効果を感じた人は、その表面的な変化が功を奏して上手く適応できた場合や、元々が健全な方のケースなのではないかしら? とあたくし的には思う。

そのままの自分を愛すること…あたくしの場合だと、「今日のお話」を聞いてもらいたい自分、話を聞いてもらえないとムクれる自分、甘え下手の自分などなど…を認めるところから始めないとダメなのだな。
そうして「可愛いな、そんな子供っぽい自分」くらいに思う。本心から思う。
それから、自分を受け入れてくれている人の存在を思い出して、すでに「このままの自分が受け容れられてる」ことを実感することが大切なんだと。

今回のバイトは初めて3週間目くらいなんだけど、緊張しすぎて胸痛がして、すでにかなり低空飛行なんである。

バイト先はこじんまりとした静かな事務所で、幸いなことに怒って突然奇声を発したり恫喝したりする人が一人もいない。
(おいおい、今までどんな会社で働いていたんだよ? と思う方もいるかもしれないが、これは中小企業あるあるだったりする)
仕事も単純作業が主で、黙々とやっていれば良し。仕事が途切れたら、15分くらいボ~っと茶を飲むこともできる、夢の様に長閑なバイト先である。
いくつもの会社を渡り歩いているから分かる、この会社の人は皆、まともでいい人!

それなのに、意味もなく「どデカイ失敗」をしでかす様な恐怖が常にあり、失敗しないように集中しようと頑張ると、帰る頃にはグッタリと疲れている。
今の自分の仕事内容から言っても、取り返しのつかない状況って、仮にやろうと思ってもできないのは頭では分かっているんだけど…。

安定剤のアルプラゾラムという薬を半錠に割って個別包装したものを持ち歩いていて、頓服としてコッソリ飲んでいるのである。
飲みすぎると睡魔が来るので、胸痛が治まって任務を滞りなく遂行できる程度にちょっとだけ飲むのである。

「そのままの自分を受け容れてくれている人を思い出しなさい。それがあなたを外の世界から守ってくれる力になるから」と先生は仰った
「自分を受け容れるのは辛いけどさぁ、こうして僕も手伝っているし、大丈夫だよ?」
先生は、「僕“も”」と言ったのだ。
先生は、あなたの味方は、僕だけじゃあないよ? と言ってくれているのだ。

今の短期アルバイトが、最後まで続けられるのかは分からないのだけど、実は、カウンセラーの先生や身近な友人や、そうしてまだお顔も拝見していないような友達までも…みんなが、今の自分を助けてくれて、そうして支えになってくれているのですよ。
これは凄いことだよね? 「ありがとう」と一人一人に言いたい。

それくらい勇気付けないと、こじらかした人が自分を「受け入れること」は難しいのだろう。そうしてそれは、「変わること」よりも大事なことなんだろう。

「その辺が解決したらさぁ、そこにメモリー取られなくなるから、もっと未来の楽しいことがいっぱい考えられるよ」と先生は言ってくれた。
本当ならどんなに素晴らしいことだろう!

ああ、今回のカウンセリングは一瞬たりとも泣かずに済んだのに、こうしてブログを書きながら反芻(はんすう)してたら、やっぱり泣けてきてしまった。

少し早いけど「今年は良い年でした」とカウンセラーの先生にお伝えしたのである。
問題は一つも解決していないけれど、生きててよかったわぁ〜と、思えるのは皆様のおかげなのです。

懐かしき街に立つ。

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実は少し前から、アルバイトをしているのである。
たまに会う飲み友達に「いゃ、そろそろ働こうと思っているのよ?」と、適当なことを言っていたら、気を利かしてその子が知人の会社の短期バイトを紹介してくれたのだ。
「知人は古い友人だから、心配しないで」とメールに添えてあった。
その方には、自分の病についてはほとんど話してないのだけど、聡明な彼女は何か察していたのかもしれない。

そこまでお膳立てしてもらいながら、あたくしは怖くて10日ばかり悩んだのだった。
かろうじてバイト先に問い合わせの電話が掛けられたのは、ひとえに彼女の友情に報いるためで、かなり勇気を出した。
面接のために事務所に足を運ぶと、「じゃあ、すぐ来てよ」となった。
あたくしは猫の手として割とすんなり雇用されたのだった。

ところが、そのバイト先の場所がですね…運命というのは何という悪戯をするのだろう…かつてあたくしが一人暮らしをしていた街の界隈なのである。
その街で暮らしている時に、あたくしは事件に遭ったのだ。

意を決して最寄駅に降り立つと、何とも言えず、懐かしい気持ちがした。
変でしょ?

事件の最中、あたくしは向かいのマンションの踊り場から部屋の様子を窺われていたらしい。
犯人の職場と自宅の間、その通勤経路の途中にあたくしの住まいは位置していたのだな。
それを知ったのは犯人が逮捕されてからのことだったので、当時はピンと来なかった。
どっちかっていうと、あれは、後からジワジワ来る類いの怖さだな(笑)

 

 

それはさておき、あたくしがその界隈に暮らしたのにはきっかけがある。

離婚して、生まれて初めて「自分で住む場所を、自分だけで決めてよい境遇」になった。
その時に、大学時代からの友人が「あたしンちの界隈なんかどう?」とプレゼンテーションしてきたのだ。

下町風情を残しながらも駅の近くは商業施設が充実、家賃の幅も広いし、交通アクセスも各路線が乗り入れていていいよっ!
何より、近くだからスグに会えるじゃーん?
昔みたいにたくさん呑もうよ。

彼女は軽い気持ちで言ったのかもしれないけれど、真に受けてしまったのだな。
しかし、あたくしが近所に引越しした頃から、仕事が軌道に乗ったのか、彼女は急に忙しくなった。
土日返上で地方に出張しているらしく、全く予定が合わなくなり、返事も途切れがちになった。

そうこうしているうちに、事件に遭ってしまったのだ。
事件のせいで、さらに夜逃げ同然の引越しをしたのだけど、何しろ3日くらいしか猶予がなかったので、まだ界隈に暮らしていた。

まだ割とまともに働けていたけど、夜なんか、何となく犯人が訪ねて来そうで怖かったな。
奴は家族に罰金を払って貰いシャバに放たれているので、もしかしたら自分の行方を捜しているかもしれぬ。
会社の人から貰った男物の革靴を玄関に置いて、宅急便の人にすら構えるのだ。
「田舎に仕事なんかねぇから」と、親は暗に帰って来たりするなよ、と言っているし、いろいろ悪いことを考えてしまうワケです。

だんだん極限状態というか、求めるように何度も近所に住むという友人に電話とメールする。
しまいには自宅にまで電話して「妻はまだ仕事から戻りません」って彼女の旦那さんに言われても、それが信じられないくらいにオカシクなっていた。

いや〜これじゃ、自分がストーカーだよなっ(笑)…と今は、思う。

どうやら、あたくしとその友人とは、互いの認識が違ったらしい。
そうして、結局はそんなに友人に執着する自分の間違いに気付き、諦めたワケです。

あたくしは、その街に4年も暮らしたけれど、とうとう一度も彼女と会うことはなかった。
彼女があたくしにただの一度も時間を捻出してくれなかったことは本当に残念だ。

しばらくして、引越し先に「何と高齢出産で子どもを授かりましたぁ」とルンルンの年賀状が来た。
また遊ぼうね、とある。きっと暇になったんだろう。
 
 
 
しかし、あれ以来、今もどうしてもあたくしは彼女に会う気になれない。
年賀状に添えるコメントも10年近く毎年「お仕事に育児に頑張ってください」のみ(笑)!

「ですから、今、わたしが一番恐れているのは、その街でバッタリ友人に出くわすことなんです」
と、あたくしはカウンセラーの先生に告白する。
 
そう、懐かしき街であたくしが会うのを恐れているのは、ストーカーではなく、すでに知り合ってから30年も経つ同性の友人なのだ。

普通は、古い友人に偶然会ったら、凄く嬉しいし懐かしいでしょう?
あたくしも、そうありたい。
だけど、執念深いことに、まだ怒っているんですよ。

「きっと、わたしが先に見かけたら、スーッと会わないように通り過ぎると思います。
 運悪く先に見つかって声を掛けられたら、忙しいからまたね、って逃げるようにすぐ別れると思います」

「あなたが怒るのも無理ないと思うのだけど?」
と、カウンセラーの先生はフォローしてくれた。

「でも、彼女は、その間に何がわたしに起こったのか知らないの。
 なぜあの時、わたしが彼女にとても会いたがったか、今も知らないでしょう。
 なぜ、疎遠になったのか、今も彼女は知らないし、考えもしてないでしょう。
 わたしが勝手に怒っているだけなんですよ」

あたくしがこの街に住んだことと、事件はほとんど関係ないだろう。だけど、いろんな思いが噴出する。

「無視するんだったらさ…
 わざわざ自分の街に呼ばなくてもいいのに。
 わざわざ結婚をしようって言わなくてもいいのに。
 声掛けておいて、存在を無視するなんて酷いよ」

そう、話は微妙に揺れていた。
友人への恨みを語っていたのに、いつの間にか、今回の話には全く関係ない夫への不満まで話してる(笑)。
 
そうして、深い怒りと悲しみの正体が分かったのだ。
「わたしを、無視しないで」
自分の全ての感情が、一緒くたになって、混じり合っている。
 
「でも、その友人から頂いた有形無形の様々なこと、楽しく時間を共有したことも覚えているんです。
 本当は昔のことなんか忘れちゃって、ただ懐かしく心から嬉しい気持ちで会いたい。
 そういう時が来ることを願っているんですよ」

これは本当の気持ちだ。
だって恨みの気持ちなんて、辛いばかりで邪魔っけじゃあないか。
 
先生は静かに聞いていた。

不特定多数が集う場が怖いことに気付く。

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先日、とある趣味の集まりの忘年会に参加したのだけど、途中で自分の中に不安というか、違和感を感じていることに気がついた。
30人くらいの集まり、知っている人も一部いるが、多くは初対面。
だけど共通の話題はある仲間なので、初対面でも話はそれなりに弾むし、堅苦しい雰囲気でもない。
お酒も進み、どちらかと言えば自分にとっても、適度にリラックスするような場だと思う。
 
あたくしはその場で笑っていたし、誰も自分が緊張感いっぱいでその場にいたことに気がつかなかっただろう。
あたくしは顔見知りの存在を目で追いながら、心の支えにして乗り切ったのだった。
 
しかし、家に帰って、なぜこんなに自分が辛い気持ちになったんだろう?
翌朝、やや飲みすぎで鈍くなった頭で考えてみて、そうして思い出した。
自分が被害に遭ったストーカーに出会ったのも、こういう不特定多数が集まる場所だったのだ。
 
…というわけで、気が付いてしまった。
あたくしは、ある一定の人数を超える集まりは、かつての状況を思い出して緊張感が高まる。
事件から何年も経つが、これほど不特定多数が集まる場に、たまたま運良く身を置いくことなく過ごしてきていたのだ。
(社会的にそこそこ引きこもっていたというのもある)
30人なんか大人数には入らない、という方もいらっしゃるだろう。あたくしもそう思う(笑)。
 
でも、人数が増えると、その中に変な人が紛れている確率が増えそうな気がするのだ。
それが現在のあたくしにとっては30人以上と、勝手に無意識が捉えているということなんだな。
ちなみに事件の発端となった集まりは、100人越えだった。
人数増大→危険増大…もちろんそれが正しい判断ではないことも知っている。
昨日の集まりは会の趣旨から言っても、集まった人々に変な人が紛れている確率は低いと思うのだ。
頭ではわかっているのだけど、たくさんの他人に一度に会う場では、防衛本能が暴走してしまうのだな。
 
 
 
そう言えば、実家が遠方なので飛行機に乗る機会が年に何回かあるのだけど、不思議なことにそういう時、何となく飛行機にかつてのストーカーが乗り合わせているような不安に駆られてしまうのだ。
飛行機だったら250席くらいだから、確率的に居合わせることは皆無に等しいと思う。
しかし、席に座って通路側を見渡し、似た人がいないか探してしまうのだ。
探すのは、相手よりこっちが先に気付くためになのだけど、そこで何となく雰囲気が似た人を発見してしまうと厄介である。
別人なのは割りとすぐに分かるのだけど、本当に別人なのかをもっとしっかり確かめたくなるのだ(笑)。
近寄って、持ち物や仕草、声なんかを確認し、本当に別人である確固とした証拠を得たくなる。
 
都会の巨大な駅構内なんかも実は好きではない。
たくさんの路線が乗り入れる地下鉄の構内も嫌いだ。
これだけ人の流れがあると、時々、後ろ姿が似ているくらいの人は結構見かける。
もっとも、トラウマ経験者は、ささいな共通点をひろって拡大解釈しやすい脳になってしまっているらしい。
だから、やれやれ、誤動作ばっかりだ。
 
そうしてとにかく、万が一出くわしたら、戦わなくてはいけない。そう思っているのだ。
影でコソコソ犯罪するような奴だから、こちらに発見されたら、相手は全力で逃げようとするかもしれない。
だけど、きっと本当にそんなことになったら、あたくしのアドレナリンは出まくり、全速力で追って攻撃するだろう。
 
「あれは過去のことだよ」
「今は安全だよ」
ドキドキすると、カウンセラーの先生が言ってくれた言葉を、心の中で再生して安心させる。
そうして戦闘モードの準備なんか不要なことを自分に言い聞かせる。
 
 
 
先日の立食バーティの参加者の中には、あたくしのように緊張しながらもお喋りする以前に、飲み物片手にちょっと人から離れて座り、全く打ち解けられない人もいた。
かつての自分だったら、そういう人には自分から近づいていって話しかけたり、みんなの輪に入るように促したろうな、と思う。
その人が、どうしてそうしているのかは分からない。
勇気と期待を胸に来てみたものの雰囲気に溶け込めず困っているのかもしれないし、来たら意外につまらないので「早く終わらないかしら」と思っているのかもしれない。
でも、あたくしも思いっきり社交的な人ではないけれど、誰かに話しかけてもられたら、とりあえずは嫌な気持ちはしないと思う。
だけど現実は、目に映っていて気が付いているのに何もせず、自分の中の違和感の対処で精一杯だったのね。
余計なことに自分のメモリーが食われてしまうと、こういう残念なことが起こってしまう。
 
まー、こんなことカウンセラーに話したら、
「人のことはとりあえず置いておいて、ありのままの自分がその場で心から安心し、楽しめるようになりなさい」と言われるんだろうな。
まったくもってその通りですな。

共感されなくても平常心。

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※今回、真面目な話ではありますが妙齢の下ネタですので、各自判断におまかせします。
 
「そういえば、この間の話した君の悩み、やっぱり俺としては共感できない訳よ」
居酒屋で熱燗を酌み交わしながら、男友達がこう言った。
 
蒸し返すけど、共感はできないと釘を刺しているのだ。
よろしい、聞きましょう、言い給え。
 
2ヶ月も前に何かの拍子に彼に告白したあたくしの悩みは、「夫とのセックスがない」なのだ。
 
最近ないとか、歳を重ねる度に頻度が…というのではなく、新婚当初より、ほとんど「ない」のである。
若かりし頃のあたくしは、男というものは皆、少なからず種族繁栄本能があるのだとタカをくくっていた。
あたくし自身は家族が欲しかったのだ。そうして、できれば母になりたかった。自分が欲しかったものを、愛する人に与える人になりたかった。
それは夫となる人の人格を、ある部分では無視しているんだと今では分かる。だがしかし、なんと代償は大きかったのだろう。
 
とにかく、そうした暮らしに5年くらいで参ってしまい、離婚。その後、一人暮らしの時に現在のトラウマ治療につながる事件に遭うことになる。
離婚から5年経ち、久々に会った夫の「やり直したい」という言葉を真に受けてしまっても致し方ないとは思うのだけど。
 
何が原因で失敗したのかは分かっているから、今度こそ…と思うだろう。
 
しかし結論から言うと大失敗だった。
再婚後も夫は何も変わらなかったのだ。
というか、人間の性(さが)など、そんなに簡単に変えられるものではなかったのだ。
あたくしはもっと聡明であるべきだった。
 
「俺の周りには、もっと大変な旦那を持ってる人がいるわけよ。
 働かない奴とか、暴力振るう奴とか、ギャンブル狂い、借金、浮気三昧な奴とかね」
それに比べたら、ちょっと見は優しそうで、一緒に旅行とかも行っているみたいだし、全然悩みの内に入らない、と言いたいのだ。
 
違うんだな、あたくしが「夫です」と紹介した人は、実はルームメートな訳なんですよ。
 
ちなみに、ルームメイトとしての夫は完璧で、風邪を引いたら温かいうどんを作ってくれ、ポカリスエット、風邪薬、栄養ドリング、ゼリーなんかをササッと買ってきてくれる。普段から家事もテキパキとこなすから、家政婦欲しさに結婚したわけでもなさそう。
 
夫には、何度、本当のことを言ってくれと迫ったか分からない。
なぜセックスだけを巧妙に避けるのかが知りたい。
今や、その理由が分かるなら、実はゲイであるとか、そういうので全然構わないのだ。
彼は、時には涙を流して、ただただ「ゴメンね」と言うのみだった。
大の男を泣かしてしまった時の罪悪感は半端ない。
そんなに酷い人か、あたくしは? 鬼なのか?
ああいう風に泣く男は大嫌いである。泣く男こそ、ズルい。
あたくしを鬼のように醜い形相にし、怒らせたままにしている彼が憎い。
そんでもって、この二人の関係は一体何なのか?
長く暮らしていても本当の事は聞けないのだから、親友ですらない。
(ちなみに本人曰く、ゲイではないそうです)
 
 
 
「それでも、なんだかあなたは、その友人にはそんなに腹を立ててないみたいだね?」
と、カウンセラーの先生が言った。
 
「そうですね。以前なら、共感されないとムッとしたり、時には怒ったりしたと思うんですけど、今回は分からなくて当然かな? みたいに思えたんですよね。
 それに共感されたらされたで、この人は自分を助けてくれるかもしない…って過度に期待しちゃうところがあったんですけど、そんな気持ちもなくなったような気がします。
 ようやく、そういうのは違うなぁって気がしてきました」
 
たとえ、相手の反応が必ずしも共感的でなかったり好奇心や興味本位だったとしても過度にガッカリしない、そして共感が得られても過度に期待しない。
こう思えるのはあたくしにとってはちょっとした進歩なのだ。いささか優等生チックな応答のような気がするけれど…。
 
あたくしだって全ての人の悩みを手放しで共感できるわけではないのだから、お互い様だ。
もちろん、カウンセラーの卵としてなら、共感しようと努力はできるけれどもね。
 
共感が困難なケースを克服するのは、カウンセラーの永遠の課題とされている。
クライアントの境遇より、カウンセラー自身の境遇の方が過酷に思えたら、一体、どこまで心から共感できるだろう?
「アタシよりずっとマシじゃないの?」とカウンセラーが思ってしまったら、その時間は台無しになってしまう。
これは、己を知り相手を知る努力を重ねることでしか克服できない課題なのだろう。
 
そもそも双方の重さを比べられないことだってある。
例えばだけど、生涯独身の寂しさと、長年連れ添う配偶者と心が通い合わない寂しさは、どっちがどう、とは言えないだろう。
 
「それにその友人には悪気はないんだって伝わってきたというか、ある意味誠実さが感じられたかな?」
と、あたくしは言い添えた。
彼の言い方はあまり上等だとは思わないけど、慰めようとか励まそうというニュアンスが感じられた。
それに、わざわざ共感できない、なんて言うの勇気いるじゃないですか?
あたくしは離婚に際して双方の親に説明しに言ったけど、「そんなことで離婚するなんて!」と全く共感されなかったよ。身内、兄弟、親しい友人だってそんなもんでしたからね(笑)。
 
「それにその友人は他人のことばかり心配しているような言い方をするんですけど、バツイチで独身なんです。もっと彼が自分の幸せのことを考えればいいのにって思いましたよ」
何とも余裕のある、自分らしからぬ発想じゃあござんせんか?
 
 
 
ところで、男性にセックスレスの話題を振ると、必ずされる問い掛けが二つある。
質問1)女性の性欲はどのように処理しているか?
質問2)もしよかったら俺が相手になるけど?
 
この発想は、女性ではまず出ない。男性独特のものなんだよね(笑)。
女性なら性欲の処理方法は聞かないし、対異性でも「アタシとする?」とは言わないだろう。
「打ち込める趣味を見つけなよ」「ペットでも買えば?」ぐらいが模範解答かと。
 
その日、その友人もその2つの質問をしてきたのだ。
この質問のために話を蒸し返してきたのかもしれぬ(笑)。
 
そういうわけで、この手の質問は一笑に付すのが大人の女性の対応なのだが、質問1)については、「インターネットで無料お試しのレディースコミックを読んでみたり」と適当を言ってみたら、彼はとっておきの秘密を聞いたように目をキラキラさせたのだった(笑)。
 
まさか、カウンセラーに胸キュンしてるので、その辺は超えている、なんて本当のこと言ったらブッ飛ぶだろうからさ、酒の席だし適当で許されるでしょう。