心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

ミッション:嘘や適当を言わない。

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前回の続きみたいなものです。
 
カウンセラーと信頼関係が結べたら、カウンセリングの時間は単なる「思ったことは何でも話しても良い時間」から、ちょっと昇格した。
お互いに「常に正直であること」が求められる、ちょっと上等な空間になったのだ。
話したくないことは話さなくても良いから、嘘をついてはイカンのである。
腑に落ちてないことを「こんなもんだろう」と適当言うのも好ましくない。
 
自分の気持ちが分からない時は、ちゃんと「分かりません」と言うのが模範的回答だ。
 
「分からない」のか「今は言いたくないの」かは、いつも確認される。
本当は言いたくないことを「分からない」と誤魔化すのはよろしくない。
ちゃんと「今は心の準備ができてないので、言いたくない」と言えた方がいい。
 
カウンセリングでは、その時の自分がどう思ったのかについて本当に良く聞かれる。
その時の気持ちが分からなかったり言いたくないのには、ちゃんと理由がある。
そこが自己洞察のツッコミ所なんだけど、あたくしのカウンセリングでは、追求されたり、暴かれたり、本音を急かされたり、まして先生の推理を聞かされることもない。
「あ、そう」てな感じで、話はサラサラ流れる。
 
 
 
…みたいなのは、これまで何度も面接を重ねた結果、あたくしが失敗を繰り返して理解したことだ。
信頼関係さえ出来れば、もちろん最初から何でも上手に本当のことを話せる訳ではないのね。
どんな人にでも、咄嗟に嘘をついたり適当を言ったりはある訳で、それは身を守るのに必要な長年の習慣や癖だったりするのね。
自分を守っていた鎧を簡単に脱ぐことが出来ないのはいたしかたないんである。分かっていて努力する訳です。
 
それでですねぇ。適当なことを言ってしまった時はどうなるかといいますと…。
 
自分のカウンセラーの先生は適当にご歓談されているように見えても、絶対に違います。
本当のことなら何を言っても受容されるけど、嘘や適当には容赦ないんです!(笑)
その豹変ぶりたるや…
 
「本当にそう思ってるわけ?」
「ねえ、ねえ、本気でそう思ってるの? 自分の考えなの?」
絶対に許してはくれない。
 
「……違うでしょう? それ」
間髪入れず否定されることもある。
 
その時の先生は、きっと怒ってます! 
おっかない顔で脅されているわけじゃないから、怒るという表現は適当ではないのだけど。
目がチベットスナギツネみたいになって「ぼくとの信頼関係は?」と言っている。
「この時間を茶番にするな」と迫っている。
 
「はぁ〜参ったな、あはは」とか「流石は先生」なんて誤魔化してるけど、しかし、内心は平謝りだ。
すみません! そう言っとけばいいかなって思って、適当言ったのです。
考えないで、他所の人から言われたことをそのまま言っただけなのです。
 
そうして、結局は自分の本音に向き合わなくてはいけなくなる。
カウンセリングは何しろ本当に思ったことだけを言う時間なのである。
 
 
 
先生のチベットスナギツネが怖いので、今の先生には何でも言うようにしている(←ちょっと嘘 笑)。
「先週のあの言い方、家に帰ってから腹が立ちました」と前回の面接を蒸し返したり、「あのね、これだけは分かってもらいたいのですけど」と要求したりする。
臆病なあたくしがどれだけ自分をさらけ出しても、最悪の事態に(例えば、力で屈服させられる、信頼関係が壊れる、面接中止になる等)ならないと安心できている空間だから言えるのだ。
 
そうして、先生はそれらを本当に面白そうに聞いている。面白そうに、がポイントなんだろうな。
実際に面白いんだろう。こんな自分の様子は、面白いのだろう。
事件後、思ったことが喉に詰まって言えなくなったことが「あたくしの問題」だったのだから、自分もそれはとても楽しい。
「これだけは分かってもらいたい」と相手に求められる自分が嬉しい。
 
常に本当のことを言うのはクライアントにとって勇気と努力が要ることだけれども、それを受け止める側のカウンセラーだって、プロとはいえご苦労様だ。
あたくしは何度か、自分で話していて具合が悪くなるような過去の話をしたことがあって、後で「先生は大丈夫なのかしら?」と不安になったことがある。
トラウマ関連の本を読んでいて知ったことだけど「自分の汚らしい話が先生を汚すような気がする」と、考えてしまうクライエントは、結構いるらしい。
 
だけど、先生はスーパーでタフなカウンセラーを演じることなく「ダメな時はダメと言うから」と、とても現実的な方法を提示してあたくしを安心させた。
そうして、こっちが話していてダメそうな時も「話したくなかったら話さなくてもいいですよ」とストップかけてくれる。
先生から見たら一目瞭然みたいだけど、未だに自分が話しながらどう感じているか推し量るのが下手くそだ。
 
「ああそうだ、ここは話したいことだけお話しする場だったんだ」とあたくしは約束を思い出す。

何はともあれ、まずはカウンセラーとの信頼関係を。

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カウンセラーが初回面接を始める時の常套句に、
「この時間はあなたのものですから、何でも自由にお話下さいね」というのがある。
それから、
「ここでのお話は他には漏れることがないので、ご安心下さいね」というのもある。
 
カウンセリングの練習レベルでは、こう言ってしまえば大丈夫、あとはクライエントはサラサラと悩み事を話す、ということになっている。
ただし、現実はそうはいかない。
んなこと言われたって、会ったばかりの人を信頼して何でもペラペラ話す気にはなれないよね。
 
あたくしはどちらかというと短気なもんで、
「時間制限はあるし、お金はコッチ持ちだし、どんどん話さなきゃあ」
「この人はプロだし、こうも言ってくれているので大丈夫だろう」
とドカンと核心に行っちゃうタイプなんだけど、今、思えばそれはそんなに上等なやり方ではなかったなあ、と思う。
 
最近気がついたことだけど、心の準備ができていないことを無理に言おうとすると、身体や頭はちゃんと分かっていて、止めさせようとする。
カウンセリングの練習をしている時に、クライエント役で話している途中で、自分の手が段々上がってきて相手と自分の間の空間で止まり、視界を塞いだことがある。
自尊感情が低くて辛い」ことを話題にしたのに、途中から勝手に「友人の優しさに触れて嬉しかった」という話にまとめたことがある。
無理やり話そうとしたので、核心にいかないように脳みそが会話内容を捻じ曲げたのだ。恐るべし、自分の脳。
 
 
 
そういうわけで、カウンセラーの信頼感を持たないまま会話を進めても、なかなか心の奥深くにある肝心の部分には話が及ばないものだ。
「こんなに何回も通っているのに、イマイチ満足感というかスッキリ感がないのは何故?」と停滞感を感じるのなら、カウンセラーとの関係を今一度振り返ってみた方がいいかもしれない。
せっかく何を話しても良い魔法の空間を手に入れたのに、それを活用しきれていない感じがするのなら、自問してみるといいよ。
カウンセラーを信頼できてる? カウンセラーから信頼されてると感じてる? って。
我武者らに話せば進むもんじゃないというのは、最近気がついたカウンセリングの面白さだ。
 
信頼感がないまま話をすると、先生の応答に不満を感じた時に、それを率直に指摘しにくい。
実はあたくしは、子供がとっても欲しかったけれど夫との関係の中でそれが叶わなかった人で、カウンセリングでもそういう話をしたことがある。
かつて、カウンセラー(今の先生でなく)の「あ〜そうね、お子さん欲しかったのね〜?」の応答がいかにも投げやりで、あしらわれているように感じられたために、それまでさめざめと流していた涙が止まったことがある。一瞬で白けたのである。
先生との信頼関係さえ育っていれば、「わたしにはとても重要な問題なので丁寧に扱って下さい!」と、ちゃんと不満を表現できて、その話も深まったかもしれない。(不幸にして深まらなかったとしても、自身にとっては何か進展があったに違いない。)
 
しかし、その時は、あ〜、この先生、この手の話は苦手分野なんだな〜と思っただけだった。
そうして段々、そのカウンセリングから足が遠のいて行っただけだ。
 
カウンセラーが少し的外れのことを言った時にも、「そうなのかなぁ〜?」なんて肯定も否定もしない態度をとって、ボヤッとした会話になってしまう。
互いに信頼感さえあれば、それをきっかけに「それは違いますね、わたしは…」と、話を深めていけるチャンスなのに。
だけど、信頼関係が希薄だと「ああ、この人分かってない」ということは瞬時に理解できても、カウンセラーの言葉を否定してまで自分の本心を理解してもらおうとする勢いが生まれてこない。
 
違和感には洞察を深めていく可能性が秘められているのに…。
だけど、カウンセラーとの信頼感が構築されてないと、単なるモヤモヤ感や不満で終わってしまうのでもったいない。
 
だからこそ最初は「この人、口では何でも自由に…なんて言ってるけど大丈夫かな?」と疑いつつ、ソロソロと当たり障りのない部分から話を始めるのが賢明だ。
まず、目の前のカウンセラーが自分にとって信頼に値する人なのかどうかを、慎重に値踏みするくらいでいいんだと思う。
急ぐあまり、余計に自分を傷つけるようなことにならないようにね。
 
 
 
とはいえ、あまり慎重にやっていると、肝心の問題解決が進まない…のも真実である。
 
その辺こそカウンセラーの最初の腕の見せ所で、技量の差が明確に出る部分だと思う。
上手いカウンセラーは、面接の最初は、問題を根ほり葉ほり聞くことより先に、まず短時間で信頼感を得ることに集中するらしい。
とあるプロカウンセラーは、自分の持てる技術を総動員して「最初の15分でキメる」とおっしゃっていた。
そうすると、面接時間が50分だとすると、残りの35分で結構深いところまで話ができて、次の面接への期待感を持たせつつ、予約も入れてもらえる、と。
最初の15分で信頼関係の構築に失敗すると、だいたいは再び訪れることはないらしい。
(もっとも、この先生は病気の人は扱わないので、健康な人は技量不足にシビアで決断が早い、とも言えそう)
あたくしのように「いつ打ち解けられるかなぁ?」みたいに漫然と回を重ねるクライエントは少ないのかもしれない(笑)。
 
では、現在のあたくしのカウンセラーの先生はどうだったんだろう? と思って、当時の日記を見てみたら、初回面接のことは何も書いていないのだけど、3回目の面接後に「変な気持ちになっている」と書いてあるので、すでにこの辺りで信頼しちゃったあまりの陽性転移の曙があるのだな(笑)。
「信頼感」については一言も触れてないけど、今まで堰き止められていた川が流れ出したように感情が動いて、そういう面白いことが起きたことに興味津々になっている様子が綴ってあった。
 
実は現在のカウンセラーとの面接を始めた当時、これまでの失敗から、数回面接してピンとこなかったらもうカウンセリングは辞めよう、と考えていた。
それに、これはあまり言う人がいないけれど、カウンセリングは決して万能ではなくって、実は効果のない人もいるのだ。
カウンセラーの技量の問題ではなく、こっちの問題かもしれない。
だからもし、自分がそのチームの人だったら、カウンセリング以外の世界を求めてまた旅に出ればいいさ、と思っていた。
 
あたくしの場合は、頭では「この人、どうだかな?」と思っているうちに、無意識下で勝手に現在のカウンセラーへの信頼感が花開いてしまったので、自分自身が信頼感の構築に何か努力をしたというわけではないのだけど、ひとたび信頼関係が生まれると、カウンセラーへの不信感で心が乱れることなく自己洞察に集中できるようになるんだなぁ〜、と実感したという話。

ミッション:無条件に受容された体験を思い出せ。

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泣いている幼い女の子の目の前で、その大柄な男性は中折れ帽でもって“ひらり”とチョウチョを捕まえてみせる。
注意深く指先にチョウチョを摘んで「ほら、君のだよ」と女の子に差し出す。
女の子は一瞬泣き止むのだけど、そんなことでは誤魔化されないとばかり、再びオウオウと泣いた。
男の人は怒らない、ガッカリしない、ただワハハと声を上げて笑った。
解き放たれたチョウチョはフラフラと彼方へと飛んでいった。
 
もう、半世紀近くも前の光景。
そのことを突然に思い出したこと、その記憶が持つ意味を悟って、多幸感でいっぱいになった。
泣いている女の子は3歳くらいの自分で、男の人は母方の祖父なのだ。
祖父との思い出は数えるほどしかないけれど、これは完璧な思い出だ。
 
 
 
先日のカウンセリングで、先生に「無条件に受け入れられた体験を思い出して」とオーダーをいただいたのだった。
 
あたくしには、自己評価が低いゆえの「常に頑張っていないと、人から見捨てられる」という強迫観念がある。
心にしろ体にしろ何しらを交換しないと人からの受容が得られないと思い込んでいるのだ。
自己評価の低さがあたくしに緊張や過労を強いており、事件に遭ったことやその後の自分の解釈…そして緩やかにトラウマに繋がっている。
 
お金を払って受容されるカウンセリングは、先生との相性さえ良ければ、あたくしにとっては非常に気がラクだったりする。
お金を払っているのだから、受容されるのは当たり前でしょ? ぐらいに思っている。
そういう意味でカウンセラーの先生は、残念なことだけどあたくし的には本当の意味での「無条件の受容」にはならないのね。
カウンセリングルームで行われる会話はとんでもなく巧妙なので、ついウッカリそのことを忘れそうになるけれど。
 
それに、カウンセリングでの受容は、言葉ばかりで実体がないのだ。
例えば「言葉なんかいらない。ただ黙って寄り添ってくれい!」的な受容を所望すると、それはカウンセリングルームでは叶わない世界だ。
そこで、リアルな体感が伴った「無条件の受容」を過去の記憶から探しましょう、ってことになるんだと思います。
 
「ありのままで存在してよい自分」の記憶を思い出せれば、その感覚はきっと自己肯定感の核になってくれるのでしょう。
あたくしは過去の記憶を検索した。
 
カウンセリング中、とっさに思い出したのは、若き日のボーイフレンドとのホッコリするようなエピソード。
そこだけ切り取れば、とても美しく可愛らしい思い出なのだけど、なぜか芋づる式に嫌なエピソードまで噴出し、たちまちにそれは全てを汚染した。
完全な善人も悪人も存在し得ないと頭では分かっているのだけど、どうしてもあたくしの頭の中では善悪で1人の人間が2つに引きちぎられてしまう。
善悪の混在が、人間の多面性が理解できないのだ。
 
「あ〜ダメですね、わたし、
 人は必ず綺麗な部分と汚い部分を併せ持っているってことが、
 根本的に分かってないみたいです!」
 
自己評価を上げるためのミッションなのに、自分へのダメ出しをブツクサ言いだしたあたくしを見て、先生は手を目の前でヒラヒラさせてストップをかけた。
「それ、止めよう。別のに変えよう」
 
 
 
結局、その話は代替案が思い浮かばずにそこで行き詰まったので、あたくしは、勝手にそのミッションを家に持ち帰った。
先生は「絶対に、無条件に受容された思い出は、ある」と言ったけれど、本当だろうか?
思い出せないということは「ない」のではないか?
そもそも、物心がついたころから得体の知れない「ちゃんとやらなきゃ」的な緊張感に包まれていたわけだから、受容されていても受け取れてないのではないのか?
恩知らずで性根が腐っているから思い浮かばないのか(笑)? などなどをグルグル思考した。
 
そうしたら、カウンセリングから二日経った頃、割とボケっとしている時に、ふと心の中にチョウチョが飛んできて、ヒラヒラと垣根の上に留まった。
自分の頭の中は一瞬、半世紀前近くにタイムスリップし、冒頭の祖父との思い出が再現されたのだ。
 
あ〜こりゃ、完璧に「無条件に受容」された思い出だわ、とあたくしは感心した。
 
実を言うとこの思い出、ワガママで祖父を困らせたエピソードとして記憶庫に格納されていたのだ。
でも、今回思い出したことで、180度解釈が変わった。こういうところが記憶の不思議なところなのかも。
 
「聞き分けの良いイイ子だね」とか「大人しくて手がかからない」などの褒め言葉や、逆に「喜ばないのなら、買ってあげない」的な条件付きの愛情の記憶はふんだんにある一方、無条件ねぇ…と、少し途方に暮れていたんだけど、いや、ちゃんとありましたよ、先生。これですね?
 
 
 
祖父は戦争に行った世代だ。軍艦に乗っていたら反対側に大砲が当たって船が沈没し、海で立ち泳ぎしていたら漁船に助けられたそうだ。
大砲が祖父の側に命中していたら…もし泳ぎが達者でなかったら…凍りつく冬の海だったら…母も、そしてあたくしも存在しない。本当に不思議なことだ。
あたくしは、そんな祖父の初孫で、自分をネタにこんなことを言うのも変だけど、初孫抱いた時、とても喜んだに違いない。
 
祖父は30年ほど前に亡くなり、小さいけど素敵なお家だった母の実家はその後すぐに取り壊されてアパートになってしまった。
チョウチョが留まった垣根も、金魚がいた小さな池も、白くて大きな雑種犬がいた小屋も、裏のニワトリ小屋も、今はあたくしの脳内の中にひっそりと存在する。
だけど細部に思い出せない箇所があるんだよね。もっと真面目にスキャニングしておけば良かったと後悔している。
 
 
 
そうして、これで頭の中に自己肯定感の鋳型ができて、一歩前進かな〜♪と、淡い期待を抱いていたら、次の日、今度はバランスを取るが如くに、過去の様々な「自分の人間性を踏みにじられた体験」的なものが噴出してきたのである! なにゆえに?!
そんなこと、ずっと忘れてたことなのに「あれもこれも、今思えばあの行為はそういうことだったんだ、酷い!」という感覚に1日苛まれた。
 
そこで「あれは過去、今は安全」と、カウンセラーの先生が以前あたくしにしてくれたように、今度は自分でその魔法の呪文を唱えたのだった。
 
 
 
そんなんで家事放棄である。
夜、近所の焼き鳥屋さんに行ったら、もう全てがフックラと焼きあがっていて感動が止まらない。
つくねの美味さに、「これまで食べたつくねの中で、一番美味い!」とワザワザ店主に伝える。
明らかに過剰に心が揺れている(笑)。

幻惑について。

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普段、不思議体験には無縁な暮らしをしているけれど、昨年10日間の瞑想合宿に行った際、幻覚を見たことがある。
1日目にして、目をつぶっているのに辺りが明るくなり、目の前の丁度50センチくらいの場所に壁を発見した。
壁には細やかな花柄が規則的に並んでおり、「おや、この壁には見覚えがある」と思った。
それは、実家のトイレの壁だった。
なぜ、そこが再現されたのかは分からない。多分深い意味なんてないんでしょう。
 
その後は、様々な人の顔(しかし実在の人ではない)の形になる不思議な雲や、どこまでも続くコンクリート壁などが出現した。
特に、コンクリート壁はの幻覚は様々なパターンで出現し、安藤忠雄磯崎新の作品を思い出した。
目を閉じたまま視線を移動させて、そのコンクリート壁を追うと、緩やかにどこまでも続いているのだった。
その時は、自分の頭、すごいやと思った。なんの役にも立たないけど(笑)。
 
自分は座って目をつぶっているだけで、これは現実ではないのは理解している。
でも、なんてリアルに作り込んでいるんだろう! と、ただただ関心するばかり。
幻覚だというのは分かってるけど、現実にソックリだ、面白いなあ〜という感覚だ。
そうして、残りの毎日、どれだけ面白いものが見れるのだろう、と思っていたら、「見る」幻覚は初日だけで終わった。
 
7、8日目に、一回だけ、今度は体感の幻覚が起こった。
ツムジから7分立ての生クリームみたいなものがフクフクと湧き出でて、顔を覆い、顎から垂れそうになる。
「おっとっと」と自分はクリームが垂れないように思わず顎を上げる。
偽物の感覚とは分かっているけど本当によく出来ていて、関心した。
その日の夜、瞑想の先生に「あれは何でしょうか?」と聞くと「無視しなさい」と懸命なアドバイスいただいた。
 
 
 
社会心理学のトピックスに、感覚遮断テストというのがある。
学生時代に学んだ。真っ暗な水槽タンクの中に被験者を入れておくと、そのうちに自分の体の形の認識も変わるし、幻覚も見るそうだ。
当時は、面白いけれども非人道的な実験方法として学んだような気がする。
(それ以外にも社会心理学の実験には今ではあり得ないような非人道的なものが多い)
ウィキペディアによると、洗脳に関する研究の一分野から発展したらしい。
なるほどね。
 
その実験装置はアイソレーション・タンクというのだけれど、今ではお金さえ払えば誰でも体験することができると最近知った。
幻覚が見れる面白装置としてではなく、リラクゼーション効果…深いリラックス感や手軽な瞑想状態を得るために利用されてるようだ。
学生当時、あの非人道な実験装置に入ってみたかったあたくしとしては、どんな体験ができるのか、心から興味本位でその中に潜り込んでみたい。
でも、結構お高いんです、それ。
 
 
 
幻惑が現実と区別がつかなくなったら、それすなわち“ほとんど”現実だ。
しかし、あたくしは、まだそれが、錯覚で、偽物で、幻惑だと知っている。
できるだけ客観的に眺めようとする。
まったくよくできてるなあ、この恋心、まるで本物みたいと、しげしげと眺める。
陽性転移は、偽物だと分かっているけど突っつかずにはいられない食品サンプルみたいだ。
 
あまりにそっくりで、胸が熱くなる。
偽物でもいいや、口に入れてしまおうか、くらいに思う。
だけど知っている。これはあたかも恋心にそっくりだけど、全く別の用途がある。
いい匂いがして美味しそうな外見だけど、“消しゴム”である、みたいな。
 
そこで、本来の用途を一生懸命考える。
何か用途があるから、これは存在を許されているに違いない。
ただ、何十年も前の生々しい気持ちを再現させてあたくしの胸を締め付けるためではないはずだ。
そうだ、今度それとなく水を向けて聞いてみよう!
 
…てな感じで頭で理屈をこねくり回してカウンセリングに足を運んでみたわけですが…
全然、甘い話にはならず、あっという間に投げ飛ばされ、ひっくり返ったまま起き上がることもできず、涙目になって帰ってきたのです。
あたかも…って話ですけどね。
 
あ、いい年して恥ずかしいですが、涙目というところは本当です。
もちろん、意地悪された訳ではなく、あまりにも自分を分かってなくて泣けたのです。
(陽性転移の存在理由の探求は延期です!)
 
本件とは関係ないですけど、勝手に変な体操するな(前回のTREのこと)と注意されました(笑)。
お医者さん、カウンセラーにかかっている方は、TREする前にご相談なさってね。
現在の信頼関係をくれぐれも大切に。ごめんね先生、あたくしが悪かった。

ミッション:汝の弱さを受け容れよ。

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「自分の弱さを認める」のは難しい。
 
しかし、自分の弱さを受け容れられれば、それは自分の強みになる。
自分の弱さを認められないことが、その人の脆さに繋がる。
う〜ん、逆説的だが、そういうことだ。弱さがいけないワケではない。
認められないことが問題なのだ。
 
家にいて時々、ヨガのヘッドスタンドの練習をしている。
丹田力、適度な筋力、バランス感覚などが必要なポーズで、他のポーズには興味ないけど、これはマスターしたい。
足で立つよりも腕と頭で立つほうが接地面が多いので、固定観念さえ忘れれば、案外ヒョイとできるそうである。
しかし、つま先が浮いたまま維持できるようになったものの、自分の場合は90度の角度よりいつまで経っても足が上がる気配がない。
 
そんな話をしたところ、カウンセラーの先生が「違うな〜」と言う。
「そういうのじゃなくて、もっと自分に優しくしてあげて?」
先生には見えているに違いない。
おら、何で出来んのじゃ、出来んのじゃ! と布団の上でピョンコピョンコしているあたくしが…。
「そういうのじゃなくて、マッサージしてもらうとか、労わるのがいいよ」
勝手に自分で山を見つけて遮二無二登ろうとせず、まずはゆっくりせえ、というのが先生の方針なのだ。
 
分かっている、自分の弱さを認めて、優しくしろと言うのでしょう?
でも、甘やかしているうちに、どんどんダメになりませんか?
と、あたくしは内心、反抗するワケです。
 
 
 
そうこうしていたある日、半年ほど前に図書館に予約していた本が借りられたのもあり、自宅でTRE(トラウマリリースエクササイズ)なるものを試してみた。
参考にさせていただいたテキストはこれ
『人生を変えるトラウマ解放エクササイズ』デイヴィッド・バーセリ 著
 
これ、考え方はとってもシンプルです。
どうして野生動物はトラウマ状態に陥らないのか? と考えた結果、「震える」ことが大切らしい…という仮説に基づいている。
 
恐怖→筋肉硬直→危険が去る→震える→筋肉に溜め込んだエネルギー放出→通常に戻る
 
危険な目に遭うと死んだふりする動物が、起き上がる時にブルブルするのも同じメカニズムらしい。
 
ところが、文明社会に生きる人間は、TPOに合わせて震えをある程度制御できてしまうので、野生の本能のままに心身をリセットできない。
そうすると恐怖時のエネルギーが筋肉に記憶されてしまいトラウマ化してしまう。
そこで、擬似的にブルブルさせて身体に記憶されたトラウマを解放させる…と。
ホント? って感じだけど、本の解説に従ってそのTREとやらをやってみる。
 
詳細は本に譲るのだけど、最初の約15分間、足腰に筋トレみたいなエクササイズでもって負荷をかけるのである。
そうして、その負荷から解放されると、足が勝手にブルブル震え出す。
この自動的に震えている状態を数分間維持する。終わり。
 
この本を読む前は、勝手にブルブルするなんてスピリチュアルな手法かな? と思っていたけれど、そうではなくって、山を長距離下ったりすると「膝が笑う」状態になるでしょう? あれです。
震え自体は、真面目に足腰に負荷をかければ誰にでも起こるでしょう。
 
たしかに、足腰が勝手にピクピクするのは面白い。機嫌の良い時なら笑いすら出そうだ。
それに足の筋トレにはなる。腿が引き締まりそうですよ。
しかし、肝心のトラウマは解放されるんですか? というのは疑問。
 
あたくしの場合は…ここ数日の具合悪さも相まって、一連のエクササイズを終えた後、心臓のバクバクが止まらなくなった。
なんでやねん…と自問自答しながら、息苦しさにハアハアする。余計に辛いかも…。
 
 
 
そうしたら、ココロの中にカウンセラーの言葉が聞こえてきた。
「ほら〜自分を虐めちゃダメでしょ?」
「自分の弱い部分を愛おしく思わなきゃ」
 
それから、何だか分からないけど、自分が愛している繊細なものたちが浮かんできた。
蝶の触覚やグルグル巻いた口、リスやネズミの小さな手足、そっと触れないと壊れてしまう多肉植物
 
それは繊細で脆いけど、それが弱点じゃない、悪いことじゃない。
むしろ愛すべき儚さだ。
なのに、なぜ自分だけ無敵でいたいのかなぁ?
 
EMDRを断念したのは、自分にとってストーカー事件が過去のことになりつつあるってのもあるけど、ホントのところは先生の意見の方が大きいと思う。
 
「あなたさ〜、自分が繊細なこと気づいているでしょう?」
繊細という言葉は自分には似合わないような気がして、ものすごく抵抗感がある。
「神経質というのは分かります」と言い換えた。
 
「今、元気になったら、また自分を無視して、無理をするんじゃないかな?」
そうだな、その通り。あたくしは今までの遅れを取り戻そうと無茶するだろう。そうして、恐らく、またおかしくなるだろう。先生にはお見通しですか。
 
自分の弱さを認めること。自分の感情を認めること。それを全てひっくるめて自分を愛おしいと思えるように。
 
ああ、難しや…それにしても、これだけ洞察が進んだのだから、きっとTREは成功だな? 効果あるな? そういうことにしておこう(笑)。
 
※TRE、実際には隔日で一ヶ月くらいは継続してね、ということです。
人生を変えるトラウマ解放エクササイズ

人生を変えるトラウマ解放エクササイズ

 

 

「陽性転移」の気持はまず人に伝わらない。

f:id:spica-suzuhazu:20171025190732j:plain昨今の急激な気温の下降に身体がまだ慣れてません。

先週末に外出した疲労も重なって、あたくしの不安センサーはまたもや暴走しています。
何もない、何もないちゅうてるのに…
そんな日は心臓バクバクしながらも、抗不安剤の頓服飲んで、ブログに取り掛かります。
 
 
 
同じ体験をしたとしても、わたしとあなたが感じることは違う。
自分の世界を100%他人に理解してもらうのは不可能だし、相手の世界も100%理解することは不可能だ。
人と自分の境界線を自覚することが、人間的な成熟につながるのだ…と、心理学の本に書いてある。
他人も自分も尊重できるようなエレガントな人間になるには、このことを常に心に留めておかなくてはいけない。
 
とはいえ、あたくしを含め、それが腑に落ちてない人はけっこう存在するのではないだろうか。
「一生懸命伝えれば、限りなく100%に近づくのでは?」愚かにも期待してしまう。
これだけは分かってもらいたい!と思うことには関しては異常に執着し、うかつにも不可能に挑んでしまう。
 
 
 
気心知れた友人には自身のカウンセリング通いを話しているんだけど、心が健康な人には「陽性転移」はまず理解されない。
 
「トラウマでカウンセリング」というくだりは割とあっさりと「大変だったねえ!」と共感がいただける。
恐らく、多くの人にとってストーカー話はリアルさに欠ける話だから、ここはスンナリ受け入れてもらえるんだろうな。
しかし「そのカウンセラーに好意を感じている」となると、即座に「なんでやねん!」となる。
その反応から、「陽性転移」は「不思議な出来事」というよりは「嫌な出来事」というカテゴリーに入るらしい。
 
いやさ、よく知らないくせに、なぜとっさに「嫌な出来事」と決めつけるのか?
自分はこれを(素敵で、愉快な)「不思議な出来事」としてお伝えしたいのに!
そこで、あたくしは「陽性転移」がいかにカウンセリングの世界では起こりがちなことであるか、またカウンセリングを進める上でも使える現象なのだと、熱く説明する。
 
1)人間不信に陥っているあたくしに心を開いてもらうために、先生は「陽性転移」が起きそうなアレコレをしかける(多分)
2)「陽性転移」したあたくしは、先生に理解してもらいたいので普段喋らないことも喋るし、感情もオープンになる ←今、ココ
3)結果、先生はあたくしの抱える問題が分かり、これは解決できそうだなと思った時点で、ゆっくりと「陽性転移」を解く
4)あたくし、正気に戻る
 
こういう、閉じられた空間で生まれるバーチャルな(しかし非常にリアルな)体験の面白さを、あたくしは知ってもらいたい。
 
が、この説明が功を奏すことはなく、相手はますます胡散なものを見る目になる。
それは、いい年してアイドルに血道を上げているオバさんを見る時の呆れ顔だ。
そうして、「そのカウンセラーは、そんなにカッコイイのか?」と聞いてくる。
「いや。一見、だだのオジさん」
多分、カウンセラーがジョージ・クルーニー(このツボ個人差あるけど)みたいだったら理解してもらえるのでしょう。
見た目はただのオジさんなのに、初恋の人に再会した時のようなトキメキが感じられるところも、あたくしとしては「面白ポイント」なんだけど、これも悲しいくらい全く伝わらない。
 
あたくしが平凡なオジさんカウンセラーに恋心を抱いていると判明した時点で、友人は「大丈夫?」と言う。
カルトの教祖に洗脳されまくった信者を見るが如き、憐れみの目だ。
 
ある友人は「この年になって、恋なんかしたくないわ」と、言い放った。
 
きっと「陽性転移」の話への嫌悪感はこの辺の生々しい気持を避けたいところから来ているんだろうとあたくしは予測する。
「自分で制御できないほど心を乱したくない」と、いうことなんだろう。
 
「ただ愚痴を聞いてもらうだけならまだしも、そんな風になるなら、カウンセリングは絶対にイヤ」というのが多くの人の感想だった。
 
 
 
この件、「世間のカウンセリングに対する偏見が激しすぎる」と、一度カウンセリングで話題にしてみた。
「催眠術で操られてるんじゃない? くらいは言われるんですよ、酷いでしょ?」
「まあ、転移を悪用する人もいるけどね」
(え? 今、何て言った? とは思ったけど、本題から外れるのでそれはスルーした)
 
「あたくしはねぇ、陽性転移に陥った時の、あの不思議な感覚を人にも分かってもらいたいんです」
「不思議って?」
そして、カウンセラーという存在をスクリーンにして、どんなに懐かしく甘酸っぱい気持ちがリアルに再現されるのか、自分の体験談を総動員して説明した。
そういえば、こんなに細やかに自分の「陽性転移」の話をするのは「先生=タオルケット説」の話をして以来だ。
だって、恥ずかしいじゃないですか? それはあたくしの何やら根源的なものに触れる話だ。
その間、先生はあたくしの言葉を聞き漏らさないよう注意深く聞いている。
しかしそれはやや覚束ない表情なのだ。次第にあたくしはモヤッと焦れったくなる。
この気持ちは先生が引き起こしたのに、分からんですか? という焦ったさだ。
 
そうして、もどかしく思いながら話していると、やにわに悟りの神が降りてきた。
「これが自分と他人の境界線なんだわ」と。
何故、今まで気づかなかったのか?
何もかも思いの全てを限りなく100%共有したい、というのは煩悩であり、深い欲なんだ。
いくら一生懸命伝えても他人に自身の「陽性転移」を正確にお伝えできないのは当然のことなのだと。
 
「陽性転移」を引き起こした本人→プロのカウンセラーとさえ、あたくしが陥った感情を共有できないんですものねぇ。
100人「陽性転移」に陥った人がいたならば、100通りの「陽性転移」があるだろうし、中には、そんな甘美なもんじゃなくて、ただただ辛いだけの「陽性転移」ってのもあるかもしれない。
 
ただ不思議なことに、その時の気持ちは失望じゃなかったのね。
誰にも「それは違う」「間違っている」と言われない世界が、自分の中に確固として存在してるってことなんだと理解した。
分かり合えない領域があることは、ただ悲しい寂しい訳じゃなくて、きっとそれはいいことなんだと。
 

 

だから「陽性転移」が理解されないのはいいとして…
「その上、ただのオジさんにキュンキュンしたと言うとバカにされます」
「え、そこで僕の話になる?」
どんなに熟練したカウンセラーでも、水を向けられると目が泳ぐものらしい(笑)。
 
カウンセリングの勉強を始めてから知ったことだけど、ちゃんとしたカウンセラーはプロとなってからも自身のカウンセングを怠らないらしい。
そうして、自分の心の癖を理解したり、心のお掃除をしたりと、良い精神状態でクライエントの相談を受けられるよう定期的にメンテナンスしているそうですよ。
その中できっとカウンセラーの先生も、あたくしのとは全く違うだろうけど、きっとイロイロな感情を体験しているに違いない。その面白話を聞くことができないのは残念だけどね。
 
「いや、カウンセリングってそんなに悪いもんじゃないよね〜」
「いいよね〜」
ってその日は和やかに終わったのだった。

アレキシサイミヤ。

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急激に気温が下がったので調子が悪いです。
環境が変化しただけなのに身体は勝手に危険と判断し、心臓がバクバクします。
こら、いい加減にしろってくらい、この3日やるべきことがほとんどできていません。
このブログは多分、逃避行為です(笑)。
 
アレキシサイミヤという言葉がある。
「何だかカッコイイじゃん」とか思うけれど、「失感情症」という意味であって、そんなにいいものじゃない。
 
自分の感情を自覚できないのがアレキシサイミヤの特徴である。
「失感情」といっても自分の感情を正しく認識できなくなっただけで、感情が無くなった訳ではない。
感情というのは自分が何を欲しているのか避けたいのかといった情報を意識化させる大切なものだから、これが上手く働かないと身体が一生懸命肩代わりして訴える。
 
涙とかは比較的分かりやすい身体表現だ。
すごい昔に3年くらい付き合った人と別れてしまった時、何だかまだ信じられないやと、思っていたら涙が出て止まらなくなったことがあった。
その時、何と自分は「ありゃりゃ、お腹減ったのかな?」と思って、自分にご飯を食べさせようとしたのだった(笑)。
そうして、ご飯を食べさせても一向に涙が止まらないので、やっとこさ、ああこれは失恋の涙なのね、と自覚できたのだった。
あれなんかは、今思うとアレキシサイミヤだな〜。
 
自分の身体に対して、何で泣いているのか分からない赤ちゃんを抱いているかのようにオロオロしてしまうのがアレキシサイミヤ。
 
アレキシサイミヤは、自分の気持ちを聞かれているのに、他人事のように「さあ、どうでしょうか?」みたいな言い方をすることが多々ある。
カウンセリングの敵だ(笑)
それでは全く洞察が進まないので、カウンセラーはいろいろなタイプの質問を投げかけなくてはいけないだろう。
 
 
 
最近になって気がついたのだけど、カウンセリングを始めたばかりの時、あたくしは気持ちそっちのけで事実ばかりを並べ立てていたように思う。
カウンセラーに伝えたあたくしの希望は、事件によるトラウマを克服し不安障害を克服してまた働きたい、というとても前向きなものだったのだけど、事実の羅列でもって「こんな状況だからしんどい」と暗に表現していたんだろう。
 
しかし、口では
「働いたら楽しいと思っているのに怖いのは何ででしょう?」
みたいな言い方をしていたものだから、ある日、カウンセラーは言い放った。
 
「いや、あなた、働きたくないんでしょう?」
なぜ、そんな簡単なこと自覚できないの?とカウンセラーの顔は言っていた。
 
「いえ! そうじゃないです。働きたいのに働けないのです!」
「いいじゃん、何で働きたくないって考えちゃダメなの? 」
「いや、ダメですよ、働かなきゃ」
「疲れちゃったから休みたいんでしょう? いいじゃないですか」
「いや〜、言えませんよ」
「働きたくないって、言ってみなよ?」
そんな感じで、カウンセラーは「おらおら、働きたくないと認めろ」とばかりに執拗に言葉責めをしてくるのだった(笑)。
 
そして頑として受け入れないあたくしに
「自分が感じていることを、ちゃんと受け止めるところから始まるのに!」と、嘆いた。
 
「ああ、辞めたいな、とか思いながら働いている人なんてたくさんいるよ」
「え、そうなの?」
そう言われたら、確かにそうだよね。
 
昔は、もっと自分の気持ちがよく分かったし、どうすればいいかも知っていた。
若い頃、朝の通勤電車の中で「このまま会社行きたくないな〜」と感じたので、途中下車して「風邪気味なんで病院寄ります」って会社に電話して、美術館に寄り道したことがある。お昼過ぎに何食わぬ顔でキオスクで買ったマスクして「エヘン、遅くなりました」なんて言って…。
 
「何で行きたくないんだろう?」とか「どんなことがあっても会社には行くべし」とかは思わなかった。
もちろん周囲に迷惑かけない程度にだけど、ちゃんと自分の気持ちを優先させてテキトウすることが出来てたのになぁ。
それに、たまのおサボりよりも、ある日突然、出社できなくなる方が自分にとっても会社にとっても大迷惑だ。
 
 
 
「あなたは、何を感じても自由なんだよ?」とカウンセラーは言う。
そうか、あたくしにはその自由がなくなっちゃってるんだなぁ〜
 
背中の筋肉は常に硬直していて、心臓は時に激しくバクバクし、稀に右こめかみがズキズキ痛む。
言論の自由を奪われて、あたくしの体は何かを訴えてるんだわ。
 
トラウマ関連の書籍によれば、アレキシサイミヤはトラウマを負った人がよく陥る状態なのだとか。
自分が何を感じているのか分からなくなっちゃうので、自分に心地よい場を提供しにくくなってしまい、それがまたストレスを増やす…という悪循環を辿る。
 
「きっと今までの経験が生かせる、あなたらしくいられる場所がきっと見つかるよ」
だから焦らないで、とカウンセラーは慰めてくれた。