心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

頭の中に音楽が戻ってきた。

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街を一人で歩いていたら、ふと頭の中にある曲が流れてきて、ものすごくリラックスしていたのだろう、それに合わせてつい口ずさんてしまった。
そうして、それを自覚したときに、この感覚があまりにも久しぶりなのに気がついて、不覚にも目に涙が浮かんでしまった。
この嬉しさは、あの、迷子が保護者に再会したときの「うえ〜〜〜ん」って感じだ。
 
それから、嬉し涙というのはどのような意味を持つ身体反応なのだろうか?とか考えた。
嬉しかったら単純に笑えばいいのにねぇ。どうして涙を流すのでしょうかね?
 
かつて自分の頭の中にはラジオ局みたいなのがあって、自分が心地よさを感じている時は、手持ちの曲からその時の気分にふさわしいBGMを自動的に流してくれた。
ワクワクしている時はドリカム、楽しい時は70年代懐かしディスコミュージック、リラックスしている時はピアノやチェロの旋律が湧き起こる。音楽の趣味に節操はない。
頭の中に勝手にメロディが流れてくることで「ああ、自分は今、心地よいのだな」と逆に認識したりした。
そうして、心に音楽が満ちてくると、目の前に映る世界はキラキラ美しいものに感じられて、あたくしはそれなりに楽しく暮らせていたのだ。
 
…だったのだけど、10年前に事件に遭ってからというもの、そのラジオ局は突然閉局。全く曲が流れなくなった。
お洗濯する時、あんなに鼻歌を歌うのが好きだったのに、頭の中がシーンとしてて、洗濯機に手をついて呆然とした。
今まで自然に出てきたものが詰まって出てこない感覚に最初は戸惑って、それからは自分の気持ちに自信が持てなくなった。
今、楽しそうにしているけど、本当に楽しいのか? 
頭で「楽しい状況だから楽しくしなきゃっ!」と考えて、楽しい振りをしているだけではないのか?
だって、頭の中に音楽が流れていないもの…。
 
どんどん不自然で、たどたどしくて、挙動不審になる自分に「何でだろう?」とうつ的な自動思考でもって、猛烈に執拗に理由探しをした。
壊れてしまったんだわ、自分。そう考えると、あちこちが以前と変わっていることに気がついた。
不思議なことに、それが「事件に遭遇したこと」と関係しているとはつい最近まで思いもせずに、自分のどこを修正すれば元どおりになるのか、ずっと、ず〜〜っと考えていた。
 
 
 
そこで、自分よりももっと賢い人に手伝ってもらおうと思ってカウンセラーにお願いしたのだ。
プロならばプロ仕様の道具をたくさん持っているだろうし、修理も早いだろう…。
ところが、そのカウンセラーはそんなあたくしを屈託なく一笑に付す。
「君はいつも、何でだろう? とか、あ、そっかぁ! とかって言ってるよね? アハハッ!」
 
クライエントを笑うか? と当時のあたくしは内心、防衛本能バリバリでもってカウンセラーの笑い声を聞いていた。
 
カウンセラーは、「あなたの気持ちは分かるけどさあ」と前置きしながら、ことあるごとに「過ぎたことの理由なんか考えてもしょうがないよ」「理由探しなんかやめなよ」と言う。
しかし、10年来の悪癖がそんなに変わる訳もなく、あたくしの話はどうしても「あの時、どうして…」という話になる。
そうすると、カウンセラーは時には露骨にウンザリした顔をして、「何だかわからないけど、そうなっちゃうことってあるんだよ?」「今のあなたは安全なんだよ? 分かってる?」と繰り返した。
 
世の中の不条理さ、理不尽さは頭では理解している。今の自分はとても安全なことも分かっている。
少なくとも、危険を感じたら、今の自分はちゃんと逃げたり助けを求めることができる。
しかし、腑に落ちていなかったのだな。
一つには「カウンセラーはあたくしの過去の黒い話を聞くべきだ」と思い込んでいたからというのもある。
 
あまりに進歩のない「ナゼナゼ、ドウシテ?」循環思考のあたくしに、ある日、カウンセラーは業を煮やして、こう言い放った。
 
「それは、認知療法の考え方だなっ! それは僕の専門じゃないから! 僕のは何故とか考えない!」
 
先生はあたくしに多少の心理学の心得があるのをご存知だ。
ちょっ! 専門じゃないって! 何言ってんのっ? 傾聴はカウンセリングの基本でしょう?(←笑)
無茶振りのようだが、しかし、カウンセラーが言わんとしていることは薄々察しているのだ。
 
その証拠に、あたくしはさっきから自分がキツく腕組みをしているのを自覚してて、それが「聞きたくない」のサインだということも知っている。
なにゆえに自分はその肝心なことを聞きたくないのだろう?
あらダメだ、またしても何故とか考えてるわ(笑)とか思ってたら、不覚にも(また…)涙が盛り上がってきた。
 
そのとき初めて意識したのだけど、あたくしのカウンセラーのご専門は「今の心地良さを味わうだけ療法」なんである。正式な療法の名前は知らない。
とにかく、自分に優しくしてあげて、心地よい時間をたくさん自分に与えて、その瞬間のリアルを味わうだけ。
 
それなのに、今の自分には楽しい時間だってあるはずなのに、ついついそのことよりも過去の反芻や反省をし、日々の不安感の変化に一喜一憂してしまう。
自分は心から楽しむことを無意識に避けている。自分で自分を苦しめ続けようとしている。
 
「過去のどうして〜?って話より、今のあなたが楽しく感じている時の、その気持ちが聞きたいんだけど?」
 
それは陽性転移で頭が多少おかしくなっているあたくしにとっては愛の言葉にも聞こえなくもないのだけれど(笑)、れっきとした「ご指導」である。
「楽しい時間を過ごしている時の、生き生きとしているあなたが、本当のあなたなんだよ?」
難儀なことよのう…。このミッション達成できるのかなあ?
 
 
 
そんなやりとりがあった後だったから、頭の中のラジオ局の突如再開に、あたくしの胸はいっぱいになった。
ああ〜戻ってきつつあるかも、大丈夫かもしれない、と少しだけ期待感が膨らむ。
 
そうして、頭の中に流れた曲を「ああ、あの曲なんだったっけ?」と記憶を辿り、ネットを駆使して探し出してみた。
それが『ラバーズ・コンチェルト』で、曲名にちょっとビックリした。
やっぱり陽性転移であり、心を動かす原動力は愛なんである。
ちょっと馬鹿…。

カウンセリングで夢の話をする。

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一度、夢の中にカウンセラーが出てきたことがあり、その話をしたら、
「じゃあ、これからは夢の話も聞かせてよ」ということになった。
 
そういう流れになるとどうしても、「夢を分析する」→「何か解る」のを期待するもんなんですけど、あたくしのカウンセラーは分析はし・ま・せ・ん。
しょうがないので(笑)、あたくしがその夢に対しての解釈を披露します。
多分、無意識で自分はこう思っているんじゃないかしらとかね。
あたくしの浅はかな分析をカウンセラーは「ほう」って顔で聞いてくれますが、否定も肯定もしません。
 
最初は、ホントは内心、分析しているんでしょ? 教えてくれないだけなんでしょう? と猜疑心丸出しで挑んでいたのだけど、この認識は間違っているみたい。
カウンセラーって、夢を分析して答えを教えてくれる人じゃないらしいですよ(笑)。
夢の話や、その夢に対するクライエントの解釈や感情は、あくまでもカウンセラーがクライエントを理解するための情報源として活用されるらしい。
 
 
 
そうして話は、先日あたくしが見た夢の話になった。
この夢は、全編自分の手元のクローズアップ映像で始まり、終わる。
でも、自分はここが裁判所の傍聴席であることが分かっているし、何の裁判なのかも知っている。
自身が被害に遭ったストーカー事件の裁判だ。
 
実際にはあたくしは裁判に立ち会っていない。
警察に被害届を出した時に刑事さんに「もし、犯人が誰か分かって、“あ、この人なら起訴しないで”っていうのはナシですよ」って言われたのだけど、当時のあたくしはまぬけなことに「顔見知りの犯行」というのは全く思いつかなかったので、自信を持ってハンコを押し、サインしたをした。
逮捕された後も犯人は否認し続けたので、示談交渉もなく裁判にかけられたのだった。
罪状は…犯人はいろいろやってくれたので、名誉毀損なのか器物損壊なのか、はたまた業務妨害なのかは知らない。
その辺、当時の記憶がほとんど抜け落ちているんだけど、罰金50万という判決だったらしい。
 
で、夢の話に戻ると、あたくしは手元の裁判資料を見ているのであった。
でも、その裁判資料が国語の論述問題みたいになっていて、最後に設問があるの(笑)。
「この文章を読み、被告の気持ちとして考えられるものを空欄に書きなさい」となっている!!
 
「これはですねぇ〜、深層心理が自分に反省を促しているんじゃないかと思うんですよ」
と、あたくしはいつものように持論を展開した。
 
不思議なことだけど、その夢は怖い夢でもなく、強い嫌悪感を抱かせる夢でもなかったのだ。
ただ、正直言って「あたくしが被害者なのに、なんで被告の気持ちを汲まなきゃなんないの」っていうトホホな気持ちがあるだけだったのだ。
 
 
 
そうして、実はここからが本題だったりする。
「あのう、先生。ここに来たのは、EMDRで嫌な記憶を封印しちゃいたいなと思ったからなんですけど、
 それで、“いつ、EMDR”するのかな?と、ずっと思っていたんですけど………
 
 何だか、やらなくてもいいような気がして…っていうか、何だか、もうそんなに怖くない…」
 
当初は、まず、あたくしの心の中に安全地帯を作る、それからEMDRする…という流れだったのに、あら不思議、安全地帯を作る過程で自分の気持ちに変化が起きたようだ。
 
あれだけ、EMDRに執着し、ネットで他人様のEMDR体験を拝見しながら、自身がEMDR体験できる日を夢見ていたのにねぇ。
面白体験を志向するあたくしとしては、未だにEMDRには興味がある。
興味はあるのだけれど、自分の中の得体の知れない恐怖心が薄れたので、もう当初の執着はないのだった。
そもそも解決されつつあるストーカー体験は、EMDRのターゲットになり得ない。残念無念…。
(そうして、もし、ブログの読者の方で「いつEMDRするんだろう?」と思っていた人がいたらゴメンナサイ! 多分、やりません!)
 
カウンセラーの先生はおっしゃった。
「うん、僕も、あなたはEMDRで記憶を処理したりしない方がいいと思う。他の方法が合っていると思うよ」
 
その日は、カウンセラーがあたくしという人間をどのように認識しているかいろいろ話してくれた。
 
そうして、言い方は悪いが、またひとしきり泣かされたのだった。
(これは、カウンセラーの質問が鋭いとか意地悪という意味ではありません)
 
「夢の中で裁判があったってことは、事件が終わったということではないのかな?」
と、カウンセラーがポソッと言った。
 
終わったという感覚が欠如しているために生々しく再現されるのがトラウマ記憶の特徴だから、そこに終焉がやっと訪れたということか?
過去の記憶として処理されつつあるということか?
 
自分の過去に反省を促す夢よりも、事件はもう過去のことだと告げてくれる夢だと解釈した方が良さそうだ。
あたくしは、カウンセラーの先生の解釈を採用した。

「オープンダイアローグ」というやり方。

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お薬無しで統合失調症の急性期に対処する方法。

「オープンダイアローグ」という言葉は、昨年の今頃、傾聴ボランティア講座でご一緒させていただいた女性から始めて聞いた。
精神保健福祉士でもある彼女が「今、学びたい技術」だと言っていた。
 
何でも、フィンランドでは統合失調症の急性期のケアとして、画期的な効果を上げている治療法だそうだ。
「オープンダイアローグ」…直訳すると「開かれた対話」ということか?
「そう、対話そのものが治療になる方法。薬も随分減らせるらしいの」
 
それ聞いた時、嘘だあ〜と思いました。
以前、統合失調症の方とお仕事してたことがあるけど、彼らの治療がどんなに難しくデリケートなことか、少しは知っている。
話すだけで治ったら苦労はないのだ。
その時は、スピリチュアルな代替医療かしら?、くらいに思っていた。
うつや神経症に対してもそうだけど、人の弱みに付け込むインチキスピリチュアルは結構、多い。
 
ただ、教えてくれた女性の雰囲気が、そうした軽薄感とは無縁だったこともあり、その後もなんとなく気になった。
そこで、図書館で関連図書を借りて読んでみた。
 
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環
 
結論から申しますと、エビデンスのある極めて真面目な療法でした。疑ってゴメン。
 
とはいえ、著者である斎藤先生(精神科医・筑波大教授)も、「最初はニセ科学か、うさんくさい代替医療だと思った」と序文で書いていたくらい、それはそれは不思議な療法だ。
何しろ、精神科医は投薬でもって統合失調症の治療にあたる立場だから、非常に困惑しただろう。

本当にただ対話するだけの「オープンダイアローグ」。

1980年代、フィンランドの西ラップランドのとある病院での試みから「オープンダイアローグ」は生まれたそうだ。
 
方法はいたってシンプル。
患者かその家族が相談依頼の電話をする→受けた担当者が医療専門職(医師・看護師・心理士)による治療者チーム(2名以上)を編成→24時間以内に患者とその家族や友人を交え、自宅において初回ミーティングを行う→急性期を脱するまで同じメンバーでミーティングを重ねる。
 
そしてミーティング…って、イメージが湧きにくいかもしれない。
結局、グループカウンセリングみたいなもの? と思うかもしれない。
 
でも、カウンセリングとは大きく違う点がある。
それは「問題解決を目的にしない」こと。
 
とりあえず、患者に話してもらう。ここでの傾聴の姿勢はとても重要だ。
治療スタッフは、決して「それは妄想なんだって!」などと患者の言っていることを否定したり、病識を持たせようと説得しない。
「へえ、それは私は感じたことがないので、その辺を詳しく教えてください」と聞いたりする。
(通常、妄想について詳しく聞くことは、患者の妄想を助長する恐れがあるのでタブーらしい)
また、参加している家族や友人にも患者とも自由に話してもらう。
急性期の妄想や混乱、恐怖など、まだ言葉にできていない恐怖を患者に言語化してもらうことが大切で、体験を共有し、ただひたすら患者の気持ちに寄り添おうとするのだ。
 
こうして、ひとしきり患者とその周囲の人に話してもらった後で、それまで聞き役に徹していた治療チームが今度は対話を始める。
手法的には「リフレクティング」というそうだ。
あえて患者や家族の前で治療者同士の感想や意見を聞かせることで、これが患者に安心感をもたらす効果がある。
まず、患者の非常に個人的な視点に、客観的な視点を持ち込むことができ、そうして、影で患者に関して話し合ったり、大切なことを勝手に決めちゃったりしないよ、と患者の信頼感を得ることができる。
 
そうして、この治療者チームは、ケースを持ち帰って別の場所で何かを決めることは「本当に」しないらしい。
治療者が2人以上いるので、意見が違う場面もあるけれど、違ったとしてももちろん構わない。ただ、確認し合うだけ。
例えば医師と看護師であっても上下関係はなく、対等な立場で会話を行うそう。
対話においてもファシリテーター的な役も作らない。
 
1回につき1時間半程度、これを患者の急性期が過ぎるまで繰り返す(長くて10日程度)のが治療の全て、…だそうです。
 
何かを変えたり、どこかに導くための対話ではなく、あくまでも対話そのものの癒し効果を体感するために対話を行うのが「オープンダイアローグ」というやり方なのだ。
 
「まるでジャズのアドリブのようだ」と著者はこの治療を例えていました。
一見、流れに任せているだけに見えるけど、実は職人芸ってやつかな。

ただし「何処でも誰にでも」になるには課題が山積かも。

現在フィンランドでは、希望すればだれでも無料でこの治療を受けることができるそうだ。
随分贅沢な治療に思えるのだけど、従来の薬物メインの治療に比べて、入院期間の短縮や減薬効果が期待できるので、仮に有料であったとしても、これまでの治療よりは安価に済むらしい。
いいことづくめのようだけど、そもそも、フィンランドメンタルヘルス・システムはかなり保守的で、意外なことに、この国ですら「オープンダイアローグ」に抵抗感を示す人は少なくないらしい。
統合失調症の治療における減薬はそれだけリスキーだと考えられている現状があるし、田舎の小さなコミュニティ(西ラップランド地方)で成功した方法が都市部でも実現可能か?という点でも、なかなか難しいみたい。
 
この方法は、全員が集う必要がありますからね。
現実問題として、家族が参加したがらない例もあるそうです。
それに治療スタッフ側でも、それまでは積極的に介入して問題解決をしてきたのに、「ただ対話する」っていうのに抵抗を感じる人もいるらしい。
そういうわけで、現時点ではまだ模索する余地のある療法、進化途中の療法なのかもしれないですね。
 
この方法、治療対象は統合失調症に限らず、うつ病PTSD家庭内暴力などの治療例もあるらしい。
へぇ〜。可能であれば、あたくしはちょっと試してみたいと思う。
家で連日ミーティング…っていうのは、疲れるような気もするけど、誰にも批判されずに自分の体験を語れたら、それだけで少し楽になりそうだ。
 
著者の斎藤先生は、日本ではこの方法をまず、ひきこもりや家庭内暴力の治療法に試みることを考えているそうだ。
やはり医師として、いきなり統合失調症の治療に実施するのは抵抗があるのだろうか。
 
統合失調症罹患率は100人に1人と言われているから、患者さんはたくさんいるのだけれど。
そうして、統合失調症の患者さんにもうつ病の患者同様、薬物に抵抗感の強い人も少なくない。
だから、「オープンダイアローグ」のような薬物以外の治療法が選択肢の一つになるのはいいではないかしら、と思う。
いきなり断薬して、悪化させる方もいらっしゃるので、こうした心理療法が救いになる人もいるのでは、と。
 
しかし、これが日本で実現されるのはなかなか難しそうだ。
エビデンスがそこそこある療法も日本ではなかなか保険適応にならない。
カウンセリングすらなかなか保険適応で受けられないのは、原則的にそれが医師による行為でなければならないから、らしい。
臨床心理士はそこそこ取得が困難なのに、諸所の事情で国家資格ではない)
 
もう少ししたら、やっと日本に国家資格を持った心理士が登場する。そうしたら、もう少し色々な心理療法が保険適応で利用できる日が来るかもしれない。
積極的に心理療法をオススメする病院すら出てくるかもしれない。病院経営も大変だからね。
 
話は外れるけれど、今、我が母は、足の手術後で入院している。
医師には1週間に1度会うか会わないかくらいなんだけど、リハビリは毎日2回、1回1時間、理学療法士さんがつきっきりでお世話してくれる。
もちろん保険適応で。
 
歩けるようになろうと思って手術したのに、十分なリハビリがなかったために余計に悪化させてしまうこともあるらしいので、篤いリハビリをしてくれる病院は大人気だ。
 
こういうのを見てると、足のようにリアルに扱える部分のケアと、ココロという捉えどころのない部分のケアの、普及度合いの差を感じるんだよなぁ。
 
オープンダイアローグとは何か

オープンダイアローグとは何か

 

著者の文章は平易で、言葉が人を癒す仕組みに関しての説明もあり、コンパクトにまとまっています。専門用語には索引が付いているので、門外漢でも何とか付いていける内容。統合失調症の妄想は全くの突飛な内容なのではなく、それなりの理由があることなんかも理解できました。良い本だと思います。

怒る老人になるのが怖ければ瞑想をやるがよい。

f:id:spica-suzuhazu:20170928205919j:plain夫の母親が軽度の認知症っぽいらしい。

もうすぐ80歳に届く年齢だからしょうがないかもしれない。
しょうがないんだけど、義母はボケ防止に良い食材を摂ったりとイロイロ気をつかっていたので、ちょっと残念だ。
 
認知症の症状には様々なものがあるけど、義母は怒るタイプのようだ。
 
少し前、あたくしがお会いした時は穏やかで、少々話がクドイ?って程度だったのだけど、どうやら近隣住民には喧嘩を売っちゃったりしたらしい。
そのネタも「昔、井戸を使わせてやった恩を忘れ…」的な随分と前のこと。
当人にとっては筋が通っているかもしれないが、相手にしてみたら軽くイチャモンだ(笑)。
しかも、自分が言ったことは忘れちゃうので、当人は「最近あの人、来ないわね」と思っているみたいなのが寂しい。
 
義母が何を恐れてココナツオイルを舐めていたのかは分からないけれど、認知症への恐怖の一つに「歯止めを失って、感情がむき出しなってしまうこと」があると思う。
 
感情の爆発が抑えられなくなってしまうのは「前頭葉」の働きが弱った結果らしい。
いくら表面上は穏やかさを保てても、心の中は怒りやわだかまりでいっぱいだったら、何かの弾みでタガが外れることを不安に思うのも無理はない。
もともと義母は、穏やかで、朗らかで、社交的な人だったけど、きっと少し無理をしていたのだろうな。
怒りも、執着も、人には見せたくないと必死に隠してきたその人の一部なのだろうから。
 
しかし、「前頭葉」による感情のブレーキが弱くなるのは、認知症だけじゃないのである。
意外に思う方もいるかもしれないが、うつにはキレれやすくなる傾向がある。抗うつ薬も副作用でキレやすくなることがある。
そしてトラウマを持つ人も、常に交感神経がピリピリしてて、これまたキレやすくなる。
あたくし自身、ここ10年は、自分でも予想外のところでキレていた。友人を無くしたこともある。
怒ったこと自体は間違っていない時も、怒り方が悪い。それはもう、ものすごい嫌悪感だ。
今、この時点で制御しがたい怒りは、加齢とともにますます暴走するのでは? とあたしは密かに恐れた。
 
 
 
自己啓発本などを読んで、理屈で怒りの爆発を封じ込めようと試みたものの、ことごとく失敗。
これが、昨年末頃からだいぶマシになった。
 
それはきっと、瞑想のおかげ♪
 
煩悩滅却みたいな難しい言い方ありますけど、平たく言うと瞑想は「反応を止める練習」です。
それまでは「外にある原因が怒らせる」と思っているわけですが、これを「外に原因があっても怒らない」を目指すのです。
これだと、怒り自体の総量が減るので、頑張って怒りを抑える力を努力をしなくても、多少「前頭葉」の働きが弱っても大丈夫そう(笑)♪
 
しかし、瞑想は実践が難しい…とにかく目を閉じて座ってるだけなんで、集中しろと言われても様々な想いがどめどもなく湧き出てきて嫌になります。
怒りん坊な人なら、瞑想中、次々と怒りが出てきてビックリするでしょう。
人間って放っておく、今現在、何の問題もなくても、過去のわだかまりを蒸し返してまで怒る生き物なんですよ。
 
幸いなことに瞑想は、新たな怒りを溜め込むのを防いでくれるだけでなく、過去の怒りも処理できるらしいので(ホントか?)、今からやっておけば年取ってから昔の出来事を持ち出して怒る…ってのは避けられるんじゃないかと期待してます。
 
「ここぞという時に怒らないなんて、それ、負けなんじゃない?」とか思いがちなんですけど、そういうのも瞑想では「考え方の悪い癖」と捉えます。
全く怒らない人を目指しても達成できるハズもないので、俗世界の人の目標としては、冷静さを失わずに怒れるようになるのことかな?
 
とにかく、怒りが減ることで自分が楽になるのが目的です。
 
 
 
話は戻り、あたかも人が変わってしまったように見えるので、認知症には悲しい話が多いのだけれども、その中で、昔、職場の上司からこんな印象深い話を聞いたことがある。
 
認知症になった父親を引き取って、昼間は奥さんが面倒見ているんだけど、
おやじの頭の中は、若い頃、書生だった頃に戻っちゃったみたいで、俺の奥さんのこと、下宿先のおかみさんだと思ってるんだよ。
だから、奥さんが庭を掃こうとした時に、「あ、自分がやりますよ!」と嬉々として庭掃除したり、
重いものも率先して運ぼうとするらしい。
そんで、俺のことは、下宿先のオヤジだと思ってるんだよ。
俺が帰ると、なんだか畏まって、俺に気を使ったりしてるんだよ。
ああいうの、見てると辛い。俺が分からないなんて寂しいよ。

 

きっと、息子の立場から考えたら、父親のそんな姿を見るのは辛いだろう。
でも、何だかそれは美しい話に思えた。
 
きっとそれは、そのお父さんにとって書生だった時間が楽しい時間だったんだな、と感じられるからだと思う。
自分が一番幸せな時間に固定されるとしたら、最後の時間の過ごし方として悪くはないような気がする。
そりゃあ、周りは大変だろうし、きれいごとだけでは済まされないだろうけど。
 
自分が帰りたい、永遠にリピートしてもいい時間って、いつだろう?
そもそもそんな記憶を持っているかしら? と考えた。
 
そういうわけで、ボケを心配するより、ボケても平気な清らかな心を目指してみるのってどうでしょうか?

カウンセラーに分かってもらうのが難しい気持ち。

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先日のこと、約10ヶ月に渡って月1〜2回通っていたカウンセリングのお勉強がひとまず終了した。
あとは、年明けに試験があるので、各自お勉強となる。
 
最終日なので、各自のカウンセラーとしての目標や理想を語り合う時間が設けられた。
このクラスは企業の中間管理職の方が多く、公共の福祉にも興味を持つ「意識高い系」な人々が集まっていた。
彼らのキラキラとした夢を聞きながら、クラスでただひとり、無職かつメンタルの病気療養中の自分は感心するばかり…。
 
自分はそんな壮大な夢はとても語れないので、自分のカウンセリング修行のきっかけ、週一で半年間、全24回で中断したカウンセリングの経験を告白してみた。
自分のような失敗をする人を減らしたいという思いを込めてね。
 
カウンセラーが守秘義務を約束したとしても、カウンセリングで自分の弱みや黒い負の感情を語ることは、クライエントにとってはとても勇気がいることだ。
いまいち効果が感じられないままに続けば不安は募るし、その停滞感に耐えられずにカウンセリングが中断という形で終わった時にはどんなにかガッカリして、さらに自信を失うことか。
…あたくしは、そういう気持ちを分かっているカウンセラーになりたいと。
 
まあ、語ってみて改めて、あたくしのお喋りレベルは小・中学生並みだと気付いた(笑)。
だけど、少しは伝わっただろうか?
彼らの中には「自分はクライエントの立場にはならないだろう」と思っている人たちもいるので、だからこそ、自分のような体験や気持ちを知ってもらいたい気はする。
 
 
 
後ほど皆様のご意見ご感想を伺うことができた。
どうです? 分かってくれましたか?
 
そうしたら、ほぼ全員一致の感想が「24回は長過ぎる!」でした。
担当講師も同意見で、「自分の場合は長くても平均8回くらいで終結する」と言っていた。
「現代は忙しいから、そんな悠長にやってられない」ですと。
「よく24回もやったねぇ〜?」と言われましたよ(笑)。
 
講座で教えていただいた方法は産業場面でのカウンセリングだから精神医療面のそれとは少し捉え方が異なるかもしれないけれど、同じ話が繰り返されたり、クライエントの意識に全く変化が見られないような停滞した面接が続くのは、カウンセラーの力不足と判断される。
では、当時の臨床心理士さんは、下手くそだったんだろうか?
正直、クライエントの立場であったあたくしは、やはり技術不足な人だったと思っているのだが、この点においては、クラスメイトの判断は慎重だ。
 
身内に臨床心理士さんを持つ精神医療の知識を持つクラスメイトが「そのカウンセラーは長期療法が専門だったのかもしれない」という意見を出す。
なるほど、長期療法ですか!…そういう考えもあるのねぇ。
なれば、クライエント側としては他の身体の部分の治療と同様、予め、どれくらいの期間を想定していて、使う療法は何なのか確認する必要がありそうですね。
 
そんなわけで皆様の忌憚のないご意見を拝聴できて大変参考になりましたが、あたくしが一番伝えたかったことが分かってもらえたかは微妙。
その場の全体的な結論としては、
「そのカウンセラーは凄くいい勉強ができたに違いない」ってことでまとまってましたね!
やはり全員カウンセラー(の卵)だと、カウンセラー目線の話になってしまうらしい(笑)。
「24回も、いや〜(そのカウンセラーが)羨ましい」みたいな。
どうやらあたくしの失敗体験は、そのカウンセラーの芸の肥やしとなってしまったらしい。
カウンセラー側としては、カウンセリングに失敗したクライエントの悲しみや辛さや恥辱の念に寄り添うよりも、やはりカウンセラーにとって良い経験だったとかそういう方向に思考が行ってしまうものなのだ(涙目)。
 
 
 
 
…そういうワケで、やはり何となくクライエントとカウンセラーの間には意識のズレは否めないのだなあと再確認。
 
カウンセラー側としては、すでにカウンセリングルームで対面しているクライエントが、カウンセリングの効果を疑っているとは考えてないのかもしれない。
クライエントの中には、半信半疑だけど藁をも掴む思いで来ている人とか、本人は気が進まないけど家族や上司に勧められた人なんかもいるのにね。
 
ただ一つ、効果が感じられないカウンセリングをいつ見切るかどうかってのは、あくまでもクライエント側の問題なのだなあと深く理解しましたよ。
 
もちろん、いきなり「止めます」ではなく、まずは「どうも、効果が感じられない」というのをカウンセラーに正直に伝えてみることが前提ではあります。
自分もそういう段階を踏んでから中断と相成ったのですが、そもそもトラウマ治療のために時間を割いてカウンセリングルームに足を運んでいるのに、「この時間意味ある?」って話を、あたくしのお金を使って話し合う羽目になってしまったワケで、もう、その時点である意味、カウンセリングは終わっていたような気がします…。
 
メンタルダウンしている人にとって決断するのはとても難しいことなんですけど、自分にとって有益ではない時間、居心地の悪い時間は自分で減らしていく勇気と努力が必要、っていう話になるのかな? 今日の話は…。
 
 
 
※余談
ちなみに、現在お世話になっているカウンセラーの先生は、
「 “このカウンセリング、何の意味があるワケ?”とかは、クライエントに言われ慣れてるよ! あはは!」って仰ってましたね。
 
この先生の場合、意図的に予定調和を崩すような会話を時々しかけて、「カウンセリングの進め方、これで良い?」とよく確認してきます。
「怒らないから何でも言ってね」のサインを随所で出してくるといいますか。
あたくしは現在のカウンセラーに対しては不満や要望を特に感じていないけれど、こういうのは有難い。
 
早期に信頼関係が構築されて、クライエントがカウンセラーに不満や疑問を率直に伝えられるような雰囲気作りができれば、随時修正されながら面接自体は継続される…ということでしょうか。
自分のカウンセリングに対する意見を聞いておいて不愉快になっちゃったらお終いでしょうから、やはり、カウンセラー側の精神面のタフさは必要でしょうけどね。

「もらい上手になる」というミッション。

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ある日のこと、カウンセラーの先生からの指摘。
「あなたの話に頻出する、自虐的な表現が気になるんだよね」
ふむ、痛いところを突きますね。
たしかに昔からあたくしにはそうした思考の癖があります。
そうしてそれは事件後さらに顕著になりました。
 
例えば、外形にせよ内面にせよ少しでも褒められたとしましょうや。
そんな時は「いやいや、そんな立派なもんじゃあござんせん!」と激しく否定。
そして「なんという褒め上手な方なんでしょう!」と思う。
「何か思うところがあって持ち上げているのでは?」と疑う。
相手が率直な気持ちを語っているかもしれない可能性はハナから否定しているのだ。
 
そこで、人の好意は素直に受け取るように…
すなわち「もらい上手になりなさい」とご指導賜ったのだ。
 
無条件に受け取るのよ? これが難しい!
 
しかも、褒め言葉ならまだ素直に受け取れるかもしれないが、あたくしには他にもっと困難な場面がある。
 
「大丈夫?」「あなたのことが心配」みたいに心配されると、無性に腹が立つのだ。
それが善意から出ている言葉だとどうしても実感できない。
マウンティングの一種くらいに思っているから、反射的に「上から目線でムカつく」と感じてしまう。
そうして最大の問題は、本当に困っていたとしても、弱みを見せることの恐怖の方が強くて激しく否定してしまうことだ。
「大丈夫です」「大きなお世話です」「あたくしのことより自分の心配しなさいよ」
どうしても素直に「ありがとう」と言えない。「放っておいておくれ」になっちゃう。
 
 
 
現在の先生との初回のカウンセリングでも、自分の症状を説明しながら、ついつい「いや、とはいえ、働かなくても今は何とか暮らしていけるから、気楽なもんです。あはは」と言ってしまった。
即座に「気楽じゃないでしょう?」と返され、あまりにも鋭い指摘に、うっかりジワっと来た記憶がある。
 
この、決して安くはないカウンセリングに足を運んでおきながら「気楽な自分」を醸し出そうと無意識に四苦八苦している自分って、どんだけプライドが高いのでしょう? 素直じゃないんでしょう? 
思えばこんなあたくしの複雑さを、先生は最初からお見通しだったんだわ。
 
「もらい上手になりなさい」は、実は幾度も再確認されるミッションである。
先生にしてみれば、「全然進歩してないじゃあないの? あ〜た?」と言いたところだろう。
 
しかし、難しいものは難しい。
激しい劣等感と、素直に求めるのが苦手な思考の癖が、なぜここまでこじれてしまったのかは自分には分からない。
 
 
 
そんなある日、カウンセリングのお勉強の帰りのこと、とある学友とお茶することになった。
誘ってくれたのは相手の方だったのだけど、なんとなく話の流れから、あたくしの現在のカウンセリングの話になった。
彼女は自称「あたしはカウンセリングとは無縁」=クライエントにはならない派の人なので、あたくしの陽性転移やフォーカシングでの不思議な体験などを、「うそ、信じられない!」と面白おかしく聞いていた。
しかし、次第に真顔になり、最後には「大丈夫?」と聞いてきた。
 
心から「大丈夫?」という顔だった。
 
悪い人に洗脳されて搾取されている、くらいは思っている感じだった。←実際にそうだったらどうしましょう?(笑)
 
その時にも、「あたくしを愚かな人間だと思っているのですね?」とか、少しムッときたんだけど、先生の顔と言葉を思い出して実践してみた。
 
「心配してくれて、ありがとう〜」
 
そうしたら、本当はどうだか知らないよ? 相手は本当に心からあたくしを「バカだな〜〜〜」って思ってるのかもしれないよ?
だけど、何だか、心がホッコリして、何だか今までよりも相手のことを心理的に近くて好ましい人のように感じられた。
何より、自分が楽になったのだ。
これは不思議な心の動きだ。相手は1ミリも変わっていないというのに…。
 
最初「もらい上手になる」ってミッションは、あたくしのトラウマ治療に何の関係があるんだろう?って思ってた。
先生はあたくしの困難について、親がこうだったからとか、あんな目にあったからとか、一言も分析しない。
ただ「もらい上手になりなさい」「自分の中の嫌な感情を認めなさい」と言うばかり。
今は、何となくそれらの関連性が分からないでもない。
あたくしの読みは合っているのか、「もらい上手」レッスンはこんな方向性でいいのか、今度、先生に確認してみよう。

怒りにまかせて出た自分の言葉にビックリした件。

f:id:spica-suzuhazu:20170915133726j:plain母が足首の手術をするというので、ふたたび実家に。
内視鏡の技術が進み、術後の傷跡を見ると1センチほどの縫合跡が6箇所ほどあるばかり。
手術の次の日から早速リハビリ。
若くイケメンの理学療法士さんにリードされて筋トレする母は楽しそうでもある 。母の件はひと安心。あとは、この先3ヶ月ほど一人暮らしになる父のこと。 
 
…ではあったのですが、意外に一人暮らしをエンジョイしていて楽しそう。
家事もソツなくこなしているので、大丈夫かなそろそろ帰ろうかしらと思っているところで、些細なことから大喧嘩。 
 
きっかけは、とてもつまらないこと。ホントにどうでもいいこと。 
父がキレた要点は「オレの話に意見するな!」であり、
あたくしがキレた要点は「人の意見を聞け!」であるから、
見事に噛み合って、怒りの炎はものすごく燃え上がった。 
 
そうして言い合いしているうちに、勢いであたくしの口から出た言葉。
「そういうところが、ばーちゃんにそっくりで、ホントにイヤ!」…である。 
 
言ってる自分がまずビックリしちゃった。何、何? この場にばーちゃん関係ないじゃん。何で出てくるの? 
 
 
 
しかし、あたくしがばーちゃんが嫌いなのは本当だ。父方の祖母が亡くなって7年ほど経つが、今でも本当に嫌い。 
 
祖母は自分のデリケートさを怒りで武装するような人だった。
一時期は同居していたけれど、祖母は自分の思い通りにならないと、恫喝し、号泣し、ハンストし、引き篭もりし、あらゆる手を使って不満を表現する人だった。
痴呆が入ると、その理不尽さはエスカレートした。
自宅で転倒して骨折したのがきっかけで入院生活となり、そのまま家に帰ることなく数年後、病院で亡くなった。
その間、プライドが高い祖母は、自分が転倒したことが許せず、なぜか家族と一切会話をしなくなった。
最後の怒りは、沈黙だったのだ。 
 
ひとたび機嫌をそこねるとやっかいな人、それがばーちゃんだったのだが、そのばーちゃんが、父の中にいる。
そして、自分の中にもいる。それがまた、たまらなく嫌。 
 
祖母、父、あたくしは骨格も似ている。
夜、トイレで起きて暗い洗面所に移った自分の顔にギョッとすることがある。
「ばーちゃんにそっくり!」 
 
あたくしは、自分の中にもあるばーちゃんの凶暴さに嫌悪し、怯えているのだ。自分の「恫喝怖い」も、恐らく、このばーちゃんが絡んでいる。   
 
 
 
…ということで、今回のカウンセリングでは、このばーちゃんへの嫌悪感を何とかしようと思ったのである。 
「先生、このばーちゃんへの嫌悪感、棒にして海に置いてきちゃいたいんですけど」と、単刀直入に言いますと、今日の先生は「じゃあ、それやりましょうか」とは即答しない。 
 
「自分の中の嫌な部分から目をそらしちゃダメですよ」と。
 
 もっとも、カウンセラーの先生の考えでは「怒りは、感じることも表現することも、ちっとも悪くない」のだ。
これは分からないでもないが、自身のものとして捉えるのは難しい。先日の喧嘩を蒸し返してあたくしが怒っている様子を見ても「イキイキとしていてイイ表情だね」と笑って見てる。 
 
「80歳すぎて喧嘩できるあなたのお父さんは、エネルギーに満ち溢れて、若々しいじゃないですか?」 
 
祖母の中にあったエネルギーは父の中にも流れてる。そして、あたくしの中にも流れている。それは、押さえつけたり、無視したりしない。
流れを止めない。ただ洗練させていけばいいのだと。 
 
洗練かぁ〜 む、難しい。しかし、このあたりが自分の不安神経症的な症状改善の鍵なのだろう。
 
 事件の後から、あたくしは怒りを感じる時、そのまま怒りを表現すれば何か良くないことが起きるような不安に駆られようになった。
そうして怒りを抑え込むのだけど、怒りは無くなったわけじゃないので、どこかで主張をしようとする。
なにしろ自分の中には、あの荒々しいばーちゃんの遺伝子がある。 
 
「怒っても何も起きないからさぁ、怒ってみればいいんだよ」と、先生は言う。
いや無理。今は怒りの制御ができそうにない。 
 
…そういうことで、怒りの表現の学び直しが今後のあたくしのミッションになりそうです。 
 
先生は家族エピソードが大好きみたいで、カウセリングでこうした話をすると、とても心地好さそうな表情をする。
まるで他人の思い出を自分の思い出として味わっているように。
そうだね。高齢の親とガチで口喧嘩できるのは、幸せなエピソードなのだと思う。 
 
そうして、非常に苦労して育ててくれた自分の母親を「嫌い」と言った娘の発言に、父は傷ついただろうか?などと、思い返してみて少し心が痛んだ。
 
「80歳にもなって本気になって怒るお父さん、面白くないですか?」と先生は言うのだが…全然面白くない! まだ、その域に達してない!