『ごんぎつね』ハッピーエンド説。
幼少期の思い出がほとんど思い出せないという友人と、童話や童謡の話になり、これは知っているのでは?って感じで『ごんぎつね』の話をしてみた。
彼女にとっては、国民的童話(『ごんぎつね』は国語の教材の定番らしい)も新鮮だったようで、そうして数日、感動した友人と新美南吉や『ごんぎつね』の話をした。
限りある時間の中で、これだけ短期間に意識して『ごんぎつね』のことを考えたことがあるだろうか!(笑)
何もこんなに『ごんぎつね』のこと考えんでも…と思いながらも、困った性(さが)で一度走り出した思考を止められない。
『ごんぎつね』は泣ける。
自分などは、読まなくでも、ラストを想像するだけで、涙腺が緩む。
梅干しを目にするだけで口の中に唾液が湧いてくるが如く、それは何だか条件反射となっている。
何故にそんなに泣けるのか?
あたくしはずっと『ごんぎつね』は悲しい話だと思っていた。
ふとしたイタズラ心が人を傷つけてしまう。
償い続けるが、最後は誤解されて撃ち殺される。
取り返しのつかないことをしてしまって、改心しても、償っても、死ぬまで報われない話。
ちょっと怖いような気もする。
そうして感じる違和感…。
この物語の展開と、最後の何というか一種カタルシス的な涙と、ちょっと辻褄が合わないような気がして。
(だいたい大人はどんな意図で持って子どもにそんなに『ごんぎつね』を読ませようとするのか?)
そうしているうちに、突如、薄ぼんやりと「ごんぎつねの最後、幸せだったかもね」という考えが降りて来た。
天涯孤独で、始めて人と繋がりを持とうとして、その願いが達成された時っていうのは、もしかしたら死の恐怖を凌駕するほどの喜びではなかったか?
気になって、Wikipediaで調べると、草稿のラストシーンには“「権狐はぐったりなったまま、うれしくなりました。”とあるという。
やはり! あれは結構ハッピーエンドであり、だから何とはなく爽やかな涙が流れちゃうんですよ。
先日、知り合いから、とある方のブログを見て欲しいと頼まれた。
そのブログの主は「読者がいなくなったら、死ぬ」と言っているのだそうだ。
自分はそんなことでは死ぬことまでは考えないけれど、その人の気持ちは分からないでもない。
いいでしょう、そうして自分もたまにそのブログを訪問するようになった。
そうすると、また知人からメールが届く。
「悪いけど、“いいね”もしてもらいたいの…」
彼女は、本当に友人の命を心配しているのである。
その是非はともかく…人と繋がりたいという欲求はどんなにか深いのだろう、強いのだろう、と思った訳です。
健やかな時には全く意識しないけれど…人と繋がりたいと願う気持ちは時として、命がけになってしまうことだってあるんだよね、きっと。
ラストのシーンの心理描写「うれしくなりました」の部分をザックリ削ったのも鈴木三重吉らしい。
このおかげで、『ごんぎつね』は何だか知らないけどやけに泣ける、不思議に心に残る物語に変身したのだと思う。
文面だけを辿ると悲しい物語なのに、行間から滲み出る緊張から解き放たれた安堵やら喜びの雰囲気。
この矛盾した感情が交錯するあたりに、えも言われぬ感情の嵐と涙があるんだわ、きっと。
ヤバイんです、このままじゃ。
もうすぐ次のカウンセリングがやってくる。
その時あたくしは、『ごんぎつね』にインスパイアされた洞察話をしまくってしまうのだろうか?
先生は笑うだろうけど、あたくしは全然良くない。
何で大枚払って『ごんぎつね』の話をせにゃならんのじゃあ!