心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

最近、カウンセリング帰りに何だかオカシクなる話。

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カウンセリングというのは、人によって何だか転換期を迎える段階があるようだ。
その日が来た時、「あれ、何だか、今日、違う」と思った。
いつもの部屋、いつものカウンセラーの先生、相変わらず泣きべそなあたくしなのだけど、何か違ってる。
先生との距離感が変。
ブランコに乗っているように、グッと近づいたと思ったら、遠ざかるような。
 
ものすごくビックリしたのは、途中から頭がフリーズしたようになってカウンセラーの先生の話の内容が分からなくなったことだ。
その時、「あなたはさぁ…」と先生が、恐らくあたくしの核心に触れることを言い出したのだ。
 
難しい言葉を使っているとか、内容が複雑で理解できないのではない。そして、聞きたくないような辛い指摘でもない。
何が「今は聞きたくない」と心に判断させたのだろうか?
聞こえてはいるのだけど、先生の喋る言語が理解できないような分からなさだ(笑)。
 
あたくしは真剣に先生の顔、そうして口元を見つめるのけど、全く脳まで届かないし、帰ってから思い出そうとしても、ただ口元を動かす先生の映像が浮かぶばかりだった。
その日のカウンセリングが終わった時、何があった訳でもないのに、自分の疲労困ぱいは尋常じゃなかった。
 
思わず「あぁ〜〜〜疲れたぁ〜!」と声に出して脱力した。
あたくしは、疲れても普段は「大丈夫です」とかしか言わないのだけど、正直な申告内容に少し自分にビックリした。
「あ、そう?」と先生は笑った。
 
 
 
その帰り道、歩くうちに疲れは通り越して、猛烈な睡魔が襲ってきた。
最近は、晴れた日なら帰りは体力作りも兼ね1時間ほど歩いて帰ることにしているのだけど、その日は眠すぎて歩みがノロい。
一歩が30センチぐらいしか前に出ない。
 
「おいおい!」って自分にツッコミ。
猛烈な生あくびでもって涙目、やや覚束ない足取りでユラユラと歩く不審なオバさんだ。
 
そうして、せめて何とか一歩の歩幅を通常通りにしようと、自分を頑張らせようと試みる。
だけど、身体は「疲れすぎて、実は歩きたくないのです!」と激しく主張しているのだ。
「いや、歩かないと家に着かないでしょ? 歩きなさいよ! 自分」
 
頭と身体が別々になったような感じだ。
2歳くらいの子どもが、もう疲れて歩けない〜って道端グニャグニャして、お母さんが「ほれほれ」と手を引っ張っている感じだ。
あたくしの場合は、それが一人二役なのだが。
 
自分の身体を自分の頭は背負ってあげる訳にはいかない。
叱咤激励なだめすかして自分の身体を何とか歩かせ、そうして、やっと家の近所の小川が流れているところまでたどり着いた。
 
時々、その小川にはつがいの鴨がいたりするのだ。
それで、ふと川の流れに目をやったら、表面はキラキラ流れ、水量は少なく、水は澄んでいて、川底の砂の様子もハッキリ見えるではないか。
川底の細かな砂の上に、無数の縞模様が広がっていて、「?」と目を凝らすと、タニシのような巻貝が川底にいるのだ。
タニシの歩みの跡が、砂上の細かな模様の正体なのだ。
 
なんて美しくて面白いんだろう!
あたくしの目はその水面に釘付けになった。
この界隈には、もう10年近く住んでいるのに、初めてここを訪れた子どものように新鮮な気持ちで、眺めた。
 
「ああ〜ずっと見ていたいなあ〜」と思わず、川辺の柵にたれかかる。
暖かな日の昼下がり、犬を連れて散歩する人が通り過ぎていく。
あぁ、いつまでもこの川の流れを見ていたい。今日は一日ここで、川の流れを見ていたいなぁ…。
 
もうほんの10分くらいで自宅なのに、あたくしは川のほとりで釘付けになっている。
川の流れが作る水面の模様が、その時限りの形でもって一瞬一瞬変化しながら一定のリズムをもってキラキラと動いている。
 
世界の美しさに我慢できないような多幸感に包まれている。
実は、その前回のカウンセリングの帰り道も、道端で花の蜜を吸う蝶に立ち止まり、20分ほど見とれてしまったのだ。
やばい、どうなってるんだ、自分? 
感じたままに行動し、脳の制御を聞き入れず、その時間を愛おしく味わい尽くそうとする自分の身体に、少し怖くなった。
 
「ああ、よそ見しないで真っ直ぐ家に帰ってちょうだい、お願い!」とあたくしの頭は身体に懇願し続けた。
結局、1時間半…いつもの1.5倍もかかって、やっと家に帰り着くことができたのだった。
 
 
 
「…ということで自分が怖くなりました」と、今回のカウンセリングで早速告白する。
だけど、先生は「ふん、それは良い傾向だね」とまたもやニコニコした。
 
「何が…良いのですか…?」あたくしは困っているのです。
「いいじゃん、ヒマだったら、好きなだけ川の流れを見ればいいんですよ?」
そういうのが困ると思っているのは、自分の思い込みだと先生は言うのだ。もっと、やれ、と(笑)。
「変じゃないですよ? 僕も時々しますよ、川を眺めるのなんか」
 
あたくしはどうやら、自分で勝手に自分に禁止してきたことが多いようだ。
それを解き放ったから、世界が美しく見え始めたのだ。
子どもの時は、いつも世界はこう見えていたのかなぁ? とあたくしは記憶を辿ってみる。
 
そうして少し安心し、カウンセリングが終わって外に出たら、先程までの雨が上がって晴れ上がっている。
その帰り道も大変だった!
何もかもに水滴が付いていて、それがキラキラ輝いているのだった。
雨粒に彩られた木々は、日の光になんと不思議にきらめくのだろう!
 
また、何もかも生まれて初めて見たような新鮮さで、あたくしは家路に急いだのだった。今度は小走りで。

自分の依存症的傾向を優しく考察する。

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どうも自分には依存症の傾向がある。
若い頃は買い物や恋愛、それにお酒に耽溺することが多かった。
今でもお金が無尽蔵にあったら買いまくるだろうし、永遠の若さがあったら恋愛しまくって、体力があればお酒を飲みまくると思う。
でも、全てには終わりがあって、これまでに何とか向こう側にギリギリ行かずに済んで、ホッとしている。
この、老いに入ってホッとする気持ちは、若い人にはもちろん、「自分はまだまだ若い!」と頑張る同年代にも理解されないだろう。
 
実はお酒に関しては、今も「良からぬ」事態に陥ることが時々ある。
途中から記憶がスッポリ抜けて、自動操縦モードになる。
「自動操縦モードのまま、無事に帰宅できるのだからいいではないか」と友人からは言われるけれど、良いわけないだろう?(笑)
傍目から見ると、陽気にお喋りしているようでも、本人は一切覚えていないのだから損した気分だし、失礼なことを言ってはいないか気になるし、もちろん単なる酔っ払いとしての罪悪感も沸き起こる。
 
この話に、カウンセラーの先生は、「自分の中の問題が解決してきたら、お酒を飲み過ぎることはなくなるよ」と言った。
長年の習慣、癖のようなものが、そんなことで解消されるのだろうか?
月並みな表現を使えば、漠然とした不安や寂しさを酒で紛らわせているんだろうけど、その正体が分からない。
でも先生は、禁酒を勧めたりなどせず、「大丈夫。そのうちに飲みすぎなくなるから」と言うばかりなのだ。
いい酔い加減で自制できるようになったら、酒なんか全然問題ないじゃないのよ? というのが先生のお考えだ。
いや、難しいでしょ?(笑)
 
 
依存症については、世間的にはずっと「意思が弱く、快楽に溺れやすい人が陥る」といった文脈で語られがちだったし、自分も自身の依存症的な部分をそのように考え、制御ができない自分を恥じてきた。
親族や家族には同じ様な人が見当たらないので遺伝ではなさそうなのも、非常に恥ずかしい。
 
そこで、自分の依存症的傾向を知りたくて、とりあえず一冊読んでみた。
 
 『人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション』 小林桜児 著 
 
すると、依存症に関しては、アメリカの心理学者カンツィアンがすでに1974年に「自己治療仮説」なる説を発表していたことを知った。
依存症とは「自らの苦痛を和らげようと自己治療を試みた結果、陥ったのだ」という考え方だ。
苦痛を緩和させる自己治療が行き過ぎて、コントロール不能になった状態が依存症という訳。
「快楽に溺れやすい」というより、すでに辛い状況にあり「苦痛を和らげようとしたんだ」という考えは、依存的な自分を恥じ、責めている人にとっては光明だ。
依存症に対して恥を感じたり、自分に厳しくなろうとするより、自分が苦痛を抱えていることに気づくことが、まず大切なんである。
 
 
 
非常に依存性の高い薬物を使っても、全員が依存症になる訳ではなく、一過性の経験として終わる人もいるらしい。
例えば、入院中の痛みの緩和にモルヒネが使われることはあるけれど、そういう人が全てモルヒネ中毒になる訳ではないらしい。
身近な例だと、宴会など社交の場で酒はチョイチョイ飲んでおり、しかも非常にイケるクチであるが、酒自体にはそれほど執着しない人とかがいる。
依存症に陥るか否かは、孤独・不安・ストレス・生きづらさ、といった「心の痛み」の有無が大きく関係するらしいのだ。
 
どんな「心の痛み」を抱えるかによって依存する対象物質に傾向が見られる、とも著者はおっしゃっている。
親の貧困や虐待やネグレスト、近親者の自殺、学校からのドロップアウトなど、誰が見ても分かるハッキリとした「生きづらさ」に晒されてしまった人が依存症になると、覚醒剤依存や多剤物質乱用に陥りやすい。
一方、経済的に問題がなく学校にも問題なく通えて一見平凡で幸せそうだけど、親の過干渉や過保護など居心地の悪い家庭環境で、漠然とした「生きづらさ」に晒されてきた人が依存症になると、アルコールや向精神薬、危険ドラッグといった(覚醒剤よりは)ソフトな物質に依存するらしい。
(貧困や低学歴だと、反社会的な勢力との接触の可能性が高くなるというのは置いておいて)
 
著者は便宜的に前者をハードドラッグ群、後者をソフトドラッグ群と分類している。
そうして、ソフトドラッグ群の漠然とした「生きづらさ」の正体は、本人が無自覚のままに行っているかもしれない「過剰適応」だという。
「過剰」な「適応」ですよ?
健全な人は自分の不安や不満を表現できるし自分が容認できる範囲内でしか周囲の期待に応えようとはしないのに対し、「過剰適応」の人は不安や不満を言語化できないし限界を超えて周囲の期待に応えようとするそうだ。
 
「過剰適応」の人は、自分の不安や不満なんか誰も取り合ってくれないだろうし、下手すると自分が拒絶されてしまうと思考する。
だから、その場の平穏を維持しようとし、それが自分の心の平和であると信じようと虚しい努力を続けてしまうのだ。
もちろん、それは実際には自分の心の平和とはかけ離れたものだから、いずれは破綻し、一部の人が依存症という形を取る。
 
そして、本のタイトルにもあるように、依存症は人を信じられないゆえに物(主に薬物)に頼る「信頼障害」だとも言っている。
人が信じられないから、ドラッグや買い物、恋愛といえば聞こえがいいが要は人やセックス、タバコやギャンブルに依存してしまうのだ。
しかも、他人を信じられない人は、自分も信じられないので無力感に陥りやすく、立ち直りにくい。
 
だからして…そう! 依存症の治療は、自他への信頼感を取り戻すような援助が必要、というのが、この本のメッセージでなのである(と、あたくしは読んだ)。
著者である小林先生は精神科医であり依存症の臨床を長く行っている方なので、この本からは、その根性と優しさがそこはかとなく伝わってくる。
まずは依存症を家族に持つ人や、依存症の支援をする人が依存症を理解するための助けとなる本だと思うのだけど、あたくしのように自分の依存症的傾向に???と疑問を感じている人にも非常に分かりやすい一冊と言えましょう。
 
 
 
そうして、この本のおかげで、先生が「大丈夫」と言ってくれたことも気休めではなさそう、と思えたのだった。
本には、信頼感を取り戻すためにはどうすればいいのかが書いてあったのだけれど、まさにその本に書いてあることを、先生はしてくれているのだから。
 
ちなみに蛇足であるが、カウンセラーの先生も酒を愛する人である。
そういう人だから断酒を勧めないのだろうし(笑)、カウンセリング中に酒の話に脱線することがチョイチョイある。
先生も日本酒ならもちろん純米派でしょ? 醸造アルコール入ってるのなんてダメだよね? とかね。
そうして、お互いの田舎の地酒なんかを挙げて、あれは美味いよね〜などと話すのだ。
ふと、こんなに盛り上げっているのに、あたくしはこの人と酒を飲むことは決してないのだな、と不思議な気持ちになる。
カウンセラーとクライエントなのだから、本当は不思議でも何でもないのだけどね。
全く残念なこと。だけど先生には言わない(笑)。
 
人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション

人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション

 

 ※「依存症」ではなく「アディクション」と言いたいのだな?
だからこの本のタイトルは分かりにくくなっている思う。
「依存症」にすれば「信頼障害」も頭にスッと入ってくるように思うのだけど。
本のタイトルは難しい。でも、中身は非常に分かりやすいので損してる(笑)

催眠療法の前にも、まず傾聴、まず受容。

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カウンセリングは安全な空間で行うこととはいえ心をいじくる行為なので、その後、何やら落ち着きがなくなったりする。
感受性が暴走して涙もろくなったり、昔のことを思い出したり、突然、何かに気が付いたり。
 
そうして、こんな風に自分の心が制御しにくくなると、「あたくしは何かされたんじゃあないか?」とカウンセラーへの疑いの念が出てこないでもない(笑)。
例えば、何か「暗示」をかけられているとか!
そうして、一生懸命思い当たることを探すのだけど、こんなド素人に見透かされるようではそもそも暗示になりゃしないだろうし、日頃「操るのは嫌い」と言っているカウンセラーの方針と異なるので、本当に何もやっていないと思う。
心の揺れ動きが自分の内側から生じているということを認めたくないゆえに「暗示にかけられている」なんて妄想をひねくり出すのだ。
この情緒不安定は、多少操られていると考えた方がプライドが保てるのか? そう考える自分の感覚も不思議だ。
 
 
 
著名な催眠療法士、精神科医として知られるミルトン・エリクソンに関する本を読んでみた。
『ミルトン・エリクソン心理療法 <レジリエンス>を育てる』
ダン・ショート ベティ・アリス・エリクソン ロキサンナ・エリクソン-クライン 著
 
自己暗示などで自分の「不安障害」を制御できたらいいな、くらいには思ったことがあるけど、実はあたくし、催眠療法という言葉に漂ういかがわしい印象にはどうも抵抗感がある。
心理学のテクニックを応用した、怪しくて高額な自己啓発セミナーみたいなのでもチョイチョイ、エリクソンの名前が登場するので、あたくしはものすごくエリクソンにも催眠療法にも偏見を持っていた。
そうしてあたくしは勝手に「ミルトン・エリクソンはキレものでテクニシャンだけど、人を操る悪い人」と思い込んでいた。
 
それでもこの本をあたくしが手に取ったのは、タイトルに「レジリエンス」とあったからだ。
レジリエンス」は、逆境から立ちなおる力のことで、トラウマ治療のキーワードの一つなんである。
カウンセリングの初回で先生から「あなたのレジリエンスを回復させるにはどうたらこうたら…」と聞いたことがある。
 
でも、読み進む中で見えてくるエリクソン像は全く違ってた。
 
エリクソンは幼少期に患ったポリオと生涯戦った人なのである。全身麻痺も経験している。
思うにエリクソンは、最初のクライエントは自分自身であり、自分で自分の身体を操作する術を、闘病やリハビリを通じて編み出したんじゃないのだろうか?
エリクソン催眠療法には、肉体的な弱者であった彼の体験が大きく影響している気がする。
 
そうして子沢山のお父ちゃんでもある。
結婚には一度失敗しており、前妻の子供3人の親権を取って、再婚後さらに5人の子供の父親になっている。
彼が自宅兼用の診療所を構えた時には、常に身近に子供の気配がし、時には「ねえ、ちょっとおいでよ」と、自分の娘などを仕事場に呼んで、巧みに催眠療法のお手伝いさせたりしたらしい。
また、これがセラピストとて適切な態度であるかはさておき、クライエントと家族ぐるみのお付き合いをすることもあり、それはエリクソンが亡くなった後も続いたそうだ。
 
 
 
エリクソンは「わたしは催眠にかかりにくいですよ」という人の手だって、ピタッと動かなくしちゃうような、催眠の名手。その技は独自に編み出したそうだ。
そんな風に人を操るテクニックを手に入れたら、誰しも欲深くなって、例えばクライエントに“おいた”してしまうとかね、ダークサイドに堕ちるような気がするのだけど、エリクソンは例外のように感じられた。
(もっともこの本は、共著者の中に彼の娘さんが二人も参加されているので悪いことは書いてないだろうけど)
 
だって、エリクソンはその力を、夜尿症の治療に使うわけ(笑)。
20世紀のエリクソンの時代は、どんだけ夜尿症の人が多いんだ!っていうくらい夜尿症治療のケースが出てくる(笑)。
子供のだけでなく、大人の夜尿症も登場する。
 
その他に紹介されるケースも、うつや妄想などに加え、ダイエットとか、ニキビ治すとか…豊かなアメリカ時代のノンビリとした空気を感じさせるような「のどかな」エピソードが登場する。
もちろん、その時代の当人達には切実な悩みであったに違いない。
 
催眠療法は、根性や論理的思考といった表層的な思考ではどうにもならないような問題に効果を発揮する。
そうそう、現代に応用できそうな例としては、疼痛緩和がありましたよ。
本で紹介されていた例は、癌による痛みの緩和だったけど、それに加えて現代に多いストレス性の原因不明な疼痛にも応用できそう。
 
読み物としては本当に面白い。ほんの半世紀くらい前の話とは思えないほど、浮世離れしたファンタジックな世界だ。
ああ、こんな風に悩み事が解決したら、いいなあ〜、めでたし、めでたし、っつう読後感だな。
向精神薬がまだ普及しきっていなかった時代だからかもしれない。
人による治療って温かくていいなぁ〜って感じだ(笑)。
 
残念ながら自分のトラウマ治療に応用できそうなものは見当たらなかったけれど、少なくとも、エリクソンが「悪いテクニシャン」ではなく「優れた臨床家」であったことはよく伝わってきた。
彼のモットーはまずはジックリ傾聴し受容して、クライエントが何を求めているのか理解しようと試みるのだ。
親に連れて来られた子供がクライエントなら、まずは子供目線にまで下がって優しく語りかける。
 
そうして、そもそも完璧に治すなんてエリクソンは目指してない。
エリクソン催眠療法を使って目指すのは、クライントが自力で苦痛を減らすようになる、そのきっかけ作りなのだ。
結果「自分でできたわ〜」と思えるから、クライエントには自信が生まれるし「レジリエンス」も生まれるってもんなのだ。
エリクソンにはクライエントを魔法使いに依存させない優しさがある。
 
 
 
ただし、下衆な話だけど、エリクソンの治療費はかなりお高かったんじゃないかと想像してる。
だって、8人の子どもを養わなきゃいけなかったワケじゃないですか?
それに、娘さんの一人が現在同業者として結構高額なセミナーの講師をして、それ見ていると随分と怪しい香り漂う…。
娘さんはよもやダークサイドには堕ちているのではないだろうか? とあたくしは考えた(笑)。
 
ヨガとか気功の世界もそうなんだけど、ある程度の域に達して、更なるパワーか心の美しさか?の二択問題になると、大方パワーの方を選んでダークサイドに堕ちちゃうもんらしいですよ。
 
ミルトン・エリクソン催眠療法のエッセンスを学んだ人々が、それを使ってどんなお仕事しているかは知らないんだけどさ、願わくば、自身の手法のマニュアル化を好まず、個人と向き合おうと努力し続けたエリクソン先生の高い志は忘れないでいて欲しいな。
ミルトン・エリクソン心理療法: 〈レジリエンス〉を育てる

ミルトン・エリクソン心理療法: 〈レジリエンス〉を育てる

 

 ※Amazonの評判も上々な本です。あたくしは例によって図書館で借りて読みました(笑)。次はエリクソン先生の本格的なテクニックの本を読んでみたいですね。

トラウマにならなかった話。

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※今回、犯罪被害の話ですので、フラッシュバック等、心配ある方は読まないで下さい。
 
恐らく25歳位の時のこと。だから20年以上前のこと。
残業でとても遅くなり、同僚に車で送ってもらった。
当時住んでいた団地の敷地内で車を止め、少しお喋りしてから、車を降りた。
「バイバ〜イ、また明日」
車を見送って自宅のある棟に向かおうとした時、車が走り去った道路の向こうから男の人がこちらに駆けて来た。
 
こんな夜更けに人を見かけるなんて珍しいことだとボンヤリ思ったが、次の瞬間、自分は咄嗟に持っていた書類カバンを芝生の上に放り投げた。
男が手に長さ20センチくらいの鉄の棒を持っていて、それが振り上げられるのを見たのだ。
身体というのは実は勝手に動いていて、脳が瞬時に後からその動きの理由付けをしている、という脳科学的な話を聞いたことがある。
その時の自分はまさにそうで、自動運転モードに入っていた。
振り下ろされた鉄の棒(少年雑誌の通販で売っている警棒のようなもの)をあたくしは両手で受けた。
 
顔を見るとニキビだらけの18歳くらいの子供なのだ。
「なんと生意気な!」と咄嗟に怒りが出た。
2〜3発食らったのだが、不思議と自分は痛さも怖さを感じず、怯まずに揉み合いになった。
そうして、相手の手首だか襟元かを掴んだまま、あらん限りの声で叫んでいた。
「だずげで〜〜〜!」
団地中に響かんばかりのデカイ声に、まずは自分で驚いた。
誰もが寝静まっているような時間で、どの窓の灯りも消えたままだったが、あたくしの大声は相手の戦意を喪失されることに成功したらしい。
「放せよっ!」とあたくしの手を必死に振り解き、そして逃げていった。
「待てぇ!」と、アドレナリンが出まくったあたくしは気丈にも途中まで走って追いかけたのである。
 
 
 
すぐに車で送ってくれた同僚のポケベルに連絡を入れ、引き返してもらった。
その足で最寄りの交番に行くと、お巡りさんが「あなたが誘ったのではないのね?」と確認してくる。
そうして、「どうしたいのよ? パトロール強化して欲しいの? それとも犯人捕まえて欲しいって話なの?」と聞いてくる。
もちろん、捕まえてって話じゃないですか?
「明日、病院に行って、診断書もらって来てね。話はそれから聞くから」と帰された。
 
当時、団地には両親と弟と暮らしていた。
家の前で殴られた娘に対し、両親は「遅くまで残業するからそんな目に遭うんだ」と興味がなさそうだった。
頭にたんこぶが出来ていて、鎖骨のところは青く内出血していた。
次の日病院に行くと、確か全治三週間。
身体中筋肉痛になっていた。どうやら、火事場の馬鹿力が出たらしい。
 
 
 
会社に事の顛末を話し、しばらく残業は控えめして、せめて終バスのある時間で帰りたいとお願いした。
事務職の女性達がものすごく盛り上がっていて、
「殴って気絶させて乱暴するつもりだったんだね」とか色々怖いことを言った。
彼女達のその想像力が怖かった。
そして、それを自分の前で、あたかも心配しているようで、実は楽しそうに言っていることもゾッとした。
 
時代的な話で恐縮だけど、当時その会社には総合職の女性はほとんどいなかった。
だから、自分がこんな目に遭っているのに、「これだから女には残業させられない。使いづらい」と言われるのをあたくしは恐れた。
今、思えば、かなり狂っているが(笑)。
 
結局、犯人は捕まらなかった。
「顔を見られているから復讐しにくるよ」という恐ろしい説も聞かされていたのだけど、自分の網膜にも犯人の顔がしっかり焼き付いているのだ(今も)。
当時は、どこかで見かけたらこっちが先に返り討ちにしてやる、くらいに思っていた。
 
しかし、そのうちに自分は事件を忘れた。
そして、ずっと忘れてた。
 
 
 
今、思い出して客観的に考えると、とっても怖い話だ。
多分、小僧じゃなくて、オッさんだったら、恐怖で凍りついていただろう。
鉄の棒が顔面にヒットしていたら、とんでもない大怪我になっていただろう。
鉄の棒でなくて刃物だったら、死んでいたかもしれない。
↑この辺、「全般性不安障害」の妄想が炸裂する。
 
でも、トラウマにはならなかったのね。
 
親は無関心だったし、警察は非協力的だったし、職場の一部の人は無神経だったのに。
 
その時は、たった一人で戦えたのだよ、自分。
 
 
 
それなのに別の事件ではトラウマを抱えてしまう自分がいるのだ。
取っ組み合いはなかったし、親は相変わらず冷淡だったけど、警察は犯人逮捕に尽力してくれたし、職場の人も気遣ってくれたのに。
 
何か、ガーンと来ちゃったんだなあ…。
 
そういう不均一、不思議だなあ〜〜〜。
 
 
 
カウンセリングの効果なのか、昔のことを突然、細やかに思い出したりします。良いことも悪いことも。
不思議だなあ〜〜〜人間の脳!

「緊張の緩和」を考える。

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前回のカウンセリングからどういう訳か首や方のコリが激しくなり、緊張性頭痛に発展した。
30代の時に頭痛持ちで、いつもバファリンを携帯していた。自分の緊張の対応は全てバファリンアウトソーシングしていたのだ。
久々の緊張性頭痛を自覚した時、意外なことに「懐かしさ」を感じてしまった。
戻ってきた痛みに「おかえり」と言ってみる。
ちゃんと耳を傾けてみようと思っているのよ、今のあたくしは。
 
 
 
5年ほど前、臨床心理士さんに「筋弛緩法」なるものを習ったことがある。
「筋弛緩法」はリラックス法の代表的なもので、慢性的な緊張感や自律神経失調症の緩和に効果があるとされている。
楽な体勢で、筋肉にギュッと力を入れて暫くホールドし、脱力する。この脱力する感覚を味わう。
腕→お腹→お尻→足…みたいに左右の各パーツごとに順に行う。顔も、眉間をしかめたり口に力を入れたりを部分部分で行う。
全部を丁寧に行うと20分くらいかかるのだけど、結構毎日真面目にやった。
 
ほどなくして引きこもりから脱して働けるようになったのだけど、そうなると筋弛緩法の効果ではおっつかなくなった。
筋弛緩法の他にも「ゆる体操」や「ブレインジム」などのリラックス法を教えてもらったけど、「筋弛緩法」ほどの効果は得られなかった。
 
その頃は、自分がトラウマの影響でおかしくなっちゃってるっていう自覚が全くなかった。
たいした仕事でもないのに緊張感でクタクタになり、夜になったら義務感と強迫観念でリラックス法を試みる。
2年ぐらいそんな暮らしをしていたら、自分は何のために生きているんだろう? とか思い始めていた(笑)。
 
 
 
気功も「リラックス効果がある」と聞いて始めたものだ(厳密にいうと、気功はリラックス法ではないけれど)。
站椿功(タントウコウ)と呼ばれる気功法は、身体の力を抜いてひたすら身体を貧乏ゆすりのように振動させる。
難しいのは、身体の力は抜きつつも、肛門のあたりはキュッと締めることである。
 
気功とは宇宙に無尽蔵にあるエネルギーを自分の身体に取り込んで自らの生命力にしちゃおうというメソッドなんだけど、先生によれば「肛門が緩んでると、そこからせっかく取り込んだエネルギーが漏れてしまう」という。
「年を取るにつれて衰えるのは、下がゆるくなって生命力がだだ漏れになってしまうから」というのが気功の(とある一派での)世界観なんである。
 
肛門だけ締めながら身体は脱力するのは難しい。
「両方を同時にできません!」と言ったら、先生には「じゃあ、まずは身体の力を抜くことを優先させてください」と言われた。
身体が緊張していると、宇宙のありがたいエネルギーも入ってこないというワケ。
出ちゃうのは仕方ないから、どんどん入れましょう、という作戦だ。
 
で、「肛門を引き締めるのはおいおい…」と思いつつ、2年間はほぼ毎日続けていてだけど、これといった効果がみられないうちに倦怠期が来た。
まずは3年!と頑張っていたのだけど、残念なことにこれも、実際に職場でストレスを感じ始めると、何の歯止めにもなってくれなかった。
 
気功はやればスッキリ感はあるし、手のひらのピリピリ感は「いかにも」という感じで心地よいので、今も思い出したようにやっている。
ただ、当初の執着みたいなものはすっかりなくなってしまった。
 
緊張感を軽減するには、筋弛緩法のように「一旦、負荷をかけ、じわっと緩める」のがいいのか、それとも站椿功のように「最初から、ひたすら脱力」を目指すべきなのか、どっちが効果的なのか、結局あたくしの身体は答えを出すことはなかった。
 
 
 
ところで、上方落語界に桂枝雀(二代目)という巨星がおり、「笑いは緊張の緩和によって生まれる」との独自理論を残している。
彼はインテリで粘着質で理詰めで笑いを追求し続けた。
それは彼の落語を聞いているとビンビン伝わって来て、悲みに沈んでいてもウッカリ笑ってしまうような、不思議な引力がある。
 
枝雀は若い頃に鬱を患っているのだけれど、芸事をホドホドにやるなんて土台無理な相談なんだろう 。
古典だけでなく、新作落語や英語での落語にも挑戦し、更には役者まで…と精力的に活動した。
鬱を再発させてしまったのも無理からぬぐらいの活躍ぶりで、枝雀はその病をこじらせて亡くなってしまうのである。
 
枝雀の落語には神がかっているような噺がいくつかあって、笑いを通り越して、極まって泣けてきたりする。
本当に緊張が解き放たれた時、そこには笑いがあり、時には涙があるんだろう。
緊張から解放されたい気持ちを満たし、緊張感から解放されるあの心地よさが味わえるのが、落語の魅力の一つなのね。
 
枝雀の噺の中であたくしは好きなのは、人間以外、動物などが主人公になるパターンだ。
特に個人的に大好きで、オススメしたいのは「鴻池の犬」。犬が主人公のファンタジック落語だ。ハマれば、爽やかな笑いと涙に包まれるハズ。
これに「鷺とり」「貧乏神」「幽霊の辻」「崇徳院」あたりを加えたら、自分的には無限ローテーションでも大丈夫なんである(笑)。
 
 
 
さて、そこであたくしが今、慢性的な緊張感から脱するためにカウンセラーからご指導いただいている方法は、筋弛緩法や站椿功と比べると、驚くほど何もしない。
筋弛緩法や站椿功のように、リラックス感を身体に教え込もうとするのとは真逆のアプローチ。
ただ、過去の心地よい体験を思い出すだけ。そうしてその時の、自分の身体の状態を見つめるだけ、なのだ。
 
ただし、これもまた日々の練習や集中力が必要だし、コツがつかめないとどうにもピンと来ない!
先生から見れば、あたくしがリラックスしている時は一目瞭然らしいのだけど、「今、リラックスできてるでしょう?」と指摘されるまで、自覚できてなかったりするから面白い。
泣けているときに深いリラックス感に包まれていることに気が付き、驚いたりもする。
 
ただ、すでに持っているものを思い出せばいいんだ、という発想の転換は、今の自分は不完全であるから補わなくてはならないというプレッシャーから解放してくれる。
 
すでに全ては自分の中にある。忘れていて取り出せないだけ、と思えるだけで、緊張感は少し緩和されるのだ。
 
 
 
さあて、今夜は久々に枝雀でも聞いて寝るかあ〜。
枝雀落語大全(7)

枝雀落語大全(7)

 

 ※「鴻池の犬」収録のCDはこれ。枝雀落語大全はお値段も結構高く全40巻もあるのでなかなか手が出せないのである。あたくしは図書館で借りました。You Tubeでも聴けます

『他人がこわい』時、実際に恐れているのは何?

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カウンセリングの日はいつも具合が悪くなるのですが、今回からその具合の悪さのタイプが変わりました。
何か特別なことをしたのかというとそうではなく、終わって気がついたらグッタリしていた始末。
具合は悪いのですが悪化したという感じではなく、何か時間が巻き戻されている感じ。
不安でしんどくて涙もろい…そして心臓痛い。
これ、何日続くのかなあ?
 
 
 
これは、自分が「全般性不安障害」と診断されて手に取った本。
 
『他人がこわい』 クリストフ・アンドレ&パトリック・レジュロン 著
 
ところが、この本は「社会不安障害」(現在は「社交不安障害」)を認知行動療法で治す、という主旨の本だったのだ。
 
だからこの本はあたくしの QOL向上に全く寄与していない。だけど面白かったからオススメしておく。
 
 
その前に「全般性不安障害」と「社交不安障害」はどこが違うのかというと、不安を感じる場面が異なるのだ。
「社交不安障害」は、人前で話す時に病的に緊張するとか、人と接する場面に不安を感じるのに対し、「全般性不安障害」は、漠然と嫌なことが起こりそうで、最悪なことばかり考えて勝手に不安になる。妄想度が「全般性不安障害」の方が上手(うわて)だと思う(笑)。
 
漠然とした不安というのが厄介なところだ。
自分の持つリアルな不安を挙げると、人生行く先々で恫喝する人に出会うんじゃないかとか、これから知り合う人がストーカー気質であるかも知れないみたいな「気持ち悪い人に会う」不安だ。
会わないためにはどうすれば…とか、会ったらどうしよう…とか延々と考える。
確率論などを持ち出して自分を論破しようとしても難しく、常に頭の中でシュミレーションしているのだからクタクタになるし、人生も滞る。
 
ちょっと調べると、「不安障害」の治療は、「社交〜」にしろ「全般性〜」にしろ、抗うつ剤に加えて認知行動療法や暴露療法をしましょう、となっている。
そこで、ネットで探すのだけれど近隣でかつ保険適応のところを見つけることはなかなか難しかったりする。
意を決して地域の精神保健福祉センターの電話相談に問い合わせたことがある。
「こちらでは病院の紹介してません」とのことで、「HPからダウンロードできる医療機関の表を参照してご検討を」とのアドバイスを受けたものの、膨大な医療機関とそこで対応できる療法がコチャコチャ書いてあるエクセルの一覧表に、あたくしは途方にくれた。
お電話では「アンケートまとめただけなので、正確かどうか分からないです」とワザワザ言い添えられたので、すっかり萎えてしまった。
 
「不安障害」全般に言えることだけど、顔も知らない人に電話で問い合わせすることは結構ハードルが高い。
調子の良さそうな日に「向こうも仕事なんだし大丈夫」と励まして電話をする。
しかし、意を決して行った問い合わせした最初のクリニックで、これまたスッキリしない返答をいただくと、何となく熱が冷めてしまった。
 
そんな風にしてダラダラしているうちに、自分のようなトラウマ由来の不安には認知行動療法も暴露療法もあまり効果がないことを知った。
あぁん、そう?
トラウマ由来の不安とか回避行動を心理療法で適応させても、肝心の「生きている感」が戻らないそうだ。
誰か早く言ってよ、って感じだ。
これはトラウマを扱った翻訳本ではほぼ常識のように書かれているのだけど、日本の心理学界はどうやらトラウマ治療では先進国とは言えないみたい。
 
認知行動療法はマニュアル化しやすい療法なので、行う方からすれば扱いやすいし、マニュアル化もできるので費用的にも比較的お手頃にできるという利点はあるのだけど、効果が薄いのではしょうがない。
なんでちゃんと言わないのよ? っていうのは、どうやら日本における学会の力関係みたいなものらしいですよ。大変ですね。
まあ、そういう訳だから、強い不安を抱えている人は、まずそれが過去のトラウマによるものでないかを一度考えてみる必要があると思う。
せっかくの治療が無駄になっちゃうからね。
 
 
 
…脱線が長くなりました…という訳で、この本は「全般性不安障害」「ではなく」、そしてトラウマ由来「ではない」、人見知り・内気・あがり症などが高じた結果生まれた「社会不安障害」や「回避性人格障害」の症状を認知行動療法で治しましょう! と提案する一冊です。
くどいようですが「全般性不安障害」や「トラウマ」ついては一言もないです(笑)。
 
この本の良いところは、最終的には認知行動療法をオススメしているんだけど、認知行動療法のワークブックに「なっていない」ところ。
認知行動療法の具体的な方法に関しては別の本を参照する必要があるが、よい本はたくさんある)
それよりも「他人がこわい」って、具体的にどういう場面が怖いのよ? あなたが恐れているものの本質は? と本の前半を割いて細かく分類しているところが面白い。
著者はフランスの方なんだけど、対処法より原因の分析に重きを置くあたりは、理屈っぽいフランス人的アプローチかもしれない。
事例紹介もいかにもヨーロッパ的イイ加減な思考が漂い、アメリカの認知行動療法の本から感じる超合理的かつ生真面目な雰囲気が少ないように思える。
 
簡単には、
特定の場で緊張→あがり症(正常)が悪化して→社会不安障害(病気)
初めての場で緊張→内気(正常)が悪化して→回避性人格障害(病気)
みたいに分類している。
 
そして不安のタイプは4つ。
1)他人からネガティブな評価をされる不安
2)他人に心を見透かされる不安
3)他人からネガティブな反応が返ってくる不安
4)他人から見られている不安
 
巻末に簡単なテストが付いていて、自分は1)だった。
まあ、そうかな?という感じ。
自分の「全般性不安障害」的な不安の正体は「思いもよらない怒りや恨みを買ってしまうこと」なので外れてはいない。
 
面白いのは、本筋には関係ないのだけれど、最も内気な国民はドイツ人と日本人で、最も内気「ではない」国民はイスラエル人とユダヤアメリカ人というくだり。
内気でないというのはずうずうしいという訳ではなく、上手くいけば自分の能力、上手くいかなかったら周囲の所為、と合理化できる国民性ということらしい。
自分に厳しく、上手くいった時には「みなさんのお陰です」と頭を下げる日本人とは正反対なのだ(ドイツ人はどうなのかしら?)。
日本人の多くが感じている「生きづらさ」はこの辺の国民性が関係しているかもしれませんねぇ。
 
 
 
この本読んでいたら、幼少期の自分は非常に内気であがり症だったことを思い出した。
答えは分かっているけど「何となく間違っているような気がして」手を上げない、当てられてもずっと黙っている、喋る時は蚊の鳴くような声だった。
主張しない子供と思われることより、万が一間違えてしまうことが怖かったのだな。
そして不思議と、自身の内気やあがり症を悩んだことも少なく、どうやって日々のストレスから逃げおおせるかばかり考えていた。
どうしてそうだったのか、そして大人に差し掛かる頃、なぜその行動様式がコロッと変わってお喋りしだしたのかも分からない。
 
ある一時期から、この世界は多少の間違いはどうとでもなる楽しい世界だと知って、黙っていられなくなったんだろうか?
それとも、まず自分を曝け出さないと楽しいことは何も起こらないと、いつからかずっと無理をしてきたのか?
今は他人がとっても怖いのだけれど、この世界の楽しさもたくさん知っているから、あたくしはなんとか克服したいのだ。
 
…今回も全然本の紹介になってないけど(笑)、現在、内気であがり症の人にも、今は通り過ぎちゃった人にも面白く読める本だと思います。
他人がこわい―あがり症・内気・社会恐怖の心理学

他人がこわい―あがり症・内気・社会恐怖の心理学

 

 ※若い頃、パリでひと月程ブラブラしていたことがあるのですが、フランス人にシャイさを感じたことは一度もなく、むしろパリのイギリス人はシャイそうだなぁと感じたことを思い出しました。見た目だけの問題かもしれません。

『医者の9割はうつを治せない』らしいですよ(笑)。

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「うつビジネス」というジャンルがあると思う。
うつの人ターゲットの代替医療サプリメント、各種セミナー、書籍などなど。
ある程度数が見込めるってんで、本が売れなくて困っている出版業界も一生懸命に「うつ」の本を企画する。
メンタル系の本は「よほど有名人のものでない限り当事者本は売れまい」というのが業界の定説らしく、精神科医の監修本みたいなのが多い。
 
最近の本の作り方で多いのは、病院の休憩時間に編集者がチョイチョイお邪魔して先生にお喋りしてもらい、録音したそれをゴーストライターが文字起こしして仕上げるタイプ。
先生に原稿頼むよりも早く出来上がる。先生には原稿チェックしてもらうだけだからね。旬を逃さないで出版できる。
病院の宣伝にもなるし、著者になることに積極的なお医者さんも少なくない。
上手くすると先生が自著を大量購入してくれることもあるので、なかなかにwinwinではある。
 
 
 
この本は、そのように出来たのかは定かではない。
しかし何とはなしにそんな感じの漂う、いや、「イイ意味」で軽い感じのする本だ(笑)。
 

『医者の9割はうつを治せない』 千村晃 著

 

タイトルからして凄い。昨今は多少盛り気味のタイトルにしないと本が売れないのだ。
9割の医者はうつなんか治せないけど「僕は治せます」と言いたいのね。凄いや。
うつ気味の人はグッと来るんじゃないかな?
 
あたくしは、来た。
これまでかなりのメンタル系の本を読み散らかしてきた。うつビジネスの良いカモなのである。
 
この本、かなり良く出来た本である。
タイトルに加えて、表紙の宣伝文句がイイ。
「うつヌケした」と喜んでいなかったらヌケていなかった! 
堂々、他社のベストセラーまで引き合いに出しているあたり、人の目に留まれば何でもいい!という意気込みが感じられる。
2,000人の患者を薬を使わず快方に導いた精神科医は、どんな治療をしたか?
というコピーもお薬嫌いのうつの人には心惹かれるものがある。
帯ではなくて、表紙カバーに直に「帯風なデザインで」印刷してあるのが良い(笑)。
 
中の文章は全て先生と架空の患者との対話形式、ポイントは色付きの太字になっていて読みやすいから、うつで思考能力低下の人にも優しいと思う。
装丁や挿絵が可愛いらしい。ネコが描いてあるので猫好きにはたまらん。本当に良く出来た本だ。
そういうわけで、あまりにも売ることを計算しつくされた本なので、逆にあたくしは警戒して多少意地悪な気持ちで読んでみた。
しかし、この本、なかなかいいことを言ってます。
 
良いなと思ったことはイロイロあるんだけど、特に心に響いたのは以下の3ポイント。
1)うつの再発ってさ、それはそもそも治ってないんだよね。
2)薬は対症療法に過ぎないの、治すならカウンセリングだよ。
3)他人のうつ体験談読んでも自分のうつは治せない。もっと己を知れ。
 
あとは、リワークってどうなのよ? とか 今流行りの「毒親ブーム」的なものにもチラリと言及している。
 
他人のうつ体験談なんか自分の病気治すのには役に立たないよ〜っていうのは本当、その通りだと思う!
うつだってことだけが共通点で、あとは全部一人ひとり違うんだろうな、と確認するみたいなもんだ。
読むのであれば、あくまでも「他の人はどうだろう?」くらいなのスタンスがいいんでしょうね。
 
 
 
この先生は極端な断薬派でもなく、かといって薬物万能派とか根性で治せ的な体育会系ではなく、考え方のバランスも悪くない。
カウンセリングもできる先生だからか、切れ者の医師というよりお人柄の良さが偲ばれる。
比較的病歴の短いうつの人、これからメンタルクリニックに行こうかどうか迷っている人にはオススメです。
今後の自分のうつを考える上で、きっと良いヒントが得られるでしょう。
 
あたしくしのような「こじらせた」人にも非常に役に立ちました。
メインのメッセージは「己を知れ」とあたくしは読み取りましたよ。
 
実はあたくし、この本は地元の図書館で借りて、1〜2時間ほどで読了してしまった。
厚手の紙質と文字大きめでもって、内容の少なさをカバーしつつ本に厚みを持たせているのだ!
これはしょうがない。昨今の一般書はみんなそうやってコンテンツの薄さを補っている。
それに、この軽さがうつ当事者にはむしろ親切とも言えよう。
 
正直、この手の本は病院の宣伝くらいにしか思ってないので、「買ったほうがいい」みたいにオススメはしないんだけど、この本「読めば何かしら得るものがある本」くらいには思う。
うつかな?と思ったら、上記3ポイントは知っておいたほうがイイ。変にこじらせないためにも。
 
この本、それこそメンタルクリニックの待合室に置いてあるくらいが丁度いいんだけどな…。
他所のメンタルクリニックの本を置く酔狂な病院はないだろうな…。
イイ本なんだけどな…(笑)。

  

医者の9割はうつを治せない

医者の9割はうつを治せない

 

 ※あたくしが本の紹介しようと文章書くと、どうしても「別に読まなくてイイよ」的になっちゃって、全然ここでオススメする意味がないような気がしてならないんだけど、あんまりつまんない本は最後まで読まないくらいなので、最後まで一気に読ませたこの本は面白いよ。ホントよ。