心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

全て杞憂でした。

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カウンセリングにいく日の朝が来て、憂鬱でたまらない。
それでも、正直に前回の面接で感じたことや思ったことを正直に言おう、それでいいじゃないか? と自分に言い聞かせた。
ちゃんと、分かってもらえないことが悔しくて、家で泣きましたと言おう。
初めてカウンセリングに行く事が怖くなりましたと伝えよう。
 
朝、歯を磨きながら、自分が悔し涙を流すなんて、随分久しぶりのことだったと気付いた。
いい体験だったかもと少し思えたら、急激に心が楽になった。
カウンセラーの先生には自分のことをたくさんお話しているから、何でもすぐに分かってくれると思い込んでいたんだな、でも、そうではないのだな。
 
カウンセリング恐い、とか言ったら、先生はどんな顔をするだろう?
と、興味があったのだけど、人にマイナス要因を話す時、自分は伏し目がちになってしまう。
先生は「あ、そう?」とか「ふーん?」とか間の抜けた相槌を打ちながら聞いていて、最後に「僕だって、流石にあなたのこと全部分かる訳ではないよ?」と笑った。
 
「そうですよね? だからもう一度話すので、聞いてください」
前回先生はこんなことを言ってて、あたくし的にはそれは分かるけれども、自分だってそう思ったことはあるけれども、今の自分の気持ちはそうじゃない、違うんです。
なるべく正確に現在の自分の気持ちに沿うように、同じことを、言い方を変えて、何度も何度も話した。
 
 
 
先生は注意深く聞いてくれているように見えた。
そして、口を尖らせて考え込んでいる表情を作り、腑に落とそうと苦心しているようだった。
その顔がむしろおどけているように見えるので、「先生の顔、ワザとらしいよ」とあたくしは笑った。
この空間では、感じた違和感は、すぐに口にするように心掛けている。
そして「ごめんなさい、先生はふざけてないと思うけど、自分から見るとそんな風に感じるの」と言い直した。
話しながら、当たり前のことだけど、ああ先生は「自分とは違う心を持った人だ」「他人なんだ」とシミジミと思った。
 
今はもう、本当に分かってもらいたい人は目の前のカウンセラーではなくて、先生は誰かの代わりを演じてくれていることに、自分は気付いているのだ。
代わりでもいいから、理解してくれようと努力してくれる人がいないと、今の自分は辛いのだ。
自分と違っていても構わない。ただ寄り添う努力をしてもらえるだけで、とても嬉しいのだ。
 
「これまでわたしは、こちらが一生懸命伝えれば、いつか分かってもらえる日が来るのだと思ってました。
 でも、それは間違いで、限界がある、どうしても理解してもらえないことがある、って気が付いたんです」
お互い、どんなに近くて長い関係においても理解しがたいことはあるんですよね?
 
最後の方に先生は「うん、やっとあなたの気持ちが分かってきたよ」と言ってくれた。
しかし、先生にはあたくしの至った考えがとても寂しく感じるようで、賛同しかねる様子だった。
先生は「無理にそういう風に考えようとしていない?」と聞いてきたり、
「そんな風じゃあ、愛が受け取れないよ?」と諭してきた。
 
「でも、先生、今はこの段階なんです」物凄く分かって欲しい気持ちを込めて、自分は言った。
時間が経てば、今よりも、先生がホッとするような、もっとマシな考えに変わるかもしれない。
だけど、今はこうなんです。とても寂しく、途方に暮れているんです。
「うん、今は、この段階にいるんだね?」
「そうです。今はここにいるんです」
 
 
 
今日の先生は、あたくしとの間を遠すぎず、近すぎず、絶妙な距離感を保ちながら、注意深く対話をしているように思えた。
今日のは、特に内容的にも距離感を大切にしたいような、とても微妙な話だったのだ。
先生がドンドン遠くなっていくような悪い予感は、杞憂だった。
 
ふとしたキッカケで食い違いが大きくなり、そのほころびをどうすることもできずに、縁が切れてしまうときの怖さを、なぜか久々に思い出したのだ。
先生にはちゃんとお話しできたし、爆発しそうな怒りを感じることはなかった。
先生とあたくしとで、共通して好きなものをまた一つ発見したり、楽しい時間もあったのだ。
 
なんで偶然に同じものに愛着を持っていることを知ると、こんなにも嬉しいのだろう?
自分が大切にしているものを、別の人も大切に思っていることを知ると、なぜこんなに温かい気持ちになるのだろう?
不安な気持ちは、一つも解決する風もないのに。

カウンセリング恐い。

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う〜ん、もうすぐカウンセリングの日が近づいているんだけど、ちょっと困ってる。
こんな気持ち初めてなんだけど、なんか恐いんだよね。
それまでは「あと◯日でカウンセリングだ〜♪」と指折り数える勢いで、あれ話そう、これ話そうと、どちらかというと、ワクワクしていたのだ。
 
いくら先生好きっていってもさぁそれもどうだかね、と思うけれども、尻込みするというのも変だ。
あたくしのカウンセリングは誰かに無理くり行かされている訳でもないのに。
そうして、先生は1ミリも変わってないのに、急に恐くなるなんて。
 
何が起きたのかわからないけれど、変わったのは自分だ。
また、考えすぎて、いろいろ恐くなってしまったのだろうか。
先生はよく
「ハイハイ、あなたが頭イイのはよく分かったからさぁ」
とあたくしのことを笑うのであるが、それはもちろん揶揄(やゆ)である。
考えすぎということ。
今のあたくしは、不安の塊だ。
 
 
 
塊という訳だからいろんな不安があって、その集合体が恐いのだけど、その中でも大きな不安が二つある。
一つは、カウンセラーの先生の前で、落ち着いて話ができるかどうかの不安。
 
何となく、ささいなことで感情が爆発しそうな感じなのだ。
例えば、笑って欲しくない時に笑われるとか、自分にとっては大切な話をしているのにそれを軽く扱われるとか。
そういうのは、いつもカウンセリング場面で起きていて、そういうのを、先生は恐らく意図的にチョイチョイ仕掛けているのだ。
想定内なのに、なんだか今はそれに非常に触発されそうな感じ。
巷でも怒りっぽいというか、ささいなことで切れる人がいるけれど、そういう人に自分がなってしまいそうな恐怖。
 
二つ目は、そういう自分の暴力性が先生を言葉で傷つけそうな、不安。
 
昔一度だけ、怒りのあまり、気付いたらすでに人を殴っていたことがある。
殴ったことに関しては、それ相応の理由があったので(暴力はいけないが)、実は後悔も反省もしていないのだけど、自分の意識をぶっ飛ばして行動が先に出るのはよくないなぁ、と思った。
あたくしは、その時に、自分の中に得体の知れない凶暴な、怒ると何をしでかすか分からない狂犬がいることに気付かされた。
それ以来、ずっとそれを強固な檻に閉じ込めている。
 
何かの手違いで、その狂犬が口先に出てきて暴れ回ったら、さすがにカウンセラーの先生はドン引きするだろうと自分は思っているのだ。
もっとも、このことは先生にも伝えてあるのだけど、先生の方はそれを狂犬なんかとは思っていない節がある。
だから引きずり出して、「ほら、やんちゃな子犬なだけだよ? 僕にとっては」と言いたいのかもしれない。
 
 
 
あたくしの怒りの表出について、カウンセラーの先生が
「ここは安全な場所だから、ここで練習すれば大丈夫だよ」
と、言っていたことを思い出した。
一度だけでなく、何度も言っていた。
 
それをあたくしは毎度毎度、「いや、難しいです」「無理です」と言い続けて逃げ回ってきたのだ。
 
思えば、先生のことを知りすぎた。
いや、本当は何も知らないのだろうけど、分かっているような気になってしまった。
カウンセリングの途中で、もし自分が我を忘れるくらい興奮してしまったら、そういう先生のディテールを捕まえて罵倒してしまうかもしれない。
それは絶対にしたくない。
先生が自分に「自分がどんな人であるか」と語ってくれた勇気と誠実さを、あたくしは最後まで尊重したい。
そこを怒りに任せて、否定したり傷つけたりしたくない。
 
自己開示が豊かなカウンセラーに関して、あたくしは初めて「困ったなぁ」と思っている。
 
ここは乗り越えなきゃいけない部分なのにな。
今まで、自分はその攻撃性を自分に向けてきたのだ。
それを緩やかに外に出せるようになれば、自分は今よりずっとずっと楽で幸せな人になれるだろう。
変わるのが恐いから、先生を言い訳に逃げようとしているだけなのかな?
 
きっと委ねることが必要なのだろう。
力を抜いて委ねた 時、誰でも身体が水に浮かぶんだ、と体感すれば、海はきっと今より怖く無くなるはず、とか。

Nちゃんのこと。

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とても昔のこと、あたくしが 26歳の時に、当時勤めていた会社が、これはヤバイ、十中八九潰れるというので、希望退職者を募集した。
希望退職者を募るのは2回目で、次回は指名解雇にする、とのことだった。
 
「辞めちゃおうか?」と会社の先輩のNちゃんが言った。
Nちゃんは帰国子女で彩色兼備な秘書課のやり手なのだけど、ちょっと頭のネジが外れてるような、風変わりなところがあった。
そのネジの外れ加減が、あたくしとマッチしたのだろう。
3つ歳上のお姉さん、とても可愛がっていただいた。
 
今辞めたら、会社は退職金に50万円上乗せしてくれるという。
「そのお金でさあ、どっか行っちゃおうよ?」
まったく悪い先輩である。
でも、あたくし、それに乗っちゃったんだな。
「一生に一度でいい、一週間くらい…パリに行きたい」
と、あたくしが言うと、Nちゃんは、
「デッカク行こうよ、1ヶ月行っちゃうおうよ、ね?」と行ったのだ。
 
 
 
若いって素晴らしいし、恐ろしい。
当時、誰か止める人はいなかったのだろうか?(笑)
とにかく行っちゃったんだな、パリに。
スーツケースに、お湯で温めるご飯と味噌と梅干しを詰め込めるだけ詰めて、滞在中の食料の足しにした。
市内の何大学だったか忘れたけど、学生街近くの1泊2名で2000円くらいの宿に長期滞在した。
そうして、おそらくパリの美術館はほとんど行ったのではあるまいか?
 
自分は鈍臭いし海外の自由旅行なんて初めてだったので、前をサッサと歩く彼女とはぐれまいと必死だった。
彼女にとっては超足手まといだったことだろう。
だけど彼女は道中、頼もしい姐御を貫いてくれた。
 
それでも旅の緊張感と疲れからくるイライラから、最後の方は一触即発だった、
無事に成田に帰って来たときには、ホッとしたとともに、正直かなり険悪な雰囲気が漂っていた。
しかし、彼女は空港の帰り際、ニッコリ笑ってこう言った。
「楽しかった、また行きましょう」
ああ、彼女は大人だな、とあたくしは人格の違いというものを思い知った。
 
自分は子供だったらから、まだ怒っていた。
でも、時間が経ったら、またこの人と行きたくなるに違いない。
それは分かっていた。
長く寝食を、苦楽を共にする旅は、誰とだってできるもんじゃないよね。
 
 
 
残念ながら、彼女ともう一度旅行に行く夢は叶わなかった。
帰国して数ヶ月後、彼女は肝炎にかかってしまったのだ。
原因は今でも分からない。
それはどんどん悪化して、彼女はとても頑張ったのだけど、その年の秋に亡くなってしまった。
 
「なぜ、うちの娘だけが亡くなったんでしょう?」
と、彼女の母親はあたくしに問う。
それは、難しい質問だ。それに答えはあるのだろうか?
 
やりばのない怒りを、彼女の母親は、やんわりと私に向けてくる。
どう考えても、旅行と病気は関係ないし、自分だって友人を失って悲しいのに。
 
2〜3年経った頃か、共通の友人から「彼女のお墓まいりに行きたいから」と言われて、気が進まないままご実家に電話したことがある。
「あの子はね、まだウチにいるんですよ。だって、かわいそうでしょう?
 ああ、あなたは、新しい職場で働けて、いいわね。
 新しいお仕事、楽しい?」
電話口の向こうの人は泣いていた。
いたたまれず、電話を切って、それ以来連絡は取っていない。
 
 
 
あまりに遠い話なので、なんだかこの話自体がフィクションみたいだ。
共通の友人とも縁が切れてしまったので、あたくしがこれは空想上のお話、と言い切ったら、なんだか本当に作り話になってしまいそうだ。
 
人間の脳は、感情が動けば、それが現実によるものだとか、フィクションによるものだとか区別できないで、要するに全てリアルなもののとして処理するらしい。
当時はSNSスマホもデジカメさえもなかったから、彼女の笑顔が数枚の写真に残るばかりなんだな。
 
それでも、旅先の夜に話してくれた、彼女の個人的な想いとか、子供の頃の思い出とか、そんなのは一つひとつ彼女だけのオリジナルなエピソードであって、もう随分薄れてきちゃってるけど、それはまだ、自分の中に残ってる。
彼女の中のグツグツとした熱いものや 、そのエネルギーを持て余してイラついていたことなどは、確かにこの世に存在していたものなんだ。
 
正直、自分もよく分からない。
なぜ、自分がここにいて、彼女はここにいないのか。
なぜ、楽しいことの先に、とてつもない喪失が待っているのか。
 
考えてもどうしようもないことを、考えないで、とカウンセラーの先生は言う。
ただこうやって…と、両の手でその気持ちをそっと包み込むようにする。
あたくしは出来の悪い生徒なので、それがなかなか難しい。
 
心が辛い時は辛いし、痛い時は痛い。
 
いつも心を占めている訳でなく、ある時、フッと思い出すのだ。
それは懐かしくて愛おしいのだけど、辛くて痛いのだ。

先生、あたくし浅慮でございました。

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インフルエンザで外出禁止、熱も下がらないから、布団で一人、ずっと先だってのカウンセリングを反芻していたのであった。
そうして思い返しては憤り、先生の気持ちをおもんばかっては、やっぱりあれは酷かろう?とか、涙していたのだった。
インフルエンザによる高熱は、少しも自動思考を衰えさせてくれない。
 
何故か夫は、高熱で食欲の落ちたあたくしに、プリンと玉子豆腐を買ってきた。
あたくしは病気の時はここ何年も、ヨーグルトかゼリー派なのだ。
熱が出た時、玉子は気持ち悪くて食べられない。
何年一緒にいるんだよ? と、ここで怒りが湧く。
夫の善意だということは分かっている。ありがたいんだよね? 結局、甘えてるんだよね?
とても弱っているので、説明も面倒臭くて手をつけないでいたら、いつの間にか夫が自分で食べていた。
 
弱っている上に、食はさらに細く、考えは後ろ向きに、一層バカになるばかりだ、と自分にダメ出し。
 
 
 
実はあたくしにはカウンセリング友達というか、全く違うカウンセラーさんから違う療法を受けている友人がいて、時々お互いの先生のことを話し合ったりする訳。
そこで、改めて、人がカウンセラーに対して求めていることは十人十色だと思い知るのだ。
友人も自身のカウンセラーには信頼を寄せているけれども、そのやり方を聞いてみると、自分の先生とは何から何まで全く違う。
良いカウンセラーというのも千差万別なのだ。
 
そうして、先日のカウンセリング出来事を友人に話したら、彼女は「何、それ、プロっぽくない!」と我が事のように憤った。
プロっぽくない、というのは、先だってのカウンセリングで自分の意見を押しつけてきた先生の態度のことだ。
そうして、「ちゃんとデータに基づいた話をしてくれなきゃ、困るよねぇ?」と言った。
 
でも、ここが面白いところで、あたくしはちっともそう思わなかったのだ。
「いやさ、先生は感性の人だから、統計学的なことは重きを置いてないんだよ(笑)」と言ったら。
「だって、ちゃんと勉強してもらわなきゃ困るじゃない?」
「クライエントから苦手分野の話が出たからって、適当なこと言ってちゃダメじゃないのよ?」
でもそれは、彼女にとっての理想のカウンセラー像なのだ。
彼女はあたくしよりも10歳以上年下なのだけど、こういうところに若さを感じるんだな。
 
そうして、彼女は親切心からたくさんのアドバイスをくれた。
「もっと専門性の高いカウンセラーに相談してみては?」とか
「男性には分からない話もあるだろうから、女性のカウンセラーはどうだろうか?」とか。
 
でも先生がその日の気分や体調から、あたくしに対して適当していたとはどうしても思えないの。
だだ、その意図を計りかねてオロオロしているだけだ。
「ありがとう。だけどね、自分が限界を感じるまで、今の先生にお願いしようと思う」
よき友に、あたくしはそう伝えられたのだった。
 
 
 
そうして通常よりも更に劣化している思考能力でもって、シツコク考え続けて、一つ思い出した。
 
先日のカウンセリングの時に、あたくしはこんなことを言ったのだ。
「言葉とは裏腹な、相手の本心が伝わってきてしまうことがある。
 この人はこんなこと言ってるけど、私のことなんか大切に思ってないなぁ、とかが分かってしまう時が」とね。
それに対して、カウンセラーの先生はこうおっしゃった。
「分かった時、そのことについてあなたは何も言わないの?」
「言わないです」
「大切にしてよ、とか?」
「言えないです。自分に自信がないから。
 分かるだけでいいんです。後は、こっちで決めますから」
 
あはは、きっとカウンセラーなら、そこに山を見ちゃうよね?(笑)
 
で、あたくしの読み取った先生からのメッセージはこれ!
「僕にあなたの権利を主張して来い!」です。
どうだろう?
まあ、かなり的外れだとしても、このまま考えが変わらなければ、自分は次のカウンセリングでそうしてみるつもりなの。
 
ぶつかり稽古ってやつ?
「分かってくれ」「分かってくれ」「分かってくれ〜〜〜!」って感じで、何度も飛びつく。
その都度、先生に軽く放り投げられるに違いないので憂鬱だ。
それは疑似恋愛からチビッ子相撲への変遷…先生、疲れるよね? ご苦労かけます。
 
陽性転移が終わっても泣きべそなんだな。
だけど泣きの質が違って悔し涙なんだな。
これ陰性転移? それともインフルエンザで弱ってるだけ?
とりあえずインフルエンザだけでも早く回復しよう、そうしよう。

陽性転移、本当に終わり。

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まずは、インフルエンザになってしまいました。
高熱で辛いです。病院で調べたらB型でした。
流行っていることは知っていたのですが、中学生以来インフルエンザには無縁で、自分はならないものだと勘違いしていました(笑)。
皆さんもお気をつけください。
すでにかかってしまった人は、どうかご自愛を。
 
 
 
陽性転移に関しては、いつ終わるんだろうと思っていた。
陽性転移の後に陰性転移が来る場合もあり(カンセラーが仕掛ける場合もあるそうです)、カウンセラーを嫌いになったり、憎くなったり、怖くなったりするみたいで、それは嫌だなあとも思っていた。
あたくしはかつて夫に怒りを露わにしていた時みたいに、負の感情を先生にぶつけるのだろうか?
自分の弱い面を晒すのには抵抗がなくても、激しく荒々しい部分は、何とか見せずに済みたいものだ。
うわぁ、先生大嫌い!とかなるんだろうか?
でも、その時が来たなら、思う存分した方がいいんだろうなぁ、と考えていたのだ。
 
少しカウンセリングの感覚が空いてしまったので、今回はとても辛かったのだ。
正直に「大丈夫だと思っていたけれど、実際はとても辛かったです」と告白したら、
先生は「ごめんね、忙しくて」と言った。
精神的には結構フラフラで、先生に思い切りもたれかかってやろう、くらいに思っていた。
とってもフッカフカな大きくて白いお布団みたいな先生にダイブして、甘えたいと思っていたのだ。
 
 
 
ここ数週間で考えたこと、気付いたことを先生に話す。
思い切り泣いてやろうと思い、そういう時にはあたしは予めフェイスタオルを膝の上に置く。
それだけで、気が落ち着くこともあれば、本当にタオルを活用する時もある。
でも、今日は何となく、いつもと違う。
 
感極まって泣きそうになると、先生が笑いを挟む。
「何でここで笑うんですか?」といつもより強い違和感を感じる。
私が到達した思いを話すと、先生は「それは、違うと思う」と遮る。
何だか、そんなの全然お門違いだよ、そんなのお話にならないよとばかりに鼻先で笑う。
「人の気持ちはそんなに浅いもんじゃないよ?」
 
先生は、ちょっと憤っているように見える。
あたくしの導き出した洞察があまりにも子供じみているからだろうか?
それよりも、あたくしにではなく、何かもっと大きなものに対して腹を立てているようにも思える。
とにかく、ことごとく否定されて、当惑する自分。
どうして先生、今日は自分の考えを押し付けてくるの?
 
ムクムクと夏の入道雲のように沸き起こる反発心。
今まであたくしの何を聞いてきたんだよ! 全然分かってない!
今日の先生のトンチンカンさが受け入れられない。
 
ほんじゃあ、カウンセリング辞めちゃう?と問われれば、そうではないのだ。
不思議と、分かってもらうまで、食いついて、何度でも話そうと思っているのだ。
今日は飲まれてしまったけど、何度でも落ち着いて話せるようになろうと。
「先生はこう思って言ったのかもしれないけれど、私が本当に分かってもらいたいことはこうなのです」と。
このカウンセリングを始めた時、最初に先生を見た時の自分の直感を限界が来るまで信じてみようと思っているのだ。
今の現実世界では難しい、誰かに理解してもらう感覚を、ここでは体感したい。
 
 
 
ともするとやけっぱちなことばかり言うあたくしを、落ち着かせようとする先生の想いは伝わってきた。
先生の突き放すような言葉には、あたくしの幸せを願う愛が含まれているんだろう。
でもそれは、何だか、親戚のお兄さんとかおじさんの言葉みたいなんだよね(笑)。
先生がスーパーな存在から、タダの人間になっちゃった…。
 
人間になった先生は、自分の傷つき体験を話してくれる。
そうか、今日のあたしくしの話、先生の心の琴線に触れちゃってる?
あたくしは先生のこと大好きだから、先生の個人的な話を聞くのは嬉しいよ?
だけど、これはあたくしのカウンセリング。
あたくしの話、聞いてる?
今日の先生、変だよ? どうしちゃったの?
 
カウンセラーといえども何かしら弱点があるのだ。
この手の話は我が身の古傷に触れて辛い…というのが誰にせよあるのだ。
それを克服するのがカウンセラー道なのだ。
…と勉強したよ? あたくしは知っているよ?
 
今日の先生、これは意図的にやっているのだろうか、それとも、そうなっちゃったのか?
と、帰途に考える。
あたくしがあまりにも毎度甘えてくるので、急遽人間宣言をされたのだろうか?
先生の不完全さを知ることは、自分の成長過程においても大切なことだよね?
なんとなく、親がちっとも理想的な人間ではなかったことを悟る時に似ているような気がする。
それをやったということだろうか?
次にそれとなくこのこと聞いてみよう、とか思ってる。
 
人間になった先生はウリ坊を思わせるようなかわいい男の子(オジさんだけど)なのだ。
喜怒哀楽が豊かで、カウンセラーらしからぬ落ち着きのなさだけど(笑)、あたくしはまだ先生を信じてるよ?
そうしてひとまずは、先生のことを嫌いにならなくて良かった。
完璧でなくても愛するに価するのだと、何度も教えてくれたのは先生なのだから。

アローン・アゲイン

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およそ20年も前のこと、当時の恋人と夏休みに旅行に行った。
東京から車で琵琶湖、京都とめぐり、神戸の六甲山まで行った。
彼とは結婚するつもりで、親にも紹介していた。
 
それが今までの旅で、恐らく一番“しんどい”旅だった。
というのも、明日から夏休みに入る、というその前の晩にあたくしはレストランでワインを飲みすぎて転倒、顔面に13針もの傷を負ってしまったのだ!
 
急遽、病院まで駆けつけた彼が、「二人のメモリアルな旅行の前日に飲みすぎるなんて、何てことしてくれたんだ!」と激しく嘆いた。
すでに旅行の準備はカバンに収まり、出発を待つばかりになっていた。
そうして、「この旅行の予定は変えられない」と次の日の昼頃に琵琶湖に向けて出発したのだ。
彼の自慢の外車で。
 
額と口元に貼り付けられた大きなガーゼに加え、片方の目の周りに青黒い輪が出来ていて、自分の顔は漫画みたいだった。
ビジュアル的にはまるでドメステックバイオレンスの被害者みたいだけど、実際は自分で転んで怪我をしただけなのだ。
行く先々のホテルのフロント係は、腫れ物を扱う様な微妙な顔をしていた。
 
 
あたくしは道中、無表情を貫いた。
顔面に怪我をして初めて気がついたのだけど、人間の顔の筋肉は本当に細やかに動いて、微妙な表情を作り出している。
「え? 何?」と疑問を呈する時の表情の時は、額の筋肉が動く。
口を尖らせて不満を表現する時は、口元の筋肉が動く。
それに高速道路をブッ飛ばす車はとにかく揺れた。
痛みを表現する行為自体が痛みを伴うので、あたくしは表情を消し続けた。
 
旅のクライマックスである神戸に近づくにつれ、8歳年上の彼が次第に不機嫌になっていく。
「君は、この旅でちっとも楽しそうな顔をしないね」
「これだけ僕が、素敵な宿、素敵な場所に連れて来ているのに!」
「おまけにセックスもさせてくれない!」
よくも大人気なくここまで本音をさらけ出せるな、と思うくらい、彼は自分に正直だった。
 
「あのねぇ?」と、あたくしは言った。
「顔を13針も縫ってニコニコ笑っている人がいたらさ、バカだと思うけど!」
 
 
 
帰ってきてから、その一連の出来事を友人に話したら、
開口一番、腹立たし気に言われた。
「おまえ、そういう時に旅行なんか行くなよ!」と。
「そんなの、ありえねぇだろ? そいつおかしいよ!」
その人はあたくしにもあたくしの婚約者にも怒っていた。
 
我が事のように怒っているその人を目の当たりにして、あたくしはやっと、「これは、何やら酷いことなのかも知れない」とボンヤリ思った。
それまで何が起こったのか、自分には全く分かっていなかったのだ。
自分は確かに何かを見ないようにしていた。
そうして、見ないようにしながらも、何やらボンヤリと限界を感じていた。
 
当時のあたくしの婚約者は、数年前に相次いで両親を亡くし、莫大でもないがちょっとした遺産を相続して郊外の大きな家に一人で住んでいた。
「俺の女に相応しい結婚式をしてやる」
「ノルマンディーのモンサンミッシェルが見える場所で結婚式をする」
「俺と結婚したら、俺の車コレクションは全部君のモノでもあるということだよ?」とか妙な事ばかり言っていた。
今、思うと、彼の言葉はどれも陳腐な言葉だったけど、あれが彼にとっては愛情表現の言葉だったんだろう。
最初あたくしは、孤独に生きてきた彼に優しくしてあげたい、とか思っていた。
 
でも、旅の終わりには、それは難しいかもしれないなぁ、と思っていた。
自分の意思ではないけれども、限界が来てしまったら、なすすべがないなぁ、みたいに思っていたのだ。
 
旅行の最終日だったと思う。
神戸市内を走っている時に、カーステレオからギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」が流れてきた。
それを聞きながら、あたくしは「彼はもうすぐ一人になるんだな」とボンヤリ思った。
彼が一人になるということは、自分も一人になるということだった。
それはどうしようもない。それは仕方ない、と思いながら、「アローン・アゲイン」を聞きながら、神戸の街並みを眺めた。
 
 
 
当時、自分が必死に見ないようにしていたもの。
それは“孤独”だった。
孤独に直面しないよう、孤独に直面する事を避ける為だったら、自分の中に自然に沸き起こる感情を殺してでも、何かを見ないようにしていたのだ。
 
ずっと、自分は孤独には耐えられまい、と思い込んでいた。
今でも自分は孤独に弱く、孤独への強い恐怖心がある。
 
でもちょっと、最近、その認識が変わってきたんだよね。
 
今の自分、案外、孤独に耐えられるんじゃなかろうか?
孤独でも結構平気なんじゃないだろうか?
いやさ、もしかしたら孤独を楽しめたりとかも、できるんじゃなかろうか?
孤独は人を歪めるばかりではなく、何かを醸成させてくれたりもするんじゃないだろうか?
 
こんな言葉は、何だか人間的成長の証みたいだけれど、実は少しニュアンスが異なる。
 
単に孤独よりももっと恐ろしいことに気づいたからだ。
あたくしにとって何よりも恐ろしいこと…それは、自分の本当の気持ちに向き合うことだったんだよね?
 
そういう訳なんですよ、本当にもう、あたくしったら気付くの遅い〜!
 
…てな感じに、進んじゃっているのですが、カウンセリングまで、まだちょっと日数があるのだった。
先生、ヘルプミー!

先生、何故に世間話するのですか?(笑)

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現在のカウンセラーの先生との面接は、最初はほとんど自分が喋りっぱなしだったのだけれど、最近ではあたくしがカウンセリングの先生から話を聞く時間が増えた。不思議な話だけど。
随分前から、先生の語り…自己開示の多さにはビックリしていたのだけれど、最近は、本当に様々な話をする。
自己開示というと、何だか大仰だけど、その多くは、まあ何というか、世間話ですね(笑)。
 
それは大概、あたくしの話から派生した、何気ない脱線のようにして始まる。
そういうのが楽しい時もあれば、いやむしろこっちは喋りたいことではち切れそうで、話の流れがドンドン明後日の方向に行ってしまい、不覚にもイラッとしてしまったことがある。
で、ある時、「先生の話は置いておいてですね」と話を遮って、自分の不平不満の話に強引に戻して喋りまくったことがある。
 
この時間はあたくしはお金を払って設けた時間なのだから、当然、あたくしが喋くる時間なのよ、と思っていたとフシがある。
でも、今思えば、それはちょっと違うような気がする。
どんな形であれ、自己洞察を深める会話がなされれば、結果、それは良いカウンセリングの時間なのだ。
自分だって、先生には愚痴聞き以外のものをお求めしているのだ。
 
帰ってから、あの先生の超個人的な語りが、どこかひっかかる。とても気になる。
「あの話は何のためにしたのだろう?」まさか、先生が根っからのお喋り好きでカウンセリングの場であることを忘れて自分のことを喋りまくるハズはないのだ、
何か意図があるのだ、計算されている話なのだ、さあて何だろう…?と考えた。
もちろん、まさか先生があたくしの先生への興味を満たすために話しているとは思えない(笑)。
 
 
 
その次の週の面接で、あたくしはその際のことを正直に先生にお伝えした。
「あの、わたし、先週、先生の話を途中で遮っちゃったでしょう? あれが、後でナゼだか分からないけれど、気になって」
「あ、そう? それは良い傾向だね」と先生は非常に満足そうなお顔で、ニコリとする。
ほら、やっぱり、作戦なんだ。
それでもあたくしには、何が“良い傾向”なのかはちっとも分からない。
そうして、その日の面接は、前回あたくしが遮った先生のお話の続きから始まったのだ。
 
でもちょっと奇妙でしょ? そもそも先生の方はあたくしの話をよく遮ってくれる!(笑)
貴重な50分間を有益な時間にするための交通整理だ。
「そんな話、しなくていいよ」とか「そんなの考えてもしょうがないでしょう?」とか「それはさぁ、終わった過去の話だよ?」とか「そっから先は考えなくていいよ」とか「まだ、心の準備ができてないなら言わなくていいよ」とかね。
これらの言葉だけを取り上げたら、もし互いの信頼関係がなかったら、ちょっと冷たい言葉に感じることもございましょう?
でも、それらにも恐らく、ちゃんと意味があるのだ。
 
そうして、最近やっと…というか、ある日突然にフト気が付いた。
先生が何気なく繰り出す世間話は、もちろん嘘偽りのない先生のこれまでの経験や最近感じた率直な気持ちを話しているに違いない。
でもそれは、現在のあたくしが意識から追いやっている、遠い昔の記憶や、抑圧している気持ち、消え入りそうな希望にことごとくリンクしているのだ。
先生は、先生の個人的なお話という形を取った、あたくしの話をしているのだ!
そりゃ、後から気になりだすハズだよね。参りました。
 
 
 
それで、もうすでに、カウンセラーの先生とそのことを話したくてしょうがないのに、今回は、先生のスケジュールの関係で、一週間ほど余計に次のカウンセリングとの間隔が空いてしまったのだ。
日程を決める時には、少しくらい余分に間隔が空いても、最近は調子が良いので全く大丈夫だと思っていたのだ。
でも、それは気のせいで、正直全然ダメな感じ(笑)。
ずっと約2週間おきに面接を重ねてきて、すでに自分の中にリズムが定着しているのだ。
 
話したところで、先生は「そんなこと僕は少しも意図してない。あなたはいつも考えすぎなんだから!」と、笑うかもしれない。
先生には何を言っても一笑に付されてしまう。
あたくしが真剣に怒りながら喋っていても「真剣に怒っている感じが、生き生きとしてていい!」とか笑う。
こんなに笑うカウンセラーは想定外だったので、最初は正直、そのことにビックリしていた。
そうして、意図しない自分の言動で人に笑われることに慣れていなかったので、バカにされてるようで、いちいち防衛本能を発動していた。
 
先生が不意に笑い出しても、最近はやっとこさ驚きも防衛本能も出なくなった。
どうやらバカにはされていないようだ、とやっとあたくしは心の底から理解できたらしい。
 
目の前の人が微笑んでいて、自分も微笑み返していて、そこに温かい何かが広がるような感じ。
もちろん初めてではないのだけれど、随分と久しぶりに感じる、それはそれは懐かしい感覚だ。
 
もしかしたら、先生の他愛もない世間話は、その瞬間を生み出すためだけにしているのかもしれない。