心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

「オープンダイアローグ」というやり方。

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お薬無しで統合失調症の急性期に対処する方法。

「オープンダイアローグ」という言葉は、昨年の今頃、傾聴ボランティア講座でご一緒させていただいた女性から始めて聞いた。
精神保健福祉士でもある彼女が「今、学びたい技術」だと言っていた。
 
何でも、フィンランドでは統合失調症の急性期のケアとして、画期的な効果を上げている治療法だそうだ。
「オープンダイアローグ」…直訳すると「開かれた対話」ということか?
「そう、対話そのものが治療になる方法。薬も随分減らせるらしいの」
 
それ聞いた時、嘘だあ〜と思いました。
以前、統合失調症の方とお仕事してたことがあるけど、彼らの治療がどんなに難しくデリケートなことか、少しは知っている。
話すだけで治ったら苦労はないのだ。
その時は、スピリチュアルな代替医療かしら?、くらいに思っていた。
うつや神経症に対してもそうだけど、人の弱みに付け込むインチキスピリチュアルは結構、多い。
 
ただ、教えてくれた女性の雰囲気が、そうした軽薄感とは無縁だったこともあり、その後もなんとなく気になった。
そこで、図書館で関連図書を借りて読んでみた。
 
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環
 
結論から申しますと、エビデンスのある極めて真面目な療法でした。疑ってゴメン。
 
とはいえ、著者である斎藤先生(精神科医・筑波大教授)も、「最初はニセ科学か、うさんくさい代替医療だと思った」と序文で書いていたくらい、それはそれは不思議な療法だ。
何しろ、精神科医は投薬でもって統合失調症の治療にあたる立場だから、非常に困惑しただろう。

本当にただ対話するだけの「オープンダイアローグ」。

1980年代、フィンランドの西ラップランドのとある病院での試みから「オープンダイアローグ」は生まれたそうだ。
 
方法はいたってシンプル。
患者かその家族が相談依頼の電話をする→受けた担当者が医療専門職(医師・看護師・心理士)による治療者チーム(2名以上)を編成→24時間以内に患者とその家族や友人を交え、自宅において初回ミーティングを行う→急性期を脱するまで同じメンバーでミーティングを重ねる。
 
そしてミーティング…って、イメージが湧きにくいかもしれない。
結局、グループカウンセリングみたいなもの? と思うかもしれない。
 
でも、カウンセリングとは大きく違う点がある。
それは「問題解決を目的にしない」こと。
 
とりあえず、患者に話してもらう。ここでの傾聴の姿勢はとても重要だ。
治療スタッフは、決して「それは妄想なんだって!」などと患者の言っていることを否定したり、病識を持たせようと説得しない。
「へえ、それは私は感じたことがないので、その辺を詳しく教えてください」と聞いたりする。
(通常、妄想について詳しく聞くことは、患者の妄想を助長する恐れがあるのでタブーらしい)
また、参加している家族や友人にも患者とも自由に話してもらう。
急性期の妄想や混乱、恐怖など、まだ言葉にできていない恐怖を患者に言語化してもらうことが大切で、体験を共有し、ただひたすら患者の気持ちに寄り添おうとするのだ。
 
こうして、ひとしきり患者とその周囲の人に話してもらった後で、それまで聞き役に徹していた治療チームが今度は対話を始める。
手法的には「リフレクティング」というそうだ。
あえて患者や家族の前で治療者同士の感想や意見を聞かせることで、これが患者に安心感をもたらす効果がある。
まず、患者の非常に個人的な視点に、客観的な視点を持ち込むことができ、そうして、影で患者に関して話し合ったり、大切なことを勝手に決めちゃったりしないよ、と患者の信頼感を得ることができる。
 
そうして、この治療者チームは、ケースを持ち帰って別の場所で何かを決めることは「本当に」しないらしい。
治療者が2人以上いるので、意見が違う場面もあるけれど、違ったとしてももちろん構わない。ただ、確認し合うだけ。
例えば医師と看護師であっても上下関係はなく、対等な立場で会話を行うそう。
対話においてもファシリテーター的な役も作らない。
 
1回につき1時間半程度、これを患者の急性期が過ぎるまで繰り返す(長くて10日程度)のが治療の全て、…だそうです。
 
何かを変えたり、どこかに導くための対話ではなく、あくまでも対話そのものの癒し効果を体感するために対話を行うのが「オープンダイアローグ」というやり方なのだ。
 
「まるでジャズのアドリブのようだ」と著者はこの治療を例えていました。
一見、流れに任せているだけに見えるけど、実は職人芸ってやつかな。

ただし「何処でも誰にでも」になるには課題が山積かも。

現在フィンランドでは、希望すればだれでも無料でこの治療を受けることができるそうだ。
随分贅沢な治療に思えるのだけど、従来の薬物メインの治療に比べて、入院期間の短縮や減薬効果が期待できるので、仮に有料であったとしても、これまでの治療よりは安価に済むらしい。
いいことづくめのようだけど、そもそも、フィンランドメンタルヘルス・システムはかなり保守的で、意外なことに、この国ですら「オープンダイアローグ」に抵抗感を示す人は少なくないらしい。
統合失調症の治療における減薬はそれだけリスキーだと考えられている現状があるし、田舎の小さなコミュニティ(西ラップランド地方)で成功した方法が都市部でも実現可能か?という点でも、なかなか難しいみたい。
 
この方法は、全員が集う必要がありますからね。
現実問題として、家族が参加したがらない例もあるそうです。
それに治療スタッフ側でも、それまでは積極的に介入して問題解決をしてきたのに、「ただ対話する」っていうのに抵抗を感じる人もいるらしい。
そういうわけで、現時点ではまだ模索する余地のある療法、進化途中の療法なのかもしれないですね。
 
この方法、治療対象は統合失調症に限らず、うつ病PTSD家庭内暴力などの治療例もあるらしい。
へぇ〜。可能であれば、あたくしはちょっと試してみたいと思う。
家で連日ミーティング…っていうのは、疲れるような気もするけど、誰にも批判されずに自分の体験を語れたら、それだけで少し楽になりそうだ。
 
著者の斎藤先生は、日本ではこの方法をまず、ひきこもりや家庭内暴力の治療法に試みることを考えているそうだ。
やはり医師として、いきなり統合失調症の治療に実施するのは抵抗があるのだろうか。
 
統合失調症罹患率は100人に1人と言われているから、患者さんはたくさんいるのだけれど。
そうして、統合失調症の患者さんにもうつ病の患者同様、薬物に抵抗感の強い人も少なくない。
だから、「オープンダイアローグ」のような薬物以外の治療法が選択肢の一つになるのはいいではないかしら、と思う。
いきなり断薬して、悪化させる方もいらっしゃるので、こうした心理療法が救いになる人もいるのでは、と。
 
しかし、これが日本で実現されるのはなかなか難しそうだ。
エビデンスがそこそこある療法も日本ではなかなか保険適応にならない。
カウンセリングすらなかなか保険適応で受けられないのは、原則的にそれが医師による行為でなければならないから、らしい。
臨床心理士はそこそこ取得が困難なのに、諸所の事情で国家資格ではない)
 
もう少ししたら、やっと日本に国家資格を持った心理士が登場する。そうしたら、もう少し色々な心理療法が保険適応で利用できる日が来るかもしれない。
積極的に心理療法をオススメする病院すら出てくるかもしれない。病院経営も大変だからね。
 
話は外れるけれど、今、我が母は、足の手術後で入院している。
医師には1週間に1度会うか会わないかくらいなんだけど、リハビリは毎日2回、1回1時間、理学療法士さんがつきっきりでお世話してくれる。
もちろん保険適応で。
 
歩けるようになろうと思って手術したのに、十分なリハビリがなかったために余計に悪化させてしまうこともあるらしいので、篤いリハビリをしてくれる病院は大人気だ。
 
こういうのを見てると、足のようにリアルに扱える部分のケアと、ココロという捉えどころのない部分のケアの、普及度合いの差を感じるんだよなぁ。
 
オープンダイアローグとは何か

オープンダイアローグとは何か

 

著者の文章は平易で、言葉が人を癒す仕組みに関しての説明もあり、コンパクトにまとまっています。専門用語には索引が付いているので、門外漢でも何とか付いていける内容。統合失調症の妄想は全くの突飛な内容なのではなく、それなりの理由があることなんかも理解できました。良い本だと思います。

怒る老人になるのが怖ければ瞑想をやるがよい。

f:id:spica-suzuhazu:20170928205919j:plain夫の母親が軽度の認知症っぽいらしい。

もうすぐ80歳に届く年齢だからしょうがないかもしれない。
しょうがないんだけど、義母はボケ防止に良い食材を摂ったりとイロイロ気をつかっていたので、ちょっと残念だ。
 
認知症の症状には様々なものがあるけど、義母は怒るタイプのようだ。
 
少し前、あたくしがお会いした時は穏やかで、少々話がクドイ?って程度だったのだけど、どうやら近隣住民には喧嘩を売っちゃったりしたらしい。
そのネタも「昔、井戸を使わせてやった恩を忘れ…」的な随分と前のこと。
当人にとっては筋が通っているかもしれないが、相手にしてみたら軽くイチャモンだ(笑)。
しかも、自分が言ったことは忘れちゃうので、当人は「最近あの人、来ないわね」と思っているみたいなのが寂しい。
 
義母が何を恐れてココナツオイルを舐めていたのかは分からないけれど、認知症への恐怖の一つに「歯止めを失って、感情がむき出しなってしまうこと」があると思う。
 
感情の爆発が抑えられなくなってしまうのは「前頭葉」の働きが弱った結果らしい。
いくら表面上は穏やかさを保てても、心の中は怒りやわだかまりでいっぱいだったら、何かの弾みでタガが外れることを不安に思うのも無理はない。
もともと義母は、穏やかで、朗らかで、社交的な人だったけど、きっと少し無理をしていたのだろうな。
怒りも、執着も、人には見せたくないと必死に隠してきたその人の一部なのだろうから。
 
しかし、「前頭葉」による感情のブレーキが弱くなるのは、認知症だけじゃないのである。
意外に思う方もいるかもしれないが、うつにはキレれやすくなる傾向がある。抗うつ薬も副作用でキレやすくなることがある。
そしてトラウマを持つ人も、常に交感神経がピリピリしてて、これまたキレやすくなる。
あたくし自身、ここ10年は、自分でも予想外のところでキレていた。友人を無くしたこともある。
怒ったこと自体は間違っていない時も、怒り方が悪い。それはもう、ものすごい嫌悪感だ。
今、この時点で制御しがたい怒りは、加齢とともにますます暴走するのでは? とあたしは密かに恐れた。
 
 
 
自己啓発本などを読んで、理屈で怒りの爆発を封じ込めようと試みたものの、ことごとく失敗。
これが、昨年末頃からだいぶマシになった。
 
それはきっと、瞑想のおかげ♪
 
煩悩滅却みたいな難しい言い方ありますけど、平たく言うと瞑想は「反応を止める練習」です。
それまでは「外にある原因が怒らせる」と思っているわけですが、これを「外に原因があっても怒らない」を目指すのです。
これだと、怒り自体の総量が減るので、頑張って怒りを抑える力を努力をしなくても、多少「前頭葉」の働きが弱っても大丈夫そう(笑)♪
 
しかし、瞑想は実践が難しい…とにかく目を閉じて座ってるだけなんで、集中しろと言われても様々な想いがどめどもなく湧き出てきて嫌になります。
怒りん坊な人なら、瞑想中、次々と怒りが出てきてビックリするでしょう。
人間って放っておく、今現在、何の問題もなくても、過去のわだかまりを蒸し返してまで怒る生き物なんですよ。
 
幸いなことに瞑想は、新たな怒りを溜め込むのを防いでくれるだけでなく、過去の怒りも処理できるらしいので(ホントか?)、今からやっておけば年取ってから昔の出来事を持ち出して怒る…ってのは避けられるんじゃないかと期待してます。
 
「ここぞという時に怒らないなんて、それ、負けなんじゃない?」とか思いがちなんですけど、そういうのも瞑想では「考え方の悪い癖」と捉えます。
全く怒らない人を目指しても達成できるハズもないので、俗世界の人の目標としては、冷静さを失わずに怒れるようになるのことかな?
 
とにかく、怒りが減ることで自分が楽になるのが目的です。
 
 
 
話は戻り、あたかも人が変わってしまったように見えるので、認知症には悲しい話が多いのだけれども、その中で、昔、職場の上司からこんな印象深い話を聞いたことがある。
 
認知症になった父親を引き取って、昼間は奥さんが面倒見ているんだけど、
おやじの頭の中は、若い頃、書生だった頃に戻っちゃったみたいで、俺の奥さんのこと、下宿先のおかみさんだと思ってるんだよ。
だから、奥さんが庭を掃こうとした時に、「あ、自分がやりますよ!」と嬉々として庭掃除したり、
重いものも率先して運ぼうとするらしい。
そんで、俺のことは、下宿先のオヤジだと思ってるんだよ。
俺が帰ると、なんだか畏まって、俺に気を使ったりしてるんだよ。
ああいうの、見てると辛い。俺が分からないなんて寂しいよ。

 

きっと、息子の立場から考えたら、父親のそんな姿を見るのは辛いだろう。
でも、何だかそれは美しい話に思えた。
 
きっとそれは、そのお父さんにとって書生だった時間が楽しい時間だったんだな、と感じられるからだと思う。
自分が一番幸せな時間に固定されるとしたら、最後の時間の過ごし方として悪くはないような気がする。
そりゃあ、周りは大変だろうし、きれいごとだけでは済まされないだろうけど。
 
自分が帰りたい、永遠にリピートしてもいい時間って、いつだろう?
そもそもそんな記憶を持っているかしら? と考えた。
 
そういうわけで、ボケを心配するより、ボケても平気な清らかな心を目指してみるのってどうでしょうか?

カウンセラーに分かってもらうのが難しい気持ち。

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先日のこと、約10ヶ月に渡って月1〜2回通っていたカウンセリングのお勉強がひとまず終了した。
あとは、年明けに試験があるので、各自お勉強となる。
 
最終日なので、各自のカウンセラーとしての目標や理想を語り合う時間が設けられた。
このクラスは企業の中間管理職の方が多く、公共の福祉にも興味を持つ「意識高い系」な人々が集まっていた。
彼らのキラキラとした夢を聞きながら、クラスでただひとり、無職かつメンタルの病気療養中の自分は感心するばかり…。
 
自分はそんな壮大な夢はとても語れないので、自分のカウンセリング修行のきっかけ、週一で半年間、全24回で中断したカウンセリングの経験を告白してみた。
自分のような失敗をする人を減らしたいという思いを込めてね。
 
カウンセラーが守秘義務を約束したとしても、カウンセリングで自分の弱みや黒い負の感情を語ることは、クライエントにとってはとても勇気がいることだ。
いまいち効果が感じられないままに続けば不安は募るし、その停滞感に耐えられずにカウンセリングが中断という形で終わった時にはどんなにかガッカリして、さらに自信を失うことか。
…あたくしは、そういう気持ちを分かっているカウンセラーになりたいと。
 
まあ、語ってみて改めて、あたくしのお喋りレベルは小・中学生並みだと気付いた(笑)。
だけど、少しは伝わっただろうか?
彼らの中には「自分はクライエントの立場にはならないだろう」と思っている人たちもいるので、だからこそ、自分のような体験や気持ちを知ってもらいたい気はする。
 
 
 
後ほど皆様のご意見ご感想を伺うことができた。
どうです? 分かってくれましたか?
 
そうしたら、ほぼ全員一致の感想が「24回は長過ぎる!」でした。
担当講師も同意見で、「自分の場合は長くても平均8回くらいで終結する」と言っていた。
「現代は忙しいから、そんな悠長にやってられない」ですと。
「よく24回もやったねぇ〜?」と言われましたよ(笑)。
 
講座で教えていただいた方法は産業場面でのカウンセリングだから精神医療面のそれとは少し捉え方が異なるかもしれないけれど、同じ話が繰り返されたり、クライエントの意識に全く変化が見られないような停滞した面接が続くのは、カウンセラーの力不足と判断される。
では、当時の臨床心理士さんは、下手くそだったんだろうか?
正直、クライエントの立場であったあたくしは、やはり技術不足な人だったと思っているのだが、この点においては、クラスメイトの判断は慎重だ。
 
身内に臨床心理士さんを持つ精神医療の知識を持つクラスメイトが「そのカウンセラーは長期療法が専門だったのかもしれない」という意見を出す。
なるほど、長期療法ですか!…そういう考えもあるのねぇ。
なれば、クライエント側としては他の身体の部分の治療と同様、予め、どれくらいの期間を想定していて、使う療法は何なのか確認する必要がありそうですね。
 
そんなわけで皆様の忌憚のないご意見を拝聴できて大変参考になりましたが、あたくしが一番伝えたかったことが分かってもらえたかは微妙。
その場の全体的な結論としては、
「そのカウンセラーは凄くいい勉強ができたに違いない」ってことでまとまってましたね!
やはり全員カウンセラー(の卵)だと、カウンセラー目線の話になってしまうらしい(笑)。
「24回も、いや〜(そのカウンセラーが)羨ましい」みたいな。
どうやらあたくしの失敗体験は、そのカウンセラーの芸の肥やしとなってしまったらしい。
カウンセラー側としては、カウンセリングに失敗したクライエントの悲しみや辛さや恥辱の念に寄り添うよりも、やはりカウンセラーにとって良い経験だったとかそういう方向に思考が行ってしまうものなのだ(涙目)。
 
 
 
 
…そういうワケで、やはり何となくクライエントとカウンセラーの間には意識のズレは否めないのだなあと再確認。
 
カウンセラー側としては、すでにカウンセリングルームで対面しているクライエントが、カウンセリングの効果を疑っているとは考えてないのかもしれない。
クライエントの中には、半信半疑だけど藁をも掴む思いで来ている人とか、本人は気が進まないけど家族や上司に勧められた人なんかもいるのにね。
 
ただ一つ、効果が感じられないカウンセリングをいつ見切るかどうかってのは、あくまでもクライエント側の問題なのだなあと深く理解しましたよ。
 
もちろん、いきなり「止めます」ではなく、まずは「どうも、効果が感じられない」というのをカウンセラーに正直に伝えてみることが前提ではあります。
自分もそういう段階を踏んでから中断と相成ったのですが、そもそもトラウマ治療のために時間を割いてカウンセリングルームに足を運んでいるのに、「この時間意味ある?」って話を、あたくしのお金を使って話し合う羽目になってしまったワケで、もう、その時点である意味、カウンセリングは終わっていたような気がします…。
 
メンタルダウンしている人にとって決断するのはとても難しいことなんですけど、自分にとって有益ではない時間、居心地の悪い時間は自分で減らしていく勇気と努力が必要、っていう話になるのかな? 今日の話は…。
 
 
 
※余談
ちなみに、現在お世話になっているカウンセラーの先生は、
「 “このカウンセリング、何の意味があるワケ?”とかは、クライエントに言われ慣れてるよ! あはは!」って仰ってましたね。
 
この先生の場合、意図的に予定調和を崩すような会話を時々しかけて、「カウンセリングの進め方、これで良い?」とよく確認してきます。
「怒らないから何でも言ってね」のサインを随所で出してくるといいますか。
あたくしは現在のカウンセラーに対しては不満や要望を特に感じていないけれど、こういうのは有難い。
 
早期に信頼関係が構築されて、クライエントがカウンセラーに不満や疑問を率直に伝えられるような雰囲気作りができれば、随時修正されながら面接自体は継続される…ということでしょうか。
自分のカウンセリングに対する意見を聞いておいて不愉快になっちゃったらお終いでしょうから、やはり、カウンセラー側の精神面のタフさは必要でしょうけどね。

「もらい上手になる」というミッション。

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ある日のこと、カウンセラーの先生からの指摘。
「あなたの話に頻出する、自虐的な表現が気になるんだよね」
ふむ、痛いところを突きますね。
たしかに昔からあたくしにはそうした思考の癖があります。
そうしてそれは事件後さらに顕著になりました。
 
例えば、外形にせよ内面にせよ少しでも褒められたとしましょうや。
そんな時は「いやいや、そんな立派なもんじゃあござんせん!」と激しく否定。
そして「なんという褒め上手な方なんでしょう!」と思う。
「何か思うところがあって持ち上げているのでは?」と疑う。
相手が率直な気持ちを語っているかもしれない可能性はハナから否定しているのだ。
 
そこで、人の好意は素直に受け取るように…
すなわち「もらい上手になりなさい」とご指導賜ったのだ。
 
無条件に受け取るのよ? これが難しい!
 
しかも、褒め言葉ならまだ素直に受け取れるかもしれないが、あたくしには他にもっと困難な場面がある。
 
「大丈夫?」「あなたのことが心配」みたいに心配されると、無性に腹が立つのだ。
それが善意から出ている言葉だとどうしても実感できない。
マウンティングの一種くらいに思っているから、反射的に「上から目線でムカつく」と感じてしまう。
そうして最大の問題は、本当に困っていたとしても、弱みを見せることの恐怖の方が強くて激しく否定してしまうことだ。
「大丈夫です」「大きなお世話です」「あたくしのことより自分の心配しなさいよ」
どうしても素直に「ありがとう」と言えない。「放っておいておくれ」になっちゃう。
 
 
 
現在の先生との初回のカウンセリングでも、自分の症状を説明しながら、ついつい「いや、とはいえ、働かなくても今は何とか暮らしていけるから、気楽なもんです。あはは」と言ってしまった。
即座に「気楽じゃないでしょう?」と返され、あまりにも鋭い指摘に、うっかりジワっと来た記憶がある。
 
この、決して安くはないカウンセリングに足を運んでおきながら「気楽な自分」を醸し出そうと無意識に四苦八苦している自分って、どんだけプライドが高いのでしょう? 素直じゃないんでしょう? 
思えばこんなあたくしの複雑さを、先生は最初からお見通しだったんだわ。
 
「もらい上手になりなさい」は、実は幾度も再確認されるミッションである。
先生にしてみれば、「全然進歩してないじゃあないの? あ〜た?」と言いたところだろう。
 
しかし、難しいものは難しい。
激しい劣等感と、素直に求めるのが苦手な思考の癖が、なぜここまでこじれてしまったのかは自分には分からない。
 
 
 
そんなある日、カウンセリングのお勉強の帰りのこと、とある学友とお茶することになった。
誘ってくれたのは相手の方だったのだけど、なんとなく話の流れから、あたくしの現在のカウンセリングの話になった。
彼女は自称「あたしはカウンセリングとは無縁」=クライエントにはならない派の人なので、あたくしの陽性転移やフォーカシングでの不思議な体験などを、「うそ、信じられない!」と面白おかしく聞いていた。
しかし、次第に真顔になり、最後には「大丈夫?」と聞いてきた。
 
心から「大丈夫?」という顔だった。
 
悪い人に洗脳されて搾取されている、くらいは思っている感じだった。←実際にそうだったらどうしましょう?(笑)
 
その時にも、「あたくしを愚かな人間だと思っているのですね?」とか、少しムッときたんだけど、先生の顔と言葉を思い出して実践してみた。
 
「心配してくれて、ありがとう〜」
 
そうしたら、本当はどうだか知らないよ? 相手は本当に心からあたくしを「バカだな〜〜〜」って思ってるのかもしれないよ?
だけど、何だか、心がホッコリして、何だか今までよりも相手のことを心理的に近くて好ましい人のように感じられた。
何より、自分が楽になったのだ。
これは不思議な心の動きだ。相手は1ミリも変わっていないというのに…。
 
最初「もらい上手になる」ってミッションは、あたくしのトラウマ治療に何の関係があるんだろう?って思ってた。
先生はあたくしの困難について、親がこうだったからとか、あんな目にあったからとか、一言も分析しない。
ただ「もらい上手になりなさい」「自分の中の嫌な感情を認めなさい」と言うばかり。
今は、何となくそれらの関連性が分からないでもない。
あたくしの読みは合っているのか、「もらい上手」レッスンはこんな方向性でいいのか、今度、先生に確認してみよう。

怒りにまかせて出た自分の言葉にビックリした件。

f:id:spica-suzuhazu:20170915133726j:plain母が足首の手術をするというので、ふたたび実家に。
内視鏡の技術が進み、術後の傷跡を見ると1センチほどの縫合跡が6箇所ほどあるばかり。
手術の次の日から早速リハビリ。
若くイケメンの理学療法士さんにリードされて筋トレする母は楽しそうでもある 。母の件はひと安心。あとは、この先3ヶ月ほど一人暮らしになる父のこと。 
 
…ではあったのですが、意外に一人暮らしをエンジョイしていて楽しそう。
家事もソツなくこなしているので、大丈夫かなそろそろ帰ろうかしらと思っているところで、些細なことから大喧嘩。 
 
きっかけは、とてもつまらないこと。ホントにどうでもいいこと。 
父がキレた要点は「オレの話に意見するな!」であり、
あたくしがキレた要点は「人の意見を聞け!」であるから、
見事に噛み合って、怒りの炎はものすごく燃え上がった。 
 
そうして言い合いしているうちに、勢いであたくしの口から出た言葉。
「そういうところが、ばーちゃんにそっくりで、ホントにイヤ!」…である。 
 
言ってる自分がまずビックリしちゃった。何、何? この場にばーちゃん関係ないじゃん。何で出てくるの? 
 
 
 
しかし、あたくしがばーちゃんが嫌いなのは本当だ。父方の祖母が亡くなって7年ほど経つが、今でも本当に嫌い。 
 
祖母は自分のデリケートさを怒りで武装するような人だった。
一時期は同居していたけれど、祖母は自分の思い通りにならないと、恫喝し、号泣し、ハンストし、引き篭もりし、あらゆる手を使って不満を表現する人だった。
痴呆が入ると、その理不尽さはエスカレートした。
自宅で転倒して骨折したのがきっかけで入院生活となり、そのまま家に帰ることなく数年後、病院で亡くなった。
その間、プライドが高い祖母は、自分が転倒したことが許せず、なぜか家族と一切会話をしなくなった。
最後の怒りは、沈黙だったのだ。 
 
ひとたび機嫌をそこねるとやっかいな人、それがばーちゃんだったのだが、そのばーちゃんが、父の中にいる。
そして、自分の中にもいる。それがまた、たまらなく嫌。 
 
祖母、父、あたくしは骨格も似ている。
夜、トイレで起きて暗い洗面所に移った自分の顔にギョッとすることがある。
「ばーちゃんにそっくり!」 
 
あたくしは、自分の中にもあるばーちゃんの凶暴さに嫌悪し、怯えているのだ。自分の「恫喝怖い」も、恐らく、このばーちゃんが絡んでいる。   
 
 
 
…ということで、今回のカウンセリングでは、このばーちゃんへの嫌悪感を何とかしようと思ったのである。 
「先生、このばーちゃんへの嫌悪感、棒にして海に置いてきちゃいたいんですけど」と、単刀直入に言いますと、今日の先生は「じゃあ、それやりましょうか」とは即答しない。 
 
「自分の中の嫌な部分から目をそらしちゃダメですよ」と。
 
 もっとも、カウンセラーの先生の考えでは「怒りは、感じることも表現することも、ちっとも悪くない」のだ。
これは分からないでもないが、自身のものとして捉えるのは難しい。先日の喧嘩を蒸し返してあたくしが怒っている様子を見ても「イキイキとしていてイイ表情だね」と笑って見てる。 
 
「80歳すぎて喧嘩できるあなたのお父さんは、エネルギーに満ち溢れて、若々しいじゃないですか?」 
 
祖母の中にあったエネルギーは父の中にも流れてる。そして、あたくしの中にも流れている。それは、押さえつけたり、無視したりしない。
流れを止めない。ただ洗練させていけばいいのだと。 
 
洗練かぁ〜 む、難しい。しかし、このあたりが自分の不安神経症的な症状改善の鍵なのだろう。
 
 事件の後から、あたくしは怒りを感じる時、そのまま怒りを表現すれば何か良くないことが起きるような不安に駆られようになった。
そうして怒りを抑え込むのだけど、怒りは無くなったわけじゃないので、どこかで主張をしようとする。
なにしろ自分の中には、あの荒々しいばーちゃんの遺伝子がある。 
 
「怒っても何も起きないからさぁ、怒ってみればいいんだよ」と、先生は言う。
いや無理。今は怒りの制御ができそうにない。 
 
…そういうことで、怒りの表現の学び直しが今後のあたくしのミッションになりそうです。 
 
先生は家族エピソードが大好きみたいで、カウセリングでこうした話をすると、とても心地好さそうな表情をする。
まるで他人の思い出を自分の思い出として味わっているように。
そうだね。高齢の親とガチで口喧嘩できるのは、幸せなエピソードなのだと思う。 
 
そうして、非常に苦労して育ててくれた自分の母親を「嫌い」と言った娘の発言に、父は傷ついただろうか?などと、思い返してみて少し心が痛んだ。
 
「80歳にもなって本気になって怒るお父さん、面白くないですか?」と先生は言うのだが…全然面白くない! まだ、その域に達してない! 

陽性転移その後…先生、お気に入りのタオルケットと化す。

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3〜4歳の頃、お気に入りのタオルケットがあった。厳密に言うとバスタオルだ。
赤ちゃんの頃からそれはいつも自分を包んでくれていたので、物心付いた頃には相当馴染んで、それはまるで自分の一部のようになっていた。
あたくしは、それを激しく愛した。
 
愛するあまり、角っちょをクチャクチャ齧り、まるで犬のように、そのまま眠ったりした。
齧ったところからタオルはほつれて、少しずつ失われた。
よだれまみれで汚いからと母が洗濯すると、タオルはまた少し失われ、日に当たってゴワ付いたそれを元に戻すべく、またも齧って執着した。
そのうち、成長に従って、手足を曲げないとそのタオルケットに包まれることが難しくなり、物理的にもタオルは少しずつ失われ、小さくなった。
 
そのタオルケットといつお別れしたのか覚えていない。
くたびれきってすでに自分を包み込むことが難しくなったタオルケットに一生懸命手足を縮こませようとしていたときの、「もうちょっとだけ」な気持ちだけが残ってる。
 
懐かしい。40ウン年振りに思い出しました。自分のお気に入りのタオルケット。
しかし、問題は、思い出したタイミングである。
 
 
 
ある日のカウンセリングの終わり際、カウンセラーの先生はこうおっしゃった。
「この時間、役に立ってます?」
 
これまでこうした場でフィードバックを求められるのは想定外だったので、言葉の持ち合わせがなかった。
瞬時に様々な考えや憶測が次々と浮かんだのだけど、一番無難なコメントを残してその日は退出した。
「役に立っていると思います」
いや、そうでしょ? 当然でしょ? そうでなかったら来ないし。
 
しかし、具体的に「前はこうだったけど、カウンセラーに通いだした今はこんな感じに良いです」みたいな言葉がどうしても出てこない。
 
だって実際に考えていたことは、こうなの。
「役に立っているか分からない」「役に立っていないかも」って言ったら→先生が悲しむ。困る。腹を立てる→面接辞めたら?ってなるよね…。
 
相手の気持ちばかり深読みして、全然自分の気持ちに焦点が合ってない。
自分がどう考えているかを正直に話すより、相手が気を悪くしない言葉を選ぼうとする臆病者。
カウンセリングというこんな安全な空間を作っても、自分は本心を言うことが難しい。
 
そうやって、嫌悪感に包まれ、自宅でモヤモヤとそして少々メソメソと考えている時に、「タオルケットの思い出」が降臨したのある。
 
最初は、何で何で?と思っていたけれど、次第に合点が行きましたよ。そういうことなのですね。
自分の不安を自覚したあたくしは、それから数日、思い出しては涙した。
 
 
 
自分の一部が傷ついたために、ものすごく疑り深くなっていることは自覚してる。
常に「本当に安全なのか?」と疑ってばかりなので、常に身体はいつも緊張している。
そこから回復するには、仮にでも誰かを信じる体験が必要なのだろう。
 
「要するに今は、このカウンセリングの時間が幼少時のお気に入りのタオルケットなんですよ」
あまりにも浅はかでド素人な分析だが、思っていることを正直にカウンセラーの前で披露した。
 
「そうして始末の悪いことに、今はもう少し包まれていたい気持ちなので、このタオルケットを失うのが不安で不安でたまらないんです」
 
カウンセリングを受けたのは、とっとと恐怖心を克服して働きたかったからなのに。
5ヶ月のカウンセリングで出てきた自分の本心が、まだこうしてたい…って …不覚ではある。
 
「先生〜、このカウンセリングの時間=お気に入りのタオルケット、ですよ? 気持ち悪くないですか?」
あたくしの本心は、ずっとこの時間を齧り倒していたい気持ちなのだ。
この幼児的な執着と根本にある「見捨てられ不安」を正直に他人に語るのは、おばさんには勇気がいる。
 
「いいんじゃない? 実際にボクが齧られるわけじゃないし」
そう、先生はプロだから怯まない。それより、心から人の本音を聞くのが満足そうな顔をしていらっしゃる。
そうして先生は、あたくしがどんな汚ならしい思い出やブラックな腹の内をさらけ出しても、決して先生からドン引きして面接を中断することはないからご安心を、と言ってくれた。
「聞いてて辛い話だったら、“辛いから、ちょっと待って”って言うかもしれないけれど」
カウンセラーは辛い話は必死に精神力で対応するのだと思い込んでいたあたくしは、その言葉に非常に安心した。
 
このトラウマ治療の最初のミッションは、「自分の中に安全基地を作る」なんだけど、一体、今はどの辺まで来ているんだろう? 思ってたより、長い。
 
とりあえず、数日続いたメソメソは、爽やかに去っていったのである。

カウンセラーの自己開示について。

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夏風邪引きました。39℃代の熱なんて久々だったなあ〜。2週間寝たきりでした。
この年齢になると「風邪だ」って言っても病院では信じてもらえず、「肺炎かも」「肝臓やられてるかも」と血液取られたり大変です。
5kg痩せたんですが、体力が落ちると自律神経の乱れも悪化するし、そうなると頭の働きも鈍くなるみたいで、まいった。
 
そういう訳で、文章がまったくまとまらなくて、この文章も3日くらい格闘している有様です。
 
で、今日のテーマは「カウンセラーの自己開示」であります。
個人的な情報、考えや感情を相手に明らかにすること、それすなわち「自己開示」。
 

カウンセラーの「自己開示」は常に小出し

カウンセリングでは、クライエント側はいつもカウンセリング側から自己開示を求められている。
カウンセラーによる「相づち」や「オウム返し」「質問」といった応答技法は、それらすべてがクライエントの自己開示を促す技術といっていい。
 
そうしてクライエントがカウンセラーのあの手この手の応答技法でこちらのアレコレを話していて、ふとこんな疑問は湧かないだろうか?
「この私の話を聞いている、目の前のカウンセラーはどんな人だろう?」と。
 
それで、時には逆にカウンセラー質問してみたりする人もいるのではないだろうか?
「結婚していますか?」とか、「今の私の話を聞いて、どう思います?」とか。
 
そうするとですね。だいたいカウンセラーは言い淀む。
加えて「なぜそんな質問をしようと思ったのですか?」と質問返しされたりする(笑)。
 
当初は内心「ケチ!」と思っていました(すいません)が、カウンセリングを少々齧った今なら分かります。
カウンセリングの世界にはどうやら「カウンセラーの自己開示は、どの程度行うべき?問題」があるらしいんですよ。
  

カウンセラーの「自己開示」は難しい

まず、カウンセラーはクライアントの心のスクリーンであるために極力「自己開示」はすべきではない、という考え方があるらしい。
 
しかし、カウンセラーが面接を重ねても真っ白なスクリーンの役を保ち続けるのは至難の技だろう。
時には、服装、視線、仕草が言葉よりも雄弁にその人を語ってしまうこともある。
カウンセラーが全く「自己開示」をしない、というのは土台無理な話なのである。
 
それに、カウンセラーの適度な「自己開示」には、良い効果もある。
心の距離感を縮めてくれるのだ。
相手がどんな人か分かったほうが、安心して「自己開示」できるとういう人もいるだろう。
 
難しいのは、それはあくまでも「自己開示」が適度な場合、ということになっていること。
過剰な自己開示によって双方の心理的距離が近くなりすぎると、カウンセリングという自己探求の場が、単なる世間話の時間になってしまう恐れがあるからだ。これだと楽しいけれど、カウンセリングの効果は期待できないので、クライエントの利益に反してしまう。
 
そうなると、どのように適度な「自己開示」を保てばいいのか? ということになる。
何しろ、カウンセラーが気をつけても、うっかり非言語で表現してしまうかもしれないし、クライエントからの質問という形で「自己開示」を求められるかもしれない。「自己開示」はコントロールが難しいのだ。
 
それじゃあ、カウンセラーは思ったこと、考えたことをフィードバックするのはクライエントの自己探求に役立つし、そういう類の「自己開示」ならいいんじゃないだろうか? という説が登場する。この場合は、個人情報に関する「自己開示」は行わない。
個人情報を聞いてくるようなクライエントには「お答えできない決まりになっている」とキッパリ言ったらいい、みたいな意見もある。
 
そういう訳で、クライエントの立場としては変な話だけど、その辺のカウンセラー側の事情を考慮し、これからはうっかりとカウンセラーに「自己開示」を求めたりしないように気をつけようとか気をつけていた訳です。
 

「自己開示」を躊躇しないカウンセラーがいた

ところが、である。
3人目のカウンセラーの先生に出会って、全くもって、自分は頭でっかちなおバカさんなんだな〜と思い知らされた。
 
今度の先生は、何だか様子が違ってて…、その辺の「自己開示」への葛藤というか、ジレンマがまるで感じられないのよ。
 
あたくしは、現在の先生には本当にいろんなことをお話したが、あたくしも先生のことをいろいろ聞いて知っている。
 
子供の頃から好きなこと、出身地、老いた親への想い、現在の家族、休日に何をしているか、過去の悲しかったこと……
他のカウンセラーなら敢えて自分から話さないような(恐らく聞いても話さない)ことを、先生は話の流れの中で、何でもさり気なく喋ってしまうのだ。
 
カウンセラーの「自己開示」はクライエントの利益を優先して小出しにするんじゃなかったのかい?
すでに先生に「陽性転移しました」宣言をしていたあたくしは、最初は 「こっちが質問した訳じゃないよ?」「これは何の作戦?」と、いちいちドギマギしていた。
 
…今はもう慣れちゃって、変な邪推は無用なんだわと理解している。
要するに、これが先生のカウンセリングのスタイルなのだ、深読みしてはいけないんだな、と。
 
お恥ずかしい話、この先生の「自己開示」のせいで、あたくしはウッカリとカウンセリングが閉じられた空間で行われる虚構の時間だということを忘れてしまうことがある。
その不思議なリアル感の中で、あたくしは自身の悔しい、恥ずかしい、悲しい想い出を語り、追体験し、毎回、安堵感に包まれて涙を流す。
それは、これまでの、暗い井戸に向かって話しているように、虚しさばかりがのこるカウンセリングとは全く違うのね。
その深さは、これまでの「自己開示」の控えめなカウンセラーとの面接では一度たりとも感じることのなかった感覚なのだ。
 
要するに…言いたいのは……、何て、カウンセリングって教科書通りに行かないんだろう、本に書いてあることと全然違うし(泣)。
そういうことになんだろうな…。
まあ、あとは、現在のカウンセラーをとても尊敬しているということだろうか?
 
とりあえず、ものすごく苦しんだけど、話がまとまったみたいだわ。じゃあ、今日はこの辺で……。