心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

ありのままを、見たい。

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今回のカウンセリングは、ちょっと前に帰省した時の出来事がテーマとなった。
 
手術後の足の回復具合が思わしくないと嘆く母の様子見に訪れたのだ。
母は、昨年の秋に手術した足の骨が、半年以上経ってもくっつかないと訴える。
確かに正月に会った時も両手の松葉杖で不自由そうだったので、それなりに心配していたのだった。
 
しかし今回、実際に会ってみると、ことのほか元気そう。
娘に会えた喜びからか、母は時に松葉杖を忘れて歩き回り、いそいそともてなしてくれる。
「足、元気じゃん…」とあたくしが言うと。
母は「本当にお前が来る前は痛くて歩けなかったんだよ?」と言う。
 
数日経ち、母の足は“本当に大丈夫そう”とホッとしたら、その反動か、その後のあたくしは怒ってばかりいた。
つまり、もう親への感情は整理し尽くしたと思い込んでいたら、もちろんそんなことはなく、いろいろな未消化な想いが沸き起こり、それが怒りとなって現れたのだ。
 
そんな不安定なあたくしを見て、母は「可哀想ね」と言った。
「すごく昔のことなのに今も悩んでて、可哀想。
 それがカウンセリングに行ったら、少しは楽になるんでしょう?」
その言葉が何だかとても冷たく感じられ、あたくしは更に怒ったのだった。
 
「ああ、楽になるさ! 早く次のカウンセリングに行きた〜い!」
あたくしは小学生のように、そう喚いたのだった。
 
 
 
あたくしは、滞在中、何だか意味もなく辛くて、夢の中にまでカウンセラーが出てくる始末だった。
それが、カウンセラーからの電話でカウンセリングをキャンセルされる…とか、ことごとく残念な内容なのだった。
 
「今日は、この怒りを処理したいのです」とあたくしはカウンセラーにお願いした。
先生は「何の怒りですか?」と問うた。
「もっと理解してもらいたい、もっと興味を持ってもらいたい、もっと尊重されたい…それが叶わない怒りです」
その怒りが大きすぎて、飲み込まれてしまうと、自分はすっかり正気を失ってしまう。それは、非常に良くないと思う。
 
「滞在中に自分は、不必要に何度も親を傷つけたのですよ」とあたくしは告白した。
「オロオロする母に、何度も何度も“娘のことが分からないのは、あなたの限界だからしょうがない!”と言ったのです」
そんなことを言うくらいなら、会いに帰らなければ良かったと後悔した。
 
でも、心の嵐に翻弄されながらも、分かったことがあるのだ。
「そういう、イマイチ自分のことを分かってくれない母親が、
 自分の本当の母親なんですよね?
 どこにもいない理想の母親と比べて、
 わたしが勝手に怒ってるだけなんですよね?」
あたくしが怒りを蒸し返して喋りまくっている様子を面白そうに眺めていた先生は、「そうだよ」と言った。
 
「そうして、自分にとっての先生は、極めて完璧に近い人ですけど、本当はそんなことないですよね?」
先生は「そうだね、僕は完璧からは程遠い人間だよ」と、笑いながら言った。
 
「あぁ、だから…」
今日の自分の言葉は、心からの叫びだ。
「その人のありのままを、見れるようになりたいんです」
 
ありのままを見る…というのは、最近流行りのマインドフルネスだな(笑)などと考えた。
こうあるはずだ、こうあって欲しい、というフィルターを外して人を見ることができたなら、自分はどれだけ無用な失望から解放されて楽になるだろう。
それだけだ。
楽になりたい。
もうファンタジーの世界から抜け出したい!
 
 
 
「じゃあ、無条件に受け入れてくれた人の体験を思い出してみて?」と先生が言った。
あ、先生、それ、前にやったやつではないですか?
「母方のおじいちゃん…」
「そうそう、それそれ、思い出して!」
してもらえなかった怒りではなく、してもらったときの充足感を思い出す。
そうして怒りでいっぱいの自分を癒してあげる。
「人は、良いことは忘れちゃって、悪いことばかり思い出す…何故かなぁ?」と先生が言う。
 
おじいちゃんにまつわる記憶というのは、ほとんどが3〜5歳のものだから、記憶の映像サンプルが限られる。
「あのう、資料に限りがあるんですけれど、繰り返し再生で良いのでしょうか?」
「いやいや、だんだん細かい部分まで思い出すよ。リアルであるほど良いんだ」
そうして、ディテールを思い出すように誘導される。
おじいちゃんはどんな人だった? どんな姿が思い浮かぶ?
縁側のサボテン、煙管、熱燗と鮪の刺身…あたくしはいろんなことを思い出した。
 
そうして先生は、今、あたくしの身体はどんな感じなのか聞いてきた。
「どんな…って、軽いです。身体を圧迫する鎧のようなものもない」
「それが、本来のあなたの感覚なんだよ?」
 
そんなやり取りを通じて、おじいちゃんのどんなところが自分に安心感を与えてくれたのか、再びしみじみと考えたのだった。
何も期待されないのって、そのままを受け入れられるって、優しいなあって。
 
「きっと、おじいちゃんがあなたにとっての母性の象徴なんだよ」
と、先生は妙なことを言った。
なるほど、あたくしの心の中のママ的な人はおじいちゃんなんだわ。
なんとややこしいことだろう。
そうして、申し訳ないけれど、先生はもう少しだけ理想のパパ役を演じててください、お願い。
 
 
 
大好きな大貫妙子の曲、『愛は幻』の歌詞にこんな一節がある。
“あなたの窓へ届く私は幻”
 
お母さんが見てる“幻のあたくし”と、あたくしが見ている“幻の母親”。
 
あたくしがギャンギャン泣き喚く自分の痛みを持て余しているように、母もあたくしを持て余している。
「“おまえの言ってることが難しくって分からない”って言うのだからしょうがないよね…?」
先生はあたくしのことを「お喋り上手」って褒めてくれたけれど、それは、あらゆる語彙を使って自分を表現し、親に理解されたかったからなんだよ。
「でも、もう諦めようと思うんです。言葉が通じないんじゃ、しょうがない」
 
「いやいや。言葉が通じなくてもね、こうして、ただ抱きかかえてあげるだけでいい」
先生はそう言って、そっと自分のお腹に手を当てて見せた。
それは、あたくしの中で泣き叫ぶ存在のあやし方のことだ。
そうしてそれは、かつての自分が扱ってもらいたかったやり方なんだ。