心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

夢分析的アプローチ。

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夢の中で泣いてしまい、その自分の泣き声で目覚めたことはあるだろうか?
幼少期…おそらく4〜5歳の頃の夢で、とても印象的なものがある。
 
子どもの夢のパターンとしてはいたってシンプルで、母親が死ぬ夢だ。
 
運動会で一等賞を取り、副賞に置き時計をもらうのだ。
昭和な時代、サイドボードの上に置いてあったような飾り時計。
それを得意になって親に見せようと観客席に戻ると、人だかりになっている。
胸騒ぎがすると、近くの人が教えてくれる。
「あなたのお母さん、ベンチの下敷きになっているよ」
見ると、コンクリートのとても頑丈そうなベンチがひっくり返っている。
この下にお母さんが?
大人の男性3人くらいでそのベンチを避けると…そこには…
殻から割り出された、生卵が… 土の上にビロ〜〜ン、と!
これがお母さんというのか! 何という姿に!
あたくしはビックリして号泣。
うわ〜〜〜〜ん!
 
…である。
こうして書くと、全くもって陳腐で怖い夢じゃないんだけれどね、自分にとっては非常に怖い。
現実の自分は、幼少期から驚くほどノロくて徒競走どころか日常生活でも後ろの方をヨチヨチ走っていたから、一等賞なんてありえないのだ。
それだからなのか、この夢には強烈に訴えてくる教訓があるのだ。
 
「おまえが楽しむと誰か死ぬ」
 
 
 
たった一度しか見ていない夢が、なぜそんなに強烈に記憶に残るのか分からない。
おそらく夢そのものより、その夢が持つメッセージに恐怖しているのだろう。
夢のことは忘れても、その夢が残した教訓は常に頭から離れない。
 
自分はいつも楽しみすぎないように気を付けてきた。
有頂天にならないように気をつけ、周囲から浮き上がらないように調和を保つ。
それは、すでに4〜5歳に生まれた感覚なのだなぁ。
 
思う存分楽しんだ時、多くの人は爽快感を得られると思うのだけれど、あたくしの場合はどこか後ろめたさを感じ、「すみません、見逃してください」となってしまう。
誰に見逃してもらいたいのか?(笑)ってのは分からない。
何か、人智のおよばぬ壮大なパワーが、楽しむ自分に怒りの雷を落とすと思い込んでしまっている。
 
この夢から導き出されるメッセージが、自分の全般性不安障害による漠然とした、しかも結構強烈な不安に緩やかに繋がっていることに気付いたのは極く最近だ。
だから、そのうちカウンセリングでこの夢の話をしようと思っていた。
 
 
 
あたくしはずっとこの夢は、ぶっちゃけ“母親から植え付けらた禁忌”だと解釈していた。
今でこそ母親への感情は冷めたものだけど、幼少期の自分にとって母親は守ってもらいたい大切な存在であったろう。
当時、母親の死をイメージするような出来事が自分に起こったのかは記憶にないのだけれど、何か「いい子にしてなきゃ!」と思うような出来事があったに違いないと。
 
しかし、いつものことですが、カウンセラーの先生は最後まで聞いて一言。
「それは違うような気がするなぁ〜」
 
はい、そうですか。そう来ると思っていました。
最近では、こうした全否定も驚きません(笑)。
いや、むしろ、そのために先生にお話ししていると言っても過言ではないのです。
 
「夢は本来、健全なものだから」と、先生は言った。
そうだろうか? あんなに怖い夢なのに?
 
「夢の中のお母さんが、現実のお母さんじゃないことは分かってる?」
「そうなんでしょうね、夢の中では生卵ですからね」
「夢の中のお母さんってのは、あなたの中の母性の象徴だと思うのだけど」
「わたしの中のかぁ…」
「その頃、あなたの成長過程で古いお母さん像が死に、新しい母性が生まれつつあったんじゃないのかな?」
 
「じゃあ、じゃあ…」あたくしは問わずにはおれなかった。
「どうして、“楽しむと誰かが死んじゃう”って解釈に結びつくんですか?」
 
「夢はさあ、健全なんだよ?」
先生がもう一度、夢の健全性を強調する。
え〜、その根拠は?と思いながらもあたくしは応える。
「じゃあ、わたしの解釈が不健全ってことなんでしょうか?」
 
「いや、不健全とまではいわないけどさ、
 それが、あなたの思考の癖なんだな」
 
癖…
 
 
 
 
「あなたさぁ、そんなに走らなくてもいいんだよ。
 一等賞じゃなくてもいいんじゃない?
 途中で嫌になったら走るの辞めたっていいし、
 そもそも徒競走に出なくてもいい…」
 
すでにこれは夢の分析ではないな? 現在の自分に関する話に違いない。
子どもの頃の怖い夢は、もう怖い夢ではなくなった。
あれは、幼児期を脱して子どもの世界に入ろうとする時のシンボリックな夢。
 
けれど、「おまえが楽しむと誰か死ぬ」「いつも頑張らねばならない」といった数々の強迫観念は、宙ぶらりんになってまだ存在していた。