心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

話すよりも恥ずかしく怖いこと。

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カウンセリングでクラシックカメラの話をしたのをきっかけに、
「じゃあさぁ、今度、撮った写真を持って来なよ?」
と、カウンセラーの先生に勧められた。
それであたくしは、すっかり動揺しているのであった。
 
先生は軽い気持ちで言っただけ…なのは分かっている。
自意識過剰なあまり、こちらがこんなに苦悩しているとは露ほども知らないだろう。
 
普段の面接では自分は聞かれてもいないことまでもペラペラと率先してお喋りしてしまうし、すでに頼まれもしないのに、カウンセリングルームに自分が描いたイラストや昔に作った粘土細工を持参したことがある。
それはそれは無理矢理で不自然な、開けっぴろげさ、なのである。
 
自分は他人と適度な距離感を保つのがとても下手くそだ。
目の前からその人がいつ消えてしまうのか不安でたまらない。
自分はいつも焦っている。
 
カウンセラーとの関係を急速に距離を縮めようと、自分のあらゆる情報を提供しようと無理ばかりした。
その様子はカウンセラーから見ると痛々しかったのだろう。
「心の準備が出来てないことは、無理に話さなくてもいいんだよ?」とやんわりと止められたことが何度かある。
そんな時も、自分は自分の心が準備できているのか省みる余裕もないのだ。
 
自分は相手に理解してもらいたいという煩悩にまみれている。
それなのに、相手からご要望があると尻込みしてしまう…そんな自分は何なのか?
そうして、お喋りするよりも、自分が撮った写真を見せる方が、恥ずかしくて怖いとは!
 
 
 
とりあえず、「いやいやいや! 写真は苦手で…」と、軽く断ったりしてみた。
普通だったら、「あ、そう?」とかで終わりそうな話題なのだけれども、何故かこの件に関しては先生は熱心に写真作品を持ってくるように口説いてくれるのだった。
 
学生時代はいつもコンパクトカメラ持ち歩き、よく写真を撮った。
その頃の自分には、留めておきたい時間がたくさんあったのだろう。
でも、仕上がったプリントを見ると、何だか違う。
 
「それに、自分の写真って、何だか隠し撮りみたいな感じなんですよねー」
自分の写真の出来は不本意だなのだ、という言い訳を先生は聞かないフリをする。
「いいの、いいの、そんなんで」
 
いや、あたくしはそんなのよくない、どうしたら良いのだろう? と考える。
ついつい自分の心は、正解探しに奔走してしまう。
「あ、そうだ、たくさん撮りまくって、現実と写真のギャップを埋めていけばいいんですね!」
思わず思考をそのまま言葉にすると、すかさず先生が返す。
「いいの、ズレたまんまで!」
そうそう、先生のポリシーは「変わるな!」でしたっけ…。
 
「ズレてるな〜って感じるだけでいいんだよ?」
ただ感じるってのが、自分にとっては難しいのだ、とても。
 
 
 
先生はあたくしに言った。
「あなたはさぁ、お喋り上手いよね〜。
 あなたのお話は聞いていて面白いよ?」
でも、これはきっと、褒め言葉ではないのだな。
 
この時間はあたくしが自分の為に準備した時間なのに、こうしている間にもあたくしは、先生を楽しませようと考えてしまっている。
自分に向き合うための時間なのに、相手の反応ばかり考えてしまう。
 
あたくしには半世紀近くを費やして築き上げた言葉の鎧があって、きっと今、それがものすごく邪魔になっているんだろう。
この先に進むのには、“非言語の世界”に突入する必要があるのかもしれない。
そこは言葉のデコレーションが通用しない世界だろうからね。
 
そのうち自分は、かなり頑張ってそれらしい写真を撮り、大きめにプリントして持参するに決まってる。
そうして先生が黙って写真を眺める側であたくしは、またもやあれこれ言葉で繕おうとするのだろう。
 
本当の自分を知ってもらいたい。
けれども、本当の自分を知ったなら、きっと相手は失望するに違いない。
この矛盾する気持ち、強固な信念を、自分は変えることができるのだろうか?
 
それとも、これはいつもの邪推であり、おずおずと写真を差し出したあたくしに、
「は〜、こんな感じですか、確かに…あははっ♪ いいじゃないですか!」
と、先生はまるで能天気なコメントを投げかけてくれるのだろうか?