心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

全て杞憂でした。

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カウンセリングにいく日の朝が来て、憂鬱でたまらない。
それでも、正直に前回の面接で感じたことや思ったことを正直に言おう、それでいいじゃないか? と自分に言い聞かせた。
ちゃんと、分かってもらえないことが悔しくて、家で泣きましたと言おう。
初めてカウンセリングに行く事が怖くなりましたと伝えよう。
 
朝、歯を磨きながら、自分が悔し涙を流すなんて、随分久しぶりのことだったと気付いた。
いい体験だったかもと少し思えたら、急激に心が楽になった。
カウンセラーの先生には自分のことをたくさんお話しているから、何でもすぐに分かってくれると思い込んでいたんだな、でも、そうではないのだな。
 
カウンセリング恐い、とか言ったら、先生はどんな顔をするだろう?
と、興味があったのだけど、人にマイナス要因を話す時、自分は伏し目がちになってしまう。
先生は「あ、そう?」とか「ふーん?」とか間の抜けた相槌を打ちながら聞いていて、最後に「僕だって、流石にあなたのこと全部分かる訳ではないよ?」と笑った。
 
「そうですよね? だからもう一度話すので、聞いてください」
前回先生はこんなことを言ってて、あたくし的にはそれは分かるけれども、自分だってそう思ったことはあるけれども、今の自分の気持ちはそうじゃない、違うんです。
なるべく正確に現在の自分の気持ちに沿うように、同じことを、言い方を変えて、何度も何度も話した。
 
 
 
先生は注意深く聞いてくれているように見えた。
そして、口を尖らせて考え込んでいる表情を作り、腑に落とそうと苦心しているようだった。
その顔がむしろおどけているように見えるので、「先生の顔、ワザとらしいよ」とあたくしは笑った。
この空間では、感じた違和感は、すぐに口にするように心掛けている。
そして「ごめんなさい、先生はふざけてないと思うけど、自分から見るとそんな風に感じるの」と言い直した。
話しながら、当たり前のことだけど、ああ先生は「自分とは違う心を持った人だ」「他人なんだ」とシミジミと思った。
 
今はもう、本当に分かってもらいたい人は目の前のカウンセラーではなくて、先生は誰かの代わりを演じてくれていることに、自分は気付いているのだ。
代わりでもいいから、理解してくれようと努力してくれる人がいないと、今の自分は辛いのだ。
自分と違っていても構わない。ただ寄り添う努力をしてもらえるだけで、とても嬉しいのだ。
 
「これまでわたしは、こちらが一生懸命伝えれば、いつか分かってもらえる日が来るのだと思ってました。
 でも、それは間違いで、限界がある、どうしても理解してもらえないことがある、って気が付いたんです」
お互い、どんなに近くて長い関係においても理解しがたいことはあるんですよね?
 
最後の方に先生は「うん、やっとあなたの気持ちが分かってきたよ」と言ってくれた。
しかし、先生にはあたくしの至った考えがとても寂しく感じるようで、賛同しかねる様子だった。
先生は「無理にそういう風に考えようとしていない?」と聞いてきたり、
「そんな風じゃあ、愛が受け取れないよ?」と諭してきた。
 
「でも、先生、今はこの段階なんです」物凄く分かって欲しい気持ちを込めて、自分は言った。
時間が経てば、今よりも、先生がホッとするような、もっとマシな考えに変わるかもしれない。
だけど、今はこうなんです。とても寂しく、途方に暮れているんです。
「うん、今は、この段階にいるんだね?」
「そうです。今はここにいるんです」
 
 
 
今日の先生は、あたくしとの間を遠すぎず、近すぎず、絶妙な距離感を保ちながら、注意深く対話をしているように思えた。
今日のは、特に内容的にも距離感を大切にしたいような、とても微妙な話だったのだ。
先生がドンドン遠くなっていくような悪い予感は、杞憂だった。
 
ふとしたキッカケで食い違いが大きくなり、そのほころびをどうすることもできずに、縁が切れてしまうときの怖さを、なぜか久々に思い出したのだ。
先生にはちゃんとお話しできたし、爆発しそうな怒りを感じることはなかった。
先生とあたくしとで、共通して好きなものをまた一つ発見したり、楽しい時間もあったのだ。
 
なんで偶然に同じものに愛着を持っていることを知ると、こんなにも嬉しいのだろう?
自分が大切にしているものを、別の人も大切に思っていることを知ると、なぜこんなに温かい気持ちになるのだろう?
不安な気持ちは、一つも解決する風もないのに。