心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

年賀状。

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何年か前の正月明け、あたくしはメンタルクリニックの先生の前で泣きじゃくったのだった。
「先生、今年は、一枚も年賀状が書けなかったんですっ!」と。
 
今でこそ、ほとんど毎回のことカウンセリングでウルウルしているが、当時は、先生の顔を見た途端に泣いてしまうなんて、自分でもかなりヤバイと思ったし、正直恥ずかしかった。
 
当時の主治医だった女医さんは、ちょっとウンザリ顔で言った。
「来年書けばいいじゃないですか」
 
…そうそう、そうね。でもそれは健康な人の感覚だ。健康だったら、自分もそう考えられるだろう。
来年まで待たずに、寒中見舞いやら、暑中見舞いやら、旅先からの手紙やらで「わたしは元気。わたしは生きてます」と発信できる。
 
しかしその年は、年賀状を買うところまでしか行けなかった。
絵柄を考え、宛名を書き、そこに自分の近況を一言添える。
そんな簡単なことすら出来なくなっていた。
 
年賀状が届いても、「みんな1年分、一歩ずつ進んでる」と、思うと、見るのさえ怖かった。
人の幸せそうな家族写真、子供の成長の報告なんかを見るのが怖かった。
「絵は描いてますか?」とか「お仕事頑張ってる?」という自分への問いかけも怖かった。
この一年、自分は何の成長もなく、年だけ取って、むしろ劣化していると思うと、いたたまれなかった。
 
酷い鬱状態だったのだと思う。
 
 
 
その年、成人式の頃、一人だけハガキをくれた人がいた。
「いつもマメにお手紙をくれるあなたが、年賀状を寄越さないなんてどうしました?」
 
その子は、本当に素朴な疑問から、何気に連絡をくれただけらしいのだけど、あたくしは心から彼女の存在に感謝した。
それから、何かの折に一度だけ彼女に会う機会があったけど、その時の彼女は男の子の母になっていてテンテコ舞いしてたので、ゆっくり話すことは叶わなかった。
恐らくもう直に会ってお話する機会には恵まれないとは思うけど、今もその子に感謝している。
 
本当に些細なことが、自分にとってはとても大切な出来事になったりする。
 
今年はお陰様で、何とか、年がめくれる前に年賀状を出すことができた。
何度も年賀状を書くことができない年があり、段々減って、もうあんまり枚数は書かないんだけれどもね。
 
その、数少ない年賀状の何枚かには、一年に一回というのもあり、随分と小さな字でコチョコチョ書かせていただいた。
自分の問題は何一つ解決してないのだけど、「旧年は良い年でした」としたためた。
会いたい人には「今年こそ会いましょう」と正直にリクエストしてみた。
 
 
 
このブログ、実は、当初考えていたタイトルは『反芻(はんすう)だけで生きてます』というもので、とにかく、日々の鬱憤を晴らしてやろうとか、昔日の恨みをブチまけてやろうとか、どっちかっていうと黒い、超マイナス思考から始めたものだった。
だけど幸せなことに、予想以上にいろんな人に読んでもらえて、スターやら温かいコメントなどをいただくことができた。
お陰様で、底なしのような孤独感から救い出されて、何やら棘が一本ずつ取れるような感じでありましたよ。
 
こうして、今年が始まった頃には思ってもみなかった人と繋がることができ、新しい年に少しだけ期待している自分がいる。
それはとてもとても不思議な気分だ。
 
そういうわけで、この年末、年賀状を書けなかった人、楽しく書けなかった人、新しい年が何やら怖いような気がする人もいるやもしれぬ。
けれど、なんの根拠もなく、きっと大丈夫、と、あたくしとしては言いたいのです。
 
 
 
あ、そうこうしているうちに年を越して…しまったぁ!
 
本年もよろしくお願い申し上げます。(深々と礼)