心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

悲しい話を聞いている時に笑う人。

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こっちが悲しい話をしているのに、笑う人がいる。
例えばだけど、「ストーカーに遭って急遽引越しすることになった時…」みたいな時に、「アハハ」とやる人がいる。
ニコッてな感じの程度の人もいれば、声まで出ちゃう人がいる。
 
この人になら…と、比較的心理的な距離が近いと感じている人だからこそ打ち明けた悲しい過去なのに、幾度かそういう経験したことがある。
また、あるいは、傾聴講座の練習でクライエント役になり、カウンセラーの人に悩み事を話している時にも、笑顔を出されたことが何度かある。
(あくまでも傾聴の練習だから、さすがにストーカー被害の話は重すぎるのでやらない。その時は夫婦喧嘩やかつての職場でのトラブル程度の話をする)
 
その瞬間の自分の反応は…精神状態に非常に左右されるのだけど、いずれにしても非常に混乱する。
シンプルにそのチグハグさにビックリする時もあるし、「こっちが困った時の話をしているのに、笑うって何事?」と怒りが湧き出る時もある。
「この人が笑っているくらいだから、もしかして“大したこと”だと思っているの自分だけ? 本当は大したことない?」と自分の判断を疑ったりもする。
「笑わないで」と咄嗟に言えることは少なくて、何か自分の方が間違ってしまったような気がして、むしろ流してしまう。
 
とにかく、何かを求めて話したところ、相手から全く違ったものが出てくるので、その分析に余計なメモリーを使ってしまって疲れる…ということになる(笑)。
そうして、「もう“あの人”には話すの止めよう」とか、それどころか「結局、“誰にも”理解してもらえないんだ」と悪いスパイラルに入る。
 
でも、あたくしは違うよ? ちゃんと聞けるよ?
あたくしは少なくとも、ちゃんと人の悲しい気持ちを受け止められる人だよ?
 
…そう、自分自身のことを「ちゃんとできる人」「適切にできる人」だと思っていたのだ。
だがし、しかし…。
 
 
 
先日、とある「精神的に落ち込んでいる人の話を聞く時の心得」講座に参加してみたのだ。
落ち込んでいる人、鬱傾向のある人にとっては、健康な人ではさして気にならない些細な言葉が、時には凶器になってしまう。
その講座では、落ち込んでいる人を傷つけることなく、そういった人と素早く信頼関係を結ぶコツを学び、実践できるようなトレーニングをするのだ。
 
少なくともある程度の傾聴練習を積んでいる人が参加条件なので、参加者には様々な相談業務のプロが多かった。
ここでも、一介のアルバイターで参加しちゃっているのは自分だけだったと思う。
そういう、プロフェッショナルの中に潜入できるのは、傾聴のヒヨコとしてはものすごく勉強になる。
 
あたくしのように「自分を助けるため」に参加している人なんて皆無だろう。
死にたくなった時に自分で自分を説得しようと思って来ている人なんて、あたくし以外にいるわけない(笑) 。
みんな、他人を助けようとして来ているのだ。
休日返上でこうした勉強している人を心から凄いなあ、と尊敬する。
 
そうして一通り座学で理論は学び、「さあ、やってみましょう!」とロールプレイングに移った時、あたくしは恐るべし事実に直面することになったのだった。
 
ロールプレイングは5〜10分。インストラクターの方が相談者の役をとてもリアルに演じてくれる。
落ち込んでいる人の話を聞く時は、表情はハッキリと、動きはやや大げさに…先ほど学んだことを実践するだけだ、大丈夫、大丈夫。
頓服のアルプラゾラムも飲んだし、心の中の傍らにはカウンセラーの分身も置いている。
今回の講座はちゃあんとカウンセラーの許可を受けて参加したのだ。
大丈夫、大丈夫! 超緊張! 大丈夫、練習だから!
 
そうして、あたくしの番のロールプレイングが終わって、ホッとしたところに、講師の方から驚くべき指摘を受けたのだった。
「あなた、相談者の話を要約する時、笑顔になっていたの、自分で気が付いていた?」
 
!!!
 
実は自分は全く気がついていなかった。
そうして、そういう人のために、講師の方はちゃんと記録を残しておいてくれているのである。
 
果たして、その映像のあたくしは…確かに笑っている。
音声が無いので、まるで楽しい話を聞いているようにさえ見える。
 
この時の衝撃、分かっていただけます?
自分は、ずっと自分が嫌がることを、人にもしてきていたらしい…って気がついたときの衝撃!
 
「人の悲しい気持ちに、あたくしは他人よりは少しはマシに寄り添えるよ。何しろ当事者だから」 …なんて、思い上がりもいいところだったのだ。
 
そう…この意図せぬ表情を発見するのが、この講座の趣旨の一つなの(笑)。
意図せずに人を傷つけてしまうことがないように研鑽するとは、こういうことなんである。
 
 
 
実は、あたくしだけでなく、笑ってしまっている人は結構いたのである。
かなりのプロの方で、終始、静かな笑顔を崩さない人すらいたのである。
 
なぜ、悲しい話を聞いている時に笑ってしまうのか? ってことにはいろいろ考察があったんだけど、どうやら日本には「悲しい時に、素直に悲しい顔をすることを止められている文化」があるらしい。
 
あたくしはあんまり好きではないけど、「悲しい時ほど、笑いなさい」みたいな美徳というか、なんかそういう文化があるではないですか? 
あれは、あくまでも健やかな人に対しての言葉であって、本当に打ちひしがれている人にはそぐわないんだよね。
 
あとは、ある年齢以上の女性なんかは、感情をストレートに出すこと自体が“はしたない”と教育されてきたりしているので、どんな時にもアルカイック・スマイル(彫刻的微笑み)が顔に張り付いてしまっていたりする。
こっちが悲しい顔をすると、余計に相手が動揺してしまうのでは? と、相手を安心させるために、心と裏腹に笑顔を維持しようと努力している人もいた。
 
そうして、こっちの方が重大だと思うのだけど、悲しい話をする人自体が、笑いながら話してしまうことが少なくないらしい。
そういう人の話を聞いていると、ついその表情に引っ張られて、聞き手も笑ってしまいそうになるけれど、そこは絶対に話の内容をちゃんと聞いて、悲しい話を聞いて悲しい気分になっている時は悲しい顔をしなさいと教えていただいた。
 
自分は、もしかしたら、自分の悲しい話を笑いながら人に話していたのではなかろうか?
弱みを見せたら負けだとか、笑い飛ばそうとか、早く笑い話にしてしまいたいとか、そんな自分の思いが顔に出てきてしまっていたのではないか?
だから、あたくしの話を聞いた人の中に、笑う人がいたのではないのだろうか?
聞き手の笑いは悪気なく一種の共感の笑いだったのではなかろうか?
 
だとしたら、自分は、まだ悲しみが癒えていないことを、表情で全身で表現できるようにならなければいけないねぇ。
 
「悲しい時も平静を装おうとしてしまう」のは、自分にとっては悪い癖なのだ。
 
このブログでも終始(笑)を挟んでいるんだけど、こりゃ、考えものだな〜と思った。
読んで頂く方にはどこで笑ってもらってかまわないんだけど、自分が笑って欲しくないところに(笑)と自虐的に入れるのはよそう、とか?(笑)←これは心からの笑い。
 
 
 
トラウマ経験の団子の中に、昔、職場で経営者に恫喝された経験があり、その時「人が怒っている時に、ニヤニヤしやがって!」ともの凄くキレられたことがあるのだけれど、ああ、そうだったかもね? と思い出した。
恫喝されて、怖くて、自分は平静を保とうと、ちょっと笑っちゃったんだと思う。
 
その経営者は、ものすごくコンプレックスが強い人で、それが外側にも滲み出てくるような人だったんだけど、あたくしの困惑の笑みを「愚弄されている!」と読み取って興奮してしまったんだろうな。
確かに、決してその経営者を尊敬はしていなかったけど、さりとてバカにしていた訳ではない。お給料くれる人ですからね。
あの時の自分は、気違いじみたその経営者の振る舞いに、ただ心から震え上がっていただけなのですよ。
 
 
 
財布にも心にも痛い講座だったけど、本当に勉強になりました。
そうして改めて、「正直おばさん」になることの大切さを意識したのでした。
悲しい時はちゃんと悲しい顔をする。
もし、そうして話した自分の悲しい体験を笑われたら「笑わないで」とすぐに言える。
これ大事!