心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

ミッション:無条件に受容された体験を思い出せ。

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泣いている幼い女の子の目の前で、その大柄な男性は中折れ帽でもって“ひらり”とチョウチョを捕まえてみせる。
注意深く指先にチョウチョを摘んで「ほら、君のだよ」と女の子に差し出す。
女の子は一瞬泣き止むのだけど、そんなことでは誤魔化されないとばかり、再びオウオウと泣いた。
男の人は怒らない、ガッカリしない、ただワハハと声を上げて笑った。
解き放たれたチョウチョはフラフラと彼方へと飛んでいった。
 
もう、半世紀近くも前の光景。
そのことを突然に思い出したこと、その記憶が持つ意味を悟って、多幸感でいっぱいになった。
泣いている女の子は3歳くらいの自分で、男の人は母方の祖父なのだ。
祖父との思い出は数えるほどしかないけれど、これは完璧な思い出だ。
 
 
 
先日のカウンセリングで、先生に「無条件に受け入れられた体験を思い出して」とオーダーをいただいたのだった。
 
あたくしには、自己評価が低いゆえの「常に頑張っていないと、人から見捨てられる」という強迫観念がある。
心にしろ体にしろ何しらを交換しないと人からの受容が得られないと思い込んでいるのだ。
自己評価の低さがあたくしに緊張や過労を強いており、事件に遭ったことやその後の自分の解釈…そして緩やかにトラウマに繋がっている。
 
お金を払って受容されるカウンセリングは、先生との相性さえ良ければ、あたくしにとっては非常に気がラクだったりする。
お金を払っているのだから、受容されるのは当たり前でしょ? ぐらいに思っている。
そういう意味でカウンセラーの先生は、残念なことだけどあたくし的には本当の意味での「無条件の受容」にはならないのね。
カウンセリングルームで行われる会話はとんでもなく巧妙なので、ついウッカリそのことを忘れそうになるけれど。
 
それに、カウンセリングでの受容は、言葉ばかりで実体がないのだ。
例えば「言葉なんかいらない。ただ黙って寄り添ってくれい!」的な受容を所望すると、それはカウンセリングルームでは叶わない世界だ。
そこで、リアルな体感が伴った「無条件の受容」を過去の記憶から探しましょう、ってことになるんだと思います。
 
「ありのままで存在してよい自分」の記憶を思い出せれば、その感覚はきっと自己肯定感の核になってくれるのでしょう。
あたくしは過去の記憶を検索した。
 
カウンセリング中、とっさに思い出したのは、若き日のボーイフレンドとのホッコリするようなエピソード。
そこだけ切り取れば、とても美しく可愛らしい思い出なのだけど、なぜか芋づる式に嫌なエピソードまで噴出し、たちまちにそれは全てを汚染した。
完全な善人も悪人も存在し得ないと頭では分かっているのだけど、どうしてもあたくしの頭の中では善悪で1人の人間が2つに引きちぎられてしまう。
善悪の混在が、人間の多面性が理解できないのだ。
 
「あ〜ダメですね、わたし、
 人は必ず綺麗な部分と汚い部分を併せ持っているってことが、
 根本的に分かってないみたいです!」
 
自己評価を上げるためのミッションなのに、自分へのダメ出しをブツクサ言いだしたあたくしを見て、先生は手を目の前でヒラヒラさせてストップをかけた。
「それ、止めよう。別のに変えよう」
 
 
 
結局、その話は代替案が思い浮かばずにそこで行き詰まったので、あたくしは、勝手にそのミッションを家に持ち帰った。
先生は「絶対に、無条件に受容された思い出は、ある」と言ったけれど、本当だろうか?
思い出せないということは「ない」のではないか?
そもそも、物心がついたころから得体の知れない「ちゃんとやらなきゃ」的な緊張感に包まれていたわけだから、受容されていても受け取れてないのではないのか?
恩知らずで性根が腐っているから思い浮かばないのか(笑)? などなどをグルグル思考した。
 
そうしたら、カウンセリングから二日経った頃、割とボケっとしている時に、ふと心の中にチョウチョが飛んできて、ヒラヒラと垣根の上に留まった。
自分の頭の中は一瞬、半世紀前近くにタイムスリップし、冒頭の祖父との思い出が再現されたのだ。
 
あ〜こりゃ、完璧に「無条件に受容」された思い出だわ、とあたくしは感心した。
 
実を言うとこの思い出、ワガママで祖父を困らせたエピソードとして記憶庫に格納されていたのだ。
でも、今回思い出したことで、180度解釈が変わった。こういうところが記憶の不思議なところなのかも。
 
「聞き分けの良いイイ子だね」とか「大人しくて手がかからない」などの褒め言葉や、逆に「喜ばないのなら、買ってあげない」的な条件付きの愛情の記憶はふんだんにある一方、無条件ねぇ…と、少し途方に暮れていたんだけど、いや、ちゃんとありましたよ、先生。これですね?
 
 
 
祖父は戦争に行った世代だ。軍艦に乗っていたら反対側に大砲が当たって船が沈没し、海で立ち泳ぎしていたら漁船に助けられたそうだ。
大砲が祖父の側に命中していたら…もし泳ぎが達者でなかったら…凍りつく冬の海だったら…母も、そしてあたくしも存在しない。本当に不思議なことだ。
あたくしは、そんな祖父の初孫で、自分をネタにこんなことを言うのも変だけど、初孫抱いた時、とても喜んだに違いない。
 
祖父は30年ほど前に亡くなり、小さいけど素敵なお家だった母の実家はその後すぐに取り壊されてアパートになってしまった。
チョウチョが留まった垣根も、金魚がいた小さな池も、白くて大きな雑種犬がいた小屋も、裏のニワトリ小屋も、今はあたくしの脳内の中にひっそりと存在する。
だけど細部に思い出せない箇所があるんだよね。もっと真面目にスキャニングしておけば良かったと後悔している。
 
 
 
そうして、これで頭の中に自己肯定感の鋳型ができて、一歩前進かな〜♪と、淡い期待を抱いていたら、次の日、今度はバランスを取るが如くに、過去の様々な「自分の人間性を踏みにじられた体験」的なものが噴出してきたのである! なにゆえに?!
そんなこと、ずっと忘れてたことなのに「あれもこれも、今思えばあの行為はそういうことだったんだ、酷い!」という感覚に1日苛まれた。
 
そこで「あれは過去、今は安全」と、カウンセラーの先生が以前あたくしにしてくれたように、今度は自分でその魔法の呪文を唱えたのだった。
 
 
 
そんなんで家事放棄である。
夜、近所の焼き鳥屋さんに行ったら、もう全てがフックラと焼きあがっていて感動が止まらない。
つくねの美味さに、「これまで食べたつくねの中で、一番美味い!」とワザワザ店主に伝える。
明らかに過剰に心が揺れている(笑)。