心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

怒る老人になるのが怖ければ瞑想をやるがよい。

f:id:spica-suzuhazu:20170928205919j:plain夫の母親が軽度の認知症っぽいらしい。

もうすぐ80歳に届く年齢だからしょうがないかもしれない。
しょうがないんだけど、義母はボケ防止に良い食材を摂ったりとイロイロ気をつかっていたので、ちょっと残念だ。
 
認知症の症状には様々なものがあるけど、義母は怒るタイプのようだ。
 
少し前、あたくしがお会いした時は穏やかで、少々話がクドイ?って程度だったのだけど、どうやら近隣住民には喧嘩を売っちゃったりしたらしい。
そのネタも「昔、井戸を使わせてやった恩を忘れ…」的な随分と前のこと。
当人にとっては筋が通っているかもしれないが、相手にしてみたら軽くイチャモンだ(笑)。
しかも、自分が言ったことは忘れちゃうので、当人は「最近あの人、来ないわね」と思っているみたいなのが寂しい。
 
義母が何を恐れてココナツオイルを舐めていたのかは分からないけれど、認知症への恐怖の一つに「歯止めを失って、感情がむき出しなってしまうこと」があると思う。
 
感情の爆発が抑えられなくなってしまうのは「前頭葉」の働きが弱った結果らしい。
いくら表面上は穏やかさを保てても、心の中は怒りやわだかまりでいっぱいだったら、何かの弾みでタガが外れることを不安に思うのも無理はない。
もともと義母は、穏やかで、朗らかで、社交的な人だったけど、きっと少し無理をしていたのだろうな。
怒りも、執着も、人には見せたくないと必死に隠してきたその人の一部なのだろうから。
 
しかし、「前頭葉」による感情のブレーキが弱くなるのは、認知症だけじゃないのである。
意外に思う方もいるかもしれないが、うつにはキレれやすくなる傾向がある。抗うつ薬も副作用でキレやすくなることがある。
そしてトラウマを持つ人も、常に交感神経がピリピリしてて、これまたキレやすくなる。
あたくし自身、ここ10年は、自分でも予想外のところでキレていた。友人を無くしたこともある。
怒ったこと自体は間違っていない時も、怒り方が悪い。それはもう、ものすごい嫌悪感だ。
今、この時点で制御しがたい怒りは、加齢とともにますます暴走するのでは? とあたしは密かに恐れた。
 
 
 
自己啓発本などを読んで、理屈で怒りの爆発を封じ込めようと試みたものの、ことごとく失敗。
これが、昨年末頃からだいぶマシになった。
 
それはきっと、瞑想のおかげ♪
 
煩悩滅却みたいな難しい言い方ありますけど、平たく言うと瞑想は「反応を止める練習」です。
それまでは「外にある原因が怒らせる」と思っているわけですが、これを「外に原因があっても怒らない」を目指すのです。
これだと、怒り自体の総量が減るので、頑張って怒りを抑える力を努力をしなくても、多少「前頭葉」の働きが弱っても大丈夫そう(笑)♪
 
しかし、瞑想は実践が難しい…とにかく目を閉じて座ってるだけなんで、集中しろと言われても様々な想いがどめどもなく湧き出てきて嫌になります。
怒りん坊な人なら、瞑想中、次々と怒りが出てきてビックリするでしょう。
人間って放っておく、今現在、何の問題もなくても、過去のわだかまりを蒸し返してまで怒る生き物なんですよ。
 
幸いなことに瞑想は、新たな怒りを溜め込むのを防いでくれるだけでなく、過去の怒りも処理できるらしいので(ホントか?)、今からやっておけば年取ってから昔の出来事を持ち出して怒る…ってのは避けられるんじゃないかと期待してます。
 
「ここぞという時に怒らないなんて、それ、負けなんじゃない?」とか思いがちなんですけど、そういうのも瞑想では「考え方の悪い癖」と捉えます。
全く怒らない人を目指しても達成できるハズもないので、俗世界の人の目標としては、冷静さを失わずに怒れるようになるのことかな?
 
とにかく、怒りが減ることで自分が楽になるのが目的です。
 
 
 
話は戻り、あたかも人が変わってしまったように見えるので、認知症には悲しい話が多いのだけれども、その中で、昔、職場の上司からこんな印象深い話を聞いたことがある。
 
認知症になった父親を引き取って、昼間は奥さんが面倒見ているんだけど、
おやじの頭の中は、若い頃、書生だった頃に戻っちゃったみたいで、俺の奥さんのこと、下宿先のおかみさんだと思ってるんだよ。
だから、奥さんが庭を掃こうとした時に、「あ、自分がやりますよ!」と嬉々として庭掃除したり、
重いものも率先して運ぼうとするらしい。
そんで、俺のことは、下宿先のオヤジだと思ってるんだよ。
俺が帰ると、なんだか畏まって、俺に気を使ったりしてるんだよ。
ああいうの、見てると辛い。俺が分からないなんて寂しいよ。

 

きっと、息子の立場から考えたら、父親のそんな姿を見るのは辛いだろう。
でも、何だかそれは美しい話に思えた。
 
きっとそれは、そのお父さんにとって書生だった時間が楽しい時間だったんだな、と感じられるからだと思う。
自分が一番幸せな時間に固定されるとしたら、最後の時間の過ごし方として悪くはないような気がする。
そりゃあ、周りは大変だろうし、きれいごとだけでは済まされないだろうけど。
 
自分が帰りたい、永遠にリピートしてもいい時間って、いつだろう?
そもそもそんな記憶を持っているかしら? と考えた。
 
そういうわけで、ボケを心配するより、ボケても平気な清らかな心を目指してみるのってどうでしょうか?