心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

カウンセラーの自己開示について。

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夏風邪引きました。39℃代の熱なんて久々だったなあ〜。2週間寝たきりでした。
この年齢になると「風邪だ」って言っても病院では信じてもらえず、「肺炎かも」「肝臓やられてるかも」と血液取られたり大変です。
5kg痩せたんですが、体力が落ちると自律神経の乱れも悪化するし、そうなると頭の働きも鈍くなるみたいで、まいった。
 
そういう訳で、文章がまったくまとまらなくて、この文章も3日くらい格闘している有様です。
 
で、今日のテーマは「カウンセラーの自己開示」であります。
個人的な情報、考えや感情を相手に明らかにすること、それすなわち「自己開示」。
 

カウンセラーの「自己開示」は常に小出し

カウンセリングでは、クライエント側はいつもカウンセリング側から自己開示を求められている。
カウンセラーによる「相づち」や「オウム返し」「質問」といった応答技法は、それらすべてがクライエントの自己開示を促す技術といっていい。
 
そうしてクライエントがカウンセラーのあの手この手の応答技法でこちらのアレコレを話していて、ふとこんな疑問は湧かないだろうか?
「この私の話を聞いている、目の前のカウンセラーはどんな人だろう?」と。
 
それで、時には逆にカウンセラー質問してみたりする人もいるのではないだろうか?
「結婚していますか?」とか、「今の私の話を聞いて、どう思います?」とか。
 
そうするとですね。だいたいカウンセラーは言い淀む。
加えて「なぜそんな質問をしようと思ったのですか?」と質問返しされたりする(笑)。
 
当初は内心「ケチ!」と思っていました(すいません)が、カウンセリングを少々齧った今なら分かります。
カウンセリングの世界にはどうやら「カウンセラーの自己開示は、どの程度行うべき?問題」があるらしいんですよ。
  

カウンセラーの「自己開示」は難しい

まず、カウンセラーはクライアントの心のスクリーンであるために極力「自己開示」はすべきではない、という考え方があるらしい。
 
しかし、カウンセラーが面接を重ねても真っ白なスクリーンの役を保ち続けるのは至難の技だろう。
時には、服装、視線、仕草が言葉よりも雄弁にその人を語ってしまうこともある。
カウンセラーが全く「自己開示」をしない、というのは土台無理な話なのである。
 
それに、カウンセラーの適度な「自己開示」には、良い効果もある。
心の距離感を縮めてくれるのだ。
相手がどんな人か分かったほうが、安心して「自己開示」できるとういう人もいるだろう。
 
難しいのは、それはあくまでも「自己開示」が適度な場合、ということになっていること。
過剰な自己開示によって双方の心理的距離が近くなりすぎると、カウンセリングという自己探求の場が、単なる世間話の時間になってしまう恐れがあるからだ。これだと楽しいけれど、カウンセリングの効果は期待できないので、クライエントの利益に反してしまう。
 
そうなると、どのように適度な「自己開示」を保てばいいのか? ということになる。
何しろ、カウンセラーが気をつけても、うっかり非言語で表現してしまうかもしれないし、クライエントからの質問という形で「自己開示」を求められるかもしれない。「自己開示」はコントロールが難しいのだ。
 
それじゃあ、カウンセラーは思ったこと、考えたことをフィードバックするのはクライエントの自己探求に役立つし、そういう類の「自己開示」ならいいんじゃないだろうか? という説が登場する。この場合は、個人情報に関する「自己開示」は行わない。
個人情報を聞いてくるようなクライエントには「お答えできない決まりになっている」とキッパリ言ったらいい、みたいな意見もある。
 
そういう訳で、クライエントの立場としては変な話だけど、その辺のカウンセラー側の事情を考慮し、これからはうっかりとカウンセラーに「自己開示」を求めたりしないように気をつけようとか気をつけていた訳です。
 

「自己開示」を躊躇しないカウンセラーがいた

ところが、である。
3人目のカウンセラーの先生に出会って、全くもって、自分は頭でっかちなおバカさんなんだな〜と思い知らされた。
 
今度の先生は、何だか様子が違ってて…、その辺の「自己開示」への葛藤というか、ジレンマがまるで感じられないのよ。
 
あたくしは、現在の先生には本当にいろんなことをお話したが、あたくしも先生のことをいろいろ聞いて知っている。
 
子供の頃から好きなこと、出身地、老いた親への想い、現在の家族、休日に何をしているか、過去の悲しかったこと……
他のカウンセラーなら敢えて自分から話さないような(恐らく聞いても話さない)ことを、先生は話の流れの中で、何でもさり気なく喋ってしまうのだ。
 
カウンセラーの「自己開示」はクライエントの利益を優先して小出しにするんじゃなかったのかい?
すでに先生に「陽性転移しました」宣言をしていたあたくしは、最初は 「こっちが質問した訳じゃないよ?」「これは何の作戦?」と、いちいちドギマギしていた。
 
…今はもう慣れちゃって、変な邪推は無用なんだわと理解している。
要するに、これが先生のカウンセリングのスタイルなのだ、深読みしてはいけないんだな、と。
 
お恥ずかしい話、この先生の「自己開示」のせいで、あたくしはウッカリとカウンセリングが閉じられた空間で行われる虚構の時間だということを忘れてしまうことがある。
その不思議なリアル感の中で、あたくしは自身の悔しい、恥ずかしい、悲しい想い出を語り、追体験し、毎回、安堵感に包まれて涙を流す。
それは、これまでの、暗い井戸に向かって話しているように、虚しさばかりがのこるカウンセリングとは全く違うのね。
その深さは、これまでの「自己開示」の控えめなカウンセラーとの面接では一度たりとも感じることのなかった感覚なのだ。
 
要するに…言いたいのは……、何て、カウンセリングって教科書通りに行かないんだろう、本に書いてあることと全然違うし(泣)。
そういうことになんだろうな…。
まあ、あとは、現在のカウンセラーをとても尊敬しているということだろうか?
 
とりあえず、ものすごく苦しんだけど、話がまとまったみたいだわ。じゃあ、今日はこの辺で……。