心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

自分が分からない時はまず、心と身体感覚をつなげてみる。

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不思議なことがありまして、昨日のブログに書いた本人から2ヶ月振りに連絡が来ました。何だか縁が繋がってゆけそうで、嬉しいです。

先日の喧嘩の話が再び出るかどうか分かりませんが、ふとした弾みにそんな流れになったなら、今度は友人にも分かりやすいように自分の気持ちをお喋りできればいいなと思います。

「分かってくれて当然といった傲慢な気持ちを減らす」だけでも、怒りも喧嘩も減るハズです。

 

ところで、「子どもの幼少期に親がオノマトペを使って話しかけると、情操教育に良い」という話題をフト目にしました。オノマトペというのは、キラキラ、ワクワクといった擬音・擬態語のことですよね。

幼児教育を考える時、お勉強の前に、まず心を育てましょう〜というのが、最近の「頭の良い子どもを育てたい」人達の間では定説らしい。ちょいと調べたら、育児関連ではこれが結構話題になっているようで、その効果といったら教育にとどまらず、スポーツや医療の分野でも注目されているとか…。

 

で、これを読んで、「ほーほーほー」と深く納得です。

なぜなら、自分の今の気持ちや行動を正確に描写できる表現力は、心と身体感覚をつなげてくれるので、精神の健やかさを保つのに非常に役立つと感じるからです。子どもだけでなく、むしろ大人に大切なスキルと思われます。

 

人は無意識に他人の顔色を伺うあまりに、自分の気持ちの変化に伴う身体感覚は案外無視してしまっているのですよ。大人になるにつれ、自分がどう思っているかより、他人がどう思っているか考え、判断や行動をするようになりますよね。空気を読むってやつですか? それも社会的にはとても大切なスキルなんではあるのですが、あまりにも外界からの反応を重視して判断する癖がしみついてしまうと、直接、自分の気持ちを観察する機会が減ってしまいます。

人は自分の体の微妙の変化から「あ〜自分、嫌なんだわ」とか心の動きを測ったりしているところがあります。実は、思考よりも反応の方が早くて、思考はその反応に対する理由付けを行っているだけ、という説もあるくらい。そうした身体の反応にあまり気を配らないで、どう立ち回るのが良いか思考優先で物事を処理していると、本来の感情というのは無視されているだけで依然、存在はしているので、何かの折に体調に現れてくるのですよ。

 

心理療法の手法で「フォーカシング」というのがあります。

その中に、喜怒哀楽を感じた時の体感を表現するトレーニングというものがあって、

例えば、「怒りが胃の上のあたりで、グツグツしてます」とか

    「熱い鉄の玉がグルグルしている感じです」

などと、体感にピッタリの言葉を探し、表現するのです。

感情が生まれた原因を分析するのではなく、感情そのものを体感として捉えるトレーニングってのがミソです。

これなんかは、分断された心と身体感覚を、再びつなぎ直す行為。

そんな風に自分の体感を言葉を使って追っていくと、その体感が変わったり、うっすらと消えていったりするのを目の当たりにすることができて、なかなか面白い。

 

「ありのまま見る」「心の移ろいを感じる」あたりは、瞑想にも共通するエッセンスだと思います。瞑想よりフォーカシングの方が想像力を使うという点と、どうやら覗いている場所が違うあたりが、双方の異なる部分かな。

フォーカシングは、練習すれば自分一人で行うこともできるそうなのですが、やはり最初は熟練した方にガイドしてもらった方がよさそう。良い指導者を見つけるのが容易でないところがネックかな? (あたくし自身は、たまたま現在のカウンセラーさんの得意技だったようで、偶然、体験しました)

 

あたくしはどうも認知行動療法のような自らを合理的に納得させるような方法はダメみたいで、本は何冊も買ったのですが、全く効果を得ることができませんでした。理屈っぽいから認知行動療法は当然効果あるだろうという思い込みは、どうやら正しくないらしい。認知行動療法の本を読むと、自分にはどういった思考の偏りがあるかはよ〜く分かるのだけど、肝心の行動が変わんないんだよね。分かってもなかなか変わらないので、余計イライラします(笑)。

 

そういう訳で、イマイチ自分の感情をコントロールしづらいとお考えの方は、脳の説得はいったん置いておいて、厄介な感情がどんな身体感覚をもたらしているのか…と、心と身体感覚の繋がりに注目するといいかもしれません。