ぼくのやり方で自分を扱って!
自分の中の違和感は、胸痛、息苦しさ、動悸…といった予期不安という形を取る。
以前のあたくしは、これらを自分に何かを訴えるアラームくらいに思っていた。
しかも壊れているアラーム。
何でもないことで鳴り出すアラーム。
止め方の分からないアラーム。
自分はどうやったら、その壊れた部分を直せるのだろうか?と、そのことばかり考えていた。
ところが、現在のカウンセラーの先生は「その子の声を聞け」と言う。
その子…そうですか、機械ではなくで、それは生きものでしたか。
あたくしはじっと耳を傾ける。
だけれども、恐らくその子とあたくしでは言語体系が違う。
その子が泣いたり喚いたりしながら必死に自分に訴えかけてくるものが何なのか、分からない。
放っておくと、いよいよ勢いを増し、自分の頭をフリーズさせて布団に篭りっきりにさせたりする。
そういう訳でイザという時、ごく最近までは、その子をアルプラゾラムで眠らせてきた。
眠らせれば、その間は楽になる。
その子が起き出したら、また胸の痛みが迫ってくるのだけれど。
最近やっと、とことんその子の声を聞いてみようという気になってきた。
机の上やカバンの中、そこかしこに置いてあったアルプラゾラムを集めて、引き出しの中に放り込んだ。
そうして「さあ、聞いてあげるから、言ってごらん?」と、その子に語りかける。
けれどもちっとも上手くいかないのだな。
あたくしは焦れてイライラする。もっと分かりやすく表現してくれと思う。
「でも、ハッキリ言わない気持ちも分かるんです。本当のことを言うのが怖いんですよ」
もうこの辺は、あたくしとその子…つまり擬人化されたあたくしの違和感、予期不安の諸症状に関する妄想話だ。
「子どもの頃の、大人から言われる“ホントのこと言ってごらん?”っていうのがあるじゃないですか?
あれって、本当のこと言っても、結局怒られるじゃないですか?(笑)
あの展開を予測して、その子は本音を言えないんですよ。」
これはもう、かつての自分と親の関係を踏襲していることが薄々分かってる。
嘘をついても本当のことを言っても、親の意図するところを読み損ねたら、結局怒られる。
真実を語るよりも、どのように取り繕えば事態が丸く収まるのか、そればかり考えていた。
「あまりにも警戒心が強くて黙っているから、終いには誘導尋問するんですよ。こうなんじゃなーい?って…」
それが、幼少期のあたくしへの親の接し方だったし、自分の違和感に対するあたくしの態度でもある。
「ちょっと、ちょっと!」それまで黙って聞いていた先生が声を上げる。
「誘導尋問なんて止めてくれる?」
言葉は穏やかだけど明らかに咎めてる。
「ぼくは、一度だってあなたにそんなことしたことある?
ないでしょ?」
それはちょっぴり怒気を孕んでて、緊張感がある。
そうして、
「ぼくがいつもあなたにしているみたいに、あなたも自分のことを扱ってくれない?」
と、先生は言った。
いきなり皆様に問いかけちゃうけど、その時のあたくしの不思議な気持ちを想像できます?
あたくしは、ビックリしたよ。そうして後で考えれば考えるほど、ますます不思議な気がするよ。
自分の心が、もう自分一人のものではないような、奇妙な感覚。
あたくしが持て余し邪険にしている自分の違和感を、先生はもっと丁重に扱ってあげてと言う。
いつも先生があたくしにしてくれるやり方で、あたくしも自分の違和感に対して接してあげてと言うのだ。
「ちゃんと自分の心を抱えてあげたら、些細なことで動揺したり怒りを感じたりしなくなるから」
ああ、難しい。だって、何を言ってるか分からないのですよ?
「そのうち、絶対分かるから、大丈夫」
先生は自信たっぷりに言うけれど、そんな日が果たして本当に来るのだろうか?
「ねぇ、今、胸の痛みはどうですか?」と先生が問いかける。
「全然…痛くないです」
「ほら、今はちゃんと自分の気持ちを抱えられてるからだよ」
そうだろうか? それは違うと思う。
ギャンギャン泣く赤ちゃんを抱えてオロオロしてたら、隣から先生がヒョイと取り上げ、たちまち寝かしつけてしまった…感じなんじゃないかと。
「今は、先生がいるからですよ?」
先生は、それを否定せずにどことなく満足げだ。
「ん、それもあるとは思うけどね」
「それに、あの痛みは“一人の時にしか出ない幽霊”みたいなものなんですよ」
そんな風にあたくしが言うと、先生は顔をしかめた。
「何だか知らないけど、今日はよく“幽霊”の話を聞く日だなぁ…」
そういう日ってあるものですよね?
「怖いから、その“幽霊”の話はやめてくれない?」と先生は言った
※自分は予期不安時の頓服…アルプラゾラムを「我慢して」痛みと向き合うって宣言したけど、先生は「痛いの、我慢しないで」と言った。あたくしには、辛いことを我慢する→その我慢がどこかで報われる、っていう思考回路があるんだろうな。そんなこと必要ないよ、なるべく楽に行きなさい、と先生は言うのだ。
先生、ヘルプミー!
カウンセラーの先生に助けを求めてしまった。
ゴールデンウィークを挟んでいるので、カウンセリングのスケジュールは変則的だった。
次のカウンセリングはまだ2週間も先。
いや、スケジュールを決めた時は、もちろん大丈夫だと思ったのだ。
最近のあたくしの精神状態は悪くないし、何かあっても自分で乗り越えられそう。
そう思っていたのだけれど…ひとたび激しい葛藤と混乱に襲われるともうダメだった。
とりあえず、周囲の友人にそれとなく相談したりする。
そうして、一人でいろんな角度から検討してみたり、発想の転換を試みる。
ネットを検索しまくり、答えを求めていたこともあるけれど、そこには答えがないことはもう知っている。
答えは自分の心の中にあるのだ。
だけど、その答えは違和感としてしか感じることができない。
その違和感が何を訴えているのか、自分には分からない。
自分の中に、泣き叫ぶ赤子を抱えているのだ。
泣き叫んでいるのは分かるけれど、自分の心が何故そんなに泣き叫ぶのかは分からない。
自分の心に対して、オムツなのかミルクなのか? と、新米ママみたいにオロオロする。
これまでなら、自分はそれを半錠のアルプラゾラムで鎮火してきた。
だけど、今回の辛さは、何だかそこに逃げ込もうという気持ちにはならない。
じっと、自分の違和感を見つめている。
この、誰かに傷つけられた時のようなヒリヒリとした感じは何なんだ?
カウンセラーの顔が思い浮かぶと、少しホッとして涙目になる。
そうだ、そうだ、と、あたくしはカウンセリングを想定して手紙を書いてみる。
この違和感は、あたくしはこういう理由だと思うんですよきっと…みたいなの。
そのバーチャルお手紙は、みるみる綴られて、結構な長文になってしまった。
困ったことに、こうして形にしてみると、何だかリアルに出してみたくなってきた。
いや、それはいかんよな。それはいかん。
先生のメールアドレスは、あくまでも連絡用として存在しているのだ。
でも、もしかしたら、先生に投げかけるだけで、自分は安心するかも知れない。
お返事はいらないから読んで欲しいって、メールしてしまおうか?
考えあぐねて、恐る恐る予告メールを出す。
ここに至った経緯に加え、これから長文メールを送ろうとしていること、見てもらえるだけで安心できそうなこと、などなど…。
週末の夜というのに、先生からは驚くほど早く返事が届いた。
「全てはカウンセリングルームで進めた方がいいですよ」と面接の提案が書かれていた。
そうだね、それがいい。何よりも先生がタダ働きしなくていい(笑)。
愚かにも、自分は次の面接までの間、何とか自分を誤魔化してやり過ごすことばかり考えて、臨時の面接をお願いする発想が思い浮かばなかったのだ。
映画『普通の人々』で、友人の自殺を知った主人公が取り乱し、カウンセラーに助けを求めるシーンを思い出した。
それから、以前、先生にその映画のことを「ご存知?」と話したときに、「知らないなぁ〜」と1ミリの興味もなさそうに答えた先生の間の抜けた顔を思い出す。
先生は、あたくしが理想とするカウンセラー像のことなんか知らないけれど、ちゃんとその理想をなぞっているのだ。
今回の自分の葛藤や混乱や違和感は、友人の死のような大きな出来事などではなくて、ほんのささいな日常のつまづきだから、そんな弱い自分に途方にくれる。
今まで、もっと大変なことだって自分一人で切り抜けたことがあるのに、ひとたび病んでからは、どうしてこんなに弱くなったのか?
違和感に包まれると、何もかもすっかり混乱して、簡単なことも決められなくなる。
これから、たくさんの矛盾がある世の中に、あたくしは戻っていけるのかなぁ?
ささいなことに傷ついたり困惑したり、いちいち憤っていては、神経が持たないのに。
当日、カウンセリングルームに出かけると、チャイムを鳴らしても返答がない。
不安に駆られてメールをチェックすると「予定が少し押してしまったから、待ってて!」と入っていた。
入り口でボンヤリと待つ間、「もう、泣きそう」と思う。
先生の顔を見たら、安心してワアッと泣き出しそう。
そうして、泣きながら「あのね、あのね…」と自分の混乱を先生にぶつけそうだ。
だけど、急ぎ足で現れた先生を目にしたら、自分は必死に謝っている。
「あっ、あの、すいません、もう少し一人で頑張れるかと思ったんですけど、ダメでした…」
先生はお部屋の鍵を開けて、「さあ、どうぞ」とあたくしをいざないながら、言った。
「いいのいいの、ここはそういう場所だから」
あたくしは、困った人。
カウンセリングの日。
あたくしは先日のハローワークでの一件をお話する。
犯罪被害者であることを告白したあたくしに、ちょっと無神経な発言をした相談員。
いつもなら当然出現したであろう、自尊感情が傷つけられた際の激しい怒りが全く出てこなかったこと。
そのことに、とてもホッとしたんです…と。
うつやトラウマを抱えている人は、些細なことで激昂してしまうことがある。
怒りというのは瞬発性の高い化学反応だ。
感情に飲まれ、不必要に人を傷つけてしまえば、ますます自信をなくしてしまうだろう。
「本当の自分はこうじゃないんです」と言い訳をしたくなる。
そうして怒りはまず、自分を消耗させる。
怒りが沸き起こる時に消耗し、その怒りの制御を試みて消耗する。
その時、怒りへのアクセルとブレーキ、二つの力が拮抗して、他人から見たらあたかも静止しているように見えるかもしれない。
だけど、本当は焦げ付きそうに高速回転し、疲労している。
かつての自分は、そこから自力で抜け出そうとして、「アンガーマネジメント」の本とか読んだりしたのよ。
全く役に立たなかったけど(笑)。
「いつもの自分だったらどうしていたと思います?」
自分はカウンセラーの先生に問いかける。
そうして、まだ言ってない、自分のお恥ずかしい部分をカミングアウトする。
「後でクレームを入れちゃうんですよ。メールとか、手紙で」
先生は「ほう」という顔をする。
「わたしは傷付きましたとか、もっと真面目に聞いて欲しかったとか、ね」
以前のカウンセラーには、「期待はずれのカウンセリングでガッカリした」と書き連ねた手紙を送ったことがある。
犯罪被害者の為の電話相談を利用した際は、「40分も身の上話を聞いておいて結局“こちらでは何もできない”ってどういうことでしょう?」と抗議のメールを入れた。
以前のカウンセラーからは返事が来ることがなく、電話相談の方からは魂の抜けた非常に丁寧な謝罪メールが届いた。
自分は分かってる。
怒って抗議しても、決して自分が満足するようなものが返ってくることなんかないってことを。
それどころか、共感が得られないことに、余計に傷ついてしまうことも。
だけど、この怒りをやりすごすのは難しい。
この抗議は正当なものであり、あたくしは冷静だと自分に言い聞かせる。
手紙やメールの文面は、熟考した末であり決して怒り任せの軽率な行動ではないんだ、という雰囲気を出す。
でもその時、本当は自分の心はグツグツと煮えたぎっている。
「助けられないのに、いかにも助けられるかのように言うな!」とか。
「期待を持たせて人の心を弄ぶな!」とか。
最初は、書いただけで、もしかしたら気がすむのではないか? とも思う。
でも、何日か迷った挙句、結局、怒りの苦しみから少しでも開放されたくて、結局、行動に移してしまうのだ。
自分だって、カウンセラーや様々な相談窓口の担当者が全ての人を救済できるなんて思ってはいない。
だけど、頼らざるを得ない自分、過剰に期待してしまう自分。
我慢していては決して怒りは収まらないし、行動に移しても決して報われることはない。
いずれにしても苦痛を伴うジレンマに、少しでもマシな行動を選ぼうとグルグルと考える。
「わたし、クレイジーなんですよ」と、あたくしは言った。
「そんな風に思っちゃってるの?」
自分を粗末にした物言いをすると、先生は悲しそうな顔をする。
先生はこういう話は嫌だろう。だけど言わずにはいられない。
「だって、そうでしょう? わたしはおかしい。おかしいでしょう?」
こういう時、先生は、そうだとも、いや違うとも、何のフォローも入れない。
「わたしは困った人」「わたしはクレーマー」「わたしは狂犬みたいな奴」
自分という人間は救いようのない、本当にどうしようもない人なんです、と自嘲するあたくしを先生はずっと黙って見つめてる。
「だけどね…」と、あたくしは続ける。
「先生は、そんな自分に対して、とっても上手にやってくれたので、感謝です」
実は我々、とっても際どいところを歩いて来たんですよ、と自分は告白する。
あたくしは、先生に失望したり、先生を傷つけずに済んで、内心ホッとしてるんです。
もう、期待した反応が返ってこなくても、割と、大丈夫なんですよ?
「ずっと、自分が嫌でした。
怒りに飲み込まれないのは、なんて安らかなんでしょう。
普通の人は、何て安らかなんだろう、と思ったんです」
しかし、依然としてストーカー犯に対する怒りが強いこともお伝えする。
先生は「じゃあさ、その怒り、処理してみる?」と提案してきた。
「ん〜?」と考えている間に先生は付け足した。
「怒りの処理は疲れるから、元気な時にやった方がいいけど」
そうだろうね、あたくしはそこで躊躇した。
直視できないほどの怒りに向かう恐怖に、心の準備ができなかったのだ。
そうして、その後の自分はどうなるのだろう? とも思った。
「怒りを処理したらどうなるの? 怒りはなくなる?」
「なくならないよ? 怒りは洗練されて、エネルギーに変わって、あなたは元気になる」
「元気にかぁ…だったら、いいですねぇ…」
それは、ずっと待ち焦がれていたことだから、しみじみと出た本心だ。
だけど、そこには何だか曇りというか、淀みというか、どんよりとしたものが横たわっていた。
先生が言った。
「あなたが“自分は変わった” と思えたら、それは自分が努力したからなんですよ?」
いやいや、自分はまだ全然ダメ! 先生の力が必要!
そんなことを考えてたのだ。
自分で起き上がれるようになったら、そうしなきゃね。
まだ先生に抱き起こしてもらいたい気持ちが、子どもっぽくて恥ずかしい。
あたくしは“それ”を一生懸命に飲み込んだ。
※かつてあたくしが利用した犯罪被害者の為の相談窓口の件、
被害に遭った後、早い段階であればお手伝いできることも多いようです。
なので、今回の記事で「相談窓口、あてにならんな」とか思わずに、いざとなったら片っ端から思い切り頼ってみてください。
何にせよ、あたくしのように一人で長い間、悩まぬことが大切ですよ。
ハローワークにて。
就職活動の一環でハローワークにも通っているのである。
今回は、相談員の所に履歴書を持参して、訪れた。
相談したいことはひとつ。
「ここで…」と、あたくしは履歴書の1点を指し示す。
「事件に遭い、体調を崩してからは、仕事が続かないのです」
現実は変えようもないが、気持ちの整理をつけて、面接時に淀みなく返答したいのだ。
相談員は「まあぁ」と言った。
職を失う度にハローワークには来ているのだけれど、犯罪被害を話題に盛り込んだのは初めてだ。
要するに、実験だな。
トラウマで働けなくなった人とか病気をクローズにして働いている人とか、そんなことに相談員がどんな対応をし、その時、自分がどんな気持ちになるのか芸の肥やしとして、知りたい。
相談員の回答は簡単だった。
「手短に適当言って誤魔化しなさい」
手短というのがポイント。詳細にこだわって長々喋ると馬脚を現すからね(笑)。
「家庭の事情」という伝家の宝刀があるではないか、すべからく職歴のブランクはあれでイケ、とのことだった。
嫌だなぁ〜、結局、嘘を付けというのがご指導なのだ。
いちいち本当のことを言いたくなってしまう自分の方がおかしいのだろう。
ただ「過去を取り繕うことにエネルギーを注ぐなら、今これから何ができるかアピールした方が効果的」とアドバイスされたことは、「その通り」だと思った。
何だかね〜、その相談員の雰囲気が、街角の手相見るおばちゃんみたいなんだよね(笑)。
「事件なんて随分前のことじゃない、忘れなさいよ。あなた何やってるの?」
「いい仕事について、誰かを見返したいというこだわりがあるんじゃないの?」
「心を込めて家事をすることだって立派な仕事なのよ?」
優しさを含んだ辛辣な言葉で、ズバズバ、グサグサ来る。
でも、この辺はこの10年、何度も人に言われたし、自問自答してきたことだから、想定の範囲内。
だけど次の言葉には驚愕した。
「あなたより、罪を犯した人の方が、ずっと、職を得るのが難しいのだからね」
申し訳ないけど、当たり前じゃあないのよ! 比較しないでよ! と思った。
それより、犯罪被害者だって言ってる人の前で、それ言う?(笑)
あたくしは、カウンセリングでトラウマ治療をしたことさえ話したのだ。
しかし、元犯罪者の就労支援というのは、この方のライフワークらしく、何やらスイッチが入ってしまったようなのだ。
恐らく、あたくしの「犯罪被害者です」という言葉が、多分、そのスイッチを押したのだろう。
面白い…あたしが相談員に対して抱いた期待感には、予想以上のリターンがあったのだ。
「逮捕をきっかけに家族からも縁を切られてしまったような、そんな孤立無援な人をサポートする」と、その人は言った。
「再就職先は、悪い仲間と再会することがないように郊外にする」とか、
「再就職できないと再び罪を犯すから、何が何でも絶対に就職させる」とか、
とにかく、それらはあたくしの就職には全く関係ないのに、相談員の情熱的な語りは止まらない(笑)。
「あたしはね? 彼らには“刑に服して罪を償ったんだから、それまでのことは忘れて前を向いて頑張らなきゃ”って言ってんのよ」
そうなのだ、ここだけでなく、大抵のことは誰に対しても「忘れなさい」と言うのが指導の王道なのだ。
あたくしとあたくしの大切な同僚と職場を貶めて逮捕されたあの犯人も、「もう罪は償ったのだから」と励まされたのだろうか?
あたくしの犯人の場合は、罪を認めようともしなかったし、認めた後も言い訳ばかりしていたと聞くし、罰金50万円や、他にも損壊したものの賠償金などは、無一文の犯人の代わりにさして裕福でもないお姉さんが支払ったのだ。
事件から5年経った頃、もう事件のほとぼりが冷めたと思ったのか、SNSを通じて犯人から連絡が来た時も、全く悪びれている様子がなかった。
SNSはブロックしたものの不安に駆られ、インターネットで犯人の名前を検索(非常に珍しい苗字)すると、彼は今までとは全く違う職業についており、とある施設のHPでニコニコと笑った写真とともに「真心を…」とかほざいているのある。
それを目にした時の、自分の中に黒いシミが広がるような感覚が忘れられない。
嘘を付くことに何の良心の呵責もない彼は、罪を犯したことさえも誤魔化して、シレッと再就職したのかもしれない。
「忘れなさい」と言われる前に、自分のやったことを覚えていられないような人もいるだろう。
かつての自分だったら、相談員から今回のような言葉を投げかけられることも耐えられなかっただろう。
「あなたは被害者より、元犯罪者の肩を持つのか!」と、いきりたったかもしれない。
だけど、目の前の相談員の方は、“あたくしの”元犯罪者を庇っているわけじゃない。
犯罪被害者より元犯罪者の方が就職が困難である、と一般論を述べているだけなのだ。
犯罪被害に遭ったことで働けなくなる人だっているだろうけど、それはハローワークの管轄外。
就労意欲がある人であれば、そのバックボーンで選別することなく、あまねく就職のサポートをするのがハローワークなのだ。
そう考えると、目の前のこの相談員は仕事に熱心な全うな人であり、あたくしは多少くたびれていたとしても、まだまだ状況が恵まれた求職者だと言いたいのだろう。
「(いろんな意味で)こんなにハローワークで勉強させてもらったの初めてだわ」との満足感を胸に、最後にあたくしは相談員に感謝を述べて席を立った。
だけど、自分は気付いてしまった。
自分はまだ犯人をかなりの激しさで憎んでいる。
進歩したのは、その憎しみを赤の他人に向けなくなったことだけ、である。
トラウマによる恐怖心が薄れて、外に出たり、新しい人と知り合うことへの不安が軽減されても、それは犯人への怒りが収まることとは全く別のことなんだ。
自分は未だに、犯人に一生、自分のやったことを後悔し続けてもらいたいし、どれだけ卑劣で最低なことをしたのか恥を感じ続けてもらいたい、と思っているのだ。
全く自分に縁もゆかりもない人から過去の罪を告白されたら、あたくしだって「それは償ったんだから」と言うだろう。
だけど、それとこれとは別、絶対あたくしはあの犯人を忘れないし、許せない。
そう頑なに思う自分がおり、それは自分が今以上に安らかになるために、乗り越えたい山なのだ。
頭のネジが取れたようだ。
セーターを後ろ前で外出し、一日中、あるいは親切な人が指摘してくれるまで全く気付かない…とか、そういうところがあたくしには昔からある。
久々にやってしまった。
気がついたのは、地元の駅に着いて肌寒さからカーディガンの前ボタンを閉じようとした時…。
「これ…裏返しに…着てる…!」
ものすごく危機感があるのは、特に忙しくもなく、慌ててもいないのに、ごくナチュラルな感じで立て続けにウッカリなミスを連発している、その頻度の高さだ。
先日、知人の個展に出かけたら、ギャラリーは閉まっているのである。
ポカンとしていたら、隣のテナントの人がスケジュールを教えてくれた。
「一週間、早く来ちゃったんだ!」
その上、忘れていたと思っていた、案内のハガキも鞄の底から発見された。
その他にも、とある書類の発行を郵便で申請したら、何種類か必要な本人確認の書類を(準備していたにも関わらず)同封するのをガッツリ忘れていた、というのもある。
しかし、その程度なら自分の中ではギリギリ許容範囲だったかもしれない。
心底「まいったな」と思ったのは、先日、友人の紹介で面接を受けた時のこと。
今度は短期のアルバイトではないので面接官は真剣だ。
「さあ、あなたの職歴を最初から直近のまでお話しください」と来た。
各職場でどんな仕事をし、そうしてどのような理由で辞めるに至ったのか…?
そういうことが人事担当者は聞きたいのだな。
実は、自分、事件以来10年間は2年以上続いた仕事がない。
まさか「身体中に蕁麻疹が出まくって辞めました」とか「朝起きたら身体が布団から出られなくなって辞めました」なんて言える訳もなく、そもそも事件に遭ってから少々おかしくなったなんて言ったら、即、ゲームオーバーだ。
その辺りは今までは全て嘘で塗り固めてきたのだ。
だから、もちろん最初のうちは緊張していた。
しかしその日、次第に自分はいつになくリラックスしてしまい、辞めるに当たっての自分の正当性を主張していたのだった…。
それは間違いなくお門違いな場面だったのだけど、ごく自然に、客観的に“前職を辞めるに至った経緯”を語る自分に、あたくしは驚いた。
「部署内の人がメンタルダウンしそうなのに気がついて、上司にそれとなく訴えたり、その人の悩み事を聞いていたのだけれど、その人は結局辞めてしまった。
一番新人のあたくしが何故か後を継ぐことになり、本来の仕事も回らなくなった。
欠員補充もなく、その状態が改善される様子もなかったので辞めました」
いや〜これ言ったら、あはは、ダメだよね。
どんな境遇でも頑張ります!って風を醸し出さないとアウトなの。
いつもなら、止むに止まれぬ感を出したりして、もっと上手く説明してきたの。
その辞めた会社だって「今度こそ頑張るぞ〜!」とか思って入った会社だったのよ。
だけど、年下の上司は社長の恫喝を食らい続けて毎日涙目だし、それをフォローするだけでも毎日辛かったの、本当は。
自分の深層心理が「もし御社がそんな感じだったら、あたくしきっとすぐに辞めますわよ?」って言いたいんだろうな(笑)。
これまで、割と巧妙につけていた嘘が、何故かつけなくなったのだ。
これは、困った。
「そういう訳で、肝心な時に自分はフニャフニャで役に立たなくなったのです」
と、あたくしはカウンセラーの先生に訴えた。
「少しはシャキッとできないと、職にありつけない…」
先生は「就職活動、上手くいくといいねぇ〜」と前置きしてから、こう続けた。
「世界の方が狂ってるんだから、無理に合わせなくてもいいんだよ?」
その言葉は嬉しい、嬉しいのだけれど、現実に則してない。
狂ってるとしても、少しは世の中に合わせられないと、自分はいつまで経っても無職だ。
そんなあたくしの呪いを解くように、先生は言う。
「きっとどこかに、あなたに合う職場があるさぁ〜♪」
カウンセリングを受けているうちに、あたくしの頭からネジが一つ取れたみたい。
取れたなら、拾って付け直せばいいのだけれど、そのネジは、取れた弾みで転がって、側溝に落ちてしまったらしい。
これは困った。
しかも、落ちたらしいことは分かるけど、それがどんなネジかは分からないのだ。
「他の人が気付かないことに目配れるってことはさ、そういう仕事に向いてるってことじゃないの〜?」と先生がフォローしてくれる。
そうかもね。
だから自分はカウンセリングの勉強までしたに違いない。
だけど、それほど辛かったんだ。
みんなが見ないで済んでいるところが見えてしまうことが、そうして気付いてしまったら何もせずにいられないことが、辛かったのだ。
カーディガン裏返しでも、面接に落ちても、いままでのように過剰に自分にガックリきたり、怒りが湧いてこないのも、不思議なのだった。
腎臓を温める。
自分的には、カウンセリングと気功はとても被る部分があって、カウンセリングが面白くなってきた頃から、次第に気功のレッスンからは遠のいてしまった。
どうやら、あたくしにとっての先生は一人で充分らしい。
気功の先生は、人の気を見る際は「ちゃんとその人に挨拶をして、玄関で靴を脱いで、静かにその人の中に入るように」と言っていた。
そうでなくって、ソっとね、と気功の先生は何度も繰り返していた。
凡人のあたくしにとっては「なんのこっちゃ?」だったのだけど。
しかし、カウンセリングであれば、その例えは非常に腑に落ちるのだ。
あたくしのカウンセラーの先生は、とても礼儀正しい。
驚かせないように、静かに入ってくる感じがよく分かる。
何でも最初に「◯◯していい?」と、こちらの許可を求めてくれる。
「メモを取っていい?」とか「もっと詳しく聞いてもいい?」とか。
そうして気が付いたら、心のリビングの中央に鎮座しているのだけど…。
今日は、身体の痛みの話になった。
あたくしは、ここ5年程、ずうっと身体がガッチガチだ。
パニック発作が起こりにくくなり、予期不安も随分マイルドになった頃から、その苦痛を補うように身体が硬く痛むようになった。
イメージ的には、炙られたスルメが縮んでグルンと丸まる感じ。
マッサージに行って身体を伸ばしてもらったりすると、意外に自分の身体は柔らかいそうだ。
…なのだけど、マッサージの帰り道にはもう、あれほど揉みほぐしてもらった背中の筋肉がピキピキと硬直していくのを感じる。
自分の中の何かが、常に身体を緊張させ強張らせてようと頑張っているのだ。
「どこが痛い感じですか?」とカウンセラーの先生が聞いてくる。
以前「身体がガチガチです」と訴えたところ、「湯船に浸かってよく温まりなよ」と親戚のオジさんのようなアドバイスをいただいたことがあるので、特に期待はせずにあたくしは取り止めもなく答える。
「心臓の後ろが痛い。そこが痛くなかったら、心臓がもっと楽になりそうなのに…」とか
「あ! あと腎臓の辺り、硬いですね〜 バンバン叩いたりします」とか。
そうしたら、腎臓という言葉に先生が反応した。
何でも、腎臓のあたりに手を当てて温めるのが、癒し業界のトレンドらしい。
それがストレス軽減に繋がるんだとか。
それがストレス軽減に繋がるんだとか。
「本当に効くかどうか分かんないけどさ」と先生があはっ、と笑う。
ほらやっぱり、親戚のオジさん的な会話だわ、と思いつつも、自分は両の手を後ろに回して腎臓の辺りに当ててみる。
やっぱり似ているな、気功とカウンセリング。
気功でも、腎臓は生命の泉がある大切な場所とされていて、やはり手を当ててナデナデしなさいと言われたりする。
自分の手は、ヒンヤリとして冷たかった。
「…なんか、腎臓が寒い〜と言ってます」
あまりにも手が冷え冷えとしていて、腎臓がキュッと身を縮こまらせたのが分かった。
「ええ? そのうちに温かくなってきませんか?」と先生は聞く。
「ならない」
「自分の手、すごく冷たいから…」と、子どもがピアノを弾くような感じで、あたくしは両手を先生の前に差し出した。
先生は「ちょっと…いいですか?」と前置きして、右の手のひらを自分の左手の甲の上にソっと重ねた。
「!」
「本当だ、冷たい。僕の手、温かいでしょう?」
先生はそんなことも、どこか自慢気に言う(笑)。
すっかり忘れてたけど、先生はボディワークの先生でもありクライエントに触れる人なんである。
あたくしはカウンセラーは絶対にクライエントには触れないと思い込んでいたので、虚を突かれた。
実は前から先生の手がとても温かいことを知っている。
いつだったか帰り際にカウンセリングの代金をお支払いする時、ウッカリ手に触れてしまったことがあるのだ。
最初に温度が接近してきて、指先自体が触れたのは瞬きほどの時間だったと思う。
自分はそんなことも、潔癖な女子学生のように罪深く考えていた。
「ホントだ、先生の手から何か出てるね!」
「何にも出してないって(笑)」
手を離すと、そのぬくもりは淡雪のように消えていく。
実は陽性転移が最も激しかった頃、帰り際に先生にカウンセリング代をお支払いする時、その手を掴んで思い切り引っ張りたい誘惑に、何度も駆られていた。
きっと先生は驚いて手を素早く振り払うだろうし、自分はそれでとても冷静になれるだろう。
いや、冷静になるどころか、ムキになって力いっぱい腕にしがみ付くかもしれないな、と心配もしていた(全てのカウンセラーはこの辺のリスクに対し、どのように心得ているんだろう?)。
だけど、そういう試みをしないで済んで良かったなぁ、とホッとしていたのだ。
自分から信頼関係をぶち壊すような真似をしなくて良かった。
相手の誠実さを疑って、試すようなことをしなくて良かった。
その後、話は「痛いところばかり見つめないで、心地よいところにも目を向けるように」といった重要な…この日のカウンセリングの最も大切なアドバイスに繋がるのだけど、自分はハイハイと聞きながらも、ずっと先ほどの出来事の儚さを考えていたように思う。
先生に触れることがあるとすれば、このカウンセリングが最終回を迎える時の別れの握手だろうと思っていたのだ。
その時しかチャンスはない! と思い込んでいたのですよ(笑)。
妄想なんかは絶対その通りにならないのだから、そんな先のこと考えなきゃいいのになぁ!
そうして、この、人のぬくもりを求める気持ちは、どちらに流していけば健全と言えるのだろう?
あなたの父親は完璧なのよ?
母と電話していたら、流れであたくしのカウンセリングの話になった。
あたくしがそこで何をしているのか、カウンセラーの先生に何をされているのか、母は興味があるようだ。
それに、あたくしがカウンセラーのお世話になることに、母は負い目を感じてる。
あたくしのカウンセリング通いは、
「あなたがやり損なったことがあるから、娘は病んでカウンセリングを受けてます」
と、暗に母を責めているのだろう。
確かにかつては責めてるニュアンスがあったけれど(笑)、今は正直、そんな気持ちはない。
たくさんのことがすでに解決したし、残っているものも解決しつつある。
今の先生のカウンセリングを受けてから、自分はだいぶ色々なことが分かってきた。
「それでも続けるのは、もっと自分を知りたいからだよ?」
「要するに、面白いからやってるんだよ」とあたくしが説明すると、
「そこまでして、どうして自分のことを知らなければいけないのか?」と母は言う。
そこまでというのは、お金と時間とあたくしの苦悩、全てに関してだと思う。
「もっと好きなことをして気晴らしした方が良くないかい?」
「お小遣いが足りないなら、言ってね?」
そんなお金持ちの人みたいなことを母は言う。
うっかり「カウンセリングではカウンセラーはパパ役をするんだよ」と言ってしまったら、母は軽くショックを受けたみたいだ。
「ほら、自分のカウンセラーは男性だから、パパ役になるんだよ」と慌てて付け足しても母は納得しない。
それは、母だけでなく父もまた不足があったから、と言っているようなものなのだろう。
「いやそういう訳でなく…」
どんな柔らかい言い方をしたら通じるだろうと思いながら、
「ほら、お父さんはさ、すごく忙しくて育児にあまり参加できなかったじゃない?」
と言ってみた。
昭和の父は、みんな普通にそんな感じだから。
「あんた分かってない、そんなことないよ!」
間髪入れず、母は大きな声を上げた。
「お父さんはね、毎晩仕事から帰ってくるとまず一番最初におまえの側に行って、頭からつま先まで、どこか怪我をしていないか調べてたよ?」
その話を聞くのは初めてではなかったんだけど、なんだか今日の印象は違ってた。
「おまえを宝物のように扱って、ちょっとでも怪我をしていたら、あたしはもの凄い剣幕で怒られたんだから!」
だから、父親は全然育児に参加してなかった訳じゃない。
子どもをとても愛していたし、実際に大切にしていた。
育児に参加する理想的な父親だったんだよ、と母は力説する。
それなのにあんたは、何だってカウンセラーのパパ役が必要になるのよ? と。
真実を捻じ曲げて何事もなかったかのように解釈する母に、いつもイライラしていた。
何もないのに不満を訴えるおまえの感覚がおかしい、ひねくれている、と何度も言われた。
だけど今日は、一生懸命に父をかばう母に、初めて「あぁ、大変だったんだね、お母さん」という気持ちがジワァ〜と湧いてきた。
人は、生まれてからおおよそ3歳くらいまで記憶の空白期間がある。
実はこれが愛着形成にとってとても大切な時間らしい。
その間に作られた癖みたいなものは、3歳以降の記憶や思考によって解釈されることになるのだけれど、それは時に相当お門違いだったりするらしい。
…と、最近、本で読んだ。
自分が一生懸命に謎解きしようとしても、カウンセラーの先生から「無駄!」「ハズレ!」と言われるのはそういうワケだ。
赤ちゃんの頃のあたしは恐らく、自分のせいで母が父から怒られている場面を、見ている。
ビックリして動きが止まっているかもしれない。
怖くて泣いているかもしれない。
当然覚えていないけれど、赤ちゃんだった自分は何かを見て学習したはずだ。
どうしたら、この空間が平和になるか、一生懸命に考えたかもしれない。
自分の中の安全基地がどのように不完全なのか、あたくしには知る由もない。
そうして、その修復にはカウンセラー扮する偽パパのサポートが必要だなんて、親に理解できるワケがない。
カウンセリングルームで自分の魂が、赤ちゃんから現在までの様々な時間を行ったり来たり、壮大な旅をしているのなんて、到底伝えきれないのだ。
電話の向こうから母の声が聞こえてくる。
「お母さん、子どもの頃のおまえに、いろいろ頼っちゃっていたの、ごめんね」
「うんうん、分かってる、大変だったの分かってるから」
咄嗟にそうは言ったけれど、それは実は意外な言葉だった。
本当は自分、全然分かってないのかもしれない。
だけれどもきっと、あたくしはずうっと、そんな言葉を待っていたのだ。
だからもう、余計なことを言う必要はない。
先生にいつも「その感情を、よく味わいなさい」と言われているのに、あたくしはあっという間に感情の渦に飲まれてしまった。
ダメだな、自分、修行が足らぬ。