心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

カウンセング講座を受けながら「あたしはカウンセリングとは無縁」と言い切る人の弱点。

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「自分自身はカウンセリング受けようなんて考えないよ?」
一緒に講座でカウンセリングを学んでいる人がこう言った。
「だって悩み事は自分で解決できるもの」だとか。
 
そうだね。カウンセリングを学ぼうとする人は2種類いると思う。
自分もカウンセリングを必要とする人と、自分にはカウンセリングとは縁がないと思っている人と。
見回すと、現在の講座では圧倒的に後者の人が多いみたい。
 
そういう人は、部下が鬱で休職しないようにとか、職場の離職率を下げようとか、公共の福祉に寄与したいという意欲に溢れた、とても精神が健全な感じの人々だ。
カウンセリングの練習の時も、カウンセラー役は嬉々としてやるけれど、クライエント役は「ネタがない」と言って苦手そうだ。二度同じネタを出してくる人もいる。
あたくしはそういうのを間近で見てて、「本当に悩み事ないんだ!」といつも内心驚嘆している(笑)。(悩み事を自覚していない、というのも考えられるが)
 
人生における諸問題に対して自己完結できるのは結構なことだけど、そういう人にありがちな、致命的な欠点が一つある。
人前で弱みを晒す恥ずかしさを理解できてない人が多い、ってこと。
 
カウンセラーがカウンセリングを始める時の常套句で、
「これはあなたの時間です。守秘義務は守られるし、あなたは思ったことを何でも言っていいんですよ」
みたいなのがあって、これさえ言っておけば、クライエントは安心して何でも話せると思い込んでいる人がいる。
 
わざわざ自分から相談に来て話していることなんだから、平気なんだろう、と捉えているようなフシがある。
 
こんな個人的なことを今日会った人に話すなんて、ものすごい恥や情けなさを感じてるかもしれないなんて、想像すらしない人がいる。
 
クライエントが、勇気を振り絞って告白しているかもしれないなんて、考えもしていない人がいる。
 
まあ、しょうがない。今まで問題は自分で解決してきて、そんな境遇に陥ったことがないのだから。
 
以前、カウンセリングの練習で、あたくしがクライエント役の時、自分がストレスで精神的にメルトダウンして退職しなくてはいけなかった話をしたことがある。
その時に、心が健全な人は、「それで精神的に参ってしまったんですね?」と何度も事実確認してくるのだった。
事実確認や、カウンセラーが話の途中でそれまでの話をまとめたりするのはよくあることで、技法的には特に問題がないと思う。
 
…のではあるけれど、あたくしは言わずにはおれなかった。
「自分にとって、精神的に参って会社を辞めなくてはいけなかったことは、とても恥ずかしいことなんです」
「その恥ずかしいことを、何度も確認されることに苦痛を感じました」
 
その時のカウンセラー役の「ああ、そうなんですか」「言われて初めて気付きました」という反応に、やっぱりね、そこからだよね? とあたくしは軽く失望し、「こういう話を振っておいて良かった」と一人満足したのだった。(もっとも、カウンセリングの練習では、あまり重い話はよしときましょう、ということになっている)
 
カウンセラーが話をただ聞いてあげさえすればクライエントの心が軽くなる、と思っているとしたら、大間違いだ。
話す前にはものすごく緊張するし、カウンセラーがその気持ちを分かってくれていないと、その時間は苦痛でしかなかったりする。
 
だから、クライエントとしてカウンセラーと接していて「こいつ分かってねーな」と思った時は、率直に指摘してあげるのが親切ってものだと思う(笑)。
「これ言うの、恥ずかしいんですから」って。
こんなことすら、言わないと伝わらなかったりするけど、一度言えば分かってもらえると思うしね。
 
自分は単なる弱者ではなく、勇気ある人なんだと知ってもらうためにも是非!

「カウンセリングを学んだら辛くなった」という人。

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カウンセリングの勉強仲間が「カウンセリングを学んだら余計に辛くなった」と、こぼしていた。
何で? と聞いてみたら、
「職場や身の回りに困った人がいると、すぐに分かるようになった」と言う。
 
そういうのは、身に覚えがある。
自分も、ストーカーに遭ったりパニック症状を何度も再発させてたりしてから、周囲の状況に敏感になった。
多分、常に交感神経バリバリで、身の回りの安全確認をしているうちに、たまたま目に入ってしまうのでしょう。
同じ病の香りを嗅ぎ取るというのか、ストレスで参りそうな人などが目に入ると構わずにはいられない。
 
しかし、自分も結構、精一杯だったりするので、他人の問題解決に積極的に関わるとすぐにクタクタになってしまう。
相手の為というより、自分がそうせずにはいられない、という衝動に駆られているだけだから、それは、独りよがりで、場合によってはおせっかいだろう。
 
なので、お悩みいつでもお聞きしますよ♪的な雰囲気だけは残しつつ、あたくし的にはもう少しフラットに世の中を見れるようにしたい。
そういう風に思って、カウンセリングを学び始めたのだ。
 
 
 
ははあ、分かった、困った人を見ると、なんとかしてあげたいと思う方でしょう? と聞いたら、
「そうなんです、どうやって解決したらいいんだろうと考えてしまいます」
「そうした人が見えてしまうことにイライラします」と言っていた。
 
基本的にその人は普段の会話から察するに、とても優しい心の持ち主だ。
だけど、人の気持ちがより解るようになった結果、辛くなったり、イライラしてしまうのはよろしくない。(ついでに、カウンセラーの態度としてもチト違う)
 
それはさあ、見えているけど何もしない、って決めることだよ。
これは、あたくしがカウンセラーの先生からいただいたアドバイスのパクリです(笑)。
 
自分が何もしなくても、放っておいたら自然に解決するかもしれないじゃない?
しばらく放っておくのがいいよ、もっと大変なことになったら真剣に考えよう〜くらいでいいんだよ。
 
ヴィパッサナー瞑想で言われる、「心の反応を止める」というやつだな(笑)。
ああ、そうだなぁ〜、辛そうだなぁ〜あの人、あの人の辛さを感じている自分がいるなぁ〜 ですな。
 
 
 
心理職の仕事は「精神的にとても疲れる」という人がいるけれども、それは「変に分かってしまう」せいではないように思う。
むしろ傾聴の技術は、そういう意味では、クライエントの気持ちに寄り添う聞き方であるだけでなく、カウンセラーの心も守ってくれる聞き方であると思うのだけど、どうだろう? そういう説はまだ聞いたことないけど…。
 
カウンセラーがシンドイと感じるとすれば、それはクライエントが一人では踏み込めない心の領域への旅に、一緒にお供する時だと思う。いつでも安全な場所に連れ戻してくれると信じているカウンセラーが側にいるから、クライエントは一人では耐えられない怖い場所に行けるのだ。そういう役割があることに、3人目のカウンセラーに会って、やっと気付いた。そりゃ大変だ。そりゃ疲れるだろう。
 
そういう訳で、あたくしのカウンセリングもまだ周辺の問題処理をしている段階で、まだ全然核心に行き着けなさそうなのだった。
「覗いても大丈夫っていう時まで、覗かないように蓋をしておくことも大切なんだよ」とカウンセラーの先生が言った。
 
カウンセリングの勉強では、クライエントの問題をカウンセラーが先回りして解決しないように、と何度も指導される。
クライエント自身だって、心の準備が出来てないのに変に焦って問題を解決しようとしなくてもいいような気がしてきた。
 
いや、まだ、実際はそこまで悟れてないのだけど、もしかしたら、そういうのもアリなのかと思えてきました。ちょっとだけ。

自分に優しい他人と、自分に厳しい自分と。

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ここのところいろいろあってその存在を忘れていた、胸痛と筋肉のこわばりが戻ってきました。
何かに集中しているときは、胸痛も筋肉のこわばりも全く感じないんだけどな。
少しでも、ゆっくりノンビリしようとすると、それは「待ってました」とばかりに戻ってきやがる。
 
その上、図書館から借りてきた分厚いトラウマ関係の本の、触りの部分を読んでいるうちに涙腺もゆるくなってきた。
その前の、自衛隊の特殊部隊に関する本の時は集中して読めたのになあ(笑)。
トラウマがあるからかどうか分からないけど、戦争中や各種遭難系のサバイバル本を割と読む。
自分の体験など到底及ばないような極限状態に陥った人の振る舞いに興味があるのだな。
どんな人がサバイバルできるのか、とても気になるのだろう。
 
それはさておき、
先日、20年振りに会った友人と、さらにその友人達と飲んだ。
この年になると、油断すると35年振りとか20年振りとかになっちゃうんだな。
怖くもあり、面白くもある。
 
飲み会は、年齢も境遇もバラバラのメンバーが好き勝手に喋る、とても楽しい宴でした。
そういう時、アルコールのせいではなく楽しさから、一瞬、人に対する恐怖心も病気も忘却の彼方。
彼女はなかなかのナンパ師で人脈が広いく、その日集まった人も、彼女以外は初対面の他人同士だった。
彼女は、そうして人間同士の化学反応を見るのが好きらしい。
 
その帰り際、たまたま帰り道に二人きりになった。
その時、彼女はポツリと、しかしキッパリと言った。
「あまり自分のこと、無職、無職、言わなくていいですよ」
「休めるんだったら、とことん休んだ方がいいんです」
 
もしかしたら、飲み会の間、あたくしは言葉の端々で自虐的な「無職アピール」をしていたらしい。
少しは嫌悪感を感じさせてしまったかもしれない。ごめんよ。
 
◯◯できてなくてスミマセン…←そういうの、あたくしだって好きではない。
そういう「世の中に申し訳ない感じ」に何の意味があるんだろう?
病気なんだから、しょうがないじゃん。
あたしくしだって自分の友達に対してならそう言うだろう。
 
彼女は今までのあたくしの経緯を知らない。現在の精神状態についても、会社を何度も辞めていることも。
知っているのは、あたくしが今、無職であることだけ。だけど、苦労人で聡明な彼女は何か感じたのだろう。
 
20年振りに会ったあたくしに、とっても自然で優しい言葉を投げかけてくれる、その透明な心に、とても慰められた。
目の前でハッキリと、意地悪な感じなど微塵もなく、率直に自分の感じたことを言ってくれる、彼女の誠実さに感謝した。
 
それに引き換え、自分はなんて自分に対して意地悪なのだろう!
20年振りに会った友人の前で、暗に自分を辱めようとする嫌なヤツ。
 
他人ですら自分を大切にしてくれてるんだから、自分も自分をもっと大切にするべきかな? なんて考えてしまうなんて間抜けだよね?
間抜けすぎる…と思いましたよ。反省。

カウンセラーの逆転移について理解を深める本。

f:id:spica-suzuhazu:20170704130058j:plain逆転移とは、クライエントがカウンセラーに対してではなく、「逆」にカウンセラーがクライエントに対してある種の感情を抱くことです。そして、“ある種の感情”というのは転移の現象同様、親や配偶者など身近な人と感じている気持ちの投影であることが多いです。
 
カウンセラーは当然、知識としての転移や逆転移は知っている。だけれども、頭で知っていても体験がなければ、なかなか適切な対処ができるものではありません。そして、そんな初心者カウンセラーの失敗は、いちいち悩んでいたら前に進めないぜ、どんどん経験積めば大丈夫だから! というのがかつてのカウンセリング界の常識だったらしい(もしかして今も?)。
 
そういう流れに対して、「いや、多くの人が陥りやすい失敗だったらその情報を共有して学ぶべきでは?」てな感じでまとめられた本がある。
『転んで学ぶ心理療法 初心者のための逆転移入門』遠藤祐乃著
 
この本は臨床心理士を目指す学生さんや新米カウンセラーに向けて書かれた本なのだけど、一般書のような平易な文章で書かれていて、カウンセリングを受ける側の立場で読んでもなかなか興味深い。カウンセラーがカウンセリング中にどんな風に考えているのかを垣間見ることができるし、どんな応答が失敗であり模範解答なのか知ることができる。かつてカウンセリングを受けて失敗した経験を持つ人は、どうして上手くいかなかったのかヒントが得られるかもしれない。逆転移だけで一冊書けちゃんだ!と驚いてしまうくらい内容は深いです。
 
面白ポイントはいろいろあって、
1)著者の自己開示が素晴らしい 
2)カウンセラー側の心理的葛藤が良く分かる 
3)失敗に対して、どんな応答なら良かったのか具体的に解説 
…あたりが挙げられる。
 
カウンセラーに対して、ある種、完璧な人間像を持ってしまう人は多いのではないだろうか? 少なくとも人の心に関してはエキスパートなんだと。
でも、この本からはそうではない「全然教科書通りにすすまない!」とオロオロする人間らしいカウンセラー像が垣間見えて「カウンセラーもやっぱり人の子なんだわ」と好感が持てます。
 
経験の浅いカウンセラーの気持ちを丁寧に拾っている本って、他には見当たらないと思うので、カウンセリングを勉強している人にもきっと多くのヒントを与えてくれるかと。
 
この本の魅力の一つは、著者が感じたことを、あまり人に知られたくないような思いまで包み隠さず披露しているところにある。
未熟なカウンセラーの心を表現した部分で、この先生、正直だなーと感じられる一節がある。
 
初心者は経験がないのだから、当然、うまくやれる自信などない。毎回の面接で「果たして自分はクライエントの役に立っているのだろうか」と不安になるのが当たり前である。しかしその一方、心のどこかではクライエントから「先生にお話を聴いてもらうと、なんだか安心します」、「先生のおかげで、今まで気づかなかった本当の気持ちに気づき、心の整理ができて落ち着きました」と評価され、感謝されたいと思っているものである。
 
ね? ホントに正直でしょ(笑)? これが「人の役に立つ仕事」を志す人の最初の心持ちだと思う。
 
もちろん、人からの評価なんか気にしてちゃあダメで、もっとクライエントに集中しなきゃ! とかは、その後の道すがら、気づくことになると思う。クライエントに集中さえできれば、策に溺れずともカウンセリングはある程度は進むものだったりすることにも…。
 
感謝される仕事だと思ってたのに全然感謝されないどころか、軽く恨まれたりして、思っていたようなイイ仕事と全然違うよ〜とかなんとか、ガッカリ感やら怒りやらの先に、何かとてつもなく楽しげなものを見つけられるような人が、熟練カウンセラーへの道を歩めるのだろう。
 
それに、熟練したカウンセラーほど自己洞察を促すのが上手い。クライアントは教えてもらったのではなく、自分一人で気付いたという実感を持つことができ、これが自分で問題解決できるんだという自信に繋がる。…だからカウンセリング技術が上達すればするほど「先生のおかげで〜感謝」とはならないような気がします(笑)。感謝があるとすれば、全く異なる種類の感謝になるんじゃないかな?
 
この本を読んでいてホッとしたのは、中断したカウンセリングに対して「どこが悪かったんだろう?」と思い返すカウンセラーの存在だ。自分の失敗を(しかも複数!)さらけ出すのはかなりの勇気を必要としたと思う。そんな著者の勇気が、今後のカウンセリングの世界で報われることを切に願います。
 
昨年お世話になり「何も変わらない!」と24回目にカウンセリングを中断してしまったあの臨床心理士の先生も、あたくしとのセッションを思い出すことがあるのだろうか? とフト考えた。
少しでも我が事と考えて、今後の芸の肥やしにしてくれてたらなあ、と思う。
ころんで学ぶ心理療法―初心者のための逆転移入門

ころんで学ぶ心理療法―初心者のための逆転移入門

 

※ちょっと前まで品切れだったのですが、重版された模様です。こういう本は長く刷り続けて欲しいなあ…

30年経って「友達じゃなかったかも」と気付いた件。

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嫌いな友達がいる。嫌いなんだから友達じゃあないと思う。では、元友達ということか?
彼女とは、大学時代に知り合って30年以上、付かず離れずのお付き合いが続いてきた。それなりに縁があったのだろう。
 
マメな子で、向こうからコンサートや各種イベントなどで声を掛けてくれることが多かった。そこで共通の知人の噂話をしたり、お互いの近況を話したりする。要は気晴らしな適度に意味のない話。彼女の話題の定番は「職場の人はみんなアホで、自分は一生懸命頑張っているが、あまり認められない」だった。
 
いつも代わり映えのない話なのに、ここ10年くらい、彼女と会った後に何故か非常にモヤモヤするようになった。
彼女が以前と変わった、ということではない。今まで気付かないほど薄っすらとしていたものが、だんだん濃くなり、形を帯びてくるような感じだ
 
モヤモヤポイントは、いろいろあるのだけど、
「あれ? 何だか凄いこと聞いたような?」
と、自宅に帰ってからも思い出されるような発言が多くなった。
その時は、自分がメンタル的にパワー不足なので、瞬発的な返しができてない? 会話が不完全燃焼してる? とモヤモヤの理由を自分に求めていた。
 
 
 
そうして、昨年の2月に久々に彼女に会った時、これまでのモヤモヤが解けるきっかけとなる出来事があった。
彼女は長年の苦労が報われて、良い会社に転職が決まっていた。だからその日は、会社の不満を言う必要なんてなかった。
 
だがしかし、クライエントはカウンセラーが気持ちをちゃんと受け止めてくれてないと感じると、同じ様な話を何度もし、誇張し、イラつきを見せる…。あたくしは彼女のカウンセラーでもなんでもないんだけどさ。
 
だから、そこで語られることも、やっぱり不満なのだ。もう辞めちゃう会社の不満を言い、ネタが尽きたら学生時代の交友関係の話になり、そしてビックリするようなことを言い出した。
 
「あんたは学生時代、随分鼻持ちならない態度だったわね。刺そうかと思ってたよ」
「◯◯さんは親のコネで就職できたから苦労知らずで気楽な暮らしだよね」
「●●さん学生時代は何であんなに自信満々だったのかしら? いまじゃ大したことないのに!」
 
あたくしを含め、当時の仲良しグループのメンバーを撫で斬りし始めたのだった。
 
その間も彼女は学生時代の友人と話している楽しそうな表情を崩さない。
竹中直人の芸で「笑いながら怒る人」というのがあるが、まさにあんな感じ。
目の前で視覚的情報と音声情報が激しく食い違う状況が起きると、実は怖い。
元気だったら笑うところかもしれないが、凍ってしまったと思う。
 
そうして、締めくくりに彼女は言った。
 
学生時代の自分は器量も悪くてモテなかった。
でも、今は友達もボーイフレンドもたくさんいて楽しい。
今が一番幸せ!
 
彼女が自身のことを「器量が悪くてモテなかった」と評価していることを含めて、「そんな風に思っていたんだ!」とあたくしはその後2週間ぐらい体調を崩した。
会って文句言うくらいなら誘わなきゃいいのに! とか
あたくしと会うことで彼女のマイナス思考が刺激されるのだったら今後会わない方がいいかも と考えた。
それでもまだ、彼女の真意は量りかねていたのだ。
 
 
でもね〜物凄く思考の速度が遅くて、すごく時間がかかってしまったけど、最近、やっと分かった。
相手の反応を全て自分の所為と思うから目が濁るのであって、そうじゃないんだよね。
 
ちゃんと彼女は正直に全てを話している。
 
20代から自分には自信がなくて友人に嫉妬心を感じていた。
50代手前になって人に認められたら、
やっといろんなことに挑戦できるくらいの自信と勇気が出た。
 
ということなんだろう。
そして彼女にずっと感じていた薄っすらとした攻撃性は、あたくしに向けられていたのではなく、友人に遅れをとっていると感じる歯がゆい自分に向けていたんだな、と気が付いた。節目節目で彼女と会う時、彼女はあたくしと会話してたのではなく、ずっと自分自身と対話してたんだなあ、と。
 
プレゼントやお手紙がマメで、音楽や映画や文学をたくさん共有した彼女となぜ心から打ち解けられなかったのか、もっと共通点が薄く淡白で雑な友人と過ごした方が気楽だったのかが、何となく、しかし良く解ったのだった。
 
もし、本物の友情が築けていたら「そんな不快なこと言うな!」とちゃんと喧嘩できたかもしれないと思うと残念だ。
 
 
…何で今回こんな話になったかというと、先日、学生時代の別の友達と会い、偶然その人の話が出てフト思い出したから。
 
「あの人のオシャレ感満載のFacebook、何なんでしょう?」
「自分語りとかリア充アピールは自慢?」
「要するに寂しがり屋ってこと?」
 
そうね、流石に心が健康な人は判断が早い。
嫌なものを即座に嫌と言えるのは健康な証拠です!(笑)
 
あたくしとしては
「いや、わたしももう会わないと思うけど…」と断った上で、
「あれには理由があるんだからさ、見ないようにしちゃえばいいんだよ。見ないようにする設定知ってる?」と何となく彼女をフォローしちゃったのだった。
 
自分にとっては、若い頃の思い出は、未熟ゆえの至らなさや失敗も含めてみんな愛おしい。だから、壊して欲しくないというのが正直なところ。

カウンセリングを技芸(アート)と考える。

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 カウンセリング入門の本で、とてもユニークで面白くてオススメのがあります。

『技芸(アート)としてのカウンセリング入門』杉原保史著
 
ありがたいことに心理学の専門書や教科書ではなく、一般書として書かれた本です。よって、小難しい理論、専門用語は皆無です。易しい言葉で書かれているけれど、人の心を知るにはどんな心得が必要となるのかを知ることができる一冊です。こういう、一般の人を対象とした親切な本の存在はとても貴重だと思います。
 
この本の素晴らしいところは、タイトルに技芸(アート)と銘打っているだけあって、カウンセリングをパフォーミング・アートの一種と捉えているところです。そう、著者はカウンセリングを、音楽や演劇、お笑いなどと同じジャンルと考えているのです。カウンセリングには再現不能なライブ的な性質がありますもんね。
 
この点に関しては著者自身も「世の多くの先生方のカウンセリング観とかなり違っていると思います」とおことわり入れてますが、お笑いなんかと一緒にされると、一部の真面目な学生さんや偉い先生なんかは眉をひそめるでしょうね。
なにしろ、何だかカウンセリングは高尚な技術、って感じが好きな人もいらっしゃいますし。
 
パフォーミング・アートの一種なんだから、理論もいいけどさ、実践に近い練習をちゃんとしようよ、とも言ってます。理論知ってても泳げなきゃどうしようもないじゃん、みたいにカウンセリングを水泳なんかにも例えてますね。
自らも臨床心理士である京都大の教授の方が書いた本なので、「大学の勉強なんかでも、あんまり実習しないの?」とビックリしちゃいます。
 
先生がカウンセリングのお手本を見せないで、理論だけを教えたりする授業方法もまだ主流みたいで、これでは自身が未熟な臨床心理士さんに当たってしまった経験も不思議ではないな、と思います。理論は詰め込むけど、カウンセリングの実践は現場の経験を通じて少しずつ上達していけばヨロシイとされているのが、現在のカウンセリング教育らしい。
そういう部分に関して、著者の先生は「先生が見本を見せないバイオリン教室や水泳教室があり得るか〜!」と吠えてます(笑)。
 
著者が何故カウンセリング実習の必要性を説くかというと、まずはカウンセラーとクライエント双方の心の安全のため、なんですね。下手なカウンセリングは癒すどころかクライエントを間違って傷つけてしまうかもしれません。でも、傷つけることを恐れるあまり、心の核心に触れられないような薄いカウンセリングになってしまうのも避けたい…こんなの、頭で考えただけで上手くできる人なんている訳がない。クライアントを受け入れようとするあまり、疲弊してしまうカウンセラーも少なくないと聞きますから、そういうのも実習を多くすることで、適切な距離感とか掴めるようになるんじゃないかしら?と思ったり。
 
この本の一番良いところは、この本から何となく著者の人柄というか、人を見る目の温かさが感じられるところ。偉い先生にありがちな「教えてやろう的な」上から目線の感じが微塵もしません。この本では、クライエントの自尊心を傷つけず(これ大事!)、しかも本心を揺れ動かすような技の数々を知ることができます。読んですぐに実践できるかというと、それはドシロウトにはもちろん無理なんでしょうけど、そのマインドを心に留めるだけでも、いつかきっと役に立つと思います。
 
この本の先生も含めて、素晴らしいカウンセラーって実は、決して「キレもの」な感じじゃないんですね。むしろ「いい人だなぁ〜」ってシミジミ感じられるような人。もちろん、とても鋭い部分を秘めているのだけど、どこまでも穏やかな感じを崩しません。所詮、知性だけでは動かせないのが人の心だと思います。
 
最後にカウンセリングの限界について、カウンセリングの陥りやすい問題点、悪化するケースにも触れてます。著者の先生は決してカウンセリング万能論者ではないのです。それでもって、カウンセリングがダメだったら、他の方法もあるからさっ、大丈夫だよ!と言ってくれてます。ホント、ホッとしますよ。
 
本の価格は2000円と、ちと高価かもしれませんが、くだらない「人の心を読む」系の心理本を数冊買うよりはるかに役立ちますので、興味を持たれた方は腹をくくってお買い上げください。
技芸(アート)としてのカウンセリング入門

技芸(アート)としてのカウンセリング入門

 

 

傾聴講座で「肝心な話が後回し」と思った件。

f:id:spica-suzuhazu:20170628170152j:plainカウンセリングを学ぶ前に、「傾聴講座」を受けたことがある。一般市民向けのボランティア講座なので、傾聴の対象者はいずれも高齢者を想定していた。最初の講座では何か腑に落ちず、その後、同様の傾聴講座をもう一つ受けた。
 

あたくしが傾聴講座を受けたきっかけ

随分熱心な話ではなるが、あたくしが傾聴に興味を持ったのはボランティア精神ではない。人から相談されたり、それが単なる愚痴だったとしても、ただ聞き流すということができない、自身の「聞き下手」にあった。恐らく話している当の本人より「何とかしなくては」「何とかする方法はないか」と考え込んで、疲れてしまう。それは、自分の問題を棚に上げて人の問題に取り掛かろうとする「逃避」のように思えるし、自分の悪い思考の癖「完璧主義」な思考回路をいたずらに刺激してしまう。
一番の問題は、「あたくしは愚痴聞きや相談には全く不向きな人間です」と正直に言えず、取り繕って頑張ろうとしてしまうところ。
 
そういう訳でボランティア精神とは全く関係のない心持ちで、講座に参加したのだ。ただ、自分の苦痛が取り除かれて、適度な距離を持って人の話が聞けるようになりたかったのだ
 

傾聴講座の本当の存在理由とは?

とはいえ、ほとんどの参加者は、「助けられる側よりも助ける側に立ちたい」と考える、ボランティア精神溢れる人たちで、多くの人が「私は話し下手だが、聞き上手にはなれると思って」と受講動機を語っていた。
 
ところが、傾聴を少しでも理解すると、「聞く」=「話さない」ことではないと気付かされる。そして、聞き上手というのは、実は話し上手なのだ、と悟ることになる。言葉数は少ないけれども、その言葉の一つ一つが洗練され、超効率的、無駄のない返しが、話し手に満足感を与える「よい傾聴」の条件なのだった。
 
到底数回の講座でマスターできるような技術ではないと理解できる人はまだいい方で、最期まで各ワークのルールを守って会話を進めるのにすら必死な参加者も少なくない。あたくしも傾聴の真髄は、もう少し腰を据えてカウンセリングの勉強をしてみてやっとこさボヤッと見えて来た。
 
でもおそらく、そうした不完全な傾聴でも必要とされているのが介護の現場なんだ、ということは伝わってくる。なんでも、こうした傾聴講座が多くなったのも、福祉に対する予算削減が大きく関わっているらしい。以前はプロのお仕事の範疇だったものが、切り離されて無料の奉仕になりつつあるということ。

傾聴講座終了間際に知る真実

世の中はそういう流れであるらしいのだけど、それならそうしたことを踏まえて、巷の「傾聴講座」でもっと丁寧に教えて欲しい、なのに最後までほとんど触れられない部分がある。
それは“認知症”のこと。
 
なにしろ、最初に受けた講座では、それまでずっと受講者に傾聴のロールプレイングをさせておきながら、全5回講習の最終日のラスト30分のところでやっと、「実際、皆さんがボランティアで高齢者と接した時には、会話が成立しないことも多いでしょう」と真実の世界を教えてくれた!
 
会話が成立しないこと、とは 
1)お喋りはするけれども、話の内容が混乱している状態 
2)全く喋らない
などの状態を指す。
 
そして、そうした高齢者しかいない施設にも傾聴ボランティアの要請はあるらしい。
傾聴とは、高齢者の思い出話や愚痴に共感して「うんうん」と相槌を打つものだとばかり思っていた講座の参加者は、この講座の最終日の最後の最後で「傾聴、使えないんかい!」と驚愕するのだった…(笑)。
それなら、ボランティア講座としては、そうした高齢者に対応する方法も詳しく教えてもらいたいじゃあない?とあたくしは激しく思う。
 
因みに、訪問先の高齢者からモノを貰ってはいけません(プレゼントしたことを忘れてトラブルになるリスク)なども、結構ありがちなケースらしく、これはちゃんとレクチャーがある。前述の2パターンよりも軽いけど、これも認知症に関するルール。
また、全く喋らない高齢者の場合はどうするか? 40分なら40分の持ち時間いっぱい、その人の隣に寄り添い、座り続けてあげるそう。ある意味傾聴よりも愛と根性が要る行為と思う。
まあ、あまりに現実をリアルに語ると、ボランティア自体が敬遠されてしまうだろうし、かと言って肝心なことを言わないと、せっかくの講座(無料ではないのよ?)が陳腐化する。難しい。
 
恐らく、傾聴技術はとても汎用性が高いので、講座の募集時、「傾聴って、高齢者だけでなく、被災者、病気や怪我で長く外出できない人に対しても行われるし、その技術は営業や相談業務といったビジネス場面でも使えるし、平素のコミュニケーションでも活用できるし、とにかく受講してみて〜!」みたいな雰囲気で受講生を集めちゃうと、逆にカリキュラムから「非常に肝心なことが抜ける」ことになってしまうんだな(笑)。
 
そういう訳で、あたくしは結局、二つの傾聴講座に通った挙句、人の話を聞く練習は傾聴講座ではできない…と悟り、さらにカウンセリングの勉強も始めてしまった道楽者なのだ。