心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

カウンセラーの逆転移について理解を深める本。

f:id:spica-suzuhazu:20170704130058j:plain逆転移とは、クライエントがカウンセラーに対してではなく、「逆」にカウンセラーがクライエントに対してある種の感情を抱くことです。そして、“ある種の感情”というのは転移の現象同様、親や配偶者など身近な人と感じている気持ちの投影であることが多いです。
 
カウンセラーは当然、知識としての転移や逆転移は知っている。だけれども、頭で知っていても体験がなければ、なかなか適切な対処ができるものではありません。そして、そんな初心者カウンセラーの失敗は、いちいち悩んでいたら前に進めないぜ、どんどん経験積めば大丈夫だから! というのがかつてのカウンセリング界の常識だったらしい(もしかして今も?)。
 
そういう流れに対して、「いや、多くの人が陥りやすい失敗だったらその情報を共有して学ぶべきでは?」てな感じでまとめられた本がある。
『転んで学ぶ心理療法 初心者のための逆転移入門』遠藤祐乃著
 
この本は臨床心理士を目指す学生さんや新米カウンセラーに向けて書かれた本なのだけど、一般書のような平易な文章で書かれていて、カウンセリングを受ける側の立場で読んでもなかなか興味深い。カウンセラーがカウンセリング中にどんな風に考えているのかを垣間見ることができるし、どんな応答が失敗であり模範解答なのか知ることができる。かつてカウンセリングを受けて失敗した経験を持つ人は、どうして上手くいかなかったのかヒントが得られるかもしれない。逆転移だけで一冊書けちゃんだ!と驚いてしまうくらい内容は深いです。
 
面白ポイントはいろいろあって、
1)著者の自己開示が素晴らしい 
2)カウンセラー側の心理的葛藤が良く分かる 
3)失敗に対して、どんな応答なら良かったのか具体的に解説 
…あたりが挙げられる。
 
カウンセラーに対して、ある種、完璧な人間像を持ってしまう人は多いのではないだろうか? 少なくとも人の心に関してはエキスパートなんだと。
でも、この本からはそうではない「全然教科書通りにすすまない!」とオロオロする人間らしいカウンセラー像が垣間見えて「カウンセラーもやっぱり人の子なんだわ」と好感が持てます。
 
経験の浅いカウンセラーの気持ちを丁寧に拾っている本って、他には見当たらないと思うので、カウンセリングを勉強している人にもきっと多くのヒントを与えてくれるかと。
 
この本の魅力の一つは、著者が感じたことを、あまり人に知られたくないような思いまで包み隠さず披露しているところにある。
未熟なカウンセラーの心を表現した部分で、この先生、正直だなーと感じられる一節がある。
 
初心者は経験がないのだから、当然、うまくやれる自信などない。毎回の面接で「果たして自分はクライエントの役に立っているのだろうか」と不安になるのが当たり前である。しかしその一方、心のどこかではクライエントから「先生にお話を聴いてもらうと、なんだか安心します」、「先生のおかげで、今まで気づかなかった本当の気持ちに気づき、心の整理ができて落ち着きました」と評価され、感謝されたいと思っているものである。
 
ね? ホントに正直でしょ(笑)? これが「人の役に立つ仕事」を志す人の最初の心持ちだと思う。
 
もちろん、人からの評価なんか気にしてちゃあダメで、もっとクライエントに集中しなきゃ! とかは、その後の道すがら、気づくことになると思う。クライエントに集中さえできれば、策に溺れずともカウンセリングはある程度は進むものだったりすることにも…。
 
感謝される仕事だと思ってたのに全然感謝されないどころか、軽く恨まれたりして、思っていたようなイイ仕事と全然違うよ〜とかなんとか、ガッカリ感やら怒りやらの先に、何かとてつもなく楽しげなものを見つけられるような人が、熟練カウンセラーへの道を歩めるのだろう。
 
それに、熟練したカウンセラーほど自己洞察を促すのが上手い。クライアントは教えてもらったのではなく、自分一人で気付いたという実感を持つことができ、これが自分で問題解決できるんだという自信に繋がる。…だからカウンセリング技術が上達すればするほど「先生のおかげで〜感謝」とはならないような気がします(笑)。感謝があるとすれば、全く異なる種類の感謝になるんじゃないかな?
 
この本を読んでいてホッとしたのは、中断したカウンセリングに対して「どこが悪かったんだろう?」と思い返すカウンセラーの存在だ。自分の失敗を(しかも複数!)さらけ出すのはかなりの勇気を必要としたと思う。そんな著者の勇気が、今後のカウンセリングの世界で報われることを切に願います。
 
昨年お世話になり「何も変わらない!」と24回目にカウンセリングを中断してしまったあの臨床心理士の先生も、あたくしとのセッションを思い出すことがあるのだろうか? とフト考えた。
少しでも我が事と考えて、今後の芸の肥やしにしてくれてたらなあ、と思う。
ころんで学ぶ心理療法―初心者のための逆転移入門

ころんで学ぶ心理療法―初心者のための逆転移入門

 

※ちょっと前まで品切れだったのですが、重版された模様です。こういう本は長く刷り続けて欲しいなあ…

30年経って「友達じゃなかったかも」と気付いた件。

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嫌いな友達がいる。嫌いなんだから友達じゃあないと思う。では、元友達ということか?
彼女とは、大学時代に知り合って30年以上、付かず離れずのお付き合いが続いてきた。それなりに縁があったのだろう。
 
マメな子で、向こうからコンサートや各種イベントなどで声を掛けてくれることが多かった。そこで共通の知人の噂話をしたり、お互いの近況を話したりする。要は気晴らしな適度に意味のない話。彼女の話題の定番は「職場の人はみんなアホで、自分は一生懸命頑張っているが、あまり認められない」だった。
 
いつも代わり映えのない話なのに、ここ10年くらい、彼女と会った後に何故か非常にモヤモヤするようになった。
彼女が以前と変わった、ということではない。今まで気付かないほど薄っすらとしていたものが、だんだん濃くなり、形を帯びてくるような感じだ
 
モヤモヤポイントは、いろいろあるのだけど、
「あれ? 何だか凄いこと聞いたような?」
と、自宅に帰ってからも思い出されるような発言が多くなった。
その時は、自分がメンタル的にパワー不足なので、瞬発的な返しができてない? 会話が不完全燃焼してる? とモヤモヤの理由を自分に求めていた。
 
 
 
そうして、昨年の2月に久々に彼女に会った時、これまでのモヤモヤが解けるきっかけとなる出来事があった。
彼女は長年の苦労が報われて、良い会社に転職が決まっていた。だからその日は、会社の不満を言う必要なんてなかった。
 
だがしかし、クライエントはカウンセラーが気持ちをちゃんと受け止めてくれてないと感じると、同じ様な話を何度もし、誇張し、イラつきを見せる…。あたくしは彼女のカウンセラーでもなんでもないんだけどさ。
 
だから、そこで語られることも、やっぱり不満なのだ。もう辞めちゃう会社の不満を言い、ネタが尽きたら学生時代の交友関係の話になり、そしてビックリするようなことを言い出した。
 
「あんたは学生時代、随分鼻持ちならない態度だったわね。刺そうかと思ってたよ」
「◯◯さんは親のコネで就職できたから苦労知らずで気楽な暮らしだよね」
「●●さん学生時代は何であんなに自信満々だったのかしら? いまじゃ大したことないのに!」
 
あたくしを含め、当時の仲良しグループのメンバーを撫で斬りし始めたのだった。
 
その間も彼女は学生時代の友人と話している楽しそうな表情を崩さない。
竹中直人の芸で「笑いながら怒る人」というのがあるが、まさにあんな感じ。
目の前で視覚的情報と音声情報が激しく食い違う状況が起きると、実は怖い。
元気だったら笑うところかもしれないが、凍ってしまったと思う。
 
そうして、締めくくりに彼女は言った。
 
学生時代の自分は器量も悪くてモテなかった。
でも、今は友達もボーイフレンドもたくさんいて楽しい。
今が一番幸せ!
 
彼女が自身のことを「器量が悪くてモテなかった」と評価していることを含めて、「そんな風に思っていたんだ!」とあたくしはその後2週間ぐらい体調を崩した。
会って文句言うくらいなら誘わなきゃいいのに! とか
あたくしと会うことで彼女のマイナス思考が刺激されるのだったら今後会わない方がいいかも と考えた。
それでもまだ、彼女の真意は量りかねていたのだ。
 
 
でもね〜物凄く思考の速度が遅くて、すごく時間がかかってしまったけど、最近、やっと分かった。
相手の反応を全て自分の所為と思うから目が濁るのであって、そうじゃないんだよね。
 
ちゃんと彼女は正直に全てを話している。
 
20代から自分には自信がなくて友人に嫉妬心を感じていた。
50代手前になって人に認められたら、
やっといろんなことに挑戦できるくらいの自信と勇気が出た。
 
ということなんだろう。
そして彼女にずっと感じていた薄っすらとした攻撃性は、あたくしに向けられていたのではなく、友人に遅れをとっていると感じる歯がゆい自分に向けていたんだな、と気が付いた。節目節目で彼女と会う時、彼女はあたくしと会話してたのではなく、ずっと自分自身と対話してたんだなあ、と。
 
プレゼントやお手紙がマメで、音楽や映画や文学をたくさん共有した彼女となぜ心から打ち解けられなかったのか、もっと共通点が薄く淡白で雑な友人と過ごした方が気楽だったのかが、何となく、しかし良く解ったのだった。
 
もし、本物の友情が築けていたら「そんな不快なこと言うな!」とちゃんと喧嘩できたかもしれないと思うと残念だ。
 
 
…何で今回こんな話になったかというと、先日、学生時代の別の友達と会い、偶然その人の話が出てフト思い出したから。
 
「あの人のオシャレ感満載のFacebook、何なんでしょう?」
「自分語りとかリア充アピールは自慢?」
「要するに寂しがり屋ってこと?」
 
そうね、流石に心が健康な人は判断が早い。
嫌なものを即座に嫌と言えるのは健康な証拠です!(笑)
 
あたくしとしては
「いや、わたしももう会わないと思うけど…」と断った上で、
「あれには理由があるんだからさ、見ないようにしちゃえばいいんだよ。見ないようにする設定知ってる?」と何となく彼女をフォローしちゃったのだった。
 
自分にとっては、若い頃の思い出は、未熟ゆえの至らなさや失敗も含めてみんな愛おしい。だから、壊して欲しくないというのが正直なところ。

カウンセリングを技芸(アート)と考える。

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 カウンセリング入門の本で、とてもユニークで面白くてオススメのがあります。

『技芸(アート)としてのカウンセリング入門』杉原保史著
 
ありがたいことに心理学の専門書や教科書ではなく、一般書として書かれた本です。よって、小難しい理論、専門用語は皆無です。易しい言葉で書かれているけれど、人の心を知るにはどんな心得が必要となるのかを知ることができる一冊です。こういう、一般の人を対象とした親切な本の存在はとても貴重だと思います。
 
この本の素晴らしいところは、タイトルに技芸(アート)と銘打っているだけあって、カウンセリングをパフォーミング・アートの一種と捉えているところです。そう、著者はカウンセリングを、音楽や演劇、お笑いなどと同じジャンルと考えているのです。カウンセリングには再現不能なライブ的な性質がありますもんね。
 
この点に関しては著者自身も「世の多くの先生方のカウンセリング観とかなり違っていると思います」とおことわり入れてますが、お笑いなんかと一緒にされると、一部の真面目な学生さんや偉い先生なんかは眉をひそめるでしょうね。
なにしろ、何だかカウンセリングは高尚な技術、って感じが好きな人もいらっしゃいますし。
 
パフォーミング・アートの一種なんだから、理論もいいけどさ、実践に近い練習をちゃんとしようよ、とも言ってます。理論知ってても泳げなきゃどうしようもないじゃん、みたいにカウンセリングを水泳なんかにも例えてますね。
自らも臨床心理士である京都大の教授の方が書いた本なので、「大学の勉強なんかでも、あんまり実習しないの?」とビックリしちゃいます。
 
先生がカウンセリングのお手本を見せないで、理論だけを教えたりする授業方法もまだ主流みたいで、これでは自身が未熟な臨床心理士さんに当たってしまった経験も不思議ではないな、と思います。理論は詰め込むけど、カウンセリングの実践は現場の経験を通じて少しずつ上達していけばヨロシイとされているのが、現在のカウンセリング教育らしい。
そういう部分に関して、著者の先生は「先生が見本を見せないバイオリン教室や水泳教室があり得るか〜!」と吠えてます(笑)。
 
著者が何故カウンセリング実習の必要性を説くかというと、まずはカウンセラーとクライエント双方の心の安全のため、なんですね。下手なカウンセリングは癒すどころかクライエントを間違って傷つけてしまうかもしれません。でも、傷つけることを恐れるあまり、心の核心に触れられないような薄いカウンセリングになってしまうのも避けたい…こんなの、頭で考えただけで上手くできる人なんている訳がない。クライアントを受け入れようとするあまり、疲弊してしまうカウンセラーも少なくないと聞きますから、そういうのも実習を多くすることで、適切な距離感とか掴めるようになるんじゃないかしら?と思ったり。
 
この本の一番良いところは、この本から何となく著者の人柄というか、人を見る目の温かさが感じられるところ。偉い先生にありがちな「教えてやろう的な」上から目線の感じが微塵もしません。この本では、クライエントの自尊心を傷つけず(これ大事!)、しかも本心を揺れ動かすような技の数々を知ることができます。読んですぐに実践できるかというと、それはドシロウトにはもちろん無理なんでしょうけど、そのマインドを心に留めるだけでも、いつかきっと役に立つと思います。
 
この本の先生も含めて、素晴らしいカウンセラーって実は、決して「キレもの」な感じじゃないんですね。むしろ「いい人だなぁ〜」ってシミジミ感じられるような人。もちろん、とても鋭い部分を秘めているのだけど、どこまでも穏やかな感じを崩しません。所詮、知性だけでは動かせないのが人の心だと思います。
 
最後にカウンセリングの限界について、カウンセリングの陥りやすい問題点、悪化するケースにも触れてます。著者の先生は決してカウンセリング万能論者ではないのです。それでもって、カウンセリングがダメだったら、他の方法もあるからさっ、大丈夫だよ!と言ってくれてます。ホント、ホッとしますよ。
 
本の価格は2000円と、ちと高価かもしれませんが、くだらない「人の心を読む」系の心理本を数冊買うよりはるかに役立ちますので、興味を持たれた方は腹をくくってお買い上げください。
技芸(アート)としてのカウンセリング入門

技芸(アート)としてのカウンセリング入門

 

 

傾聴講座で「肝心な話が後回し」と思った件。

f:id:spica-suzuhazu:20170628170152j:plainカウンセリングを学ぶ前に、「傾聴講座」を受けたことがある。一般市民向けのボランティア講座なので、傾聴の対象者はいずれも高齢者を想定していた。最初の講座では何か腑に落ちず、その後、同様の傾聴講座をもう一つ受けた。
 

あたくしが傾聴講座を受けたきっかけ

随分熱心な話ではなるが、あたくしが傾聴に興味を持ったのはボランティア精神ではない。人から相談されたり、それが単なる愚痴だったとしても、ただ聞き流すということができない、自身の「聞き下手」にあった。恐らく話している当の本人より「何とかしなくては」「何とかする方法はないか」と考え込んで、疲れてしまう。それは、自分の問題を棚に上げて人の問題に取り掛かろうとする「逃避」のように思えるし、自分の悪い思考の癖「完璧主義」な思考回路をいたずらに刺激してしまう。
一番の問題は、「あたくしは愚痴聞きや相談には全く不向きな人間です」と正直に言えず、取り繕って頑張ろうとしてしまうところ。
 
そういう訳でボランティア精神とは全く関係のない心持ちで、講座に参加したのだ。ただ、自分の苦痛が取り除かれて、適度な距離を持って人の話が聞けるようになりたかったのだ
 

傾聴講座の本当の存在理由とは?

とはいえ、ほとんどの参加者は、「助けられる側よりも助ける側に立ちたい」と考える、ボランティア精神溢れる人たちで、多くの人が「私は話し下手だが、聞き上手にはなれると思って」と受講動機を語っていた。
 
ところが、傾聴を少しでも理解すると、「聞く」=「話さない」ことではないと気付かされる。そして、聞き上手というのは、実は話し上手なのだ、と悟ることになる。言葉数は少ないけれども、その言葉の一つ一つが洗練され、超効率的、無駄のない返しが、話し手に満足感を与える「よい傾聴」の条件なのだった。
 
到底数回の講座でマスターできるような技術ではないと理解できる人はまだいい方で、最期まで各ワークのルールを守って会話を進めるのにすら必死な参加者も少なくない。あたくしも傾聴の真髄は、もう少し腰を据えてカウンセリングの勉強をしてみてやっとこさボヤッと見えて来た。
 
でもおそらく、そうした不完全な傾聴でも必要とされているのが介護の現場なんだ、ということは伝わってくる。なんでも、こうした傾聴講座が多くなったのも、福祉に対する予算削減が大きく関わっているらしい。以前はプロのお仕事の範疇だったものが、切り離されて無料の奉仕になりつつあるということ。

傾聴講座終了間際に知る真実

世の中はそういう流れであるらしいのだけど、それならそうしたことを踏まえて、巷の「傾聴講座」でもっと丁寧に教えて欲しい、なのに最後までほとんど触れられない部分がある。
それは“認知症”のこと。
 
なにしろ、最初に受けた講座では、それまでずっと受講者に傾聴のロールプレイングをさせておきながら、全5回講習の最終日のラスト30分のところでやっと、「実際、皆さんがボランティアで高齢者と接した時には、会話が成立しないことも多いでしょう」と真実の世界を教えてくれた!
 
会話が成立しないこと、とは 
1)お喋りはするけれども、話の内容が混乱している状態 
2)全く喋らない
などの状態を指す。
 
そして、そうした高齢者しかいない施設にも傾聴ボランティアの要請はあるらしい。
傾聴とは、高齢者の思い出話や愚痴に共感して「うんうん」と相槌を打つものだとばかり思っていた講座の参加者は、この講座の最終日の最後の最後で「傾聴、使えないんかい!」と驚愕するのだった…(笑)。
それなら、ボランティア講座としては、そうした高齢者に対応する方法も詳しく教えてもらいたいじゃあない?とあたくしは激しく思う。
 
因みに、訪問先の高齢者からモノを貰ってはいけません(プレゼントしたことを忘れてトラブルになるリスク)なども、結構ありがちなケースらしく、これはちゃんとレクチャーがある。前述の2パターンよりも軽いけど、これも認知症に関するルール。
また、全く喋らない高齢者の場合はどうするか? 40分なら40分の持ち時間いっぱい、その人の隣に寄り添い、座り続けてあげるそう。ある意味傾聴よりも愛と根性が要る行為と思う。
まあ、あまりに現実をリアルに語ると、ボランティア自体が敬遠されてしまうだろうし、かと言って肝心なことを言わないと、せっかくの講座(無料ではないのよ?)が陳腐化する。難しい。
 
恐らく、傾聴技術はとても汎用性が高いので、講座の募集時、「傾聴って、高齢者だけでなく、被災者、病気や怪我で長く外出できない人に対しても行われるし、その技術は営業や相談業務といったビジネス場面でも使えるし、平素のコミュニケーションでも活用できるし、とにかく受講してみて〜!」みたいな雰囲気で受講生を集めちゃうと、逆にカリキュラムから「非常に肝心なことが抜ける」ことになってしまうんだな(笑)。
 
そういう訳で、あたくしは結局、二つの傾聴講座に通った挙句、人の話を聞く練習は傾聴講座ではできない…と悟り、さらにカウンセリングの勉強も始めてしまった道楽者なのだ。

ペトリコール。

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乾いた大地に雨が染み込む時に発する、土が蒸れた時のような匂いのことを“ペトリコール”(英語で Petrichor)と言うらしいです。誰もが知っているけど、何と呼んだらいいのか分からないようなものにも、ちゃんと誰かが名前を付けてくれているんだなぁ。名前があるから、それを共通体験にできるのだろう。

帰省から無事帰ってきて、そりゃあ、もう疲れました。意味もなく心臓バクバクで、ダウンしてます! 

せっかくまとまった時間を作り両親に会いに行ったというに、あたくしは三日目過ぎたあたりから怒ってばかりで(幸いにも親は二人とも健在)、最初は「こんなに食えるか〜!」や「こんなに飲めるか〜!」などと、親の過剰サービスにプンプンしていたのですが、次第に…芋づる式に…13歳の頃のアレヤコレヤ、14歳の頃のアレヤコレヤ…が思い出され、蒸し返し始め、いつまで怒りが続くのか自分でも不安になるくらいに。

「ストーカー事件に関する親へのわだかまり」は、カウンセラーの先生にフォーカシングで処理してもらったのです(詳細は『その気持ちは海に置いてきました。』)。怒りながらも「あ、あの気持ちは?」と思い返すと、その「親へのわだかまり」の気持ちは今も「棒のまま」で大人しく南国の砂浜に刺さっているのでした。そして、「こっちは関係ないね」という顔をしているのです。棒に顔があるのも奇妙ですが、そんな感じ。

とうとう、もう明後日には帰るよ、ってあたりで母親を泣かせてしまった。
「この日を楽しみにしていたのに、どうして怒ってばかりいるの?」

とんでもない親不孝だ!とあたくしは罪悪感に駆られるも怒りは止まらない。 
母が涙まじりに
「あなたは中学生の頃から全く理解できなくなった。理解できないのよ!」
と、ついに、これまでにも何度も聞いた言葉を呟いた。

(あぁ、また、理解できないと言った〜〜〜!)
この「理解できない」は、あたくしの心の地雷ワードなんだ。

実はお恥ずかしながら、ここまでは今までも何度かあったお馴染みの展開なんだけど、今回はちょっと違ってた。

カウンセリングのお陰なのか、日頃の自己洞察のお陰なのか、はたまた瞑想の成果か、あたくしは自分の怒りの正体が何なのか、その瞬間、理解したのだ。

突き詰めると「分かって欲しい、かまって欲しい」なんだな。

こんな歳になっても、13〜14歳の頃の気持ちを大事に抱えてたんだ!と気付いたら、そりゃあ猛烈に恥ずかしいですよ。

自分の不完全さも親の不完全さも、どっちも許せずにイライラしていたけど、そろそろ認めてあげないと、もう時間がない。好きなんだったら、まずあたくしが、自分と親の不完全さを受け入れなくては。そんなの敗北だと思っていたけど、そもそも勝ち負けを考える自体がナンセンスに違いない。

それと同時に、泣けてきた。たくさん泣けました。それはですね、非常に懐かしい感覚です。

もっと遊んでいたいのに夕暮れがやってきて、帰りたくなくて泣く感じ。

自宅に帰ってきてからも数日は何故か泣けて泣けてしょうがなくて、電車の中だろうが、街中であろうが、まるで間欠泉の様に感情が吹き上がってくると、目が潤んでくる。これはマズイ。

そのうちにカウンセリングの予約の日が来たので。フェイスタオル持参で伺い、そこでも泣いた。
泣けて話せないのでは?と思ったけど、それではお金がもったいないし(笑)、なんとかカウンセリングとして成立させることができた。
そうして、こんなクライアントはやっかいだな、とか妙に客観視してみたり、また泣いたりしたのだった。

カウンセラーの先生に手伝ってもらったお陰で、その気持ちは、どうやら収まるところに収まってくれたらしい。あたくしの情緒不安定は去っていった。

あの雨で蒸れた匂いは、何故か懐かしい感じがするんだけど、そういう感じ。そういう感じがする出来事でしたよ。

カウンセラーに観てもらいたい映画。

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大きなお世話かもしれないけれど、カウンセラーの肩書きでお仕事する人に観ておいてもらいたい映画が2本ある。
『普通の人々』と『グッド・ウィル・ハンティング』。どちらも単純に映画として上質で面白く、しかもカウンセリングをテーマとしている。
 
もちろん映画に出てくるカウンセラーはファンタジーで、実際に現実のカウンセリングを体験すると「違うわ」(笑)と気付くのだけれども。大抵の人は実際のカウンセリングを受けるまで、カウンセリングがどのようなものかモヤっとしか知らない。
結構こうした映画を通じて、「カウンセリングってこんなもの」と擬似体験され、カウンセラーに対するステレオタイプが醸成されていたりするからね。何を隠そう、あたくしがそうだったし!
 
刑事ドラマの刑事と実際の刑事は違うのは、多くの人はご存知だろう。でも、素晴らしい教師や医師が出てくる映画を観てしまうと、実際にはそんな立派な方はそうはいないのに、なんとなくチョット期待してしまう…みたいな感じだろうか。
 
そんな訳で、映画などから理想のカウンセラー像を作り、勝手に誤解したり期待を膨らませている人が少なからずいる、ということをカウンセリングという職業の性質上、知っていてもらいたいかも、と思うから。もちろん「それだけ期待されている」ということを踏まえて。

カウンセリング映画にありがちなストーリー展開

二つの映画の共通点があって、それは
1.最初は気乗りしない、やや反抗的なクライエントが 
2.時には激しくカウンセラーと口論しながら信頼関係を築き 
3.心の深い部分の問題を解決する 
というストーリー展開である。
 
あたくしは本当にアホな子で、これらの映画(いずれも米国映画)の展開から「こういうのがカウンセリング」とインプットしてしまった! だから、実際にカウンセリングを受けて、そのギャップに相当驚いた。例えばあたくしは…
 
1.カウンセラーがクライアントの心の矛盾点を鋭く指摘してくる。
2.カウンセラーがクライアントを多少怒らせても本心を引き出そうとする。
3.最後はハグしたくなるほど信頼関係が高まる。
 
…みたいなことを期待しているのに、カウンセラーはあたくしの会話のどこにも引っかかってくれない(笑)とか
そうして話だけがサラサラと流れていき、毎回のセッションで心が動かされるような働きかけが何も起こらないので、カウンセラーへの信頼感も高まらない。あたくしの話は他人にとっては聞く価値のない話なのだろうか? と悩んだりした。
 
自分が少しでもカウンセリングを勉強すると、クライアントの矛盾点を指摘したり怒らせてまでして「眠っている感情を呼び覚ます」なんて「とっても高等テクニック!」で、大抵のカウンセラーはそんなこと滅多にしないと理解できる。まずは基本的な傾聴テクニックで信頼関係を築くのが精一杯なのが現実なのだけど、そんなことは素人には分からないのだった。
それに、ハグなんかありえない!(基本的には、恋愛チックな陽性転移なども考慮し、身体接触は控えるというかNGらしい)

カウンセラーにはまず『普通の人々』をおススメしたい!

まあ、そんなことを踏まえて、『普通の人々』と『グッド・ウィル・ハンティング』、あえてどちらか1本というなら、カウンセリングに携わる人にはまず『普通の人々』を観てもらいたい、是非。
 
1980年の映画なので画面の古さは否めないけれど、現代の日本の比較的経済的余裕のある家庭に置き換えても全く陳腐化しない普遍性がある。
主人公は一見平凡で暗くて適度に優等生。自殺未遂や近親者の死、子供が精神的な問題を抱えた時の両親の戸惑いなどに加えて、どうしても子供を平等に扱えない親とか、親の愛情を感じられずに自暴自棄になる子供とか、そんなどの時代にもあるだろう家族間の葛藤が描かれている。
 
この映画を最初に観た時は、もちろん後年、自分がクライアントになることなど全く思いもよらなかった。ただ大好きな俳優ロバート・レッドフォードの初監督作品ということだけで観たのだった。縁とは不思議なもので、以後、人生の節目に何度かこの映画を観ている。観るたびに感想が変わり、自分の心境の変化も省みることができる、あたくしにとってスルメ的映画になっている。
 
ちなみに『グッド・ウィル・ハンティング』の主人公は無学ながらも飛び抜けた数学のセンスを持つ天才青年で、カウンセリングによって心理的な葛藤が解決されると、将来に対しても恋にも前向きな人になり、映画は超ハッピーエンド。『普通の人々』のある意味モヤっとするラストに比べて、こっちはちょっとファンタジー入っている。
でも爽やかな涙を流すのには最適な映画だし、マット・デイモンベン・アフレックなど俳優陣がいい。特にカウンセラー役の故ロビン・ウィリアムスがいい味出してる。
この映画はカウンセリングを扱った映画としては、一般的には一番知られていると思う(1997年の映画なので、『普通の人々』よりも時代的違和感も少ない)。

映画にでてくるようなカウンセラーは滅多にいないけど…

最後に、映画に出てくるようなカウンセラーなんて現実にいない!と一時は勝手にショックを受け、憤慨、失望した自分なのだけど…実は現在お世話になっているカウンセラーの先生が今の所、理想のカウンセラーにとても近い。映画に出てくるようなカウンセラーは滅多にいないけど、やっぱり探すと現実にも「まれに」存在したりするのだ(笑)。
 
その先生は、あたくしをわざと怒らせるようなことはもちろん言わないけど、自分の心の複雑さや数々の矛盾を自覚させてくれるような「とてもスリリングな会話」を展開させてくれる。カウンセリングという場を忘れて、あたかも友人に対するような親近感を感じたりさえする。
 
いつかカウンセリング終了の日が来ても、ハグの一つもなくその先生と別れるのは今から残念なのだけど、非常に信頼し、尊敬しております。ハイ。
 
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その気持ちは海に置いてきました。

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今、約2年振りくらいに実家に滞在している。

以前 『あの日、助けてくれなかった親。』 に書いた通り、あたくしには、ストーカー被害に遭った時に生じた、親に対するわだかまりの気持ちが存在する。
だから、そのことを考えると若干、帰省は気が重かった。まあ、若干だけどね。
両親が今回のことをとても楽しみにしてくれているは分かっているし、会うならできる限り楽しく平和に過ごしたい。
 
直前のカウンセリングの最中、その「帰省が不安」という話になった。
その時にフォーカシングという心理療法を受けて、とても不思議な体験をしたので、書き残しておこうと思う。
 

フォーカシングで感情を体感として捉える

カウンセラーの先生は「その時の気持ちはどんな感じでしょう?」と問うてきた。
フォーカシングで「どんな感じ」とは、心の…感情の詳細ではなくて、身体の中…胸やお腹の感じを聞かれているのだった。
 
「え〜とですね」
すると、胸の中に麺棒のような太さの棒があるのが感じられた。
「お腹から喉の上にかけて、縦に麺棒みたいな棒状の塊がありますね。口を開けて覗くと、先の方が見えるかもしれない。でも、手を突っ込んでも届かない感じ」
と、あたくしは先生に状況説明した。
 
棒状のものが云々…というのは、あくまでも個人的にそんな風に感じられる…イメージ上の話なのだけど、そのリアルな異物感に少し驚いた。その材質が金属などではなく、木のような少し温かみのある素材で、白木のような色であることまで想像できる。イメージの世界で、あたくしのわだかまり感が物質化したのである。
 

フォーカシング的に感情の処理をする

続けて先生が「そのまま眺めていたら、どうなりますか?」と聞いてきた。
 
「???」
そうしたら、そのイメージの棒は、ゆっくりと喉の上の方に上がって来るようだった。
口の中に酸っぱいものが広がって、軽く吐き気を覚えた。
「ありゃ、ちょっと気…気持ち悪いかも…」
本当に少しオエオエしてきた。
「先生、口から出て来ちゃうかもしれませんっ!」
 
リアルに苦しんでいるあたくしの様子を察して、先生が「大丈夫、落ち着いて!」力強い口調で声をかけてくれた。
そうすると、イメージの世界に行っちゃっていた自分は、一瞬にして現実の世界に引き戻された。
「あああ、先生、ビックリしました」
 
「じゃあ、その気持ちをどこか別の所に置いときましょうか?」と、先生が提案してきた。
「どこって?」
「それは、どこでもいい。イメージの話ですから海でも山でも」
 
そうしたら、海は悪くないかな?と思った。
 
わたしは、その気持ち…麺棒みたいなあたくしのわだかまりの気持ちを置いてみた。
バリ島とかの(行ったことないけど)誰もいない海の、波打ち際の白い砂浜にサクっと棒を立ててみたのだ。
 
そうすると何となく、棒は「ホッ」としているような感じになった。
理由はどうであれ、わだかまりの気持ちなんてうっとおしいものだろうから、仮置きできる場所が出来て気が楽になったのだろう。
 
何だか、よい帰省ができそうな気がして、先生に感謝の気持ちを伝えた。
 
それから、自宅に帰ってからも、素晴らしい南の島の砂浜に刺さっているあたくしの「わだかまりの気持ち」を思い返してみた。
 
「気がついたら、その棒はなくなっているかもしれませんよ」と先生は言っていた。
ああ、そうなんだ。そうなればいいな、とあたくしは思った。
 
全てイメージの世界のことなのに、こんな風に変化が起こるなんて面白いなあ…。そして、自分の心の中に温かい海が存在することに始めて気が付いたのだった。
 
自分の行動や考えを変えるには、認知行動療法などで自分に説得を試みるのが一番手っ取り早いだろうと思い込んでいたので、こうしたイメージワークでサラリと自分の感じ方が変化してしまうのは、何だか新鮮な体験だった。
 
こういうのがスピリチュアル本などでもよく言われる「手放す」ということなのだろうか?
とにかく、わだかまりがなくなった自分は、訳もなく優しく穏やかな気持ちで、自分でも好ましく思えた。
 
 
…そうして、気持ち良く帰省したあたくしなので・す・が!
実家に預けて置いた蔵書の一部が箱単位で消えていることが判明し、早3日目にして大激怒(笑)。
トホホなのだけど、親との喧嘩も最後かもしれないと思ったら、少し鼻の奥がツンとしたり。
 
※出来事は脚色ナシですが、プライバシーに関わる詳細は省いてます。