心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

脳の汁とか電気的な瞬きとか。

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晴れたり曇ったりのココロはいかに生まれるのか?

ここ数年の読書傾向は、これまでの心理学系に加えて脳科学系の本が多くなった。多分、自身の病気を様々な角度で見たい、知りたいという心の現れだと思うのだけど、そうして出会った本の中で『フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する』という脳科学に関する本がある。著者であるミチオ・カク先生は理論物理学者で専門は素粒子論(!)。そうした宇宙のことばかり考えている人だから、脳や心に関する考察も超クールでなかなかに刺激的な本です。

 

(ちなみにこの本は、500ページを超える大作! それだけに読み応えがあり、最新の脳科学に関してかなり網羅されてます。日本でこんな大作を庶民へのエンターテインメントとして書く先生はいないだろうし、出そうとする出版社がないのが残念なくらい)


この本によれば、うつの原因究明と対処法が時代ごとに変わっていて、今は第三世代に移りつつあるそうだ。
第一世代 原因)誰のせいか?…対処)心理療法
第二世代 原因)脳内物質のアンバランス?…対処)薬物
第三世代 原因)脳内システムのアンバランス?…対処)電気 ←今、ここ!

 

と、いうわけで、様々な精神疾患は脳内の誤配線によるものなんじゃないか?といった予測とともに、従来の心理療法や薬物に加えて、脳に電気刺激を与えるといった治療が普及するやもしれません…(脳に電気って…昭和な人は「電気けいれん療法」とか思い出しちゃうけど、そんなのではなく、もっと微弱でデリケートな電気を使うらしい)。

自分のように、薬物による効果がイマイチで、脳の汁が足りなくて…という説に懐疑的だった人からすると「ふうん、そうかもね」と思うのです。

 

久々に頭の中の暗雲が取れちゃう体験をした

ここ数週間、心理療法が功を奏しているのか何だかは分からないんだけど、暗い不安な気持ちから解き放たれ、随分気持ちの良い時間を過ごすことができました。


まさに、空を覆っていた厚い雲が一層されたような、晴れやかな気持ち。

重いコートを脱いだ時の、軽やかな感じ。


あまりにも幸福感に包まれているので「躁状態になるんじゃないか?」「このあと激しい鬱状態に突き落とされるのでは?」と心配になり、定期的に通う主治医に相談した。


「あなた、考えすぎ! あなたには双極性障害の兆候はありません」

 

とのことで、「またもや考えすぎか、イカンイカン」と反省しているうちに、そうか、これが病気…全般性不安障害になる以前の、普通の精神状態なんだわ、と気が付いた。
人間って、ココロが健康なら、そもそも、あらゆることがハッピーなんだわ、と。

 

偶然通りすがりの人の優しさに触れた時の嬉しさ。
お散歩してて、偶然面白い体験ができた時の「あたくしラッキー!」といった喜び。
遠くの友達から届いた優しいメールを読んだ時の幸福感。

 

こういった出来事に、ここのところ、いちいち超絶幸福感に包まれウルウルしていたのだけど、久しぶりだから刺激が強く感じるだけで、これが健康なココロの反応なのだろう。

この世は奇跡の連続。世界が喜びに包まれているというのは本当だ。

恐らく、それを受信できる能力があるか、ないかの違いなのだ!(←多少、感情が高ぶった感じ(笑))

 

しかし、儚くも元の心臓バクバク&ドンヨリに…

ところが、そんな素晴らしい気づきがあった後、些細なことをきっかけに、また元のドンヨリとした気持ちに戻ってしまった。
ココロの暗雲は広がるのが早い…。

 

というわけで、私の感情は世界が作っているのではなく、私自身が作っているということが、非常にリアルに体感できた数週間でした。この変化が、脳の汁の量的変化なのか、脳の回線が繋がったり途切れたりしているのかは分かりませんけどね。

 

この辺りを、「バイクの押しがけ(タイヤの方を回してエンジンを始動させようとする、バッテリーが上がってしまったときなどの対処方法)」的な感じでココロを何とかしちゃおうというのが、恐らく、自己啓発本であり、認知行動療法なんでしょうな。よく分かりました。

 

ハッピーな気持ちが、未来の方にココロを向けさせるというのも、体感できたことの一つ。
「恫喝する人に出会ったら、パニックが発動して、やがてダウンする」という、あたくしの性能に関しては依然、変化がないのですけど、鬱な気持ちさえ取り払われれば、勝手に勇気が出て変化を求めるのです。実際に、求人検索とかしていて(再雇用されるかは、また別の話ですが)、今考えると少し驚きです。

 

気分の変化が儚くて、まだオロオロしているけど、いかに儚くても、この変化は良い兆候なんだろうな、と考えてます。

  

フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する

フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する

 

 ※分厚い本だけど、これを読んだらしばらくは脳科学の小ネタには困らないよ!

カウンセリングで陽性転移を体験したよ。

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カウンセリングの場でよく起こる陽性転移とは…

陽性転移とは、カウンセラーとクライントの関係において、クライントがかつて親などに向けていた感情を、カウンセラー(あるいは医師)との関係において再現するもののうち、プラスの感情を伴うものです。マイナスの感情を伴うのが陰性転移。逆にカウンセラー側に同様の現象が起こるのを逆転移といいます。
 
あたくしは3人目のカウンセラーとの関係において初めて体験したのですが、巷ではよく起こり得ることらしく、ネット検索すると「カウンセラーを好きになっちゃいました」といった事例はたくさん出てきます。
 
それなのに、あたくしも心理学の本やネット検索で「こういうことはある」と分かっていたのに陥ってしまったのです。あたくしには起こらないだろうと高をくくっていたのもあります。とにかく、左脳では分かっているのに、右脳はまんまと陥ってしまった!のです。
 
自分の場合は、以前のブログで「男性のカウンセラーの方がいい」と言ってるくらいなので、素人の浅はかな分析ですが…おそらく父親に対する何らかの感情が深層心理にあるのでしょう。それがたまたま、今回お世話になっているカウンセラーとの関係で展開しちゃったらしい。
 

どんな風に陽性転移は起こったのか

過去お世話になった2人のカウンセラーの際は、どちらかというと、「ストレス耐性をつける」とか「恫喝場面でもパニックにならない」といった予防、「緊張してきたときのリラックス法」といった対処を目的としてセッションを受けてきました(…次第に世間話になってしまいましたが)。今回は、もっとトラウマの治療に焦点を当てて、根本治療をしようと考えたこともあり、そういった類を専門としている方を探した訳です。
 
そうして探したカウンセラーの方に初回で好感を持った経緯は「3人目のカウンセラーにトラウマ治療をゆだねる。」に書いた通りですが、その時の気持ちは「本当にプロフェッショナルだなあ」といったリスペクトに近いものでした。
 
ところがですね。
3回目の面接を終えて自宅に帰ってから、何だか自分の感情がおかしくなっているのに気がつきました。
先生の顔が思い浮かぶのです。それは、目だったり口もとだったり、部分的なので、「先生の顔の全体はどうだったかなぁ」と考えるのです。
ここでは治療の詳細は省きますが、セッションの流れの中で、先生の顔を見て行う部分があるのですが、実は、その、人の顔を見ながら…というのがあたくしは苦手らしい。自分に自信がないので、伏し目がちになってしまう。自分の想いを正直に話すことに慣れていないので、恥ずかしくて顔を上げられないのだ。ゆえに、実は先生の顔の映像の記憶は断片的になってしまっている…。
どうやら、カウンセラーとのそうしたやり取りを家で反芻(はんすう)しているらしい。
 

あたくしの陽性転移のリアルな感情は

そもそも、カウンセラーに対して恥ずかしいという気持ちが新鮮でした。これ自体が、カウンセラーから良く思われたい、という気持ちのあらわれですよね?
 
もちろん、それ以前のカウンセラーの前でも、自分の心の中の核心部分を包み隠さず話そうとする時は、もちろん恥ずかしさを感じる場面もあるのですが、どちらかというと「自分の悲惨な体験を話した時の相手の反応を見てやろう」という部分が占めていました。相手のカウンセラーとしての能力を値踏みするような感じでしょうか(カウンセラーが真剣に話を聞いてくれなさそう…と感じたクライントは、自分の話を「盛る」傾向にあるらしいですよ。これ、また別の機会に書きたいテーマです)。要するに、まだ、自分や他人をコントロールしてやろうとかなんとか考えていたわけです。
 
ですが、どうやら1回目の面接で、素直に「先生、すごいや」とリスペクトの感情を持てたことから、ものすごくスムーズに信頼感情を抱いたらしい。もちろん、当時は全く分からず、今、振り返って思うことですけど。
 
でも、その時は何でこんなに先生の顔を思い浮かべたくなるのかなっ? と、「???」なんですよ。
そして、同時にものすごい安堵感がやってくるのです。
安堵感を得る場面って、皆さんならどんな場面を想像しますか?
“忙しい合間にやっと美味しいコーヒーにありつけた時…”
ギリギリセーフで目的の乗り物(電車や飛行機)に滑り込めた時…”
急ブレーキが間に合って、事故にならずに済んだ時…”
あの「ホッ」としか感覚を想像するのではないでしょうか?
しかし、自分の感じた安堵感は、もっと強度があったというか、泣けました。
 
自分が小さな子どもで、人混みの中で迷子になってしまい、泣かないように必死でこらえながら親を探し、親を見つけた時に号泣…
…あえて言うなら、そんな時の激しい感情がピッタリくる感じ。
 
久しく忘れていましたが、安堵感はマックスになると、泣けるのです。
 
遊園地の帰りに疲れてしまって、親におぶってもらって、それでもなお愚図って、怒ったり泣いたりして甘えている時の感じにも似ています。
 
中高生の時の、学校で好きな人に偶然会わないかな〜と思っていて、渡り廊下越しに偶然目が合った時の、途端に胸が一杯になるキュンキュン感にも似ています。
 
自分の中から幸福感が溢れ出して、身体全体が包まれている感覚です。う〜ん、上手く表現できなくて申し訳ない。
要するに、そういう、ここ何十年も体験していないような無条件な愛に包まれる感覚を(バーチャルだけど)体感したのです。
だいたいこれが、3日間くらい続きました。その間、胸がキュンキュンしっぱなしです。
そうして、変な話ですが、この安堵感をものすごくシンプルに説明しようとすると、なぜか「先生が好きかも」(笑)になっちゃうんです。
 

陽性転移をカウンセラーに告白するべきか?

カウンセリング行く→先生の顔を思い出す→キュンキュンして泣ける
これを2回くらい繰り返した時、「これはヤバイ」と思いました。
先生への恋心に似た執着も「気のせい」と分かってます。
冷静に見ると、お腹が少し出た、どこにでもいそうな普通のオジさんです(←失礼!)。それに、先生の個人的な情報は何も知らないのですから、急速に恋に落ちる要素はないのです。
でも、この胸キュン感もリアル…このままだと、先生のことを考えるあまり、治療に差し支えるのではないかと不安になりました。
 
とはいえ、正直にこのことを告白するのも気が引けます。
「(ババアのくせに)やっかいなクライントだな」と嫌われることや、これが理由で治療が中断されたらどうしよう…といった心配もしました。
しかし、辛いものは辛い。
あたくし、秘めておくことができないので、すぐにカミングアウトしました。あとは委ねる!
 
で、先生の反応は…。
 
「あなたは、心理学の知識が中途半端で、考えすぎ!」
 
まあ、要するにそういうのは先生のアンダーコントロールで行われていることだから、変に抵抗しないで浸っちゃってください、ということでした。
…そうか、そうですよね。だいたいが、考えすぎなんです。だから病んじゃうんですよ(病んでるから考えすぎになるのかとも思うのですが)。あはは。
 
そうして、な〜んだ、浸っちゃっていいんだ〜って、安心して帰ったら…帰ったら…あれ? 
 
あれれ?
 
なんだか、1ヶ月間に渡ってあたくしを包んでいたあの甘美な安堵感は、 
 
淡雪のように消えてしまったのでした…。
 
もう? ちょっと…っていうか、だいぶ寂しいです…。
 
陽性転移の巻 劇終!!!
 
 
 
※2017年12月12日追記。
 当時はこんな風にまとめたのですが、
 結局のところ、陽性転移は形を変えつつ、現在もまだ続いている有様です。
 そんな1ヶ月程度で終わるもんじゃなかったですね。トホホですね。
 続きがありますので、ご興味とお時間があれば是非…。

あの日、助けてくれなかった親。

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以前、あたくしがストーカー被害に遭った時の話は、「パニック症状を繰り返してしまうワケ。」 にある通りで、最近、やっと当時のことを思い出したりできるようになりました。
その方がトラウマ治療には良いのでしょうけど、一方で、できるだけ思い出したくないという気持ちもあります。
それだけ強い、不愉快な体験だったと思うのですが、その他にも理由があります。
 
親が助けてくれなかったんですね。
 
犯人の拘留期間が切れる前に、あたくしは住居を移す必要があったので、夜逃げのような引っ越しをする必要がありました。
 
迅速な引っ越しのために、恥を承知で不動産屋さんにも事情を話しました。まともに取り合ってくれるのだろうか?との不安があったのですが、当時の不動産屋さんがとても良い方で、すぐに事情を理解してくれ、とてもスムーズに賃貸契約を進めてくれました。
 
徹夜で荷物を作って、引っ越し当日は、当時の会社の仲間が手伝ってくれました。事件は会社が舞台だったので、みんな被害者みたいなものです。でも、まるで楽しいイベントをするみたいに、快く手伝ってくれたのです。
 
運びきれない荷物や、その後のゴミの処理などが残りました。
で、それを親にお願いすると。「協力したくない」と。
 
男関係で警察の厄介になる娘の手伝いはしたくなかったそうです。
 
いや、自分、ストーカーの被害者なんですけど…。
でも、親にしたら被害者とか関係ないんです。とにかく恥。恥ずかしいので関わりたくないと。
 
途方に暮れていると、当時の上司(被害者の一人)が父親にメールを打ってくれました。
「どんな娘さんでも、あなたのたった一人の娘さんではないでしょうか?」
そんな内容だったと思います。
 
そのメールで、父親は、残った部屋の荷物を片付けるのを手伝ってくれることになりました。
 
嬉しかったかって?
正直、「いや、手伝うんかい!(怒)」と思いました。
恥ずかしいなら、誰に説得されようが、手伝わなきゃいいじゃないか!
娘の上司からのメールで態度を変える親が、たまらなく嫌でしたね。
 
それから、なんだか親を見る目が変わってしまったのです。
 
あたくしの親は、どちらかというと仕事に熱中して、子どもに対しては放任だったかと思います。
 
しかしですね、イザという時は助けてくれるのだと思っていました。
 
イザという時が、どんな時かは想定してなかったんですけど…。
 
いや、犯罪被害に遭って、速やかに引っ越ししなきゃいけない時…とか、それに当てはまるんじゃないかと…? と思いました。
 
10年経って、当時のことは、実家ではタブーです。
両親は離れて暮らしていて、たまの盆や正月に帰れば、ご馳走を振舞ってくれますし、季節の折々には野菜や果物を送ってくれます。
「どうしてる?」とハガキや電話やメールをくれることもあるし、いい年をした娘にお小遣いをくれようとすることすらある。
 
でも、あの時、助けを求めて拒まれたことは忘れられません。
 
父のことばかり書きましたが、母はもっと強烈で…。
 
先日、母と電話で話していたら、こんな風に聞いてきたのです。
「で、何であんた、カウンセリングなんか通ってるの?」と。
事件の存在を忘れていたんですよ!(笑)
 
「10年前にストーカーに遭ったからです(怒)」
笑ってごまかしたりできませんでした…。
 
これだけだと、あたくしの母が非常に冷血な人のように感じられる方もいるかもしれません。が、ちょっと事情は違っていて、母は一種の特殊能力というか複雑なメンタルの持ち主なのです。他人のことも忘れていますが、我が家の経済状況が非常に困窮していた頃の記憶や、痴呆の祖母の介護に明け暮れていた頃の記憶など、自身の辛いこともスッカリ忘れています。幼少期の記憶もないそうです。←少し羨ましい。
 
まぁ、母は、あたくしの好物とかも知らないんですけど、そんなことはどうでもいいと思ってました。
でも、娘が犯罪被害に遭ったことは、たとえ何の感情も伴わなくても、憶えてて欲しかったです。
 
あたくしは子どもには縁がなくって、親の気持ちが全て分かる訳ではないと思うのですが、自分の子どもが他所の人に傷つけられたら、怒ったりとか…っていうか、ものすごく怒ったりしないのでしょうか? 自分なら、子どもに危害が加えられたら、軽く殺意さえ抱くかもしれないなぁ…と妄想したりします。
 
それとも、それは勝手な思い込みで、恥を感じたり、取るに足らないこととして忘れてしまうというのも、割とあり得ることなんでしょうか? 
 
テレビで、犯罪やパワハラやいじめに遭った被害者の親が、テレビで訴えているのを見ると、その事件は本当に悲惨なことで、それと自分とはとても比べものにならないと思っても、不覚にも「羨ましい…」と思ってしまいます。その辺の感覚が、あたくしは少しおかしくなっているにちがいありません。
 
あの時、親が助けてくれなかったことは寂しいことです。あの時の親の態度は、あの人達の一部分の表現に過ぎないと頭では分かっています。今も親に対して感謝している部分はそのまま、消えていないと思います。しかし、あれ以来、「自分は価値がない人間」「助けるに値しない人間」という考えが、以前より明確に浮かぶようになってしまいました。呪いですね。たった一つの出来事にも関わらず、何かが変わったのです。
 
いやいや、それは違うよ、と、呪いを解かなくてはいけません。
 
当時も今も、不自由で不安定な自分を理解して、無条件に受け入れてくれる友人・知人の存在があることも確かです。特に病が長期化してから、あたくしの周囲は優しい友人が増えました。ですから、そっちを向いて生きていくべきなんでしょう。早く元気になりたいです。
 
今回のは、ほとんど愚痴ですね。気分を害する人がいたらゴメンナサイ。
こんな文章を、最後まで読んでいただいた方へも深く感謝しています。
 
頑張ります。
またね♪
 
※この感情に関しては、2017年6月8日のカウンセリングにて扱い、少し楽になりました。

3人目のカウンセラーにトラウマ治療をゆだねる。

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またしてもカウンセリングにチャレンジの理由

現在、性懲りもなく3人目のカウンセラーにお世話になってます…。

もう、カウンセリングなんか効かない! お金と時間の無駄! …と懲りたはずなんですが…自身でカウンセリングの勉強をしているうちに、
「いや、傾聴の基礎がシッカリしているカウンセラーなら、大丈夫なんじゃないか?」
 ←「その辺、どうなのか試してみたい!」
と気持ちが変化したというのがあります。
 
と、いうのも、自分が通うカウンセリング教室の先生は、ものすごく傾聴がうまいのです。その方は、臨床心理士さんではなく、シニア産業カウンセラーの方なのですけれども、かつてお世話になった2人の臨床心理士さんよりも、ずっと「鋭い」そして「優しい」。尊敬です。(いや、先生だから当然なのでは? と思う方もいらっしゃるかもしれないけど、そうでないことも…あるんですよ?(笑)最近知りました)
 

トラウマ治療のカウンセラーを探してみる

そんな体験があり、「あたくしにはカウンセリングは効果ない!」という信念が揺らいだ訳です。(この例ばかりでなく、素晴らしい傾聴技術は、聴いてもらうだけで、自然に、柔軟に自分の考えや行動が変わります。無理に変えようとしなくても変わります)本当は、その先生にお願いしたいくらいなのですが、それは叶わないので…。
 
探しました。
条件は…比較的近隣で、かつ臨床心理士であり、トラウマ治療に詳しく、自分の希望する療法ができる先生。そして、絶対条件ではないのですが、どうやら自分は男性のカウンセラーの方が良いらしい。
やはり便利なWebを利用したのですが、あたくしがお願いしようと思ったカウンセラーの方のHPは全くそっけないもので、場所と、主なカウンセリング対象者、使用する療法と、先生の名前しか書いていない。
あたくしの場合、実は、それが良くって、そこに決めたのですけどね。
 

カウンセラー、どんな基準で選びますか? 

いかがでしょうか? ご自身が探すとしたら、もっとどんな先生か分かるような情報があった方がよいでしょうか?
あたくし自身は、あまりにも自分の趣味、家族構成、ペットの有無(笑)なんかをHPで晒しているカウンセラーは、逆に深いエゴを感じてしまい苦手です…親近感を持ってもらうための自己開示だとは分かっているんですが…。
 
しかし、日頃の愚痴、仕事上の悩みなどを聴いてもらいたいとしたら、予め「こんな人に聞いてもらいたい」といった人物像があるかもしれません。介護の話、中間管理職の悩みなどは、若い方よりある程度の年齢が上の人が良いだろうな、とか。逆に、若い恋人の気持ちが分からない!といった悩みの場合は、若いカウンセラーに相談に乗ってもらいたいと思うかもしれません。
実際は、カウンセラーに対する予備知識はどこまであった方がよいのかは、その相談内容に依ると思います。
 

今度は長期泥沼化は避けよう!と思いました。

自分の場合は、トラウマ治療が目的なので、ぶっちゃけトラウマ治療が得意技なカウンセラーだったら、どんな方でも良いのですが、さすがに人間ですから、好みや相性があるというのも否めません。(その代わり、使用する療法と、そのトレーニングはどのくらいのレベルなのかは、とてもジロジロと拝見させていただきました)
そういうわけで、ピンとこなかったら、前回のカウンセラーの時のように「???」と思いつつも24回もセッションを重ねるという愚かなことはせず、直感でスパッと、辞めようと思っていたのです。
 
カウンセリングの1回目はとても大切です。
おそらく、カウンセラーにとっても大切だと思います。
ここで、何だか本音が言いにくいような違和感を感じたら、そのあなたの感覚を大切にした方が良いです。
3〜5回目くらいまでに、その違和感が解消されなかったら、恐らく、残念ながら、カウンセリングの良い効果は得られないと思います。
熟練したカウンセラーなら、この最初の数回は、問題の解決よりもまず、あなた自身を理解し、受容することに集中しているはずですしね。
 
最終目標は、あなたの問題を解決することですから、カウンセラーとの信頼関係を作るのに、そんなに時間はかけていられません。比較的速やかに信頼関係を作る…その辺の瞬発力は、カウンセリングの腕の見せ所でしょう。カウンセリングは、あなたが、あなたの問題を解決するためにお金を払って作った、あなたのための時間なのですから、信頼関係はスムーズに構築されたいものです。
 

3人目のカウンセラーの初回カウンセリングは…

メールにてカウンセラーの方に、自分のややこしい状況を説明して、治療を依頼。めでたく受け入れられて、4月吉日に訪れたのでした。
 
そして、第1回目のカウンセリングはどうだったかと言いますと…
本当に素晴らしい先生だったのです。
 
カウンセリング齧っておいて良かったと思いました。
なぜかというに、あたくしはボヤッとした人間なので、良いな〜と思っても、ボヤッとしか感じることができないのです。しかし、ちょっとでも勉強していると、ボヤッとじゃなく「ここが良かったのです」と具体的に振り返ることができるからです。普段からシャキッとした人は、勉強なんかしてなくても、自分の気持ちがどの部分で動いたか分かるのかと思いますが、あたくしのようにボヤッとしていると、何にしろ多少の訓練が必要なのです、よ(笑)。
 
具体的にどんな部分があたくしに信頼感と安心感を与えてくれたのか、書き出しておきます。
人のどんな部分に好感を持つのかは、人それぞれかと思いますが、参考までに。
 
1.「メモを取っていいですか?」などと、何か行う時、承諾を求めてくれる。
  (一言もなく、目も合わせず、当然のようにメモをガシガシ書き始めるカウンセラーもいる)
 
ユニークな発言に笑顔を見せる。言葉でポジティブな反応をする。
  (「変だね」「変わってるね」ではなく、自分の個性が尊重される感じがする)
 
目標とする問題解決までの、現段階での治療計画の説明があった。
  (具体的にはカウンセリングの頻度、予測されるプロセスなど、どのように治療を進めていくか、など。ここに触れずにカウンセリングが進んで長期泥沼化した経験を持つあたくしにとっては、信頼感アップの場面でした)
 
ポイントはどれも、作為的な感じがせず、洗練されていて、とっても自然。
もちろん、傾聴の素晴らしさは、あたくしが何か言える立場にないくらいです。
いや、プロなんだからこんなの当たり前では?と思われる方がいるかもしれません。
そうでもないんですよ。人間には誰にでも、本心から出た言葉ではないものに違和感を感じる力が備わっているんです。で、表面上だけで心が伴っていない言葉っていうのはどこか寒いのです。カウンセリングの練習をすると、言葉に心を伴わせる難しさに直面できます(笑)。
 

初対面の人に自分の悩みを話すのは緊張するものです

とにかく、カウンセリングの1回目というのは緊張します。誰しも、初対面の人に会う時は緊張するものですが、カウンセリングはその後に自分の悩み事…弱点を語る場面が控えています。
 
自分のように、その悩み事がトラウマ体験にまつわるものだと、恥ずかしさ、怒り、悲しみ…と負の感情がいっぱい詰まっているのです。そうでなくたって、どんな悩みでも、個人的な、デリケートな、大っぴらに言えない部分があるかと思います。だからカウンセリングに来たんですよね?
 
「この時間は、あたくしがお金を払って作った時間だから、負の感情をダダ漏れさせても、そんなの当然さっ!」なんて、開き直ってカウンセリング受ける人はいないと思います。
 
だから、世のカウンセラーの方、クライントがどんなに平静を装ってカウンセラーの前に現れたとしても、怯えたり緊張しているってことを忘れないでくださいね〜。
 
(実は、カウンセリングの練習をすると、カウンセラーも初対面の時にはかなり緊張する、ということが分かるのですが、ここを乗り越えないと、クライアントの緊張は当然、解くことができないので、必死に乗り越えようとします(笑))
 
そういうことで、ここしばらく、時々トラウマ治療、ということに相成ったのであります。
恫喝が平気になるといいな。
そうして、急にお仕事を辞めたりしなくても良い、健やかな心身になったら、いいなあ〜。
 
全ての人が、自分の中に安全地帯を持てますように…。

頑張っているのに変わらない。何もしなくても変わる。

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2〜3年位前になるのかな? 一時期、パニック症状や鬱を自力で解決しようと、かなり認知行動療法の本を読み漁っていたことがあります。
 
最も近年のあたくしの診断名は全般性不安障害 (GAD)」で、文字通り、全てが!何となくモヤっと怖いという状態。(似たのに「社会不安障害( SAD)」というのがあって、こっちは人前で喋ったり、意見を述べることに異常に緊張する症状が主)外が怖い訳ではなく、家に居ても布団の中でも何となく怖い。酷くなると、生きていることが怖い。動悸がして、息苦しくなる。
ストレスによって、脳の機能が故障して、暴走しちゃってるんだな〜。
勝手に「恐怖心」や「嫌な予感」が膨らみ、過剰防衛で神経を酷使。結果、ささいなことでイライラしたり、異常に細かいところが気になったり、予想外のことが起こるのが極端に怖くなってしまう。
 
医師は当然、薬物中心の治療を勧めてくるけど、パニックを10年も患ってしまうと、薬物への期待感は薄い。そういう訳で、まずは比較的費用的にも負担の少ない「読書療法」をしてみたわけ。
 
自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法』メラニー・フェネル著 とかね
あとは、
いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法』デビッド・D・バーンズ著
この本は、かなり分厚い本なんだけど、懲りずに、
不安もパニックも、さようなら 不安障害の認知行動療法:薬を使うことなくあなたの人生を変化させるために』デビッド・D・バーンズ著
も、購入して、ワークをかなりガシガシやった。
 
どれも、名著であり、巷の評判も良く、読むと「なるほど」の連続で、自分の弱点、病気を維持している考え方が良く分かるような気がする。
例えば自分は、「結論を急ぎすぎる」「完璧であることを自分に求める」「他人に優しく自分に厳しいダブルスタンダードを使っている」「『白か黒か』的思考におちいりがち」な傾向があるんだな〜とか分かる。
で、それを修正するためのワークもある。一生懸命やる。
 
だがしかし、なかなか「嫌な気分よさようなら!」ってならないんだなっ。
 
当然、「不安もパニックも、さようなら!」とも、ならない。
 
本には、「たゆまず努力すれば克服できる!」といった根性論が書いてある。根性論ではなく、単に我々を励まし、慰めてくれているのかもしれないけど…。
「再燃しかけたら、何度でも自分の認知の歪みを発見して、(自分に)反論しましょう」と書いてある。
 
う〜ん。理屈っぽい自分には、認知行動療法はピッタリだと思ったのだけど、なんだかシックリこない。思考に行動が伴わないような違和感…。
 
で、「毒を喰わば皿まで」(←?)とばかりに、「論理療法」にも手をつけてみた。
例えば性格は変えられない、それでも人生は変えられるアルバート・エリス著 とかね。
どんなことがあっても自分をみじめにしないためには―論理療法のすすめアルバート・エリス著 も、読んだ。
実は、デビッド・D・バーンズの認知療法より、アルバート・エリスの論理療法の方が、その説得方法というか論法が自分の気持ちにピッタリした。
(双方は認知行動療法とひとくくりにされることが多いのだけど、考え方に若干の違いがある)
この2冊は、理屈っぽい人には非常に面白く読めると思う。実際私もとても興味深く読んだ。
 
だけど、症状の軽減にはまったく至らないんだな。
 
結局のところ、無意識の部分に触れない療法は、自分には合わないらしい。自分で自分を説得とか、論駁とか、できないもん!
意識だけで物事を変えようとか、いわゆる左脳的な思考だけで問題を乗り越えるというのは、あたくしダメらしい。
 
Amazon認知行動療法の本のレビューで「すごく気分がよくなりました!」とか書いている人、スゴイよ!
そういう人は、意識主導で自分の行動を変える能力がものすごく高いと思います。それは一種の才能です。尊敬です。
 
そこで、あたくしが思考と行動を変えようとしておすがりしたのが無意識様のお力です。
自分の思考の力に限界を見て、諦めの境地、一種の悟りのようなものが訪れたのでしょう。
そうして、自分の思考の歪みの頑固さ、不安を強固に回避しようとする自我に、白旗を上げたのです。
 
いや実は、とどめにというか懲りずに「スキーマ療法」も試してみたんだよね。
でも結局、これも自分には全くダメでした。いや、療法自体は悪くないです。今までの様々な療法を幕内弁当的に合わせたような感じで、幼少期の心の傷の癒し、みたいな要素もあるので、「スキーマ療法は、認知行動療法を発展させた療法」という説明もよく分かります。そういうわけで幕内弁当的なので全く新しくないですけれどね(笑)。しかも「一生かけて取り組みましょう」みたいなことが書いてあって、ワークブックも2冊にわたっているので、もう人生の後半に入っているあたくしは「それは無理」と思いました。
 
とにかく、あたくしは「自分の意識を理詰めで説得する」とか「地道に文章を書いていくワーク」の類は全然だめでした!
頭で分かっていても止められないタイプ!
読書により認知行動療法の行脚は、星和書店(数々の心理療法の本を出版)さんにかなりのお布施を払っただけで終了(笑)。
 
そうして、もう、考えすぎて何だか頭フラフラだよ…ってなって挑んだヴィパッサナー瞑想が、なんだかジワーッと…。
ジワーッと効いてくるもんだから、人生って面白いですね。
 
「北風と太陽」の話を思い出しました…。
 
自らに左脳的説得を試みて失敗した方は、右脳からのアプローチも試してみてください。
自分は理論派な人間だと思い込んでいたら、案外、イイ感性をお持ちだったりするんですから!

 

*敢えてオススメするとしたら、以下の2冊あたりなど。 

自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法

自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法

 
性格は変えられない、それでも人生は変えられる―エリス博士のセルフ・セラピー

性格は変えられない、それでも人生は変えられる―エリス博士のセルフ・セラピー

 
※エリス先生のは、古本になっちゃうけど(か、図書館で)。 

「わたしも◯◯を克服しました」というカウンセラー。

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カウンセリングの勉強では、ロールプレイングが欠かせません。いろいろな方の価値観や悩み事に触れられるので、とっても貴重な機会なのですが、この間、クライアント役の方が偶然にも自分と共通の悩み(パニック症状)を持っている人でした。

練習といえども守秘義務がありますので、詳細は省きますが、共通の悩みを持つ人にリアル世界で会ったのは、実はこの時は始めて!
同じ痛みを共有できる人と出会えたことにの嬉しさに、涙が出そうなくらい感動したのです。ですが…実はこのパターン、練習としては、かなりハードルが上がってしまうのです。

なぜかと言うに、カウンセリングの練習の課題は、
相手の感じていることを、自分の体験として感じること
なのです。
 
自分だったらこう思うだろうなぁではないですよ?
軽く憑依する感じです(笑)。
 
むちゃくちゃ相手に集中することが必要です。そうして、相手の感情を自分の感情として体験してはじめて、立場や考え方の異なる人に共感できるようになり、カウンセラーが心から共感してくれるのが分かるからこそ、クライアントが本心を語ってくれるようになるのです。
とっても大切。そしてこれがなかなか難しい。
 
そういう訳で、タダでさえ難しく集中力が必要なところに、自分と似た体験を聞いてしまうと、どうしても自分の過去を思い返し、いちいち自分の体験と比べながら聞いてしまうんですね。これがとても邪魔! そこでそのエゴを消そうとすると、本来、相手に捧げなくてはいけない集中力の一部が、エゴの滅却に使われてしまうのですよ。
 
もし「そーだよね、私も体験しました。そういうの辛いね!」とか、激しく同意してしまうと、クライアントの話をネタに、逆にカウンセラーの世界に引きずり込んでしまいます。カウンセリングの主役はあくまでもクライアント! ですので、そう言いたい気持ちを脇に押しやりながら、初めての話を聞くかのごとくに素な態度で話を聞くようにするのです。
そういう風にして、なんとか練習を終了させることにしたのですが、本当にヒヤヒヤドキドキでした。
 
そこで、です。ネットなどではよく見かける「わたしも◯◯の経験者です」「自ら◯◯を克服しました」(◯◯内は、パニック障害、鬱、強迫神経症、不安障害などが入る)と掲げて商売をされているカウンセラーは、すごいや、と思った訳です。
恐らくは、そうした方が商売上、よいと思ってワザワザ書いているのでしょう。
 
しかし、似たような体験をしたことがある、というのはカウンセラーにとっては実は諸刃の剣。例えば、自分の方が壮絶な体験をしていたりすると、相手の体験に親身になれないなど、カウンセラーがクライアントと似た体験をしていることが、時にはカウンセリングの邪魔になることもありえるのです。
また、クライアントがカウンセラーの個人的なこと(同じ病気を体験している)を予備知識として知っていることが良いことかどうかも疑問です。
カウンセリングとして難しくなっちゃうケースを扱う訳ですから、よほど自信がないとワザワザそんなこと書けないと思うのです(本当に自信があるのかもしれませんが)。
 
ある問題を自分が克服することと、他の人が克服するのをお手伝いするのは、全く異なる次元だと思います。
あたくしは、一度病んだ人ではありますが、一度病んだ人じゃないと病んだ人を癒せないとは思いません。
カウンセラーが実際に体験したことがなくても、クライアントを通じて追体験できる能力を備えていれば、いちいち全てを自分が直に経験する必要はないのです。そもそも、様々な職業、悩み、病気…全てを自分で直に体験するのなんて、不可能ですよね?
それよりも、どこまでも健全な、エゴのない、常にその瞬間を新鮮な体験として感じられるような感性が、クライアントの癒しや問題解決へのパワーとなるんじゃないかしら、と考えてます。
 
とはいえ、そうした感性を養うこと自体が、ものすごく難しいミッションなので、優れたカウンセラーに出会えると、本当に嬉しく思います。
 
同じ様な悩みを持っている人と出会えることは、時には嬉しく、孤独感から解放されて心強く思うこともあります。けれど「同病相憐れむ」的な感覚だけでは、問題からの脱却は難しいのです。
 

自分が分からない時はまず、心と身体感覚をつなげてみる。

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不思議なことがありまして、昨日のブログに書いた本人から2ヶ月振りに連絡が来ました。何だか縁が繋がってゆけそうで、嬉しいです。

先日の喧嘩の話が再び出るかどうか分かりませんが、ふとした弾みにそんな流れになったなら、今度は友人にも分かりやすいように自分の気持ちをお喋りできればいいなと思います。

「分かってくれて当然といった傲慢な気持ちを減らす」だけでも、怒りも喧嘩も減るハズです。

 

ところで、「子どもの幼少期に親がオノマトペを使って話しかけると、情操教育に良い」という話題をフト目にしました。オノマトペというのは、キラキラ、ワクワクといった擬音・擬態語のことですよね。

幼児教育を考える時、お勉強の前に、まず心を育てましょう〜というのが、最近の「頭の良い子どもを育てたい」人達の間では定説らしい。ちょいと調べたら、育児関連ではこれが結構話題になっているようで、その効果といったら教育にとどまらず、スポーツや医療の分野でも注目されているとか…。

 

で、これを読んで、「ほーほーほー」と深く納得です。

なぜなら、自分の今の気持ちや行動を正確に描写できる表現力は、心と身体感覚をつなげてくれるので、精神の健やかさを保つのに非常に役立つと感じるからです。子どもだけでなく、むしろ大人に大切なスキルと思われます。

 

人は無意識に他人の顔色を伺うあまりに、自分の気持ちの変化に伴う身体感覚は案外無視してしまっているのですよ。大人になるにつれ、自分がどう思っているかより、他人がどう思っているか考え、判断や行動をするようになりますよね。空気を読むってやつですか? それも社会的にはとても大切なスキルなんではあるのですが、あまりにも外界からの反応を重視して判断する癖がしみついてしまうと、直接、自分の気持ちを観察する機会が減ってしまいます。

人は自分の体の微妙の変化から「あ〜自分、嫌なんだわ」とか心の動きを測ったりしているところがあります。実は、思考よりも反応の方が早くて、思考はその反応に対する理由付けを行っているだけ、という説もあるくらい。そうした身体の反応にあまり気を配らないで、どう立ち回るのが良いか思考優先で物事を処理していると、本来の感情というのは無視されているだけで依然、存在はしているので、何かの折に体調に現れてくるのですよ。

 

心理療法の手法で「フォーカシング」というのがあります。

その中に、喜怒哀楽を感じた時の体感を表現するトレーニングというものがあって、

例えば、「怒りが胃の上のあたりで、グツグツしてます」とか

    「熱い鉄の玉がグルグルしている感じです」

などと、体感にピッタリの言葉を探し、表現するのです。

感情が生まれた原因を分析するのではなく、感情そのものを体感として捉えるトレーニングってのがミソです。

これなんかは、分断された心と身体感覚を、再びつなぎ直す行為。

そんな風に自分の体感を言葉を使って追っていくと、その体感が変わったり、うっすらと消えていったりするのを目の当たりにすることができて、なかなか面白い。

 

「ありのまま見る」「心の移ろいを感じる」あたりは、瞑想にも共通するエッセンスだと思います。瞑想よりフォーカシングの方が想像力を使うという点と、どうやら覗いている場所が違うあたりが、双方の異なる部分かな。

フォーカシングは、練習すれば自分一人で行うこともできるそうなのですが、やはり最初は熟練した方にガイドしてもらった方がよさそう。良い指導者を見つけるのが容易でないところがネックかな? (あたくし自身は、たまたま現在のカウンセラーさんの得意技だったようで、偶然、体験しました)

 

あたくしはどうも認知行動療法のような自らを合理的に納得させるような方法はダメみたいで、本は何冊も買ったのですが、全く効果を得ることができませんでした。理屈っぽいから認知行動療法は当然効果あるだろうという思い込みは、どうやら正しくないらしい。認知行動療法の本を読むと、自分にはどういった思考の偏りがあるかはよ〜く分かるのだけど、肝心の行動が変わんないんだよね。分かってもなかなか変わらないので、余計イライラします(笑)。

 

そういう訳で、イマイチ自分の感情をコントロールしづらいとお考えの方は、脳の説得はいったん置いておいて、厄介な感情がどんな身体感覚をもたらしているのか…と、心と身体感覚の繋がりに注目するといいかもしれません。