心の旅のお作法

妙齢からの、己を知る道、心のお散歩(笑)

気功、瞑想、あらまほし道へのストーリー展開。

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あたくしが習ってる気功は瞑想をあまりしないんですが、一度、先生にその理由を聞いてみたら…
心だけキレイになっても身体が弱かったらしょうがない
…とおっしゃっておりました。…なるほどです。
 
気功というのは身体の気の通りを良くし、宇宙エネルギーを取り込み、身体を強靭かつ健康にしちゃおうというメソッドです。(気功を知らない人は、なんだコリャ!ですけど…気功の世界では共通の認識、ルール、世界観…となっております)
そして、その延長線上に、金運アップ、願望成就能力アップ、能力開発、アンチエイジング、人の病気や体調不良も改善させちゃったりする力の獲得、なんかもあります。
そうです、ある意味「超人化」を目指すのです。
(でも、気功の世界では「元々備わっている力を開発する」「元々の自分を発見する」みたいな文法で展開します。この辺がミソ)
 
だからですね、気功の生徒さんの中には、ごく一部なんですが、ものすごくギラギラした人が紛れています。
実際に、気功の先生に「どれくらいの域に達したら、大きな家に住めるようになるでしょうか?」と質問している人に遭遇したことがあります。
気功でどれくらいのレベルに到達したら、自分の願いが叶えられる(この人の場合は、大きな家に住むこと)のか?と直球で聞いているのです。
心の汚れたあたくしは内心「バッカじゃね〜?」とか思って聞いていたのですが、その実、そこに来ている生徒さんのほとんど全てが「自分の病気を治し、人の病気も治せる不思議な力」獲得のために来ているのですから、本当は、ベクトルは異なれど欲の深さに違いはないのです。
先生の答えといいますと…
その域に達した時、あなたの願望は大きな家ではなくなっているかもしれません
…という深いものでした。
 
という訳で、気功というのは、体の感覚を入り口にして、主に肉体的な鍛錬をしていって、その果てに精神的な気づきがあり、やがて不思議な力がやってくればいいなあ〜という感じです。まずは体という道具を積極的に使って、あらまほし方向に行きましょうというストーリー展開が期待されます。
 
その辺をふまえて、瞑想(ヴィパッサナー瞑想)をやりますと、こちらでは煩悩の滅却を目指す訳ですから、最初はものすごく戸惑います(笑)。それまでは、健康、金運、アンチエイジング〜って、ある意味、煩悩満載だったのが、瞑想の世界では「反応しない心」の獲得がミッションとなるので、「あるがままに」と(あたかも)真逆に進もうとします。
 
瞑想合宿の帰りに「不思議な力を得られるような類のヨガを長く練習してきたけど、ヴィパッサナー瞑想を知ってからは興味がなくなったので辞めた」という方とお話しする機会がありました。
「修行の末に不思議な力を獲得した人は実際にいるし、不思議な現象を目の当たりにしたこともあるけど、そういう人でエゴが抜けている人はなかなかいない。どうしても“オレ様”的な部分があり、人格を尊敬できないから」と。
「不思議な力の獲得」と「煩悩滅却して解脱」、両方は手に入らないと悟って、その人は後者を選んだ訳です。
 
 
自分は不思議体験とは無縁な全くの凡人ですけど、一見、普通のお姉さんみたいな人から、かような面白い話が聞けることが、気功や瞑想をやってて面白いな〜、と思えることです。
 
実は、瞑想も極めれば超人化しないこともなかったりして、「寝なくても平気になる」とか「能力開発」みたいなものが、瞑想によって煩悩滅却した果てに訪れるみたいなのを、チラリと聞きました。
ですから、瞑想の場でも「どれくらいの期間瞑想すれば、寝なくても平気になるんですか?」と先生に質問する、ギラついた人が存在する訳です(笑) 。(「そういうことは、考えなくていい」と言われておりました)
 
最近の瞑想ブームでは、「仕事効率アップ」「アイデアが湧き出る」「睡眠時間短縮」などが言われてますし、その辺は悲しいかな、人として食いつきやすいポイントなんですよね。
でも、それは、あくまでも瞑想の効果のおまけみたいなもので、目的とするものではありまへん。あくまでも瞑想の目的は、煩悩の滅却、です。
 
さあ、あたくしの願望は「不思議な力の獲得」と「煩悩滅却して解脱」、どちらで叶えましょうかねえ…

パニック症状を繰り返してしまうワケ。

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鬱やパニック症状を一度体験してしまうと、身体に脳にその痕跡が残され、それを消すのにはなかなか難儀なような気がします。
その痕跡は自分にとって、人や動物が行き来することで出来る“けもの道”のようなものであり、大雨が降った後にだけ出現する“川”のようなものです。元気な時は、全く見えないし気にならないけど、少しでも不調の兆しを感じてしまうと、うっすらと姿を現すような…。その時の、何とガックリとくることよ!です。
 
あたくしの場合、その後、10年以上に渡って再発を繰り返すキッカケとなった事件があります。
犯罪被害に遭ってしまったのです。ストーカー被害です。
 
どんな恐ろしい目に遭ったのかというと…それが…具体的には上手く言えません。
なぜなら、犯人が逮捕されるまで、そして実際にそいつが何を具体的にしていたのかは、知らなかったのです…。
 
そんなこと、ありえるの? →ありえるんですね〜
 
当時は独身で、某会社で派遣社員しておりました。
そうしたらですね、ある日を境に、自分の身辺に不思議なことが起こります。
「某氏が、頭のおかしい女に仕事を提供することを引き換えに、不適切な関係を迫っている」という怪メールが社内の一部の人とかに届くようになったのです。某氏は当時の上司、頭のおかしい女というのは、あたくしのことらしい。イニシャルが入っていて、誰だか推測できるようになっていました。そのうち、ネットの企業掲示板とかにも同様の投稿が出始めました。
 
当時は、社員で上司の某氏を中傷する事件として、まずは社内調査を行いました。
その社内調査が長引いて、「警察の力を借りましょうよ」と言ったのはあたくしです。
某氏が「社内に自分を憎んでいる人がいる…」と疑心暗鬼になって、メンタル的にかなり参ってきたからです。
 
そうしましたら、さすが警察! 捜査開始2〜3ヶ月で犯人逮捕です。
 
ですが、その犯人を知って驚愕!
被害者はあくまでも自分の上司で、あたくしは“ダシ”くらいに思っていたら、思いっきりの被害者だったのです。
その犯人は、あたくしの知人男性だったので…す…。
 
なぜ、犯人がそんなことをしたかといいますと、「あたくしが会社に居づらくなって、無職になって生活に困ったら、もっと自分を頼ってくれると思ってた」だそうです。
 
ひ〜〜〜クレイジー!
 
犯人は当時、上場企業にお勤めしてて、家を持ち、家族(妻、娘二人)がおりました。これで犯罪者になることを選べる神経が理解できません…。
それとも、これくらいの嫌がらせはバレないとでも思っていたのでしょうか? 半年も陰湿なメールを送り続けといて…。
 
ともかく、犯人は捕まったものの、罪をなかなか認めず、20日間以上も拘留されたそうです。
「20日間 以上ってね、殺人犯並みですよ」と、刑事さんは申しておりました。
 
で、「もうちょっと拘留期間延ばしますから、家を変えて下さい」と言われました(はしょりましたが、犯人は誹謗中傷メールだけでなく、いろんなことをやらかしてました)。
 
もう、これは警察からの「お願い」というか「指示」ですね。当時はオートロック付きのちょっと上等なマンションに住んでいましたが、そんなの、何の意味もないみたいですよ?
 
夜逃げみたいな引っ越しを、生まれて初めて体験しましたよ。
(当時、夜逃げみたいな引っ越しを手伝ってくれたのも、ご迷惑をかけた会社の仲間でした)
 
そうして、引っ越しをして、事件解決、メデタシメデタシ、元通り…♪とはなりません…
あたくしは激しく体調を崩しました。
しかし、当時は、周囲の人と同じく、時が解決するものと思っていたのです。
 
「恫喝」場面で自分が体験する、あの、ザーっと冷水をあびるような恐怖感が、この当時の一連の体験とつながっていると分かったのは、ここ最近のことです。恐怖の元をたどるのに、10年近くもかかってしまいました。
 
犯人は、小心者で一見人当たりが良い反面、プライドが高く、フトしたことでキレるタイプでした。
直に、というよりメールのやりとりなどでよく「恫喝」してました。
メールで恫喝って変ですかね? 「ふざけるな!」「馬鹿にしやがって!」みたいな文章の書き込みです。
それは、あたくしに対してだったり、他人に対してだったりで、当時は「キレ芸人かよ?」程度に考えてました。ですから、直に恫喝を食らった記憶は薄いのですが、その辺りの記憶から、恫喝 ≒ 犯人&事件 といったインプットがされちゃったんでしょうね。
 
そして、恫喝が怖いのではなく、本当に怖いのは、「表向きは善人を装いながら、影で陰湿なことをしても平気な精神性」なのでしょう。拘留されても自分のやったことを認めず、「俺は人に落とし入れられた」と言えるような歪んだ性格に、心の闇の深さを感じるのでしょう。
 
この話、オチがあります。
事件から5年ほど経って、犯人からFacebookの申請があったのです!何事もなかったように!(笑)
無視してたら、メールも来ました…。で、「あ、こりゃヤバいな」と思って、「警察に連絡します」って返したら、「それだけは止めてください」って…バカですよね? それからは何事もないのですが、要するにそういうことです。
 
逮捕されても、会社クビになっても、時間が経っても、反省しない人は、反省しません。おバカさんも治りません。
 
そこが、ものすごく、怖いのです。
 
ですから、ココをなんとか乗り越えなくてはいけません。

カウンセリングで怒りが止まらなくなっちゃう時。

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心の平安を求めて足を運んだカウンセリング中、正直、怒りが沸き起こり、止まらなくなる時があります。

怒ってスッキリするのならそれもアリ、なのでしょうけど、本当は怒りたくなかったりするので、モヤモヤとして帰途につくことがありました。
何が起こっていたのでしょう? いろいろ自分経験を振り返り、当時の原因を探ってみました。
 

怒りの感情を受け止めてもらえてない。

過去に怒りを感じた体験を話している時、カウンセラーからの共感がもらえないと、あら不思議、怒りがさらに募ります。うまく共感してもらえないと、怒りの炎は鎮火されないのです。
自分の怒りに対して、カウンセラーからの共感が感じられないと、クライエントは「私の話、通じてない?」とある程度「盛る」と申しますか、怒りのボリュームをアップさせてみるのです。無意識にです。
 
ですので、カウンセラーとしては、当然ちゃんと感情を受け止めてなくてはならないのですが、分かっているだけでは出来ないんですね〜。それなりの訓練が必要です。
何しろ、普通の人だったら、レアな怒りの感情には、とっさに嫌悪感を感じたり、何かしら心の動揺を感じてしまうもの。そのまま受け止めること自体がとても難しいのです。動揺を隠そうと「怒りの感情に対して冷静に対処しなきゃ」と考えてしまうと、クライアントの心に寄り添うことに集中できなくなってしまうのです。そして、その不安定な状態は、なんとなくクライアントに伝わってしまうのです。
 
自分の中の黒い感情を赤の他人に正直に言うのは、とても勇気のいることです。
一度でも自分の感情を否定されようものなら、その人に本音を話すのはとても難しくなります。
カウンセラーを志す人は、その勇気に報いるような技術を習得して欲しいものです。
最初から、小さなことを大袈裟に怒るような人がいますが、その人は、これまでの人生から多少盛らないと共感してもらえないと思い込んでいるのかもしれません。
 
 

お門違いな意見で心が乱れる

実際にカウンセリングの途中で夫との関係を話している時の先生のコメント(そう、あたくしは既婚者です)。
「旦那さんは、ADHDかもね」
考えてもいなかったことなので、ビックリしちゃいました。
そして、「そおんなワケねえだろお〜」と内心に強い怒りが…先生の前では引っ込めましたけど。
いやいや、臨床心理士だからって、私からの聞き取りだけで、会ってもいない人の診断しないでよ、と。
悪気はないのは分かるのです。「問題は、あなたのせいではないよ」と先生むしろ私を励まそうとしているのは分かるのですが、しかし、その先生は、リラックス法の指導はお上手だったのですが、フリートークとなるとその辺のオジさんオバさんレベルだったのです(笑)。
 
その他、「迷っているならやっちゃいなよ」←鬱状態で決められないのです。
「ダメだったら、また頑張ればいいよ」←極度に失敗が怖いのです。
「そんな会社辞めちゃえよ」←え、そんなこと言ってないよ!
こっちの不安に、超楽観的な態度で迫られると、自分なんかは腹が立つタイプ。
当時はよくわからなかったけど、傾聴をかじった今なら、まずは、迷っている気持ち、不安な気持ちに寄り添って欲しかったなあ。
40分7000円の費用で「チャレンジしろ」というご指導だと、萎えてしまうのです…。もちろん、心が健康な時なら、背中を押してくれる意見もウェルカムかもしれないのですが…。
あたくしが比較的症状が安定していたので、そんな風に言われたのかもしれません。でも、「何で行動に移さないの?」と言われてしまうと、何だか責められているようで、全くもって辛くなってしまいます。
「試してみる」「ダメなら辞める」「またチャレンジする」…健康な人ならむしろ直感的にできる、こんな簡単なことも、心がヘコタレている時には、とっても精神力を必要とするのです。
 

カウンセラーに陰性転移が起きている。

転移とは、クライアントが親子関係など、他の人間関係をカウンセラーとの関係において再現してしまう現象です(フロイトが発見しました)。プラスの感情を持つのを陽性転移、マイナスの感情を持つのを陰性転移といいます。
「何だかこの先生の前では素直になれないわ」「この人の言うことイチイチ腹たつわ〜」という時、そのカウンセラー自体を見ているのではなく、その陰に父親や母親との関係を重ね合わせている、こともあるのです。
 
この現象、結構簡単に起こります。カウンセラーが転移の現象を利用して治療することすらあります。
なので、カウンセラーに怒りを感じる時、前述のように、カウンセラーの技術不足ではなく実は「こっちの事情」だったりするわけです。
 
実は私自身、女性のカウンセラーが苦手です。どうしても母親との関係が再現されてしまうからです。私の母親は共感能力があまり高くなかったので、共感技術が下手なカウンセラーにはムチャクチャ腹が立ちました。この怒りは、未熟なカウンセラーへの怒りでもあるのですが、根本は、自分に対してものすごく淡白だった母親に対して怒りを再燃させているのです。
 
 
だからして、怒りは着目するべき感情です。「なぜ、怒っちゃってるのだろう、ワタシ…」と深く洞察する時、自分をバージョンアップさせるヒントが隠されているのです。怒りは「誰かがオレ様を怒らせる」体で沸き起こりますが、実は、冷静に考えれば、自分の内側の問題、ということが多いのです。
 
怒るなら、冷静に怒りましょう。そして健やかになりましょう。

カウンセリングに対して私が抱いていた幻想、失敗の原因。

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実は、カウンセリングを学ぶ前は、「カウンセリングが何なのか」をイマイチ知らない状態でカウンセリングを受けていました。これは、今思えば、「パソコンで何ができるか分からないままパソコンを買うようなもの」ですね(笑)。
 
自分がカウンセリングできるほど研鑽する必要はないとは思いますが(もちろん興味があったらやればよろしい)、カウンセリングを受けるのって結構な費用がかかりますから、予め「基本的なカウンセリングってどんなものなのか」を頭に入れておけば、自分の担当のカウンセラーの技術力が分かるってもんです。あたくしの経験のように、回を重ねても一向にスッキリ感が得られない、停滞感から抜けらない、しまいには毎回、ここ数週間の行動をネタに世間話…みたいにルーティン化してしまった時にも、カウンセリング何ぞや、ということを知っていれば、どこに問題点があるか分かります。
 
また、カウンセラーと会う時間が楽しい♪状態に陥りながら、人生には一向に前向きになれない場合も注意が必要です。悲しいことですがクライエントに対し「治らなくてもいいや」と思っている風なカウンセラーも少なくないと思います。この辺は、精神科医も同じ。そういう人は、癒す人ではなくてただの商売人ですから、どんなにその時間が楽しくても「カネだけの関係」と自覚して、今後の自分の行動を考えるべきです。
 
以下、自分が最近まで勘違いしていた数々。
 

カウンセラーに心を開けない自分はおかしい。

そもそもが、こんなことで悩むなんて本末転倒だとは思うのですが、 自身の体験を含めて、有り得る話です。
カウンセラーの時間は、高額な費用と大切な時間を捻出して作り出した「あなたのための時間」です。
何回もセッションを重ねているのに、どうにもカウンセラーに信頼感、親近感が感じられないのは、もしかしたらカウンセラーの技術不足かもしれません。
例えば、毎回私が話してばかり…と思っていたとしましょう…しかし、有能なカウンセラーであれば、多分、あなたに語らせっぱなしにはしないのです。少なくとも共感しているという何らかのサインを出してくれるハズです。また、あなたが語ったことに対し、即座に「良い」「悪い」といった評価を下さないハズです。そういう訓練をカウンセラーを志す人は行っています。
カウンセリングのごく初期の段階で一番大切なのは、実は信頼関係作りなのです。もしカウンセラーに対して、「こんなことを言ったら軽蔑されるだろうな」などと気兼ねしてしまったら、本心に至ることができません。普段は周囲に言えないような、自分の中の黒い部分、こだわっている過去、悲しいこと辛いことも、自分の一部として語れる場になるのがカウンセリングの理想だと思います。無理に自己開示する必要はなく、信頼関係が出来上がれば、自然に話を聞いてもらいたい気持ちになったり、自分の気持ちにピッタリな言葉が出るようになると思います。信頼関係が築かれないまま進行したカウンセリングは悲惨です。
 

全てをできるだけ詳細に語れば、すみやかに解決に繋がる。

これは、カウンセラーが何か原因やら解決法を教えてくれる人だと考えていると、ウッカリ陥ってしまいます。
先生が考える為にも情報はたくさんあったほうが良いだろう…と思っているそこのあなた、完全に勘違いです。
自分の問題の解決法は自分が考えて見出すものであり、自分で自分の問題を解決できるように助けてくれるのがカウンセラーなのです。
私は、この詳細に語るのを何回にも渡って行ってしまいました。はっきり言って、時間の無駄。
カウンセリングを辞める際に、「私が話してばかりで何をやっている時間なのか分からない」と伝えた際に先生に言われたのは、「最初は喋りたさそうだったから、お話させておいた」←!という驚愕の事実。その間、先生は会話を一生懸命メモ取ってるだけでした。ご苦労さん、自分(笑)。
自分がとりあえず「この鬱憤を聞いてもらいたい」と思っているのなら、気の済むまで語るのもありです。でも、カウンセラーは何も解決してくれません。そもそも、そんなこと考えていません。問題の解決は別アプローチで行います。
 

カウンセラーは私の質問に回答してくれるもの。

あなたが絶対にカウンセラーは答えを知っているハズ、と思い込んでいたなら、質問に答えてくれないカウンセラーにはイラつくでしょう。私がそうでした!

しかし、カウンセリングとはクライエントの質問にそのまま答えたりはしないものなのです。焦らしてモヤモヤさせるプレイとかじゃないですよ? 先ほども申しましたように、カウンセリングの目的は「自分で自分の問題を解決できるようにする」なので、その成長を妨げるようなことはしないんです。律儀に答えると、何でもカウンセラーに聞こう!ってなっちゃいますからね。それは、今まであなたに命令を下していた誰かさんの役を、今度はカウンセラーに委ねてしまうことになります。
その辺をカウンセラーは当然知っているので、質問には答えてくれません。しかし、熟練したカウンセラーなら、上手い質問返しをしてくれるかもしれません。そしてその問いに答えようとする時、自分の中に気づきやひらめきが起こるかもしれません。やはり、問題は自分で解けた方が嬉しいのです。
そんな訳ですから、質問しないのにあれこれアドバイスしてきたり、あなたの代わりに判断を下そうというカウンセラーは全くダメです。コンサルタントコーチングならアリかもしれませんが、カウンセラーとしてはダメです。そういうカウンセラーは臨床は止めて、心理系の実用書でも書けば良いのです。
 
カウンセリングの時間は、日常とは違う不思議な世界です。
あなたの話はとても真剣に聞いてもらえるし、共感もしてくれる。
評価を下さず、そのままを受け入れてくれる。
質問には何一つ答えてくれないかもしれないけど、自分で答えが見つかることがある。
 
じゃあ、カウンセリングを勉強したら、少なくとも上記のことはスグ出来るんですか?っていうと残念ながらNO!なんですね〜(笑)
頭で分かっていてもダメで、これは武道の型を学ぶのにも似て、何度も練習を重ねる必要があるのです。カウンセリングは剣道、柔道、合気道的な、「道」の要素があるように思えます(技術の高さだけでなく、精神的な研鑽も必要なあたり)。
この能力は、恐らく学力とかは関係ないのです。だからこそ、大学院を出た臨床心理士の中にも、肝心のセッションが苦手という方がおられるのでしょう。
 
未熟な方も現場に駆り出されているのは世の常です。しかし、こっちがある程度分かれば、泥沼化は避けられるかと思います。

いろいろなものを補うために瞑想合宿に行く。

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あたくしの瞑想体験は、昨年の2016年秋、ヴィパッサナー瞑想の京都10日間合宿に参加から始まります。

瞑想は以下の理由から興味を持ちました。

  1. 気功が伸び悩み感があり、それは瞑想が足りないからかも。
  2. 鬱、パニックに瞑想が効くという説がある。

なので、もし効果があれば一挙両得です。

 

ご存知の方もおられるかと思いますが、ヴィパッサナー瞑想の10日間コースというのは、その間はスマホは預けて外界との接触を断ち、お喋りも禁止、読書や筆記も禁止、朝4時起床、夜21時就寝、完全菜食…という、完全に浮世とは異なる環境で行われるものです。

 

最初は、瞑想でももっとマイルドな「マインドフルネス瞑想」なんかがブームもあってやりやすいかな? と思ったのですが、瞑想教えてもらうのも、結構お高いんですね。あれは何なんでしょう? ただ、座っているだけなのに…。

また、禅寺での座禅なども考えましたが、パニック持ちとしては、警策(きょうさく)で叩かれるんじゃないかと思うと、とても自分に集中できそうにはない…と思いました。(※実際は、事前に一言持病のことを相談すると、その辺は考慮していただけた、という体験者もおり、バシバシやられる訳ではないそうです(笑))

 

鬱でパニックで半ば引きこもりなので、外界との接触を絶たれるのはそんなに抵抗ありませんでしたが、集団生活なので、体力持つのか?とか、瞑想中にあまりにも面白いものを見すぎて精神的に疲れるのでは?といった杞憂はありました。←あくまでも杞憂でしたけど。そんなことより、予想外のことが一番辛かったです(これから参加するかもしれない人のために、それが何かは言いませんが)。

 

で、実際、期待していた効果が得られたか、と申しますと。これは、ありましたよ!

まず、自分の場合、瞑想は気功やっている時より集中できるらしく、1日目から「面白いもの」を見ることができました。いわゆる白昼夢みたいなものですかね?

気功を始めたばかりの時、先生から「站椿功(タントウコウ)の練功中、面白いものが見えても平静を保つように」と言われました。具体的には、男性だと女神様とか観音様とかを見るらしい。先生は、あたかも不思議体験のように語るのですが、どうやら、脳がある状態に入ると、瞼の裏に色々見える現象が起こるらしい。站椿功(タントウコウ)は立禅の一種らしいので、集中して行うと瞑想状態に入るのでしょう。周囲で「こんなこと、あんなこと」が起こった発言がある中、私には全くそのようなことは起きず、心中悲しく思っておりました。

要するに、集中した結果、脳がある状態になると、面白い体験ができます。でも、それがヴィパッサナー瞑想の目的は煩悩の滅却なので、面白体験は軽く流すようにします。私は不覚にも「面白いなあ〜」とやや執着してしまいましたが、視覚的な面白いものは1日目だけで終わり、その後は、節目節目で体感的な面白体験があったりしました(でも、重ねて言いますが、真の目的は煩悩の滅却、です)。人によっては面白体験ではなく、恐怖心を覚えるような体験があったりするらしいと聞いていたので、少し心配していたのですが、自分にも周囲の人にもそんなことはなかったみたいですね。

合宿から帰って来たら、練功が辛くなくなりました。瞑想を1日10時間近くやるより、気功の練習を1〜2時間やる方が全然楽!なんです。しかし、辛さが薄くなるのが気功的によいことなのか…は分かりません。また、瞑想から帰ってきてからは気功への考えも少し変わりました。この、気功と瞑想の関係は、また後ほど書きたいと思っています。

 

鬱・パニックは、合宿中は全く忘れてしまうくらいで、これで治っちゃったらスゴイかも、くらいは思っていたんですけど、帰ってきてだんだん日常に戻るにつれて、元のドヨ〜ンとした空気が戻ってきてしまいました。やはり、あの、浮世とは異なる環境がミソなのでしょう。本来、この瞑想法は浮世で健やかな心で暮らしていくためのものなのです(それゆえ、日常でも瞑想を続けなさいと言われます)が、この浮世離れした生活に惹かれて、本格的な瞑想者への道を歩む方もいるそうです。自分の場合は本来浮世が好きなので戻ってまいりましたが…。

鬱・パニックに関わらずメンタル的な健康につながるかな?と思った一番の出来事は、瞑想中、恥ずかしいほど煩悩が爆走するのを体験することです。

あたくしの場合は、怒りと暴力的なエロチックシーンが妄想として湧いて参りました。とにかく、怒りの感情はものすごく出てきて、こんなに溜め込んでいたのか!と驚かされました。

瞑想中は基本的にご飯は奉仕者が作ってくださるし、自分のことだけ考えていれば良いのですが、こんな時に至っても、「私のサンダルを履いていったやつがいる」「シャワーが長いんだよ」「イビキがうるさい」「スープの具がデカすぎる!」と、瞑想の合間の自由時間にプンプンしてばかり。怒りが、外的な刺激から出てくるのではなく、煩悩まみれの自分の中から湧いてくるものなのだと、改めて実感いたしました。自分が腹を立てているのは、他人の、世の中のせい、と思っている人は、瞑想をまとめて行うこの機会は良いかもしれませんよ。自分の心の健康のために。

一方、暴力的なエロチックシーンの妄想は、瞑想を邪魔する煩悩として頻繁に出てきました。過去に読んだマンガや映画の暴力的なエロチックシーン「だけ」が編集され、集められて、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストシーンのごとくに展開しました(笑)。秘めた性癖なんでしょうか? あくまでも暴力的なのがポイントなのかもしれません。この妄想は合宿の中盤頃、2〜3日間激しく湧き起こり、その後パッタリと無くなりました。

 

その後、下界に戻ってからも瞑想は続けてます。満足するような集中には至らないので、1回1時間半くらい行うようにしてます。毎日は…すみません…ちょっと無理。

 

当時お世話になっていたカウンセラーの方に、瞑想合宿の感想を興奮気味に「本来の自分に少し出会えました!」伝えましたら、非常にガッカリした顔をされて、「それが、カウンセリングを通じてあなたに感じてもらいたいことなんですよ?」と返されてしまいました。あ、そうか、そうですよね? そんなこと言われたら、カウンセラーとしては立場がなかったでしょう。でも、その言葉にはすでに答えが出ていたらしく、その一ヶ月後にそのカウンセリングは24回で中断…と相成った訳なのです…。

 

ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法

ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法

 

 ※紹介しておいてナンだけど、瞑想合宿に行く予定の人は読まない方がいい(笑)。合宿の講話の効果が半減しちゃうから!「合宿のために10日も休めないわ」という方にはオススメ。

半信半疑で…気功、やってます。

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気功やってるというと奇異な目で見られるので、あんまし友人知人には言ってません。人に説明するのも、とても難しいです。

一応「人を吹っ飛ばさない方の気功をやってます」とお伝えしています。

やってることは、太極拳とか、今流行りのヨガとかとほぼ同じベクトルだと思うのですけれど、どうも気功には変な秘密主義があって、ワザと確信をぼかすところがあるので、この辺が好き嫌いが分かれるところでしょうか? また、前述の二つに比べてスピリチュアル寄りのインチキくさい教室、先生が多いことは確かだと思います。加えて集まる方の生徒さんもユニークな人が多いように思います。

あたくしが気功を始めたきっかけは一つではなく、イロイロあるんですけど、その中で大きく占めるものに「ストレスに強くなって、メンタル系の不調から解放されたい」というのがありました。

と、いいますのも、え〜と、前々職かな? 断薬してジョギングを行うようになったら、3〜4ヶ月で調子が良くなり、就職もスムーズにいったのですが、その後がいけません。フルタイムのお仕事に就いたら、ジョギングをする十分な時間を作ることができなくなりました。

ストレスを感じると、自分の場合、最初はお腹を下し、その後、風邪を引き、こじらせます。そのストレスも、病気になる前だったら何ともないこと…「うざったいパートの古株のババアがいる」とか「楽することばかり考えてるアホな正社員の存在」です。そんなのどこにでも居ますよね? 以前では何でもなかったことに辛く感じてしまうこと、悩んでもしょうがないことで体調を崩してしまうことが、とても辛い。あとは「これはストレスのせい」と薄々分かっているのに、平気なフリをしているのも。「身体弱いの?」と言われココロの中で(いえ、精神が…)とつぶやいてみたりね。

そこで最初は自己啓発本に逃げるワケです。具体的には、当時のベストセラー『嫌われる勇気』とか、デール・カーネギーの『人を動かす』とかね…。それらは良書だとは思うのですが、しかし、頭では理解しても行動に落ちてこない! だから「こう振舞うべきなのに、できない」と、またしてもモヤモヤ&イライラするのです。

そんな時に出会ったのが気功でした。ストレスで身体がカチカチ、加えて、当時通っていたカウンセリングで教えてもらった「筋肉弛緩法」の限界が見え始めていたので、気功施述を活路を見出したのです。気功が何なのかよく分からないまま、試しに…といった軽い気持ち。でも、随分施術料が高額なんです(笑)。迷っているうちに、気功そのものを教えてくれる、という人を見つけました。

そこでは、以下のようなことを掲げておりました。

・ストレスに強くなる。

・本来の自分になれる。

・自分の病気を治し、人の病気も治せるようになる。

何だか気功って魔法のような素晴らしい技術!(ツボや水晶の販売など)変な教室だったら即刻辞めればいいのだから…と、ドキワクで教室に参加したのです。

…以来、2年ちょっと気功やってます。功法は…気功の知識がある人にしかわかりませんが…站椿功(タントウコウ)といいます。立ってブルブルするだけ、しかも、1時間とか…。

あまりにも単調で、2年も続けている人は極くわずかになります。

そして、2年間の継続で上記3つのことができるようになったかというと…。

なりません!(笑)

始めたばかりの時はプラセボ効果か絶好調で、再就職に成功。しかしその先では、社長がものすごく恫喝する人で、ストレスでダウン…

本当の自分にも出会った感ないし、病気も他人はおろか、自分のだって治せません。

教えてくれている先生の気功施術も受けたことありますが、パニックが一瞬でも治ることはありませんでした。

「ストレスでダウンしそうです」と訴えても、先生からはひたすら「練習を頑張るように」「心臓に気を送れ」と気功的な見地からのご指導がいただけるばかりで、魔法のような力というものは体験できませんでした。半信半疑ながら、ちょっと期待してたんですけどね(笑)。

ここで、気功効果ないじゃん!と怒って投げ出してしまうこともできるかと思うのですが、ボルテージダウンしながらも、なぜか自分は今も続けています。

恐らく、目的は一つも叶わなかったけど、気功を通じて「とても頭デッカチな自分」に気付くことができたからだと思います(実際に、若い方、頭の柔らかい方、身体感覚に敏感な人の方が気を感じやすく、気功の上達は早いらしいですよ)。

また、これは自分が勝手に感じていることなんですけど、どうやら気功は、肉体的な不調や疾患(腰痛とか、はたまたガン)には効果が感じる人が多い一方、精神的な症状の改善は不得意みたいですね(鬱よりも脳腫瘍の方が得意、みたいな)。

まあ、東洋医学ですと、感情は五臓六腑につながっているので、メンタルを元気にしようと考えると、その全部を整え、かつ、脳も整える、という風で時間がかかるのかもしれません。

というわけで、気功には何かしらの効果が見られるけど、気功治療に関してはよく分からない、しかし、結構なお金が動いているのは確か…という感じです。本当に不思議な世界です。

カウンセリングの超基本、「傾聴」奥深し…。

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前回、カウンセリングへのモヤモヤから、カウンセリングの勉強を始めるに至った経緯をちょこっと書きました。

 

実は、その前段階として、過去に傾聴講座に2回ほど通ってます。両方とも主に老人ホーム等での傾聴ボランティア養成を目的としてて、1回目は傾聴関係の NPOが主催(5回コース)、2回目は地元の社会福祉法人が主催(6回コース)でした。

 

後でこの経験が効いてきて、カウンセリングへの興味が膨らむのですけど、当時はシンプルに「人の話の聞き方を学びたい!」でした。申し訳ないけれどもボランティア精神はほとんどなく、自分の為に参加したのです。

どういうことかと申しますと、心身を病んでからというもの10年、他人の感情に非常に敏感になりました。パニックを発症した経緯とも関係するかと思うのですが、恐らくは危険を回避しようと常に交感神経が意味もなく頑張っちゃっているのだと思う。

イライラしている人に接したり、友人の悩み事を聞いたりすると、そのマイナスの感情の影響をモロに受けて、自分まで具合が悪くなる有様。実は、ストレスに強くなるために気功を始めたのに、さらにも敏感になってしまい、余計に辛くなりました(まあ、そういうことはあるらしいです)。

メンタル的に弱ってしまい、引きこもりがちになって、これはイカんなと思って気晴らしに友人に会うと、「あたしはこれだけ一所懸命やっているのに会社で認められない」とかみたいな話をコッテリ聞かされて、グッタリしてしまうのです。言った本人はスッキリしているみたいですが…。

 

この、人の悩み事を聞いた後の激しい疲労感を何とかしようと思ったのが、「傾聴」のテクニック取得を考えたキッカケです。

話を聞いてはいるけれども、負の感情の直撃を受けずにいる方法があるに違いない…そう、合気道のように…。当初の自分の傾聴に対するイメージはまさに合気道、でした。

 

傾聴の練習は、いろんなバリエーションがあるんですけれども、実践的なのは、シンプルに2人1組になって1回10分程度、聞く人(傾聴者)と話す人の役割を決めて話してみるもの。もちろん、傾聴の基本「共感的理解」「無条件の受容」「自己一致」で聞くように心がけます。

これが結構、というか、かなり難しいのです。

過去のシンドかった思い出を聞いた際に、

(もう、終わったことだから、いいじゃん)

(若くて未熟だったから、そんな失敗したのでしょう)

(それは最悪ですね。自分なら耐えられない)

とか、思ってしまって、それが応答に出てしまったら、それは傾聴としては失敗なのです…けども、初心者はたいがいこの状態に陥ります。

また、

(どうせ、練習用のウソ話でしょう)

と真剣に話聞かないとか、逆に相手の話に引き込まれすぎて、

感情移入してオイオイ泣いてしまったりするのも失敗なのです。

 

理想は、相手の話を「そのまま」聞くことなんです。が、それが難しい。

誰しも、人それぞれの生まれ育ちから独自の価値観が作られているものですが、それを極力出さないで、かつ自分を失わないで、人の話を聞くというのは至難の技。どうしても、相手を評価したり、自分と比べたり、自分の中の類似の体験の思い出に浸ったりしてしまうものなのですね〜。

傾聴講座の参加者は、やはり介護というテーマが関わっていることから、初老の方が多かったのですが、どうしても年齢が上の方ほど自分の価値観が強固と申しますか、この「自分の価値観を外して相手の話を聞く」のに難儀しているように感じました(もちろん、高齢者にも超柔軟な心の方はいらっしゃいましたが)。

練習が終わった後で、

「あなた、こうすればイイのよ〜」とワザワザ自分の解釈での解決方を押し付けてきたり、「あなたの気持ちが全く理解できないわ」(←笑)と、とても正直な気持ちをぶつけてくる参加者もおりましたから。

また、男性に多かったような気がするのですが、「社会的にこうあるべき」のような、社会的常識という曖昧模糊なものをツイツイ持ち出してしまう方もおります。ま、これも個人の価値観が強い現れですよね。

 

傾聴講座によって、その到達すべき傾聴者の理想像が異なっていることも分かりました。1回目に受けた講座は、どちらかというと単発(一期一会タイプ)で行う傾聴者を育てる感じだったので、応答も瞬発力が求められるというか、こういうキーワードでてきたらこう返せばいい、みたいなテクニックを覚えましょうみたいな内容で、自分にとっては性急な、少し粗雑な感じがしました。

2回目の講座の時は、同じ人に継続して訪問することを念頭に置いているので、前者の講座よりはやや丁寧な感じ。自分の心と裏腹な表面上の傾聴的な返しテクのみでは、一人の人と長くお付き合いすることは難しいので、どちらかというと、自己理解…特に自分の価値観の特徴、偏り具合を洞察したり、他者理解…同じ境遇でも人によって行動が異なるとか、様々な価値観への理解などを促す演習テーマが多かったです。こっちの方が自分にとっては有益でした。

 

でも、ゴメンなさい。ボランティアに至らなくて…(コースはいずれもボランティア希望者でなくとも受けられるものでした)。やはり、心が元気でなければ、人の悩み事をドンと受け入れることはできないのだと痛感して終わったのでした。そこで、やっぱり、自己理解だよな〜ってなったのでしたっけ…。

 

最後に一つ…傾聴の実践の場が病院や老人ホームなど、弱ってる人が集まる場だからだと思うのですが、講座の参加者にもそうした場に近い人が多いように思いました。高齢者、福祉施設で働く人、難病、シングルマザー、障害児の親…などです(自分のようなメンタルやられも同様)。各人、何か思うところがあると思っての参加だと思うのですが、もっと様々なタイプの人が参加するようになればいいのになぁ、と思いました。

傾聴技術をどこでどのように使うか、となると、まずは病院や老人ホームだとは思うのですが、傾聴技術は様々な場面で人間関係をスムーズにしてくれる技術だと思うので、より一般的な場面で活用できる体験講座(で、手頃な費用の)が増えることを願っております。