気功、瞑想、あらまほし道へのストーリー展開。
パニック症状を繰り返してしまうワケ。
カウンセリングで怒りが止まらなくなっちゃう時。
心の平安を求めて足を運んだカウンセリング中、正直、怒りが沸き起こり、止まらなくなる時があります。
怒りの感情を受け止めてもらえてない。
お門違いな意見で心が乱れる
カウンセラーに陰性転移が起きている。
カウンセリングに対して私が抱いていた幻想、失敗の原因。
カウンセラーに心を開けない自分はおかしい。
全てをできるだけ詳細に語れば、すみやかに解決に繋がる。
カウンセラーは私の質問に回答してくれるもの。
あなたが絶対にカウンセラーは答えを知っているハズ、と思い込んでいたなら、質問に答えてくれないカウンセラーにはイラつくでしょう。私がそうでした!
いろいろなものを補うために瞑想合宿に行く。
あたくしの瞑想体験は、昨年の2016年秋、ヴィパッサナー瞑想の京都10日間合宿に参加から始まります。
瞑想は以下の理由から興味を持ちました。
- 気功が伸び悩み感があり、それは瞑想が足りないからかも。
- 鬱、パニックに瞑想が効くという説がある。
なので、もし効果があれば一挙両得です。
ご存知の方もおられるかと思いますが、ヴィパッサナー瞑想の10日間コースというのは、その間はスマホは預けて外界との接触を断ち、お喋りも禁止、読書や筆記も禁止、朝4時起床、夜21時就寝、完全菜食…という、完全に浮世とは異なる環境で行われるものです。
最初は、瞑想でももっとマイルドな「マインドフルネス瞑想」なんかがブームもあってやりやすいかな? と思ったのですが、瞑想教えてもらうのも、結構お高いんですね。あれは何なんでしょう? ただ、座っているだけなのに…。
また、禅寺での座禅なども考えましたが、パニック持ちとしては、警策(きょうさく)で叩かれるんじゃないかと思うと、とても自分に集中できそうにはない…と思いました。(※実際は、事前に一言持病のことを相談すると、その辺は考慮していただけた、という体験者もおり、バシバシやられる訳ではないそうです(笑))
鬱でパニックで半ば引きこもりなので、外界との接触を絶たれるのはそんなに抵抗ありませんでしたが、集団生活なので、体力持つのか?とか、瞑想中にあまりにも面白いものを見すぎて精神的に疲れるのでは?といった杞憂はありました。←あくまでも杞憂でしたけど。そんなことより、予想外のことが一番辛かったです(これから参加するかもしれない人のために、それが何かは言いませんが)。
で、実際、期待していた効果が得られたか、と申しますと。これは、ありましたよ!
まず、自分の場合、瞑想は気功やっている時より集中できるらしく、1日目から「面白いもの」を見ることができました。いわゆる白昼夢みたいなものですかね?
気功を始めたばかりの時、先生から「站椿功(タントウコウ)の練功中、面白いものが見えても平静を保つように」と言われました。具体的には、男性だと女神様とか観音様とかを見るらしい。先生は、あたかも不思議体験のように語るのですが、どうやら、脳がある状態に入ると、瞼の裏に色々見える現象が起こるらしい。站椿功(タントウコウ)は立禅の一種らしいので、集中して行うと瞑想状態に入るのでしょう。周囲で「こんなこと、あんなこと」が起こった発言がある中、私には全くそのようなことは起きず、心中悲しく思っておりました。
要するに、集中した結果、脳がある状態になると、面白い体験ができます。でも、それがヴィパッサナー瞑想の目的は煩悩の滅却なので、面白体験は軽く流すようにします。私は不覚にも「面白いなあ〜」とやや執着してしまいましたが、視覚的な面白いものは1日目だけで終わり、その後は、節目節目で体感的な面白体験があったりしました(でも、重ねて言いますが、真の目的は煩悩の滅却、です)。人によっては面白体験ではなく、恐怖心を覚えるような体験があったりするらしいと聞いていたので、少し心配していたのですが、自分にも周囲の人にもそんなことはなかったみたいですね。
合宿から帰って来たら、練功が辛くなくなりました。瞑想を1日10時間近くやるより、気功の練習を1〜2時間やる方が全然楽!なんです。しかし、辛さが薄くなるのが気功的によいことなのか…は分かりません。また、瞑想から帰ってきてからは気功への考えも少し変わりました。この、気功と瞑想の関係は、また後ほど書きたいと思っています。
鬱・パニックは、合宿中は全く忘れてしまうくらいで、これで治っちゃったらスゴイかも、くらいは思っていたんですけど、帰ってきてだんだん日常に戻るにつれて、元のドヨ〜ンとした空気が戻ってきてしまいました。やはり、あの、浮世とは異なる環境がミソなのでしょう。本来、この瞑想法は浮世で健やかな心で暮らしていくためのものなのです(それゆえ、日常でも瞑想を続けなさいと言われます)が、この浮世離れした生活に惹かれて、本格的な瞑想者への道を歩む方もいるそうです。自分の場合は本来浮世が好きなので戻ってまいりましたが…。
鬱・パニックに関わらずメンタル的な健康につながるかな?と思った一番の出来事は、瞑想中、恥ずかしいほど煩悩が爆走するのを体験することです。
あたくしの場合は、怒りと暴力的なエロチックシーンが妄想として湧いて参りました。とにかく、怒りの感情はものすごく出てきて、こんなに溜め込んでいたのか!と驚かされました。
瞑想中は基本的にご飯は奉仕者が作ってくださるし、自分のことだけ考えていれば良いのですが、こんな時に至っても、「私のサンダルを履いていったやつがいる」「シャワーが長いんだよ」「イビキがうるさい」「スープの具がデカすぎる!」と、瞑想の合間の自由時間にプンプンしてばかり。怒りが、外的な刺激から出てくるのではなく、煩悩まみれの自分の中から湧いてくるものなのだと、改めて実感いたしました。自分が腹を立てているのは、他人の、世の中のせい、と思っている人は、瞑想をまとめて行うこの機会は良いかもしれませんよ。自分の心の健康のために。
一方、暴力的なエロチックシーンの妄想は、瞑想を邪魔する煩悩として頻繁に出てきました。過去に読んだマンガや映画の暴力的なエロチックシーン「だけ」が編集され、集められて、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストシーンのごとくに展開しました(笑)。秘めた性癖なんでしょうか? あくまでも暴力的なのがポイントなのかもしれません。この妄想は合宿の中盤頃、2〜3日間激しく湧き起こり、その後パッタリと無くなりました。
その後、下界に戻ってからも瞑想は続けてます。満足するような集中には至らないので、1回1時間半くらい行うようにしてます。毎日は…すみません…ちょっと無理。
当時お世話になっていたカウンセラーの方に、瞑想合宿の感想を興奮気味に「本来の自分に少し出会えました!」伝えましたら、非常にガッカリした顔をされて、「それが、カウンセリングを通じてあなたに感じてもらいたいことなんですよ?」と返されてしまいました。あ、そうか、そうですよね? そんなこと言われたら、カウンセラーとしては立場がなかったでしょう。でも、その言葉にはすでに答えが出ていたらしく、その一ヶ月後にそのカウンセリングは24回で中断…と相成った訳なのです…。
- 作者: ウィリアム・ハート,日本ヴィパッサナー協会,太田陽太郎
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 1999/11/25
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※紹介しておいてナンだけど、瞑想合宿に行く予定の人は読まない方がいい(笑)。合宿の講話の効果が半減しちゃうから!「合宿のために10日も休めないわ」という方にはオススメ。
半信半疑で…気功、やってます。
気功やってるというと奇異な目で見られるので、あんまし友人知人には言ってません。人に説明するのも、とても難しいです。
一応「人を吹っ飛ばさない方の気功をやってます」とお伝えしています。
やってることは、太極拳とか、今流行りのヨガとかとほぼ同じベクトルだと思うのですけれど、どうも気功には変な秘密主義があって、ワザと確信をぼかすところがあるので、この辺が好き嫌いが分かれるところでしょうか? また、前述の二つに比べてスピリチュアル寄りのインチキくさい教室、先生が多いことは確かだと思います。加えて集まる方の生徒さんもユニークな人が多いように思います。
あたくしが気功を始めたきっかけは一つではなく、イロイロあるんですけど、その中で大きく占めるものに「ストレスに強くなって、メンタル系の不調から解放されたい」というのがありました。
と、いいますのも、え〜と、前々職かな? 断薬してジョギングを行うようになったら、3〜4ヶ月で調子が良くなり、就職もスムーズにいったのですが、その後がいけません。フルタイムのお仕事に就いたら、ジョギングをする十分な時間を作ることができなくなりました。
ストレスを感じると、自分の場合、最初はお腹を下し、その後、風邪を引き、こじらせます。そのストレスも、病気になる前だったら何ともないこと…「うざったいパートの古株のババアがいる」とか「楽することばかり考えてるアホな正社員の存在」です。そんなのどこにでも居ますよね? 以前では何でもなかったことに辛く感じてしまうこと、悩んでもしょうがないことで体調を崩してしまうことが、とても辛い。あとは「これはストレスのせい」と薄々分かっているのに、平気なフリをしているのも。「身体弱いの?」と言われココロの中で(いえ、精神が…)とつぶやいてみたりね。
そこで最初は自己啓発本に逃げるワケです。具体的には、当時のベストセラー『嫌われる勇気』とか、デール・カーネギーの『人を動かす』とかね…。それらは良書だとは思うのですが、しかし、頭では理解しても行動に落ちてこない! だから「こう振舞うべきなのに、できない」と、またしてもモヤモヤ&イライラするのです。
そんな時に出会ったのが気功でした。ストレスで身体がカチカチ、加えて、当時通っていたカウンセリングで教えてもらった「筋肉弛緩法」の限界が見え始めていたので、気功施述を活路を見出したのです。気功が何なのかよく分からないまま、試しに…といった軽い気持ち。でも、随分施術料が高額なんです(笑)。迷っているうちに、気功そのものを教えてくれる、という人を見つけました。
そこでは、以下のようなことを掲げておりました。
・ストレスに強くなる。
・本来の自分になれる。
・自分の病気を治し、人の病気も治せるようになる。
何だか気功って魔法のような素晴らしい技術!(ツボや水晶の販売など)変な教室だったら即刻辞めればいいのだから…と、ドキワクで教室に参加したのです。
…以来、2年ちょっと気功やってます。功法は…気功の知識がある人にしかわかりませんが…站椿功(タントウコウ)といいます。立ってブルブルするだけ、しかも、1時間とか…。
あまりにも単調で、2年も続けている人は極くわずかになります。
そして、2年間の継続で上記3つのことができるようになったかというと…。
なりません!(笑)
始めたばかりの時はプラセボ効果か絶好調で、再就職に成功。しかしその先では、社長がものすごく恫喝する人で、ストレスでダウン…
本当の自分にも出会った感ないし、病気も他人はおろか、自分のだって治せません。
教えてくれている先生の気功施術も受けたことありますが、パニックが一瞬でも治ることはありませんでした。
「ストレスでダウンしそうです」と訴えても、先生からはひたすら「練習を頑張るように」「心臓に気を送れ」と気功的な見地からのご指導がいただけるばかりで、魔法のような力というものは体験できませんでした。半信半疑ながら、ちょっと期待してたんですけどね(笑)。
ここで、気功効果ないじゃん!と怒って投げ出してしまうこともできるかと思うのですが、ボルテージダウンしながらも、なぜか自分は今も続けています。
恐らく、目的は一つも叶わなかったけど、気功を通じて「とても頭デッカチな自分」に気付くことができたからだと思います(実際に、若い方、頭の柔らかい方、身体感覚に敏感な人の方が気を感じやすく、気功の上達は早いらしいですよ)。
また、これは自分が勝手に感じていることなんですけど、どうやら気功は、肉体的な不調や疾患(腰痛とか、はたまたガン)には効果が感じる人が多い一方、精神的な症状の改善は不得意みたいですね(鬱よりも脳腫瘍の方が得意、みたいな)。
まあ、東洋医学ですと、感情は五臓六腑につながっているので、メンタルを元気にしようと考えると、その全部を整え、かつ、脳も整える、という風で時間がかかるのかもしれません。
というわけで、気功には何かしらの効果が見られるけど、気功治療に関してはよく分からない、しかし、結構なお金が動いているのは確か…という感じです。本当に不思議な世界です。
カウンセリングの超基本、「傾聴」奥深し…。
前回、カウンセリングへのモヤモヤから、カウンセリングの勉強を始めるに至った経緯をちょこっと書きました。
実は、その前段階として、過去に傾聴講座に2回ほど通ってます。両方とも主に老人ホーム等での傾聴ボランティア養成を目的としてて、1回目は傾聴関係の NPOが主催(5回コース)、2回目は地元の社会福祉法人が主催(6回コース)でした。
後でこの経験が効いてきて、カウンセリングへの興味が膨らむのですけど、当時はシンプルに「人の話の聞き方を学びたい!」でした。申し訳ないけれどもボランティア精神はほとんどなく、自分の為に参加したのです。
どういうことかと申しますと、心身を病んでからというもの10年、他人の感情に非常に敏感になりました。パニックを発症した経緯とも関係するかと思うのですが、恐らくは危険を回避しようと常に交感神経が意味もなく頑張っちゃっているのだと思う。
イライラしている人に接したり、友人の悩み事を聞いたりすると、そのマイナスの感情の影響をモロに受けて、自分まで具合が悪くなる有様。実は、ストレスに強くなるために気功を始めたのに、さらにも敏感になってしまい、余計に辛くなりました(まあ、そういうことはあるらしいです)。
メンタル的に弱ってしまい、引きこもりがちになって、これはイカんなと思って気晴らしに友人に会うと、「あたしはこれだけ一所懸命やっているのに会社で認められない」とかみたいな話をコッテリ聞かされて、グッタリしてしまうのです。言った本人はスッキリしているみたいですが…。
この、人の悩み事を聞いた後の激しい疲労感を何とかしようと思ったのが、「傾聴」のテクニック取得を考えたキッカケです。
話を聞いてはいるけれども、負の感情の直撃を受けずにいる方法があるに違いない…そう、合気道のように…。当初の自分の傾聴に対するイメージはまさに合気道、でした。
傾聴の練習は、いろんなバリエーションがあるんですけれども、実践的なのは、シンプルに2人1組になって1回10分程度、聞く人(傾聴者)と話す人の役割を決めて話してみるもの。もちろん、傾聴の基本「共感的理解」「無条件の受容」「自己一致」で聞くように心がけます。
これが結構、というか、かなり難しいのです。
過去のシンドかった思い出を聞いた際に、
(もう、終わったことだから、いいじゃん)
(若くて未熟だったから、そんな失敗したのでしょう)
(それは最悪ですね。自分なら耐えられない)
とか、思ってしまって、それが応答に出てしまったら、それは傾聴としては失敗なのです…けども、初心者はたいがいこの状態に陥ります。
また、
(どうせ、練習用のウソ話でしょう)
と真剣に話聞かないとか、逆に相手の話に引き込まれすぎて、
感情移入してオイオイ泣いてしまったりするのも失敗なのです。
理想は、相手の話を「そのまま」聞くことなんです。が、それが難しい。
誰しも、人それぞれの生まれ育ちから独自の価値観が作られているものですが、それを極力出さないで、かつ自分を失わないで、人の話を聞くというのは至難の技。どうしても、相手を評価したり、自分と比べたり、自分の中の類似の体験の思い出に浸ったりしてしまうものなのですね〜。
傾聴講座の参加者は、やはり介護というテーマが関わっていることから、初老の方が多かったのですが、どうしても年齢が上の方ほど自分の価値観が強固と申しますか、この「自分の価値観を外して相手の話を聞く」のに難儀しているように感じました(もちろん、高齢者にも超柔軟な心の方はいらっしゃいましたが)。
練習が終わった後で、
「あなた、こうすればイイのよ〜」とワザワザ自分の解釈での解決方を押し付けてきたり、「あなたの気持ちが全く理解できないわ」(←笑)と、とても正直な気持ちをぶつけてくる参加者もおりましたから。
また、男性に多かったような気がするのですが、「社会的にこうあるべき」のような、社会的常識という曖昧模糊なものをツイツイ持ち出してしまう方もおります。ま、これも個人の価値観が強い現れですよね。
傾聴講座によって、その到達すべき傾聴者の理想像が異なっていることも分かりました。1回目に受けた講座は、どちらかというと単発(一期一会タイプ)で行う傾聴者を育てる感じだったので、応答も瞬発力が求められるというか、こういうキーワードでてきたらこう返せばいい、みたいなテクニックを覚えましょうみたいな内容で、自分にとっては性急な、少し粗雑な感じがしました。
2回目の講座の時は、同じ人に継続して訪問することを念頭に置いているので、前者の講座よりはやや丁寧な感じ。自分の心と裏腹な表面上の傾聴的な返しテクのみでは、一人の人と長くお付き合いすることは難しいので、どちらかというと、自己理解…特に自分の価値観の特徴、偏り具合を洞察したり、他者理解…同じ境遇でも人によって行動が異なるとか、様々な価値観への理解などを促す演習テーマが多かったです。こっちの方が自分にとっては有益でした。
でも、ゴメンなさい。ボランティアに至らなくて…(コースはいずれもボランティア希望者でなくとも受けられるものでした)。やはり、心が元気でなければ、人の悩み事をドンと受け入れることはできないのだと痛感して終わったのでした。そこで、やっぱり、自己理解だよな〜ってなったのでしたっけ…。
最後に一つ…傾聴の実践の場が病院や老人ホームなど、弱ってる人が集まる場だからだと思うのですが、講座の参加者にもそうした場に近い人が多いように思いました。高齢者、福祉施設で働く人、難病、シングルマザー、障害児の親…などです(自分のようなメンタルやられも同様)。各人、何か思うところがあると思っての参加だと思うのですが、もっと様々なタイプの人が参加するようになればいいのになぁ、と思いました。
傾聴技術をどこでどのように使うか、となると、まずは病院や老人ホームだとは思うのですが、傾聴技術は様々な場面で人間関係をスムーズにしてくれる技術だと思うので、より一般的な場面で活用できる体験講座(で、手頃な費用の)が増えることを願っております。